ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

特選街道を歩くⅠ 第一回 (中山道)日本橋~板橋宿

2015年01月25日 | ウマさんの「旧街道(特選)」を歩く
2015年1月25日(日)

昨年(2014年)は、旧東海道の日本橋から三島宿までを歩いた。
三島宿から京都三条までは、また機会を見つけて歩くことにし、
今年は、旧街道の中でも見所が多く交通の便が良く、人気のある区間を選んで、歩くことにする。
旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、街道の中から選んだ宿間を
歩くものである。

「旧街道を歩く」第一回は、中山道の日本橋~板橋宿間約10Kmを歩いた。

8時32分、常磐線上野駅に到着し、出発地の東京駅に向かう。


東京駅八重洲北口を出て、日本橋へ向かう。


呉服橋付近の高層ビル群
『来る度に景色が変わってる感じがするねぇ』


永代通りを日本橋へ


8時58分、起点の日本橋へ到着


日本橋の南側西袂には日本橋由来碑がある。
「慶長八年(1603)に橋が架けられ、通称日本橋と呼ばれていたのが遂に正式名となった。
翌年諸街道に一里塚を築いたとき日本橋を起点とした」とのこと。
「元和四年(1618)に改架されたが、その時の橋の大きさは、長さ37間(67m)、幅4間(7m)で、
その後19回改架された」などとある。
現在の橋は明治44年に東京市により石造二連アーチの道路橋として造られたもの。


日本橋の真上を首都高都心環状線が走る。
車が途絶えた瞬間を狙って橋の中央へ。


狙いは道路中央に埋め込まれた「日本国道路元標」である。
これで、3度目になる。
複製は、日本橋の北詰にもあるが、やはり本物を撮っておきたい。
日本国道路元標を起点にしている国道は、1号・4号・6号・14号・15号・17号・20号の7本である。


東京市道路元標の碑
慶長八年(1603)幕府は主要五街道を整備した。
「お江戸日本橋七ツ立ち」と歌われた。
「七ツ」は今の「午前4時頃」になるが、江戸時代は時刻区分が季節によって変化したため、
「明け六ツ」(今の6時頃)より早く、夜明け前ということになる。


日本橋魚河岸跡の乙姫広場
説明板には以下のように記されている。
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」があった。
ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の猟師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まる。
中でも日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢のいい取引が
飛交う魚市が建ち並んだ中心的な場所で、江戸で最も活気のある場所の一つだった。(中略)
この魚河岸は、大正十二年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展した。(後略)


乙姫広場から日本橋を望む。
二重アーチ橋の湾曲が見える。


9時9分、神田方面へ向けて中央通り(国道17号)を進む。
道路左側は日本橋三越だ。


中央通りを進む。


磯丸水産
24H営業の居酒屋とある。
朝っぱらから飲むお客さんは果たしてどれだけいるのだろうか?
少々気になる。


神田駅
3月14日から、ここを常磐線・東北線・高崎線の電車が走るのだ。


神田駅下のガードを通過


神田須田町交差点を国道17号、巣鴨・本郷方面へ


万世橋交差点


万世橋から見た旧神田万世橋駅舎
かつての国鉄中央本線に存在した駅である。


旧中山道(国道17号)は、万世橋交差点を左に曲る。
150mほど進み、総武本線のガードを潜ると、


昌平坂の緩やかな上りが始まる。
この坂道の途中から、神田駿河台のニコライ堂が見えるとのことだったが、木々が邪魔をしてよく見えなかった。


昌平坂を上りきると右手に神田明神(正式名称は神田神社)が現れた。
神田明神は、神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。


神田明神の山門(随神門)
昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として建立された。
華やかな色彩が美しい。


神田明神の御神殿
天平二年(730)創建当時は、大手町の将門首塚付近にあったが、江戸城拡張に伴い、鬼門に当たる現在地に遷座。
江戸総鎮守として尊敬を受けた。
2年に一度の神田祭りには、200基もの神輿が神田から日本橋・秋葉原・大手町練り歩く。
野村胡堂作「銭形平次捕物控」の主人公・銭形平次碑もあるとか・・・


夫婦2頭の石獅子
江戸時代に関東三大獅子の一つとして奉献されたもの。
区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つで、当時の庶民の信仰を知るうえで貴重な資料、とのこと。
神社境内の獅子山に据えられていたが、大正十二年(1923)の関東大震災により獅子山自体が崩壊した。
その際、子獅子は紛失したものの、親獅子2頭は保存され、再建された獅子山に据えられた。


神田明神を後にして湯島聖堂へ。


湯島聖堂
寛政九年(1797)、儒学に傾倒した5代将軍徳川綱吉が孔子の生まれた地名(中国魯国の昌平)をとって
「昌平坂学問所」とし、官製の学問センターをここに開いた。
旗本の子弟のほか、諸藩の俊才が集まる最高の学府となった。
明治になってからは、新政府の文部省、師範学校、女子師範学校、国立博物館などが置かれ、
一貫して、教育施設であり続けた日本の学問の中枢と呼べる場所となった。

湯島聖堂杏壇門
大成殿の向かいにある。杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のことで、
孔子が学問を講じた壇のまわりに杏の木があったところからこう名付けられたという。


聖堂構内の大成殿には、世界最大の孔子像が祀られている。
孔子尊像の他に、四配像(孟子、顔子、曾子、子思)が安置されている。


入徳門
木造・平家建・切妻造りで宝永元年(1704)に建造された。
湯島聖堂のなかでは関東大震災による焼失を免れた唯一の建物。


昌平坂からはよく見えなかったが、湯島聖堂からは神田駿河台のニコライ堂(東京復活大聖堂)がはっきりと見えた。
イエス・キリストの復活を記憶する大聖堂だ。
日本に正教会の教えをもたらしたロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライにちなむ。


再び昌平坂へ戻り、本郷方面を目指す。


本郷2丁目付近


本郷薬師入口


本郷薬師
第4代将軍家綱の頃、瘧(おこり:マラリアの一種)が流行り、こちらの薬師仏のお告げで病が一掃。
「江戸北東の守りとせよ」との将軍家綱のお声掛かりで本郷の地に鎮座。
以来、尊崇を集めている、そうだ。


本郷薬師の裏手に十一面観音像があった。
元この地にあった天台宗真光寺の観世音菩薩は、十一面観世音菩薩と呼ばれ、地域に親しまれている。
真光寺は、籐堂高虎によって再建された寺であり、本郷薬師および十一面観世音菩薩は真光寺境内に置かれていた。
観世音信仰が盛んになったのは、奈良時代(710~794)で、十一面観世音は、本来慈悲の面を基調に、
時に応じ、場に従い、様々な顔を使い分け、人々を救済してくれるため、深く信仰の対象となった。
真光寺は、太平洋戦争で焼失し、世田谷区給田に移転したが、この十一面観世音菩薩は罹災をまぬがれ
この地に残った。


本郷3丁目東大キャンパス付近


東大赤門に到着
赤門の前で受験生と思しき若者たちが、記念撮影を撮っていた。
東大を受験するのだろう。この中から何人の子が赤門を潜ることができるのだろうか?


とりあえず赤門を潜って中へ。
『東大に入ったぁ』


東大構内


巣鴨を目指す。


10時47分、日本橋から4Kmの地点を通過。
日本橋を出発して既に1時間40分ほど経過kしている。
『まだ4Kmしか歩いてないんだぁ』
先は長い。


本郷追分
中山道は、本郷追分の酒屋「高崎屋」を左に曲る。
真直ぐは日光御成道である。


本郷追分の分岐点に一里塚跡の説明板があった。
ここは、日光御成道との別れ道で、中山道最初の一里塚があったところだ。


本郷高等小学校跡
「東京市立本郷高等小学校」は、明治41年(1908)4月、「本郷尋常小学校」の一部を仮校舎として開校した。
開校当時の生徒数は431名、10学級だった。


大圓寺への入口
ほうろく地蔵尊安置と刻まれている。


金龍山大圓寺の山門を入ると、


目の前に「ほうろく地蔵堂」がある。
大圓寺は、八百屋お七にちなむ寺で、天和三年(1683)、火あぶりの刑となったお七を供養するために、
享保四年(1719)に建立されたお地蔵様「ほうろく地蔵」がある。


素焼きの土鍋のような焙烙(ほうろく)を頭にかぶり、焦熱の苦しみを受けた地蔵様と云われ、
その後、頭痛・眼病など首から上を治すお地蔵様と云われ有名に。


大圓寺本堂へお参り
大圓寺は曹洞宗のお寺で、御本尊は聖観世音菩薩である。
我々一行のために、わざわざ本堂の戸を開けて焼香台を出してくれたのには、恐縮した。
しっかりと焼香して、お参りさせていただいた。


11時13分、日本橋から5Kmの地点を通過
ここからしばらくは立寄る場所もないため、少しペースを上げることにした。


箱根駅伝で有名な東洋大学前を通過
建物は新しく、とても立派だ。


地下鉄南北線千石駅近くを通過


不忍通りを横断
間もなく巣鴨駅だ。


11時37分、巣鴨駅に到着


国道17号を渡り、地蔵通り商店街へ


地蔵通り商店街を進む。
日曜日のためか、人通りが多い。


真性寺の六地蔵
元和元年(1615)に中興された真言宗豊山派のお寺。
江戸に出入りする街道の入口に立てられた六体の地蔵の一つで、正徳四年(1714)に建立された銅製の坐像。
東京都指定有形文化財(彫刻)になっている。


地蔵菩薩は参拝舎の線香の煙に包まれている。


江戸六地蔵の由来説明板によると、
江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ、
無事平癒したことから、京都の六地蔵に倣って宝永三年(1706)造立の願を発し、人々の浄財を集め、
江戸市中六ヶ所に地蔵菩薩をそれぞれ一躯ずつ造立したと伝えられている。
江戸の六地蔵は、ここ真性寺(中山道)の他に、
品川寺(東海道)、東禅寺(奥州街道)、太宗寺(甲州街道)、霊巌寺(水戸街道)、永代寺(千葉街道)がある。


巣鴨のゆるキャラ”すがもん”のおしりがあった。
触るとふかふかしていて軟らかかった。
何のご利益があるのかは分からない。


巣鴨地蔵通商店街を進む。
とても人通りが多くて賑やかである。
うっかりしていると、迷子になってしまう。


高岩寺
巣鴨のとげぬき地蔵尊の名で親しまれる曹洞宗萬頂山高岩寺。
慶長元年(1596)に湯島に開かれ、その後、下谷屏風坂に移り、巣鴨には明治二十四年(1891)に遷座。


高岩寺の境内も老若男女で溢れていた。


本堂前の大勢の人は、とげぬき地蔵尊を洗い撫でるための行列である。


とても並んでる訳にはいかないので、本堂へ直接お参りだ。
ご本尊は「とげぬき地蔵」として霊験あらたかな延命地蔵尊で、拝観ができない秘仏なのである。
その代わりに「洗い観音」があり、心に刺さったトゲ、心に宿る咎(とが)を抜き去ってくれると、
参拝者が列をなしている、という訳である。


Mさんお奨めの牡蠣フライ・鯵フライの店「ときわ食堂」には長い行列が出来ていた。
12時を少し過ぎたばかりなので、もう少し早く着くべきだった・・・
仕方ないので、昼食はもう少し我慢して先へ進むことにした。
『鯵フライ食べたかったなぁ』


巣鴨名物の赤いパンツ
そもそもの始まりは、へその下にある丹田というツボを赤のパワーで刺激するために作られたとか・・・


巣鴨の庚申塔
60日に一度巡ってくる庚申の夜、天帝に罪を告げに行く三尸(さんし)という虫を阻止するために、
一晩寝ずに過ごし、寿命が縮まるのを防ぐという中国伝来の信仰である。
江戸時代に日本各地に広がり、中山道では、板橋宿に入る手前のここの庚申塔が有名、とのこと。


こうしたことから、室町時代の中頃から庚申待が行われるようになり、さらに僧侶や修験舎の指導によって、
講集団が組織され、江戸時代になると各地に庚申講がつくられ、その供養のため庚申塔が造立されるようになった。


都営荒川線新庚申塚駅を通過
写真は大塚方面


新庚申塚駅は、上りと下りの駅が道路の反対側に分かれている。
こちらは王子方面


種子問屋榎本留吉商店(現東京種苗株式会社)
中山道の巣鴨一帯は、「種子屋街道」とも呼ばれ、種屋さんを目にする。
明治時代から昭和10年代頃まで、巣鴨から滝野川にかけての中山道は「種子屋(たねや)通り」と呼ばれ、
野菜の種子屋のメッカだった、そうである。
大正時代には20軒以上の種子問屋が軒を連ねており、全国各地の大根・人参などの根菜類や、茄子・胡瓜などの果菜類、
小松菜・ほうれん草などの葉菜類といった農産種子の一大集散地を形成していた、とのこと。
そのうちの一軒が、幕末から巣鴨庚申塚で種子問屋を営む榎本留吉商店「現東京種苗」の建物で、
明治時代から昭和戦前にかけて日本の農業を支えてきた、そうだ。


こちらは瀧野川種苗店
店頭には鉢植えの花などが並べられているが、元は種子屋だった。


中華料理店が目に入った。


運良く2階の座敷部屋が空いていた。
テーブルが2つあり、10人が入るのにちょうど良い広さだった。


10人中、8人がAセットを注文した。
半炒飯・ラーメン・餃子でボリューム満点、値段も800円と手頃である。


お腹も一杯になり、板橋宿を目指す。
『満腹になると、歩くのがおっくうになるねっ』


亀の子束子(たわし)西尾商店だ。
危うく見落とすところだった。


明治40年に、初代社長西尾正左衛門のアイデアから生まれた「たわし」の販売を始め、
以来100年、亀の子束子を中心に多くの洗浄用品、日用雑貨を、より快適な生活を提供することを目的に
品質向上、新製品の発に努めてきた、そうである。


会社はあいにく休みだったが、中へ入ってみると、タワシ(見本?)が干してあった。
『いろんなタワシがあるんだねぇ』
Webでは、亀の子束子が「たわし」のスタンダードであるべく、これからも製品作りを続けてまいります、
との決意が表明されていた。


板橋宿へ


埼京線の踏み切りを渡ったところで、地元の人に「近藤勇」の墓所を訊いたところ、通り過ぎてしまっていた。
慌てて引き返し「近藤勇」の墓地へ向かった。


埼京線板橋駅前に近藤勇の墓地があった。
慶応四年(1868)4月25日、新撰組組長近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚近くにあった刑場で斬首。
首級は京都へ送られ、胴が刑場から少し離れたこの場所(北区滝野川の寿徳寺境外墓地)に埋葬された。


近藤勇の墓
これは記念碑でもあり、新撰組全員の供養塔でもある。
高さ3.6mの供養塔は近藤勇に私淑していた永倉新八が発起人となって立てたもので、
正面に副長の土方歳三の名前も併記され、側面には110名の新撰組隊士の名前が刻まれている。


近藤勇像


右から近藤勇・土方歳三・永倉新八の肖像画


再び埼京線を渡り、真直ぐに進むと、前方に首都高速都心環状線が見えてきた。


首都高速都心環状線の高架下を横断すると、


正面が板橋宿入口である。


板橋宿は、中山道の第一宿として栄えた。
徳川家康が天下の政権を握った直後、 主要な五街道の整備にとりかかったとき、
宿駅として定められたのが板橋宿の始まりである。
東海道品川宿、甲州街道内藤新宿、奥州道中千住宿とともに、江戸四宿の一つに数えられていた。


板橋宿平尾町脇本陣(豊田家)跡の碑
豊田家は、板橋宿の問屋・脇本陣、平尾の名主を務めた家であり、代々市右衛門を名乗っていた。
天正十八年(1590)、徳川家康の関東入国に際し、三河国より移住してきたと伝えられている。
苗字帯刀を許され、平尾の玄関と呼ばれていた。(中略)
慶応四年(1868)4月、下総流山で新政府軍に捕らえられた近藤勇は、平尾一里塚付近で処刑されるまでの間、
この豊田家に幽閉されていた。


脇本陣跡の説明に見入る。
『近藤勇が幽閉されていたんだぁ』


中山道は、江戸時代における五街道の一つで、東山道の内の中筋の道であるという意味で、この名が付いたと云われる。
中仙道や仲仙道とも表記するが、成徳六年(1716)、徳川幕府は公的に中山道と名称を統一した。
日本橋を起点とし、東海道に合流する草津宿まで129里(508Km)あり、67ヶ所の宿場が置かれていた。
その第一番目の宿場が「板橋宿」である。


裏面には、中山道の67カ所の宿場名と、宿場の紹介が掲示されている。
この日はここ板橋宿をゴールとし、次回の中山道で蕨宿までを歩くことにした。


最寄りの都営地下鉄三田線板橋区役所前駅へ向かう。


首都高速都心環状線沿いに少し進むと、板橋区役所前駅があった。


巣鴨でJR線に乗り替え、14時47分、上野駅に到着


『今日は大変お疲れ様でしたぁ』


「旧街道を歩く」第一回目(日本橋~板橋宿間約10Km)を歩き終えた。
距離はさほど長くはなかったが、中山道に因む名所旧跡に立ち寄ったため、万歩計は20,000歩を越えていた。
次回(2015年2月)は、甲州街道(日本橋~新宿追分間約8Km)を予定しており、
この日の続き(板橋宿~蕨宿間約9.5Km)は、本年12月頃になりそうだ。
これからもいろいろな街道を皆さんと一緒に元気に楽しく歩きたい。

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富士山は姿を見せずも 海岸歩きを満喫

2015年01月24日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年1月24日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第32回(2015年第3回)、「由比ヶ浜海岸を歩く」ウォーキングに参加した。
この日のコースは、2013年1月20日に「関東ふれあいの道」(稲村ケ崎・磯づたいのみち)
で歩いたときに、江ノ島と富士山がとてもきれいだったので、企画したものである。
土曜日としたのは、運賃の安い「休日おでかけパス」を利用するためだ。


常磐線荒川沖駅7時11分発の電車を待つ。


8時13分、上野駅に到着
土浦駅から乗車の4名と合せ、この日の参加者は18名。


東海道線・横須賀線を乗り継ぎ、9時28分、鎌倉駅に到着


鎌倉駅
いつ見ても恰好良いと思う。


体調を整え、9時43分、鎌倉駅を出発、向かうは片瀬江ノ島海岸である。
先導役はOさん、今日も元気だ。


若宮大路(県道21号)へ


若宮大路(鶴岡八幡宮方面)
まだ10時前で殆どの店は開店前のためか、人通りは少ない。


若宮大路を由比ヶ浜海岸へ向かう。


『予報は晴れだったのに、大分曇ってるわねぇ』


9時55分、一の鳥居を通過


由比ヶ浜海岸へ


由比ヶ浜海岸近くのコンビニで弁当購入したいと言う人がいて、ちょっと小休止。


10時3分、鎌倉市消防本部前を通過


由比ヶ浜海岸が見えて来た


国道134号の滑川交差点を横断


滑川交差点を渡ったところに八洲秀章作曲・土屋花情作詞の「さくら貝の歌」の歌碑が建っていた。
歌碑は2014年12月にできたもので、前回(2013年1月20日)来た時にはまだなかった。
昭和14年頃の由比ヶ浜はまるでさくら貝の絨毯といわれるほど美しい浜辺だった。
その風景を八洲秀章が短歌に詠み、そしてこの歌を基に、土屋花情が作詞し、八洲秀章が作曲した、
とのことである。


由比ヶ浜の砂浜を歩いてみよう。


『砂浜を歩くのは気持ちが良いねぇ』


この日の気温はまだ10℃以下と思われるが、サーファーたちはそんなことは気にならないようだ。
しかし、海は穏やかで、大きな波が来るのを待っているようだった。


沖合には、ウインドサーフィンを愉しむ姿も見られる。
あいにく風はほとんどない。我々にとっては、ありがたいことなのだが・・・


稲村ケ崎方面を望む。


後方に見えるのは、厨子方面だ。


『天気も良いし、砂浜を歩くのは楽しいわ~っ』


小さな流れを飛び越える。
『よっこらしょっと』
『若いときのようにはいかないわねっ』


由比ヶ浜の砂浜も終わり、国道134号を進む。


国道134号を進む
『きれいに舗装されていて、気持ち良いゎねっ』


テトラポットの上にずらりと並んでいるのは海鵜だ。
これだけたくさんの海鵜がいる、ということは、この辺りは餌が豊富なのだろう。


稲村ヶ崎が近くなってきた。
『素敵な景色だよねぇ』


その視線の4先には、沖合のある一点だけに陽が差し ウィンドサーフィンが浮かび上がっている。
ウィンドサーフィンだけが眩しく輝いて見えるのは、幻想的でもある。


稲村ヶ崎


10時50分、稲村ヶ崎公園に到着。
稲村ヶ崎公園からの眺望
江の島ははっきりと見えるが、あいにくの曇で、富士山は全く見ることができない。
”午前中は晴れ”の天気予報を期待していただけに、これは残念!


江の島をバックに記念撮影をして、


片瀬江ノ島海岸へ向けて出発!


片瀬江ノ島海岸へ向けて国道134号を進む。
左手に七里ヶ浜の海岸が見えてきた。


七里ヶ浜の砂浜を歩くことにした。


七里ヶ浜の砂は、由比ヶ浜に比べて少し軟らかいので、ちょっと疲れる。


少しでも足に負担がかからないように、波打ち際を歩く。


江の島が次第に近く大きく見えるようになってきた。
当会では、ちょうど1年前の2014年1月25日に江の島を訪れている。
そのため、この日は、江の島へ渡る予定はしていない。


七里ヶ浜の砂浜も終わり、再び国道134号へ。


江ノ電が国道の直ぐ脇を走っている。
七里ヶ浜は江ノ電と平行して歩ける数少ない場所である。


”トビに注意”の看板が・・・


トビが電柱に止ってこちらの様子を伺っている。
そろそろ昼時ということで、あちこちでトビを見掛ける。
この日は”弁当有”にしたのだが、どこでどうやって弁当を食べるか、がこの日一番の課題である。


国道134号を進む。


江ノ電の線路が直ぐ脇を走っている。


江ノ電を撮ろうと待ち構えているKさん。
タイミングよく江ノ電が走ってくれれば良いのだが・・・


11時29分、鎌倉高校前駅を通過しようとした時、ちょうど江ノ電がやってきた。


Kさん、会心の一枚は撮れただろうか?


11時39分、小動神社(こゆるぎじんじゃ)に到着
小動の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」が
この岬の頂にあったということに由来している、そうだ。


小動神社へお参り
縁起によれば、、源頼朝に伊豆配流(はいる)の時代から仕えた佐々木盛綱が、
源平合戦の時に父祖の領国であった近江国から八王子宮を勧請したものと伝えられている。
元弘三年(1333)五月には、新田義貞が鎌倉攻めの戦勝を祈願したと云われる。


境内には金刀比羅宮(左)や稲荷社(右)をはじめ、海(わだつみ)神社や、大六天社など
いろいろな神社が合祀されていて賑やかだ。


日露戦争勝利の記念碑
日露戦争の記念碑を見たのはあまり記憶がない。


境内の一角に神寶殿がある。
神輿の保管庫である。


中には神輿が3台鎮座していた。
7月第一日曜日から第二日曜日にかけて行われる天王祭は、江の島の八坂神社との共同の大規模な祭で、
腰越町一帯を回る神輿や腰越五か町(浜上、神戸、土橋、中原、下町)の囃子屋台などで大いに賑わう、とのこと。


寒中神輿錬成大会のポスター
1週間前の1月18日(日)に行われたばかりで、


現在修理中のようだ。


11時48分、小動神社を後にする。


腰越漁港


今度は片瀬海岸(東浜海水浴場)、砂浜を歩くのは3度目だ。


前方に片瀬海岸の高層マンション群が見える。


江の島が目の前だ。
間もなくゴールである。


時計は12時を少し回ったばかりだが、お腹が空いてきた。
朝早かったので、当然の現象ではある。
『どこで弁当にするかなぁ』この辺りにはトビを避けるものは何もない。
トビ対策として全員傘を持参してはいるが、トビに襲われるのではと、気がかりである。


あちこちで中学生と思しき若者が砂浜を走っている。


片瀬海岸の砂浜は基礎体力増強のための場として最適なのだろう。


そうこうしているうちに、高層マンションを通り過ぎてしまった。
Mさんから、江の島への橋の下なら安全ではないか、との提案が・・・
『なるほどっ』 直ぐに提案に乗ることにした。


江の島への橋は、車道と歩道があるが、歩道の下へ。


ここなら安全だろう、ということで、橋の下で弁当タイムだ。


会長は、傘を差して備える。


傘を差してトビから食べ物が見えないように気を配る。


何とか弁当も終わり、小田急片瀬江ノ島駅へ向かう。


トビの被害0かと思ったが、一人だけ食べかけのサンドウィッチを盗られてしまった、らしい。
橋の壁を背中にして安心していたところを、正面からではなく、横からかすめ盗られたそうだ。
敵(トビ)もさるものである。


海から江の島を眺めるクルージング発着場。
一度海から江の島を観てみたいものである。
一人1,000円とのこと。


弁天橋を渡ると、小田急片瀬江ノ島駅だ。


『これオットセイかしら?』
(オットセイではありません)


12時53分、片瀬江ノ島駅に到着。


駅前の土産物店へ直行する人も。


『土産は何にしようかなぁ???』


皆さん、しっかりと手に土産物を提げている。
『自分だけ遊んでちゃ申し訳ないからねっ』


片瀬江ノ島駅から藤沢駅へ向かう。


『富士山見えなかったけど、いっぱい海岸歩いて楽しかったわぁ』
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


由比ヶ浜・七里ヶ浜・片瀬海岸と、早春の穏やかな海岸歩きを満喫した。、
”午前中は晴れ”の予報に期待していたのだが、あいにく富士山を観ることは出来なかった。
鎌倉近辺では、いつもトビ対策に頭を悩ます。
折りたたみ傘を持参し被害0を目指したが、結局サンドウィッチを盗られるという被害に遭ったのは、
ちょっと残念だった。
しかし、実際に傘を差して被害に遭わなかった人もいたので、傘の効果はあると思われる。
次回(2月14日)の荒崎海岸シーサイドウォークの際に生かせれば、と思う。


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関東ふれあいの道(埼玉) No.8 「秩父盆地を眺めるみち」

2015年01月18日 | ウマさんの「関東ふれあいの道」を歩く
2015年1月18日(日)


”ウマさんの「続関東ふれあいの道を歩く」”では、2011年までは主に茨城県の「関東ふれあいの道」(全18コース)を歩いてきた。
”たまには県外を”ということで、2012年は東京都の「関東ふれあいの道」(全7コース)を踏破した。
続いて2013年1月から2014年4月にかけて神奈川県の「関東ふれあいの道」(全17コース)を歩き、無事踏破した。
次は埼玉県(全13コース)を目指すことになり、2014年9月から開始することになった。

埼玉県の第5回目は、コースNo.8「秩父盆地を眺めるみち」(約4.3Km)を歩くことにした。
朝まだ暗い荒川沖駅を6時16発の常磐線に乗り、上野駅には7時20分に到着。

熊谷行きに乗り替えるため、上野7時35分発の高崎行き電車を待っているところ。
この日の参加者は8名。


高崎線車内
このあと、めいめいおにぎりやサンドウイッチを頬張る。
腹ごしらえは万全だ。


熊谷には8時38分に到着、熊谷で8時52分発の秩父鉄道へ乗り替える。
皆野まで800円である。


秩父鉄道車内
熊谷駅を出発した時には空いていたが、寄居駅から秩父方面への観光客がどっと乗って来た。
半分以上の人が立ったままの状態になった。


しかし、長瀞駅、上長瀞駅で殆どの乗客が降り、またガラガラ状態となった。
今の時期、宝登山・長瀞の観光客が多いのだ。
9時47分、電車は定刻どおり皆野駅に到着
皆野駅で降りたのは我々だけだった。
線路の先に見えるのは武甲山と思われる。


皆野駅


皆野駅前
タクシーも利用する人は見当たらない。
昨年10月12日(日)No.9「将門伝説を探るみち」で訪れた時は「龍勢祭」で出払っていたので、
今日は全く別状態である。これが、普通なのであろう。


バス発着場(皆野町営バス)は、駅前の道を左に曲ったところにあった。


バス待合室でバスを待っているところ。


日野沢方面行きのバスがやって来た。
小型のバスだ。


乗り込んだのは、我々だけだった。


10時34分、皆野駅から20分足らずで出発地点の風戸(ふっと)入口に到着した。


「関東ふれあいの道」のコース案内図を確認
「風戸の鏡肌」まで20分とある。


破風山(はっぷざん)2.5Km、札立峠(ふだたてとうげ)3Kmと表示されている。


10時38分、日野沢川に架かる日野橋を前に、『今日も一日頑張って歩こうっ!』


『けっこう雪が残っているわねぇ』


直ぐ左に破風山・札立峠への分岐点があった。
危うく見落とすところだった。


『いきなりの雪道だよっ』
表面は氷のように硬くなっている。
こんな状態が続くのだろうか? 一瞬不安が頭をよぎる。


しかし、上るにつれて次第に雪がなくなってきた。


南に面した場所では、雪はすっかり溶けていた。
『これは助かるよねっ』
一時はどうなるかと思ったが、一安心だ。


しばらくすると、舗装された道路に出た。


「風戸の鏡肌」
案内板には、次のように紹介されていた(概略)
風戸は所在地の地名。鏡肌とは、断層で岩石がずれるときの摩擦でできた光沢のある面のことで、
鏡の肌のように光って岩石の面が見えることをいう。
”風戸断層”がこの近くを通っており、鏡肌は、幅約9m、高さ約7mある。
ジュラ紀(約1億9960万年前にはじまり、約1億4550万年前まで続く地質時代)にできたもの、だそうだ。


さすがに今は鏡のように光ってはいないが、すべすべな感じである。
『これが風戸の鏡肌かぁ』


破風山手前の猿岩を目指す。
今回は猿岩が証明写真の撮影ポイントになっている。


道路の両側の陽が当らない場所にはまだ雪が残っている。


風戸の集落を通過
『こんなところにも家があるんだねぇ』


東屋があった。見晴し台のようだ。


東屋から観た景色
前方正面は宝登山と思われる。
手前はゴルフ場(ミッションヒルズカントリークラブ)だ。


破風山1.5Km、猿岩1Kmと案内表示されている。
上り口から1Km歩いたことになる。
猿岩まで1Kmだ。


登山者数を確認をするために、カウンターが設置されていた。
一人づつカウンターを押して進む。


薄暗い杉林を進む。


地図には表れていない、小さな分岐点があった。


こちらは、”山靴の道コース入口”とある。


急坂・岩場あり、とあるので、ベテラン向きのコースなのだろう。


我々は反対側の道を進み、猿岩を目指す。


杉林の尾根を進む。


次第に坂道がきつくなってきた。


自分以外は全員「まゆみの会」会員である。
日頃から山道を歩いているので、この程度の坂道は何ともないらしい。


急坂の丸太の階段もなんのそのである。


突然里程標が現れた。
ここまでちょうど2Km歩いたことになる。
ゴールの水潜寺まで、残り2.3Kmだ。


先頭のKさんが猿岩の標識に到着したらしい。


11時43分、猿岩に到着。
猿岩の標識をバックに全員の証明写真の撮影を済ませた。
自分としては、一仕事終わった感じである。
後は、L版にプリントして次回各自に配布するだけだ。


弁当にはまだ少し早いので、次の破風山を目指すことにした。


破風山を目指す。


破風山に近くなると、一面雪の世界が現れた。


『いやぁ山頂近くはまだ雪が相当残ってるんだねぇ』
『この先大丈夫なのかなぁ』


『こんな雪に出合えるなんて最高っ!』
この先を心配したり、雪にはしゃいだり、反応は様々である。


雪原の先に東屋が現れた。破風山まで0.2Kmの地点だ。
幸いなことに、誰も利用している人はいなかった。


時計は12時7分を差していた。
東屋にはベンチもあることだし、ここで弁当を摂ることにした。


昼食も終わり、あらためて0.2Km先の破風山を目指した。


道はしばらく平坦である。


時折、木々の隙間から秩父盆地方面が見える。
一段高い山は武甲山と思われる。


最後の急坂を上り、


12時44分、破風山(はっぷざん)山頂(626.5m)に到着した。


山頂からの眺めは本当に素晴らしい。
秩父盆地が一望である。
『いやぁ 天気も良いし、最高の眺めだねっ』


秩父市内方面
中央の一番高いのが、武甲山(1,304m)だ。
『秩父盆地が箱庭みたいだわねっ』


秩父盆地の反対側の山々の稜線も美しい。


左の山頂に鉄塔が見えるのが城峯山(1,037.7m)だ。
昨年10月12日(日)にコースNo.9「将門伝説を探るみち」で上ったので記憶に新しい。
ただし、この時は雲で何も見えなかった。
『あそこから歩いて来たんだぁ』
『今日は富士山もきれいに見えるだろうねっ』


破風山山頂からの景色(動画)


ちょうど居合わせた地元の人と思しき人に写真を撮ってもらった。
全員が揃って撮ることはあまりないので記念になる。


12時50分、破風山からの下り開始。


破風山を下る。


下り始めて約8分、札立峠(ふだたてとうげ)に到着した。


説明板には次のように紹介されていた。
秩父札所の巡礼は、笈摺(おいずり)を着、菅笠・手甲・脚絆を身につけ、草鞋をはいた姿で、1巡約100Km
歩いて5泊6日の道程を、各寺に札を打ち巡拝した。
この峠は、昔からの巡礼道で、33番菊水寺を参詣の後、赤平川に沿った久長集落から、ここを越えて下日野沢へ降り、
34番水潜寺で打ち留めの札と笈摺を納めた。
札立峠の名は、昔、大旱魃(かんばつ)の時、旅の僧の「雨を祈らば観音を信ぜよ」との教えにより、
「樹甘露法雨」の札を立てたところから名付けられたと云われている。


案内板の足元に小さな観音像が祀られていた。
巡礼者を見守ってくれているのだろう。


34番札所の水潜寺を目指す。
残り1.3Kmと案内されている。


昼でも薄暗い山道を下る。


瓦礫の道は歩き難い。
足首の捻挫には気をつけたい。


かつては、多くの巡礼者がこの道を歩いたのだ。
”巡礼道”の札が往時を偲ばせる。


周りは杉林だが、手入れが行き届いていない。
荒れ放題といった状態の所が目立つ。


里程標
水潜寺まであと0.3Kmだ。


突然、お地蔵さんが迎えてくれた。
”おつかれさま 水潜寺はすぐそこ”の案内文字が嬉しい。


水潜寺が見えてきた。


13時32分、水潜寺に到着


何はともあれ、無事歩けたことを御参りしていこう。


本堂前の観音様は、子供を抱いているところをみると子安観音だろうか。
水潜寺の御本尊の千手観音は、お堂の中に鎮座している。


西国33観音霊場、坂東33観音霊場、そして秩父34観音霊場合せて100観音霊場となる。
水潜寺は、100観音霊場巡りの結願の寺でもあるのだ。


バス停へ向かう


秩父34観音霊場の観音様がずらりと並んでいる。


13時44分、札所前バス停に到着。
皆野駅行きは、13時59分発、ちょうどい良い時間に到着したものである。


しばし、談笑して時間をつぶす。
『いやぁ 今日はけっこう歩いたよねぇ』


14時2分、3分ほど遅れて皆野駅行きバスが来た。
朝利用したのと同じ皆野町営バスである。


14時25分、皆野駅に到着。
秩父鉄道熊谷行きは14時30分だ、『急ごうっ』


皆野駅の線路から秩父方面を望む。


秩父鉄道の車内は空いていた。
熊谷駅までひと眠りしてしまった。


「関東ふれあいの道」(埼玉県)第五回目、コースNo.8「秩父盆地を眺めるみち」を歩き終わった。
この日は距離は今までで一番短かく、”家族向き”ということだったが、けっこう歩いたという印象である。
他県の”一般向き”コースと大して変わらないと思った。
この日も天気に恵まれ、景色を楽しみながら気持ち良く歩けた。
破風山からの眺望は素晴らしいの一言である。


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土浦大師(大聖寺)ミニ四国遍路道を巡る

2015年01月16日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2015年1月16日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成26年度第31回(2015年第2回)、「大聖寺・日先神社コース」ウォーキングうに参加した。
年初の先週「深川七福神巡り」は、インフルエンザにかかり、残念ながら参加を見送ってしまったので、
自身としては、今回が初例会となる。
身体の方はまだ完全復調まで行ってないが、2週続けて休むことは何としても避けたい。

この日の集合場所、スタート&ゴール地点の土浦第六中地区公民館駐車場
この日は25名が集まった。


この日のコース地図
土浦第六中地区公民館をスタートして、花室川に沿って北上、土浦大師(大聖寺)を目指す。
大聖寺から花室川を渡り、東小学校のある旧水戸街道中村宿へ。
東小前を通り、国道6号を潜り、「仲の杜」ネイチャータウンを抜け、次の目的地日先神社へ。
日先神社へお参りした後は、ゴールの六中公民館を目指す、全長約11Kmのコースである。


いつもの準備体操をして、


9時39分、出発!


六中地区公民館前の道路を横断して、


田んぼの脇道を進む。
この日先頭を務めるのはOさん。相変わらず元気である。
今年度まだ一度も休んでいないのは、Oさんだけだ。
念願の”皆勤賞”まで残すところ約3カ月、皆さんの期待が集まる。


後に続く皆さん。


前方中央に見えるのは、土浦第六中学校


しばらく田んぼの中の農道を進む。


前方に見えるのは、新県道48号だ。


新県道48号手前の旧県道48号に出たところを左折して、


六中公民館入口交差点を通過。


六中公民館入口交差点の30m先を右折すると、


右籾(みぎもみ)の集落である。


『立派な農家が多いゎねぇ』


右籾集落を抜け、新県道48号を横断すると、


視界が開け、前方に常磐線が見えてくる。


『常磐線だぁ』


常磐線のガードを潜って、


花室川に架かる塚田橋を渡る。


永国東町付近


永国東町の団地「桜の杜」に沿って進む。
この辺りの塀は、一段高くなっている。
見晴しは良いことだろう。


団地「桜の杜」を過ぎてしばらく進むと、


旧国道6号に突き当る。トンネルを潜ることになる。
『車1台がやっと通れる広さしかないねっ』


続いて新国道6号(土浦BP)下を潜る。
こちらは、広さも高さも充分だ。


新国道6号(土浦BP)下を潜り終え、左折して少し道なりに進むと、


土浦大師(不動尊)大聖寺正面に出た。


大聖寺参道を進む。
山門に羽黒山の額が懸っているのが見える。


大聖寺の萱葺きの山門を潜る際、萱葺きの屋根が気になった。


屋根に金具が突き刺さっており、金具の間を針がねで結んでいるような状態になっている。
Mさんによると、カラスなどから萱を守るための対策だそうである。
カラスが巣作りなどで、萱を引き抜いて持ち去るかららしい。
『へぇ~っ そうなのぉ』


四脚門をくぐると先ず目に入るのが、黒松の「大聖寺の傘松」だ。
東西6.3m、南北6.1mの円形をしている。まるで傘を広げたよう。
土浦市の名木・古木に指定されている。
『いやぁ これは見事だねぇ』


本堂(大聖殿)にお参り


大聖寺の境内には、四国八十八ヶ寺全ての御本尊が祀られているミニ霊場があり、『南無大師遍照金剛』と唱えながら
巡拝して、納め札を納めて回ると、ご利益があるとされている。
納め札は、後日大聖寺でまとめられ、四国の霊場へ代参者が納札してくれることになっている、そうだ。
全行程は約1.5Km、速足で回れば30分ほどで回れるだろう、ということで、四国八十八ヶ所巡りのミニお遍路巡りに挑戦した。


大聖寺では、”納め札”(90枚500円)に住所・氏名・年齢・願い事を書いて各寺の箱に入れるよう奨めているが、
今日はそんな時間はないので、ただ御本尊にお参りするだけである。
10時42分、第一社務所前の第一番札所発願の霊山寺(りょうぜんじ)をスタート。


続いて、二番札所の極楽寺
御本尊は阿弥陀如来である。


本堂裏手の八番札所熊谷寺(くまだにじ


西の森から花室川沿いの田園景色が見える。
境内で一番見晴しの良いところだ。


大聖寺裏門辺りの二十五番札所津照寺(しんしょうじ


お釈迦様の涅槃像もある。


三十番札所善楽寺(ざんらくじ)を過ぎ、いったん墓地を抜ける。
欅(けやき)の森に入り、第四十二番札所仏木寺
御本尊の大日如来へお参り。
まだ半分まで行っていない。


御本尊が不動明王の寺は四十五番岩屋寺を含めていくつかあるが、第五十四番札所延命寺の像は力強さがある。


緩やかな女厄除坂を上ると平和観音像が立っている。
観音様の足元への階段は、子供厄除坂(十三段)といわれ、十三才の子供の厄を払うために造られたもの。


第七十番札所本山寺
御本尊が馬頭観世音というのは珍しい。


急登の男厄除坂(42段)を上る。


八十番札所国分寺
御本尊は、十一面千手観音である。
十一面観世音や千手観音だけといった御本尊はいくつかあるが、十一面千手観音はここ国分寺だけだ。
生あるすべてを救うといわれている、まことにありがたい御本尊なのである。


大師堂の横に立つ、第八十四番屋島寺
御本尊は、案内板には十一面千手観世音と書かれているが、これは十一面観世音菩薩の間違いと思われる。


弘法大師修行像


弘法大師像の正面向かいは、第八十七番長尾寺
残りはあと一つだ。


護摩堂右手に


第八十八番大窪寺(結願の寺)があり、一応結願ということに。
大聖寺では、最後に本堂「大聖堂」地下の胎内巡り(高野山に相当)をして、
本尊の弘法大師様にお詣りして結願となるそうだ。


時計は11時17分を差していた。早い組は35分ほどかかったことになる。
この後、ゆっくり回る人もいて、全員揃うのにさらに20分ほどかかった。

時計は11時40分、この後予定のコースどおりに歩くと、ゴールまで1時間半はかかる。
六中公民館には、12時30分には戻ると言ってある。
相談の結果、日先神社を巡るのは、次の機会にして、来た道を引き返すことにした。
ミニ遍路をしたことで、今日は良しとしよう。


スタート地点の六中公民館へ向かう。


国道6号BPと旧国道6号のトンネルを通過


「桜の杜」団地を通過。


常磐線の電車


塚田橋を渡り、


常磐線線路下を潜る。
ここまでは、来た時と全く同じである。


ここからは、花室川に沿って進む。
時折前から車が来るので、注意が必要だ。
それさえ気をつければのどかな道である。


左を流れるのは花室川だ。


御世辞にも綺麗とは言えない。
もう少し綺麗になって欲しい、と願うのは無理な話なのだろうか


昼近くになって、気温が上昇して来た。
上着を脱いで体温調節だ。


先頭集団は数人の女性と男性陣だけになった。
最近の傾向のように感じる。


前方に六中公民館が見えてきた。


左手に見えるのは大岩田小学校だ。
六中公民館とは花室川を挟んで向かい合っている。


川沿いの道を右に折れると、


六中公民館駐車場だ。


後続の女性陣の一団が戻ってきた。


12時21分、ゴールの六中公民館駐車場に到着。


整理体操をして


『はいっ今日は大変お疲れさまでしたぁ』


昨年12月19日の有志忘年会(銚子犬吠埼)以降、インフルンザのせいもあって、殆ど歩いていなかった。
まともに歩いたのは、凡そ1カ月ぶりである。
そのためか、途中で足が痙攣を起しそうになったりして、運動不足を痛感した。
ミニ四国遍路を歩いたことでもあり、日先神社巡りを省略してコースを短縮したが、
約束の時間内に戻れて、公民館にも迷惑を掛けずに済んだことで、良かったと思っている。
この後の予定はしっかりとこなしたい。


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