2016年4月24日(日)
昨年から、旧街道の中でも比較的交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
街道の中からある宿間を選んで歩くというものである。
「旧街道を歩く」第十二回(最終回)は、北国街道の小諸宿~上田宿間(約25Km)を2日間かけて歩いた。
この日のスタートは、しなの鉄道の小諸駅から。
北陸新幹線で上田駅からしなの鉄道に乗り換えて、5つ目の駅(400円)だ。
上野駅で朝食・昼食の弁当を買い、新幹線乗り場19番ホームで待つ。
この日の参加者は8名。
乗車するのは、6時58分発の長野行あさま601号。
車内(2号車)はガラガラだった。
中央部に向い合わせで席を確保して、ゆっくりと朝食を摂る。
8時27分、定刻どおり上田駅に到着
上田駅でしなの鉄道に乗り換える。
SUICAが効かないのは、ちょっと不便。
8時39分発小諸行に乗車
しなの鉄道車内も空いていた。
8時58分、この日の出発地小諸駅に到着
9時8分、出発!
先ずは、前回の街道終点荒町一丁目交差点へ。
荒町一丁目交差点からこの日の北国街道が始まる。
「ギャラリーつたや」
江戸時代から昭和初期まで、商人宿として繁盛した旅籠だった。
現在は、骨董や手作り工芸品などを扱う6店が各部屋に出店する共同ギャラリーとなっている。
蔵を備えた大きな家
こちらは骨董店
道路反対側にも骨董・古民具の店が。
『骨董品の店が多いねぇ』
蕎麦屋「そば七」
脇本陣代として江戸後期に建てられた立派な玄関屋根を持つ。
そば打ちの真っ最中だった。
『食べてみたいねっ』
「町屋館みはらし庭」の看板があったので、立ち寄ってみた。
昭和40年代まで味噌・醤油の醸造業を営んでいた旧商家の造りをそのままに活かし、
会議や展示、イベントなど多目的に利用できる施設として整備。
合わせて、浅間山などの眺望を活かした小公園に休憩施設・公衆用トイレを併設し、
本町の情緒あふれるたたずまいに調和した施設として平成13年7月にオープン。
『残念ながら浅間山は雲に隠れて見えないねぇ』
大井伊賀守居城鍋蓋城址
鍋蓋城は、長享元年(1486)大井伊賀守光忠によって築かれたと云われる。
鍋蓋城は、近世小諸城の三ノ丸北側に、鍋蓋曲輪として小諸城代家老屋敷などが置かれていた。
小諸脇本陣
本町が、寛保二年(1742)の洪水でことごとく流失してしまったために、
問屋・本陣・脇本陣などの宿駅の機能は、ここ市町に移った。
小諸本陣
問屋場を兼ねた本陣で、18世紀末~19世紀初頭の建築と推定される。
街道時代の面影をそのまま伝える問屋場建築は全国でも2棟しかなく、国の重要文化財に指定されている。
本陣主屋は小諸駅近くに移築・公開されている。
正面に小さな破風があるのが特徴
日本城郭初期の代表格の大手門
小諸城主仙石秀久が築造した小諸城の正門。
城郭配置から表玄関になり、また本丸から四番目の門であることから、四の門(瓦)とも呼ばれる。
二階入母屋造りの楼門で、石垣と門が一体化していないことや、一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、
二階は居館形式をとっているなどの特徴がある。
大手門を内から見たところ。
現存の門は、慶長十七年(1612)の建立と云われる。
実戦的で華美な装飾を省いた質実剛健な建築は、弘前城とともに大手門の双璧と呼ばれている。
国の重要文化財に指定されている。(小諸市)
しなの鉄道の下を潜って懐古園へ。
小諸城址懐古園のシンボル三の門
徳川家達(いえさと)公の筆による”懐古園”の大額が掛かっている。
両塀には矢狭間、鉄砲狭間がある戦国時代の戦闘式要害を伝える建物。
国の重要文化財に指定されている。
三の門内側
小諸城は、城下町より低い位置に城を築いた「穴城」で、全国でも珍しい。
「日本百名城」でもある。2010年9月25日(土)に訪れている。
今日と明日(25日)は、ちょうど懐古神社例大祭で、たくさんの露店が出店準備中だった。
懐古園を後にして、北国街道へ。
10時14分、小諸新町の諏訪神社を通過
「牛に引かれて善光寺参り」という諺で有名な布引観音への道標、しかし、北国街道は直進だ。
北国街道
小さな川の橋に”小諸馬子唄”の歌詞が。
こもろ出て見りゃ 浅間の山に 今朝も三すじの 煙り立つ
しなの鉄道を跨ぎ、
国道18号の小諸IC南交差点を渡って、上田方面へ。
北国街道は右へと進む。
10時39分、小諸駅を出発して1時間半、少し休憩していこう。
『こいのぼりの季節なんだねぇ』
西原地区辺り
分岐点に「中部北陸自然歩道」の道標が。
北国街道は「中部北陸自然歩道」でもあるらしい。
国道18号との合流点に観音像が。
『何て言う観音様なのかねぇ』
国道18号沿いに「たかこの布あそび」という、瓦屋根が五層にもなった大きな古民家風の建物があった。
土屋敬子(つちやたかこ)という人の縫ったドレス・シャツブラウス・小物・子供服を陳列している、そうだ。
もとは寿司屋だった、とか・・・
「たかこの布あそび」から少し行ったところに「CAINZ HOME」が。
ここで、一休み。
11時21分、「CAINZ HOME」で北国街道は、国道18号と分れる。
少し進むと、長く立派な塀の家や
大きな蔵などを備えた家々が見られるようになった。
『街道らしい風景になって来たねっ』
これは半鐘
『随分低い所にあるんだねぇ』
『女子供でも手を伸ばせば届くようにしてあるんじゃないっ!?』
そういうことにしておこう。
道端には剣を持った双体道祖神や石仏群も・・・
石には”観音経一千巻 牛馬難消除”と刻まれている。
古い家並みが続く。
11時43分、滋野コミュニティセンター前を通過
本物そっくりの櫓が。
野沢菜・山菜 センターの文字が見える。
牧屋(ぼくや)一里塚の碑
江戸日本橋から43番目(43里)の一里塚。
塚は明治維新の際、民間払い下げとなり、原形を失った。
雷電為右衛門は、信濃国小県郡大石村(現長野県東御市)生まれの江戸時代の大関。
力士生活21年、江戸本場所36場所中での勝率は9割6分2厘であり、大相撲史上、未曾有の最強力士に推す意見も多い。
身長197Cm、体重169Kg※の巨体から繰り出す怪力のため「鉄砲(突っ張り)・張り手・閂(かんぬき)・鯖折り」を
禁じ手にされたという逸話が有名。閂で相手力士の腕をへし折ったとも伝えられている。
※横綱白鵬(192Cm、158Kg)よりも一回り大きい体格である。
雷電為右衛門の死後、文久元年(1861)その履歴と英名を追慕して建てられたのがこの碑で、碑文は佐久間象山の筆。
いつの頃か、その破片を所持したり煎じて飲むと力が出たり丈夫になるとの信仰が生まれ、削り取られたため、
磨耗し、碑文は読むことができない。
このため、明治28年、象山夫人・勝海舟・山岡鉄舟などが新しく建て直したという。
現在、新旧二つの碑がある。
間もなくお昼、どこで弁当にしようかと地図を見ると、近くに神社のマークがあったので、行ってみると・・・
桜井神社という小さな神社だった。
『ここで弁当にしよう!』ということで、
拝殿前で日向ぼっこを兼て弁当タイム。
上野駅で買った駅弁「真田御膳」(1,150円)
海苔で巻いたおにぎりが6個、六文銭をイメージしている。
6種類のおにぎりが味わえて美味しかった。
昼食後の13時1分、街道へ戻る。
胡桃(くるみ)の木が整然と並んでいる。
胡桃が栽培されているとは知らなかった。
北国街道に戻ったところに明治天皇牧屋小休所の碑が建てられていた。
この辺りの半鐘は、一様に低い。
田中宿を目指す。
民家の軒先に慶應三年(1867)建立の筆塚があった。
「郷社縣諏方神社」と書かれた神社があった。
郷社は明治政府の決めた神社の格の一つだが、戦後は廃止されている。
明治四年(1871)全国の神社は官社と諸社に大別され、官社は大・中・小の官幣社と国幣社、別格官幣社に。
また、諸社は府県社・郷社・村社・無格社に分けられた。
近くで子供たちが遊んでいたので、何と読む神社なのか訊ねると、『すわじんじゃだよ』との返事。
境内には、欅の大木が。
神社の歴史は古そうだ。
田中宿に入った?
道路は拡張整備されて、立派な歩道も併設されている。
電柱が見当たらないのですっきりとしている。
『街道らしくないわねっ』
右手に成田山の文字が入った碑があった。長久寺だ。
地元の豪族常田氏の祈願所だったそうである。
入口に六地蔵が並んでいた。
高木屋という新しい店に「田中宿脇本陣跡」と書かれた看板が。
この先の路地を入ると、民家の庭先に本陣跡の門があるそうだが、見落としてしまった。
田中駅の反対側に馬に乗った勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)があった。
勝軍地蔵とは武具・甲冑をまとった地蔵菩薩で、戦いに勝ち飢饉なども免れるそうで、
鎌倉時代以降に武家に信仰された。
悪行や煩悩を破り勝つという仏様で、防火神としても信仰されている。
北国街道を左へ折れると、しなの鉄道田中駅である。
時刻は14時をちょっと回ったところ。
当初の予定では、この日は田中駅がゴールで、上田駅近くで宿泊することにしていたのだが・・・
少しばかり早いので、海野宿へ向かうことにした。
田中宿の家並みを見ながら進む。
海野宿まで1.2Kmの表示
しなの鉄道沿いの遊歩道を進む。
踏切を渡ると・・・
小さな公園に海野宿と刻まれた大きな石があった。
『海野宿に着いたんだねっ』
海野宿東端の白鳥神社境内に聳える御神木の欅の大木。
推定樹齢700年以上で、目通り7.3mとある。
古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、この地に滞在したことから、「白鳥神社」と称し、
古代から中世に栄えた豪族、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善渕王・海野広道公を祭神としている。
白鳥神社で一息入れて、海野宿へ。
海野宿は、「日本の道百選」、また「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。
昔風の旅籠造りの家並みが、水路を挟んだ両側に続いている。
「うだつ」は、防火・富の象徴として作られた。
海野宿は、明治時代に宿場から養蚕業の地へ変わっていき、財を成した。
江戸時代には、佐渡の金が通っていたので『金の街道』と呼ばれ、
明治時代に養蚕を始めてから『絹の街道』と呼ばれるようになった、そうだ。
海野宿の「うだつ」は、明治時代に作られたもので「袖うだつ」と言われる。
江戸時代に作られた「うだつ」は「本うだつ」と言われ、形も異なる。
それにしても海野宿の通りには人影が少ない、と言うより見えない。
今日は日曜日で天気も良いのに、街は静まり返っているし、寂しい。
本陣跡があったので覗いてみると、
門を入った正面に大きな庭木があり、中の様子が伺えない。
まるで通せんぼされているようなので、これ以上入るのは止めた。
海野宿大嶋屋
家の前に馬の塩舐め石が置かれている。
一応”営業中”の看板は掛けてあったが、
「昭和62年より27年間営業して参りましたが、この三月で閉店します」の張り紙が。
”お茶でも一服”と立寄ろうとしたが、入口に”宿泊の方のみ”の札が下っていたため、入らなかった。
(他にもお茶屋の1軒くらいはあるだろう、と高をくくっていたら、お茶屋は結局この1軒だけだった)
宿場は続くが、相変わらず人通りは少ない。
お茶屋らしき店を探したが見つからず、いつの間にか「重要伝統的建造物群保存地区」から
「歴史的風致地区」に変わり、
海野宿の外れに来てしまった。
『一服するところが殆どなかったねぇ』
皆さん、少々お疲れの様子。
後は、大屋駅へ向かうしかない。
左手に千曲川を見ながら大屋駅を目指す。
15時29分、大屋駅に到着。
田中宿から1時間30分ほどかかった。
15時44分発の上田行に乗り、
15時50分、一駅で上田駅に到着した。
とりあえずこの日の宿泊先「上田第一ホテル」へ向かう。
16時2分、「上田第一ホテル」に到着
ホテルのロビーで熱いコーヒーで一息入れる。
『疲れたぁ』
ホテルの夕食は日曜日は無いため、外食となる。
16時40分、外はまだ明るい。
食事の前に上田城を見物をしようということで城へ向かった。
道路の反対側を「信州上田おもてなし武将隊」と思しき衣裳の若者が通ったので、
カメラを向けるとポーズをとってくれた。サービス精神旺盛である。
『かっこ良いよっ』
ホテルから約8分、上田城正門に到着
時刻は16時50分、帰る人もいれば、これからという人も。
「真田丸大河ドラマ館」前の屋台にはまだ大勢の人が寛いでいた。
上田城本丸櫓門
正面の櫓門は平成6年に再建されたもの。
東虎口櫓門右にある「真田石」(高さ約2.5m・横約3m)は城内で最大
真田信之が松代へ転封に当たって父の形見に持ち運ぼうとしたが、
大勢の人の力をもってしてもびくとも動かなかったと伝えられる。
櫓門の左側にあるのは角櫓(南櫓)だ。
城内の真田神社には、
真田幸村公が祀られている。
真田神社の左奥に城内唯一の大井戸、真田井戸がある。
この井戸から抜け穴があり、城の北方、太郎山麓や藩主居館跡に通じていたとの伝説もある。
本丸隅櫓(西櫓)
西櫓から上田城址公園を見下ろす。
西櫓横を通り尼ヶ淵へ。
尼ヶ淵
上田城址公園から西櫓を見上げると、その守りの堅さが実感できる。
江戸時代には、ここを千曲川の分流が流れていたため、その防御は強固になった。
崖の高さは12m余あり、上田泥流層の垂直な崖がさらに敵の侵入を難しくした。(説明板)
角櫓(南櫓)下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれている。
中断石垣は、長雨で一部崩落したことから、修復工事を実施した。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣がなかった部分であることから、
原形に基づきモルタルで修復している。(説明板)
尼ヶ淵の遊歩道を通って二の丸の堀跡へ。
堀は、二の丸を鈎の手に囲んでおり、その延長は約646間(1,163m)あり、上田城の堅い守りに役立っていた。
その後、昭和3年5月に上田温電北東線が開通し、ここを電車が走っていた。
昭和47年2月に電車は廃止され、現在に至っている、とのこと。
『へぇ~っ ここを電車が走ってたんだぁ』
平和の鐘建設の由来
時の鐘の歴史は、延宝五年(1677年)、時を知らせる鐘として上田城下の住民の親しまれ、
日常生活に欠かすことができなかった。
以来二百数十年の長い間、正しい時を知らせ続けてきたが、大正14年サイレンに代った。
鐘の位置も幾度か変わり、昭和9年に上田城跡のこの場に落ち着いた。
昭和18年大東亜戦争が悪化するに伴い、軍に徴発され、姿を消して鐘楼のみが風雪に耐えていた。
この歴史的遺産をなんとか復元しようと、昭和47年上田市自治会連合会に復元運動が起り、
「平和の鐘」と改め、30年振りに昔の姿に再現された。
再び悲惨な事の起らないよう、市民の平和の願いがこの鐘に込められている。
昭和48年吉日 上田市
17時40分、お腹も空いてきたので上田市内へ。
「真田丸大河ドラマ館」前の屋台は、既に閉まって人影はまばら。
ホテルで紹介された焼きとりの「千串屋」
『かんぱ~いっ』 『今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『明日も頑張って歩きましょう!!』
「旧街道を歩く」北国街道小諸宿~上田宿間(初日)を無事歩き終えた。
当初予定していた田中宿までを急遽海野宿までに変更し、その分距離が長くなったため、正直疲れた。
「旧街道を歩く」もいよいよ明日最終回を迎える。
皆さんと揃って、元気に上田宿へゴールインしたい。
この日の万歩計は、33,000歩を超えていた。
30,000歩を超えたのは、昨年(2015)5月25日の中山道(軽井沢宿~坂本宿)以来である。
ウマさんの「旧街道(特選)を歩く」目次に戻る。
昨年から、旧街道の中でも比較的交通の便が良く、見所の多いとされる区間を選んで歩いている。
ある旧街道全ての区間を歩くのは、時間的にも資金的にも厳しいため、
街道の中からある宿間を選んで歩くというものである。
「旧街道を歩く」第十二回(最終回)は、北国街道の小諸宿~上田宿間(約25Km)を2日間かけて歩いた。
この日のスタートは、しなの鉄道の小諸駅から。
北陸新幹線で上田駅からしなの鉄道に乗り換えて、5つ目の駅(400円)だ。
上野駅で朝食・昼食の弁当を買い、新幹線乗り場19番ホームで待つ。
この日の参加者は8名。
乗車するのは、6時58分発の長野行あさま601号。
車内(2号車)はガラガラだった。
中央部に向い合わせで席を確保して、ゆっくりと朝食を摂る。
8時27分、定刻どおり上田駅に到着
上田駅でしなの鉄道に乗り換える。
SUICAが効かないのは、ちょっと不便。
8時39分発小諸行に乗車
しなの鉄道車内も空いていた。
8時58分、この日の出発地小諸駅に到着
9時8分、出発!
先ずは、前回の街道終点荒町一丁目交差点へ。
荒町一丁目交差点からこの日の北国街道が始まる。
「ギャラリーつたや」
江戸時代から昭和初期まで、商人宿として繁盛した旅籠だった。
現在は、骨董や手作り工芸品などを扱う6店が各部屋に出店する共同ギャラリーとなっている。
蔵を備えた大きな家
こちらは骨董店
道路反対側にも骨董・古民具の店が。
『骨董品の店が多いねぇ』
蕎麦屋「そば七」
脇本陣代として江戸後期に建てられた立派な玄関屋根を持つ。
そば打ちの真っ最中だった。
『食べてみたいねっ』
「町屋館みはらし庭」の看板があったので、立ち寄ってみた。
昭和40年代まで味噌・醤油の醸造業を営んでいた旧商家の造りをそのままに活かし、
会議や展示、イベントなど多目的に利用できる施設として整備。
合わせて、浅間山などの眺望を活かした小公園に休憩施設・公衆用トイレを併設し、
本町の情緒あふれるたたずまいに調和した施設として平成13年7月にオープン。
『残念ながら浅間山は雲に隠れて見えないねぇ』
大井伊賀守居城鍋蓋城址
鍋蓋城は、長享元年(1486)大井伊賀守光忠によって築かれたと云われる。
鍋蓋城は、近世小諸城の三ノ丸北側に、鍋蓋曲輪として小諸城代家老屋敷などが置かれていた。
小諸脇本陣
本町が、寛保二年(1742)の洪水でことごとく流失してしまったために、
問屋・本陣・脇本陣などの宿駅の機能は、ここ市町に移った。
小諸本陣
問屋場を兼ねた本陣で、18世紀末~19世紀初頭の建築と推定される。
街道時代の面影をそのまま伝える問屋場建築は全国でも2棟しかなく、国の重要文化財に指定されている。
本陣主屋は小諸駅近くに移築・公開されている。
正面に小さな破風があるのが特徴
日本城郭初期の代表格の大手門
小諸城主仙石秀久が築造した小諸城の正門。
城郭配置から表玄関になり、また本丸から四番目の門であることから、四の門(瓦)とも呼ばれる。
二階入母屋造りの楼門で、石垣と門が一体化していないことや、一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、
二階は居館形式をとっているなどの特徴がある。
大手門を内から見たところ。
現存の門は、慶長十七年(1612)の建立と云われる。
実戦的で華美な装飾を省いた質実剛健な建築は、弘前城とともに大手門の双璧と呼ばれている。
国の重要文化財に指定されている。(小諸市)
しなの鉄道の下を潜って懐古園へ。
小諸城址懐古園のシンボル三の門
徳川家達(いえさと)公の筆による”懐古園”の大額が掛かっている。
両塀には矢狭間、鉄砲狭間がある戦国時代の戦闘式要害を伝える建物。
国の重要文化財に指定されている。
三の門内側
小諸城は、城下町より低い位置に城を築いた「穴城」で、全国でも珍しい。
「日本百名城」でもある。2010年9月25日(土)に訪れている。
今日と明日(25日)は、ちょうど懐古神社例大祭で、たくさんの露店が出店準備中だった。
懐古園を後にして、北国街道へ。
10時14分、小諸新町の諏訪神社を通過
「牛に引かれて善光寺参り」という諺で有名な布引観音への道標、しかし、北国街道は直進だ。
北国街道
小さな川の橋に”小諸馬子唄”の歌詞が。
こもろ出て見りゃ 浅間の山に 今朝も三すじの 煙り立つ
しなの鉄道を跨ぎ、
国道18号の小諸IC南交差点を渡って、上田方面へ。
北国街道は右へと進む。
10時39分、小諸駅を出発して1時間半、少し休憩していこう。
『こいのぼりの季節なんだねぇ』
西原地区辺り
分岐点に「中部北陸自然歩道」の道標が。
北国街道は「中部北陸自然歩道」でもあるらしい。
国道18号との合流点に観音像が。
『何て言う観音様なのかねぇ』
国道18号沿いに「たかこの布あそび」という、瓦屋根が五層にもなった大きな古民家風の建物があった。
土屋敬子(つちやたかこ)という人の縫ったドレス・シャツブラウス・小物・子供服を陳列している、そうだ。
もとは寿司屋だった、とか・・・
「たかこの布あそび」から少し行ったところに「CAINZ HOME」が。
ここで、一休み。
11時21分、「CAINZ HOME」で北国街道は、国道18号と分れる。
少し進むと、長く立派な塀の家や
大きな蔵などを備えた家々が見られるようになった。
『街道らしい風景になって来たねっ』
これは半鐘
『随分低い所にあるんだねぇ』
『女子供でも手を伸ばせば届くようにしてあるんじゃないっ!?』
そういうことにしておこう。
道端には剣を持った双体道祖神や石仏群も・・・
石には”観音経一千巻 牛馬難消除”と刻まれている。
古い家並みが続く。
11時43分、滋野コミュニティセンター前を通過
本物そっくりの櫓が。
野沢菜・山菜 センターの文字が見える。
牧屋(ぼくや)一里塚の碑
江戸日本橋から43番目(43里)の一里塚。
塚は明治維新の際、民間払い下げとなり、原形を失った。
雷電為右衛門は、信濃国小県郡大石村(現長野県東御市)生まれの江戸時代の大関。
力士生活21年、江戸本場所36場所中での勝率は9割6分2厘であり、大相撲史上、未曾有の最強力士に推す意見も多い。
身長197Cm、体重169Kg※の巨体から繰り出す怪力のため「鉄砲(突っ張り)・張り手・閂(かんぬき)・鯖折り」を
禁じ手にされたという逸話が有名。閂で相手力士の腕をへし折ったとも伝えられている。
※横綱白鵬(192Cm、158Kg)よりも一回り大きい体格である。
雷電為右衛門の死後、文久元年(1861)その履歴と英名を追慕して建てられたのがこの碑で、碑文は佐久間象山の筆。
いつの頃か、その破片を所持したり煎じて飲むと力が出たり丈夫になるとの信仰が生まれ、削り取られたため、
磨耗し、碑文は読むことができない。
このため、明治28年、象山夫人・勝海舟・山岡鉄舟などが新しく建て直したという。
現在、新旧二つの碑がある。
間もなくお昼、どこで弁当にしようかと地図を見ると、近くに神社のマークがあったので、行ってみると・・・
桜井神社という小さな神社だった。
『ここで弁当にしよう!』ということで、
拝殿前で日向ぼっこを兼て弁当タイム。
上野駅で買った駅弁「真田御膳」(1,150円)
海苔で巻いたおにぎりが6個、六文銭をイメージしている。
6種類のおにぎりが味わえて美味しかった。
昼食後の13時1分、街道へ戻る。
胡桃(くるみ)の木が整然と並んでいる。
胡桃が栽培されているとは知らなかった。
北国街道に戻ったところに明治天皇牧屋小休所の碑が建てられていた。
この辺りの半鐘は、一様に低い。
田中宿を目指す。
民家の軒先に慶應三年(1867)建立の筆塚があった。
「郷社縣諏方神社」と書かれた神社があった。
郷社は明治政府の決めた神社の格の一つだが、戦後は廃止されている。
明治四年(1871)全国の神社は官社と諸社に大別され、官社は大・中・小の官幣社と国幣社、別格官幣社に。
また、諸社は府県社・郷社・村社・無格社に分けられた。
近くで子供たちが遊んでいたので、何と読む神社なのか訊ねると、『すわじんじゃだよ』との返事。
境内には、欅の大木が。
神社の歴史は古そうだ。
田中宿に入った?
道路は拡張整備されて、立派な歩道も併設されている。
電柱が見当たらないのですっきりとしている。
『街道らしくないわねっ』
右手に成田山の文字が入った碑があった。長久寺だ。
地元の豪族常田氏の祈願所だったそうである。
入口に六地蔵が並んでいた。
高木屋という新しい店に「田中宿脇本陣跡」と書かれた看板が。
この先の路地を入ると、民家の庭先に本陣跡の門があるそうだが、見落としてしまった。
田中駅の反対側に馬に乗った勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)があった。
勝軍地蔵とは武具・甲冑をまとった地蔵菩薩で、戦いに勝ち飢饉なども免れるそうで、
鎌倉時代以降に武家に信仰された。
悪行や煩悩を破り勝つという仏様で、防火神としても信仰されている。
北国街道を左へ折れると、しなの鉄道田中駅である。
時刻は14時をちょっと回ったところ。
当初の予定では、この日は田中駅がゴールで、上田駅近くで宿泊することにしていたのだが・・・
少しばかり早いので、海野宿へ向かうことにした。
田中宿の家並みを見ながら進む。
海野宿まで1.2Kmの表示
しなの鉄道沿いの遊歩道を進む。
踏切を渡ると・・・
小さな公園に海野宿と刻まれた大きな石があった。
『海野宿に着いたんだねっ』
海野宿東端の白鳥神社境内に聳える御神木の欅の大木。
推定樹齢700年以上で、目通り7.3mとある。
古代天皇の命を奉じて東征の途についた日本武尊が、この地に滞在したことから、「白鳥神社」と称し、
古代から中世に栄えた豪族、海野氏の祖と伝わる貞元親王・善渕王・海野広道公を祭神としている。
白鳥神社で一息入れて、海野宿へ。
海野宿は、「日本の道百選」、また「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。
昔風の旅籠造りの家並みが、水路を挟んだ両側に続いている。
「うだつ」は、防火・富の象徴として作られた。
海野宿は、明治時代に宿場から養蚕業の地へ変わっていき、財を成した。
江戸時代には、佐渡の金が通っていたので『金の街道』と呼ばれ、
明治時代に養蚕を始めてから『絹の街道』と呼ばれるようになった、そうだ。
海野宿の「うだつ」は、明治時代に作られたもので「袖うだつ」と言われる。
江戸時代に作られた「うだつ」は「本うだつ」と言われ、形も異なる。
それにしても海野宿の通りには人影が少ない、と言うより見えない。
今日は日曜日で天気も良いのに、街は静まり返っているし、寂しい。
本陣跡があったので覗いてみると、
門を入った正面に大きな庭木があり、中の様子が伺えない。
まるで通せんぼされているようなので、これ以上入るのは止めた。
海野宿大嶋屋
家の前に馬の塩舐め石が置かれている。
一応”営業中”の看板は掛けてあったが、
「昭和62年より27年間営業して参りましたが、この三月で閉店します」の張り紙が。
”お茶でも一服”と立寄ろうとしたが、入口に”宿泊の方のみ”の札が下っていたため、入らなかった。
(他にもお茶屋の1軒くらいはあるだろう、と高をくくっていたら、お茶屋は結局この1軒だけだった)
宿場は続くが、相変わらず人通りは少ない。
お茶屋らしき店を探したが見つからず、いつの間にか「重要伝統的建造物群保存地区」から
「歴史的風致地区」に変わり、
海野宿の外れに来てしまった。
『一服するところが殆どなかったねぇ』
皆さん、少々お疲れの様子。
後は、大屋駅へ向かうしかない。
左手に千曲川を見ながら大屋駅を目指す。
15時29分、大屋駅に到着。
田中宿から1時間30分ほどかかった。
15時44分発の上田行に乗り、
15時50分、一駅で上田駅に到着した。
とりあえずこの日の宿泊先「上田第一ホテル」へ向かう。
16時2分、「上田第一ホテル」に到着
ホテルのロビーで熱いコーヒーで一息入れる。
『疲れたぁ』
ホテルの夕食は日曜日は無いため、外食となる。
16時40分、外はまだ明るい。
食事の前に上田城を見物をしようということで城へ向かった。
道路の反対側を「信州上田おもてなし武将隊」と思しき衣裳の若者が通ったので、
カメラを向けるとポーズをとってくれた。サービス精神旺盛である。
『かっこ良いよっ』
ホテルから約8分、上田城正門に到着
時刻は16時50分、帰る人もいれば、これからという人も。
「真田丸大河ドラマ館」前の屋台にはまだ大勢の人が寛いでいた。
上田城本丸櫓門
正面の櫓門は平成6年に再建されたもの。
東虎口櫓門右にある「真田石」(高さ約2.5m・横約3m)は城内で最大
真田信之が松代へ転封に当たって父の形見に持ち運ぼうとしたが、
大勢の人の力をもってしてもびくとも動かなかったと伝えられる。
櫓門の左側にあるのは角櫓(南櫓)だ。
城内の真田神社には、
真田幸村公が祀られている。
真田神社の左奥に城内唯一の大井戸、真田井戸がある。
この井戸から抜け穴があり、城の北方、太郎山麓や藩主居館跡に通じていたとの伝説もある。
本丸隅櫓(西櫓)
西櫓から上田城址公園を見下ろす。
西櫓横を通り尼ヶ淵へ。
尼ヶ淵
上田城址公園から西櫓を見上げると、その守りの堅さが実感できる。
江戸時代には、ここを千曲川の分流が流れていたため、その防御は強固になった。
崖の高さは12m余あり、上田泥流層の垂直な崖がさらに敵の侵入を難しくした。(説明板)
角櫓(南櫓)下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれている。
中断石垣は、長雨で一部崩落したことから、修復工事を実施した。
中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣がなかった部分であることから、
原形に基づきモルタルで修復している。(説明板)
尼ヶ淵の遊歩道を通って二の丸の堀跡へ。
堀は、二の丸を鈎の手に囲んでおり、その延長は約646間(1,163m)あり、上田城の堅い守りに役立っていた。
その後、昭和3年5月に上田温電北東線が開通し、ここを電車が走っていた。
昭和47年2月に電車は廃止され、現在に至っている、とのこと。
『へぇ~っ ここを電車が走ってたんだぁ』
平和の鐘建設の由来
時の鐘の歴史は、延宝五年(1677年)、時を知らせる鐘として上田城下の住民の親しまれ、
日常生活に欠かすことができなかった。
以来二百数十年の長い間、正しい時を知らせ続けてきたが、大正14年サイレンに代った。
鐘の位置も幾度か変わり、昭和9年に上田城跡のこの場に落ち着いた。
昭和18年大東亜戦争が悪化するに伴い、軍に徴発され、姿を消して鐘楼のみが風雪に耐えていた。
この歴史的遺産をなんとか復元しようと、昭和47年上田市自治会連合会に復元運動が起り、
「平和の鐘」と改め、30年振りに昔の姿に再現された。
再び悲惨な事の起らないよう、市民の平和の願いがこの鐘に込められている。
昭和48年吉日 上田市
17時40分、お腹も空いてきたので上田市内へ。
「真田丸大河ドラマ館」前の屋台は、既に閉まって人影はまばら。
ホテルで紹介された焼きとりの「千串屋」
『かんぱ~いっ』 『今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『明日も頑張って歩きましょう!!』
「旧街道を歩く」北国街道小諸宿~上田宿間(初日)を無事歩き終えた。
当初予定していた田中宿までを急遽海野宿までに変更し、その分距離が長くなったため、正直疲れた。
「旧街道を歩く」もいよいよ明日最終回を迎える。
皆さんと揃って、元気に上田宿へゴールインしたい。
この日の万歩計は、33,000歩を超えていた。
30,000歩を超えたのは、昨年(2015)5月25日の中山道(軽井沢宿~坂本宿)以来である。
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