ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

まるで”古墳巡り” 大甕駅から久慈川河口へ

2016年04月29日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2016年4月29日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第5回(2016年第16回)、「阿武隈山地最南端・大甕から久慈川河口」を巡る
ウォーキングに参加した。

水戸駅で9時9分発の竜田行電車を待つ。
この日の参加者は、この時点で24名。


竜田行は、水戸始発。


祝日のためか、あまり空いてはいなかったが、一応全員座れて一安心。


9時38分、大甕駅に到着


大甕駅
Fさんから『次の電車で追いかけるから先に出発しといて』との連絡が入った。
一つ手前の東海駅からだった。
次の電車は、9時55分に到着することになる。


大甕駅前には、準備体操に適当な広場が見当たらない。
このため、泉が森公園まで準備体操はお預けにして、9時49分、出発!
泉が森公園でFさんを待つことにしよう。


泉が森公園を目指す。


道端に馬頭観世音碑があった。
この辺りは、街道筋(陸前浜街道)だったのだろうか?


水木町2丁目付近


10時ちょうど、水木交流センター・泉が森体育館前を通過。
水木交流センターは、地域の集会場所として利用されているそうだ。


泉神社の鳥居の横に聖徳太子堂があった。
聖徳太子は、用明天皇の第一皇子にして、幼少の頃より仏教・儒教を学び、俊秀の誉れ高く、
飛鳥時代の優れた為政者でもあった。
旧札の肖像としても知られる聖徳太子は、商売繁盛・学業成就の神様としても有名である。


10時9分、「イトヨの里 泉が森公園」に到着した。
こんこんと湧き出る泉と神社があり、泉が森は、その清い泉と泉神社の神域を含む総称である。


水が透き通っており、池の底がはっきりと見て取れる。
これは、泉ヶ森から湧く水が常に注いでいるため、ビオトープ(生物の住息環境)効果で
水を浄化させているのだろう。


公園内には、トゲウオ科の珍しい魚「イトヨ」が棲む池があり、“イトヨの里泉が森公園”として整備されている。
イトヨはこの池で卵を産み、生態系が循環している、とのこと。


江戸時代には、常北十景の一つに数えられており、県指定の史跡で、茨城百景にも選ばれている。


池の周りを散策していると、Fさん夫婦が到着した。
これでこの日の参加者は26名となった。
早速、公園の芝生広場で準備体操だ。


『空が眩しいねぇ』


泉神社に参拝して行くことにした。
聖徳太子堂横の泉神社の鳥居を潜り、


”延喜式内 常陸二十八社”の幟が並ぶ参道を進む。
泉神社は、天速玉姫命を祀る延喜式内社で、日立地方では最も古い神社。
鎌倉・室町時代から多くの武将が祈願に訪れたと云われている。
延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、
そこに鎮座する神の数は3132座である。(Wikipedia)


泉神社の御神木
杉の木に桜が根付いた宿り木であるが、昭和の初めに落雷により大きな損傷を受けた。
表皮に現れた玉杢も見事で貴重なものであり、風雨を避けて温存している。
樹齢は推定450年 (説明板)


泉神社拝殿
泉神社の祭神は天速玉姫命(あめのはやたまひめのみこと)。


泉神社神殿
御祭神「天速玉姫命」が祀られている。
泉大明神と呼ばれている。


泉が湧きだす辺りに小さな社が祀られていた。
泉神社の“泉”は、湧き出している“泉”のことを指していると思われる。


泉神社を後にして、次の目的地、田楽鼻を目指す。
国道6号を横断し、


住宅地を進む。


10時33分、秋葉神社を通過。


すみれの花がきちんと手入れされて植えられていた。
『あら~っ きれいだこと』


『海が見えてきたっ』


田楽鼻を目指す。


田楽鼻の手前の道路脇に御番所跡の碑があった。
江戸時代、水戸藩は初代藩主頼房の時代を皮切りに、幕末までに助川海防城(助川館)と共に、
七つの海防施設を設けて、異国船(外国船)に対する海岸防備を行ってきた。
ここはその一つで、水木異国船遠見番所(外国船を見張る番所)跡である。


10時46分、田楽鼻に到着
長塚節の歌碑が立てられている。
多珂の海の 水木の浜に 荒波に かぢめさは寄る 
そをとりで たすけにせむと 蜑等さはよる
潮さゐの 水木の濱に 爪木たく 蜑人さわき 搗布とるかも



水木海岸には、太古、あわびの舟に乗って神が来て、金砂神社に登ったと云われ、
72年毎の浜だし神事で田楽を奉納する習わしがある。
山の中の東西二つの本宮からこの田楽鼻下の水木浜まで、二つのルートを7日かけて、
途中田楽を奉納しながら歩き、水木はその最後の田楽催場だったことが地名の由来。
ここ田楽鼻の広場では、文久二年(1862)金砂大祭礼の時に田楽が催された。


見晴らし台に上ってみよう。


『いやぁ 素晴らしい景色だねぇ』


古房地鼻の灯台が見える。


田楽鼻を後にして、次の目的地「甕の原古墳群」へ。


国道6号を横断して、住宅街を進むが、目指す「甕の原古墳群」が見つからない。
近くにいた若いお母さんに訊いてみると、国道6号を渡った海の近くではないか、とのこと。
たった今見て来たばかりの田楽鼻の見晴らし台を指しているようだ。


そんな筈はない、と近くの別の通りを探したところ、目指す古墳を見つけた。
『意外に近くにあったねぇ』
『普通の土盛りみたいだから、気を付けてないと分からないだろうねっ』


甕の原古墳群は、大みか小学校北東の太平洋を臨む台地上に分布し、3号墳と4号墳が指定史跡
として現状保存されている。


3号墳・4号墳は土を半球形に盛り上げた円墳という形の古墳で、古墳時代の6世紀後半から
7世紀ごろに造られたと考えられている。


3号墳に上ってみた
古墳から太平洋が望める。


こちらの4号墳は、3号墳より小さい。
海側へ20mほどのところに、全長41mの前方後円墳(甕の原古墳群2号墳)があり、
昭和51年に発掘調査が行われている、とのこと。


次の目的地赤羽緑地公園を目指し、市街地へ。


おおみか町2丁目付近の住宅地を進む。


中道通りを進むと、


日立製作所の工場に突き当たる。


日立製作所を右折し、工場沿いに進む。
『いやぁ ツツジが素晴らしいねっ』
鮮やかで眩しいほどの色彩である。


日立製作所に隣接して日立臨海工場が続く。


門の前に咲く八重桜がちょうど見頃だった。


工場の塀に沿って植えられたツツジが美しい。


日立臨海工場の突き当たりを左に折れると、吹上通りとなる。


時折強い風が吹いて帽子が飛ばされそうになる。
”吹上通り”と関係があるのだろうか?


常磐線久慈架道橋の下を潜り、


その先の信号を左折して進むと・・・


12時12分、赤羽緑地公園に到着した。
赤羽緑地公園は、自然にふれ、歴史に学ぶ憩いの場として親しまれている公園である。


ちょうどお昼になったことだし、お腹も空いたので、ここで弁当タイムにしよう。


女性陣は木陰にシートを広げて遠足気分。


赤羽緑地公園には、池や、


野鳥観察板がある。
年間を通じて70数種の野鳥たちが訪れる、とのこと。
『ちょっと覗き窓が大きすぎるんじゃないっ?』
『鳥から丸見えだよねっ』


野鳥の池は、かつては水田だったそうだ。
現在、その跡には生い茂る葦の群生が見られる。


さらに進んで北側の丘陵へ行くと、赤羽横穴墓(あかばねおうけつぼ)群の説明が。
北側の丘陵にはおよそ1400年前のお墓がたくさん確認されている。
丘陵の斜面に穴を横に掘り、その平面形が羽子板状になっている形態の墓制を横穴墓と呼び、
発見された場所の地名を採って、赤羽横穴暮と呼ばれている、とのこと。


横穴墓は古墳時代の墓であるが、円墳や前方後円墳等に見られるような盛り土ではなく、
台地の傾斜面に横穴を掘って墓としている。
今は、農機具などの倉庫代わりに使われている。


ひときわ大きい横穴墓が一基あった。
丘陵先端の崖にあるB支丘1号墓は、奥行き5m、高さ3mと他に比べると大きい。
B支丘1号横穴墓からは、金銅製の冠や小札・玉類などが発見され、
久慈川流域の横穴墓出土品としては、極めて貴重な副装品として、
日立郷土博物館に展示されている、とのこと。


赤羽緑地公園を抜けると、次の南高野史跡公園へ近道が出来ると聞き、
緑地公園の奥へ進む。


赤羽緑地公園を抜けて住宅地に出たのは良いが、どこを歩いているのか、
南高野史跡公園はどっちなのかがさっぱり分からない。


道に迷ってしまい、たまたま通りがかった若い女性に道を尋ねると、
親切にもスマホで場所を探してくれた。
『ありがとうございましたっ』


若い女性に教えてもらった南高野貝塚の道標を見つけた。
道を尋ねたところからは、そう離れていない場所だった。


”南高野貝塚”の道標に従って進むと・・・


2分ほどで南高野史跡公園に到着した。
しかし、自分たちが公園のどの辺りにいるのかが、分からない。
『ここは、どこなんだいっ?』


広い公園内を進むと、


公園入口があった。


案内によると、
貝塚は、人が食べた貝の殻や魚の骨、鳥や獣の骨などが堆積してできたもので、
この貝塚では、昭和27年(1952)と昭和31年(1956)に発掘調査が実施されている。


公園内を奥へ進む、
公園には円墳や貝塚があり、貝塚からは貝類や鳥類、哺乳類の骨が確認され、
土器や石器などの生活用具や装身具も出土した、とのこと。
これは円墳と思われる。


南高野貝塚が形成されたのは縄文時代の中期から晩期であり、その出土品から、
当時ここに住んでいた人々の生活をうかがい知ることができる。
貝塚は、茨城県指定の史跡に指定されている。


これも円墳と思われる。


南高野貝塚の碑をバックに記念撮影をして、


13時30分、ゴールの大甕駅を目指す。


常磐線久慈架道橋の下を潜り、


ひたちBRT(BUS RAPID TRANSIT Hitachi)に沿った歩行者専用の歩道を大甕駅へ。
ひたちBRTは、日立電鉄交通サービスが運営しているバス路線である。
廃線になった日立電鉄線の跡地を利用したBRTで、平成25年(2013)3月25日に第一期区間が開通した。


ひたちBRTのバス


専用歩道は、自転車も通行禁止となっている。
『歩行者だけしか通れないのは安心だよねっ』


専用歩道の両側は住宅地となっている。


14時2分、専用歩道が終わり、吹上通りに合流した。
間もなく大甕駅だ。


14時11分、大甕駅に到着


14時19分、遅れていたグループも到着した。


大甕駅舎内にコンビニがあった。
ここで、缶ビールを買い求め、


駅ホームへ。


14時28分発の水戸行電車が到着するまで駅構内のベンチで一休み。
『お疲れさまですっ』


常磐線に乗車し、『かんぱ~いっ』


『今日は大変お疲れさまでしたぁ』


阿武隈山地の最南端に位置する大甕駅から海岸線を通り、久慈川河口に近い南高野史跡公園までを歩いた。
茨城「歴史探訪ウォーキング」(メイツ出版)を参考にした。
イトヨが棲むほどきれいな「泉が森公園」や72年毎の金砂大祭礼の田楽が催された「田楽鼻」などの
見所もあったが、”古墳巡り”ウォーキングでもあった。
遥か古代へのロマンを掻き立てる一日だった、と思っている。

この日の万歩計は、17,000歩を少し超えていた。

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