ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(1日目)

2018年10月28日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年10月28日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第5回(1日目)は、桑名宿(JR桑名駅)~四日市宿(近鉄四日市駅)である。

東京駅の「膳まい」でいつもの「米八」の駅弁を買い、


東京駅7時3分発の岡山行「ひかり461号」に乗車。


この日は富士山がはっきりと見えた。
久しぶりに雲一つなく晴れあがった富士山を目にした。


9時7分、定刻通り名古屋駅に到着し、


駆け足で関西本線乗り場へ向かい、9時10分発の四日市行にぎりぎり間に合った。


10時5分、この日のスタート地点JR桑名駅に到着した。


国道1号を少し戻る形で七里の渡しへ。


諸戸氏庭園の裏を通り、七里の渡しへ向かう。


諸戸氏庭園のレンガ蔵
米蔵として使用されたもので、本来は5棟あったが、昭和20年(1945)に火災で2棟を失った。


七里の渡し公園
昨年の11月3日に一部がオープンしたばかり、とのこと。


「七里の渡し」を水と石で表現した歴史公園だそうである。


住吉神社
桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、
木材や米などの集散する自由活発な商業都市として発展してきた。


ここ住吉浦は、廻船の船溜まりで、全国から多数の廻船業者が集まっていた。
これらの人たちによって、航海の安全を祈り、正徳五年(1715)に摂津の国「住吉大社」より
勧請してこの住吉神社が建立された。
(現地説明板)


山口誓子の句碑
水神に 守られ冬も 大河なり 誓子


大塚本陣跡
桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で、裏庭から直接乗船できた。
皇族・文人・政府要人の滞在先になっていた他、“歌行燈”(泉鏡花)の舞台になっている、とのこと。
建物は変わっているが、明治時代から料理旅館「船津屋」として現在も営業している。


歌行燈(うたあんどん)句碑
「船津屋」の板塀をくり抜いた形で石碑が置かれている。
船津屋に宿泊しながら”歌行燈”の戯曲を書いた劇作家で俳人の久保田万太郎が、
船津屋の主人に求められて詠んだ句。
かわをそに 火をぬすまれて あけやすき 万
“歌行燈”には裏河岸から這い上がってきたカワウソが悪戯をするという噂話があり、
それを久保田万太郎が詠んだ、とのこと。


桑名宿脇本陣跡
脇本陣は桑名宿に4軒あった。そのうち最も格式の高いのが駿河屋だった。
現在は、料理旅館「山月」の一部となっている。


七里の渡し
桑名宿と宮宿の間は、江戸時代の東海道唯一の海路で、その距離が七里あることから、
”七里の渡し”と呼ばれた。


七里の渡しは、ちょうど伊勢国の東の入口に当るため、天明年間(1781~1789)に
伊勢神宮の「一の鳥居」が建てられた。


七里の渡し付近
右端に蟠龍櫓が見える。


蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)
かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを、忠実に復元した蟠龍櫓。
かの有名な歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」でも、海上の名城と謳われた桑名を表すために
この櫓を象徴的に描いている。
「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のことである。
龍は水を司る聖獣として、中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられている。
蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられている。


蟠龍櫓から揖斐川を望む。


旧東海道の道標


旧東海道は、七里の渡しの伊勢神宮「一の鳥居」から西へと続いている。


料理屋
天丼・はまぐり・釜あげなどの”お品書き”の札が見える。
”その手はくわなの焼蛤”と云われるように、桑名といえば蛤が有名だ。
蛤の食べ方は、焼くのが最も良いとされている、そうだ。


春日神社の銅鳥居
寛文七年(1667)に七代桑名藩主松平定重が日本一の青銅鳥居の建立を願い完成した。
その後何度か倒壊したが再建され、今の鳥居は伊勢湾台風で倒壊したものを修復したもの。
(三重県指定有形文化財)
青銅製の鳥居は珍しい。


銅鳥居の左下に「しるべいし」と刻まれた石柱がある。
「しるべいし」は、「迷い児石」とも云われ、人の大勢集まる所に立てられた。
自分の子どもが迷子になると、左側面「たづぬるかた」にこどもの特徴や服装などを書いた紙を貼って、
心当たりのある人が右側面の「おしゆるかた」へ子どもが居た場所などを書いて貼る、というもの。
(桑名市教育委員会)


小さな公園があった。
”歴史を語る公園”は、江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして
造られている。


正面に見える石垣は、桑名城城壁の一部である。


積み石の状態は、乱積で野面接・打込接の二つの方法で積まれている。
今は石垣の上は普通の民家だが、昔は城だった。


日本橋を渡って公園内を進むと、


富士山だ!


さらに公園内を進む。


公園の先は三条大橋(左側の橋)で終わっていた。
何とか三条大橋まで行きたいものであるが、今年中は無理かもしれない。


歴史を語る公園を後にして旧東海道へ。


桑名市博物館脇に建つ道標
江戸時代、旧東海道筋に建っていた道標(場所不詳)をこの地に移した、とのこと
右京いせ道、左江戸道 と彫られている。


旧東海道


吉津屋見附跡碑
江戸時代の始めは、この付近は吉津屋町に属しており、東海道上に吉津屋門と番所があって、
吉津屋見附と言った。
のち鍛治町として独立したので、鍛治町門(または小字名の七つ屋門)と言う。
ここの道路は四角形の三辺をまわる升形道路となっていた。
この升形道路は現在でも使われており、石取祭車が通る道である。


旧東海道
曲がり角にはこのような案内標柱があるので、心強い。


泡洲崎八満社
江戸時代以前、桑名の町中は町屋川の流れにより自凝洲崎、加良洲崎、泡洲崎の三洲に分かれており、
この付近一帯を泡洲崎と称し、當社は、往古より泡洲崎一洲の鎮守であった。


慶長年中(1596~1614年)町割の時、旧地今の一色町より光徳寺門内北側に鎮守され郷司出雲守が
神主として奉仕されていた。
(以下略)


光徳寺本堂
古くは泡洲崎念仏道場と称した。
明治七年(1874)進善学校が当寺で開かれた。


桑名船場町の商人で、万古焼の創始者沼波弄山(ぬなみろうざん 1718~1777)の顕彰碑がある。


十念寺
境内に七福神を祭り、11月23日に七福神祭りが行われる。


十念寺山門


十念寺本堂
浄土宗の寺院で仏光山九品院と号す。
元は朝明郡切畑(現三重郡菰野町)にあり。
室町時代に桑名(のちの桑名城本丸の地)に移り、慶長町割の際に現在地に移る。
建物は戦災で焼失したが、祭礼図屏風(江戸初期)・当麻曼荼羅図(室町初期)・
仏涅槃図(室町時代)などの寺宝は残る。(以下略)
(桑名市教育委員会)


七福神を祀る赤い御堂と


整然と並べられた無数の墓石が印象的である。


旧東海道は、一時的に県道613号に合流するが、このあと直ぐに右に折れる。


天武天皇社


天武天皇社拝殿
壬申の乱(672年)の際に大海人皇子(後の天武天皇)が桑名に駐泊されたことに因み、建立された神社。
天武天皇を祭祀する全国唯一の神社。


一目連神社
多度大社の別宮一目連神社は、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)を祀る。
多度大社の本宮には天津彦根命が祀られているが、一目連神社の祭神は天目一箇命、
別名を”一目連”という妖怪、だそうである。


一目連は暴風神・雷雨神としても知られ、一目龍神、多度権現とも呼ばれている。
凄まじい風を引き起こして、人を吹き飛ばし、民家をも壊す神として庶民の間では信じられ、
恐れられていた。
東海地方では突然暴風が吹くことを”一目連”と呼んでいたという。


国道1号を横断し、


旧東海道(新地)を進むと、


突当り右角に火の見櫓があり、


矢田立場跡の解説板があった。
江戸時代の矢田町は、東海道の立場であった。
久波奈名所図会には、”此立場は食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無き事なし”とある。
福江町へ曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成3年に再建したもの)もあった。
現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家も見られる。
福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。
福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引き止めるために、
宿屋の人たちが集まっている宿引小屋があった。
また西国からの大名などが通行の際には、桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内をした。
(桑名市・桑名市教育委員会 )


旧東海道


了順寺前を通過。
山門は桑名城のものを移築したと伝えられている。


江場松原跡
七里の渡し場から大福までの東海道は両側とも家が立ち並んでいたが、江場から安永にかけての
192間(約345m)は両側とも家がなく、松並木となっていた。
眺望がよく、西には鈴鹿の山脈が遠望され、東は伊勢の海が見られた。
昭和34年(1959)の伊勢湾台風ごろまでは松並木も残っていたが、現在は家が立ち並び、
一本の松も残っていない。


常南神社
神宮式年御遷宮ごとに、 皇大神宮一ノ鳥居、古殿舎の一部が御下賜になり、
改築の慣例になっている、とのこと。


国道258号線


地下道を通って反対側へ。


伊勢両宮常夜燈
この常夜燈は、文政元年(1818)に東海道の灯標として伊勢神宮への祈願を込め、
桑名・岐阜の材木商によって寄進された。


江戸時代はこの辺りに「町屋川橋」が架けられ、また舟遊びの船着き場もあったので、
大いに賑わったという。


伊勢両宮常夜燈の前に建っていた東海道の標識に従って真直ぐ進むと、


その先は安永第一公園という小さな公園があり、行き止りになっていた。


公園に町屋橋についての説明があった。
江戸時代、ここ安永は桑名入口の立場(旅人が休憩する茶店が集っている所)であり、
また町屋川の舟運の舟着場でもあったので、大いに賑い、茶店では街道名物の安永餅を売っていた。
この地点から対岸の縄生(三重郡朝日町)の間に町屋橋が架かっていた。
寛永十二年(1635)に初めて架橋され、川の中州を利用した大小二本の板橋であったり、
一本の板橋であったり、しばしば変わっている。
下図の橋は江戸時代中頃のもので、中央は馬が退避できるように橋がやや広くなっていた。
昭和八年(1933)、国道1号線の橋が架けられ、旧東海道の町屋橋は廃止された。


伊勢両宮常夜燈まで戻って、現在の町屋橋へ。


町屋橋の袂の町屋橋広場の一角に猫の額ほどの小公園があった。


小公園で弁当タイムにした。
前回と同じ「米八弁当」である。


弁当タイムが終わり、町屋橋を渡る。


員弁(いなべ)川


員弁川を渡って右に折れると、旧東海道の標識が案内してくれた。
かつての町屋橋はこの辺りに架かっていたものと思われる。


旧東海道を進む。


家の角に一里塚跡の碑があった。


一里塚跡碑には何も説明がなかったが、「縄生一里塚跡」と思われる。
日本橋から97番目の一里塚である。


近鉄名古屋線伊勢朝日駅の踏切を渡り、


TOSHIBA三重工場前を通過


旧東海道標識


浄泉坊
浄土真宗本願寺派の寺院


浄泉坊本堂
慶長八年(1603)に伊勢慶昭が小向にあった正治寺を再興し、小向山浄泉坊と改称したことに始まる。


西光寺
真宗大谷派、朝明山と号する。
当寺は確実な證跡はないが、現存する絵像御本尊の裏書に、「明應五年丙辰年六月二日 願主釈念正
本願寺釈実如(第九世)判」とあり、この時(1496)をもって開基とし、その後貞享二年(1685)
大谷派に転じ現在に至る、とある。


旧東海道は、大きく左に折れ、


右に曲がって進む。


伊勢湾岸自動車道と国道1号北勢BP下を通過


朝明川に架かる朝明橋を渡ると、


小さな広場があった。


力石
この力石は、江戸末期から明治初期にかけ東海道筋のこの地で営まれていた茶屋「橋南のつる」の主
大久保つるが後世に残したものである。
石には「二十七メ」と刻まれ、その目方が二十七貫目(約100Kg)と想像される。
北勢地方で見かける力石は、その多くが神社仏閣の境内にあるが、これは数少ない民家の軒先に
保存されているものである。
東海道を往来した旅人や篭かき衆等が休んだおりに余力を誇示するがごとく自慢げにこの石を
持ち上げたであろう往時の様子が偲ばれる。
又この辺りの地名を「茶屋の前」と称するのは、この茶店に由来するものと言い伝えられている。


松寺の立場跡
松寺の立場跡には昔は大きな榎の木があり、街道を往来する旅人や人足などが、籠や荷物を降ろして
杖を立て一休みした所を言う。
公の休憩所のことで茶屋などがあり、立場茶屋とよんでいた。
当時、桑名宿と四日市宿の間には五ヶ所の立場があり、北は小向の立場、南は富田の立場があった。
(大矢知歴史研究会)


鏡ヶ池跡
聖武天皇が行幸の際に松原を通られると、一陣の風が吹き、天皇の笠が池の中に落ちた。
ちょうどその時、傍に洗濯をしていた娘がその笠を拾って差し上げたため、これが縁となって
天皇はこの田村家に宿をとられたという。
明くる朝、旅立ちの日は風もなし、空は真っ青に澄んで、馬上の天皇の姿と、見送る娘の姿とが、
鏡のような池の上にともに映えて、一幅の絵を見るような光景になった。
以来、この池を「鏡ヶ池」とも呼ぶようになった、と云われる。


線路が立体交差しているのは珍しい。
三岐鉄道とJR関西本線の立体交差である。
踏切の幅が狭くて歩行者は渡り難いので、注意が必要だ。


振り返ると、線路を跨ぐ鉄橋を貨物列車が通っていった。


道なりに進み、また線路を潜ると、


一里塚橋があり、


その右手に富田の一里塚跡の碑があった。
日本橋から98番目の一里塚である。


富田の一里塚跡碑の少し先に八幡神社址があった。


八幡神社址にも力石が。
「力石」は、鎌倉の頃より、江戸・明治・大正と時代を越えて若者たちに愛され継承されてきた。
「力石」は豊作の願いと村一番の力持ちの競い合いと仕事士の証としての踏ん張りの精神力
そこに集まった人々の笑いを意味していて「生きる喜びの証」であったろうと思われる。
「力石」の中には重軽石といって、願掛け、占いに使われたものもあるが、ここ八幡神社の「力石」は、
力比べ体力を養うことを対象にしたものであり、この石に触れることによって、健康長寿への信仰を
深めたのであろう。
しかし、この「力石」も労働の機械化、生活の変化に伴って次第に忘れられ、神社や広場の片隅に
放置される存在となってしまった。
昔日の人々のこの思いを引き継ぎ、ここ八幡神社の神前に捧げ末永く保存することにしたものである。
重量およそ百キログラム
「力石」は、ここ八幡神社のほか、北村若宮八幡神社、茂福にも存在する。
(冨田地区文化財保存会)


行啓記念道路碑
この碑は、大正天皇が皇太子時代に、この道路を通られたことを記念して建てられたもの。


14時25分、突当りになって、ここで道に迷ってしまった。
コンビニなどで道を尋ねたが、はっきりしない。
説明を受けてもさっぱり分からない。


感を頼りにいったん国道1号へ出て、常照寺を目指した。


14時59分、常照寺を見つけた。
道を間違って30分以上タイムロスしたが、常照寺を見つけることができて一安堵である。
常照寺は、天文七年(1538)釈法導によって開山された。


常照寺本堂
寛文年間(1661~1673)に天台宗から浄土真宗本願寺派に転派して以来、400余年今日に至っている。
本堂は明治42年(1909)に再建され、鐘楼・山門は明治の末に建てられた。


本堂前に建つ親鸞上人像


常照寺の力石の由来
明治の中頃、この村にある二ヶ寺の御堂を再建するにあたり各所より土台石の奉納があった。
また、御堂の地築(地固め)に、近郷近在より奉仕の人々が集まった。
その節、土台石の中よりこの石を選び休憩時に体力を試さんと持ち上げ競い合ったと伝えられている。
その後、茂福地区の青年若衆が大正の終わり頃までこの石で力比べをして競い合ったと言う。
およそ三十二貫(約120Kg)を肩越しまで担ぎ揚げた人は幾人もいなかったといわれる。
茂福町においては、この由緒ある力石を健康長寿の石と名付けてここに保存することにした。
石に三十二メと刻まれている。
左下にある小さな石は重さ五貫(約19Kg)で子供用であろうか。


旧東海道の旧い家


茂福神社を通過し、県道64号の高架道下を通過すると、


八幡常夜灯があった。
米洗橋北に建っており、明治36年(1902)に建立されたものである。
この常夜灯は、堤防の改修や道路の拡幅の度に移設され、現在地に落ち着いたという。


八幡地蔵堂


地蔵堂内には八幡地蔵尊が安置されていた。


八幡神社跡
勧請年代は不詳であるが、江戸時代には一国一社の八幡神社として、皇国66拝の一つとして
名が聞こえていたといい、村名も神社に因んで八幡村となった。
明治の合祀令により、志氏神社に合祀され、旧社地には社名碑だけが残っている。


東海道と書かれた板の道標
このような道標がかなりの頻度で道の両側に現れるので、ありがたい。


しばらく進むと街道沿いに1本の松が。
江戸時代から唯一残った松で「かわらずの松」と呼ばれている。
昔は松並木が続いていたそうだが、道路の拡幅や松喰い虫に倒れ、今では日永にある1本と、
この1本だけになった、とのこと。
”かわらず”とは、その昔ここ羽津の地名が川原須と呼ばれており、その地名を取って命名した。


志氐(しで)神社前を通過し、


道なりに進むと、


国道1号に合流した。


海蔵川に架かる海蔵橋を渡る。


海蔵川


海蔵橋を渡った後、東海道の案内図を見ると、三ツ谷一里塚の碑を通り越していた。
ここは戻ることにして、


海蔵橋を戻る。


海蔵橋を渡り、堤防の桜並木を右に折れて20mほどの所に、


三ツ谷一里塚碑があった。
東海道の三ツ谷には、かつて一里塚があった。
しかし、その場所は、昭和20年代に海蔵川が拡幅された際、川の中に取り込まれてしまった。


三ツ谷一里塚碑を確認して一安堵し、再度海蔵川を渡って旧東海道を進む。


三滝橋
四日市市街の中央部を流れる三滝川に架かる橋である。
江戸期は東海道を往還する人馬で賑う土橋だったが、明治10年に板橋(長さ42間、幅2.5~3間)に架け替えられ、
大正13年、鉄構橋(長さ約72m、幅6.3m)に改められた。


三滝川を渡ると、


和菓子の笹井屋本店があった。
「日永のなが餅」で知られる、創業が天文十九年(1550)という老舗である。


耳鼻咽喉科福生医院の前に説明板が。


東海道四日市宿
この場所には問屋場がありました。
四日市宿は東海道五十七次の43番目の宿場です。
幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていました、とある。
(福生医院の看板かと思っていたので危うく見過ごすところだった)


道標
「すぐ江戸道」と書かれた道標。
往時は、この辺りが宿場の中心地だった、そうだ。


国道1号を横断すると、


諏訪神社があった。


諏訪神社拝殿
諏訪公園内にある神社で、地元の人々から「おすわさん」と呼ばれる。
四日市の産土神である。
何とか無事に四日市宿に到着できたことを報告した。


四日市駅の近鉄ビルに到着
この日宿泊するホテルは、このビルの反対側だ。


近鉄四日市駅を見ながら進む(振り返って見たところ)と、


この日宿泊する「三交イン四日市駅前」があった。
辺りは既に薄暗くなっていた。


夕食に出かけた。
駅周辺はけっこう賑やかで店も多い。


ある焼肉屋に入り、焼肉を注文した。


生ビールが美味かった。


第Ⅲステージ第5回目(桑名宿~石薬師宿)の1日目(桑名宿から四日市宿)を歩き終わった。

この日の万歩計は、34,000歩余を計測していた。
少々疲れた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(2日目)

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