ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

世界文化遺産 嚴島神社(安芸の宮島)

2012年08月08日 | ウマさんのキャンピングカードライブ
2012年8月8日(水)


世界遺産 「嚴島神社」(安芸の宮島)へ行ってきた。
広島市の南西、嚴島(宮島)に北西の海に面して鎮座する嚴島神社は、
全国に約500社ある嚴島神社の総本社である。
平成八年(1996)12月、ユネスコの世界文化遺産に「嚴島神社」として登録されている。
嚴島は俗に「安芸の宮島」と呼ばれ、日本三景の一つとなっている。


フェリーターミナル
雅楽の舞いの像が厳島神社を強く印象づける。


宮島へのフェリーはJR西日本と宮島松大汽船の二つがある。
料金はどちらも片道170円、往復340円である。
JR西日本がたまたま出航間近だったので、そちらを利用した。


JR西日本宮島フェリー「みやじま丸」


宮島に近づくにつれ、次第に鳥居が大きくはっきりと見えるようになってきた。


フェリーが大鳥居の近くで大きく旋回する。
大鳥居に接近して途中で角度を変えて見せるのもサービスの一つなのだろう。


豊国神社(千畳閣)の五重塔が見える。


島に上陸すると、先ず目に付くのが鹿である。
人に馴れていて、近寄っても逃げないし、鹿の方から近寄ってくる。


嚴島神社への通り道(行き帰り)は、アーケードの商店街を通るように造られている。
なかなかの賑わいである。


特大杓子(しゃくし
その由来は以下のように説明されている。
江戸時代の寛政年間(1789~1800)、宮島の「時寺」に誓真という僧がおられ、ある夜弁財天の夢を見、
その手にされた琵琶の形の美しさを杓子に写し、それを作ることを島の人に教えたことが始まりと云われている。
飯とる・すくい取ることから、幸運・福運・勝運をすくいとる祈願杓子としても縁起の良いものとされている。


沖合を見ると、手漕ぎ舟の一行が嚴島神社を目指していた。
全員編み笠を被っているのが良い。手漕ぎ舟によく似合う。


ほどなく大鳥居の下に到着していた。
大鳥居を真下から見る気分はさぞかし壮快だろう。


嚴島神社全景


我々も嚴島神社へ向かった。
嚴島神社の参拝入口。


「世界遺産」の字が誇らしい。
平成八年(1996)12月、広島の原爆ドームとともに世界文化遺産に登録された。


嚴島神社の景色(1)
ちょうど満潮で、運良く神社全体が潮に浸っているのを見ることができた。


嚴島神社の景色(2)
廻廊


嚴島神社の景色(3)


嚴島神社の景色(4)


嚴島神社の景色(5)
豊国神社の五重塔が見える。


チヌが悠然と泳いでいるではないか。
ちょっと分かりづらいかもしれないが、40Cmほどのチヌである。
何組かのペアが確認できた。潮が満ちてくると、神社の近くまで寄ってくるのだ。


嚴島神社の景色(6)
平安時代の舞楽が舞われる舞台。
舞楽とは、雅楽による舞踊のことで、陵王・振鉾・万歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など二十数曲が、
今なお嚴島神社で舞われるそうである。


嚴島神社の景色(7)
海側から舞台・本殿を見たところ。


嚴島神社の景色(8)
本殿


嚴島神社の景色(9)
廻廊


厳島神社の景色(10)
日本で唯一海中に建てられている能舞台というのが、特徴である。
切妻造・桧皮葺の造りは国重要文化財に指定されている。


嚴島神社の景色(11)
太鼓橋は、長さ21m、幅4m、高欄は丹塗り・橋脚は墨塗り。
別名、勅使橋とも云い天皇からの使者(勅使)だけがこの橋を渡ることができた。
鎌倉期に既にあったが、現在のものは弘治三年(1557)毛利元就・隆元父子により再建されたもの。


嚴島神社の景色(12)
嚴島神社の出口


千畳閣の五重塔
やはり宮島には朱塗りの塔が映える。


千畳閣(豊国神社とよくにじんじゃ
天正十五年(1587)、豊臣秀吉が戦で亡くなった者への供養として毎月一度千部経を読誦するため
政僧・安国寺恵瓊に建立を命じた大経堂(読経所)である。
桃山時代の豪放なもので、秀吉公の気風をよく現した建物であるが、途中で秀吉公が逝去したため、
未完成となって現在に至っている。
明治時代に秀吉公と加藤清正公が祀られ、豊国神社となっている。


畳857枚分の広さがあることから千畳閣と呼ばれてきた。
千畳閣の内部は桁行41m、梁間22mと広く、豪快な太い柱で支えられている。


天井には奉納されたたくさんの絵馬が飾られていた。
江戸時代、既にここは交流の場・納涼の場として人々に親しまれていたようだ。


暑さ凌ぎに休憩している姿が見える。
海からの風が心地良い。
しばらく休んで行きたいが、かみさんを待たせているのでそうもいかない。


千畳閣の隣に建つ五重塔
応永十四年(1407)に建立されたものと伝えられている。
五重塔の高さは27.6m、和様と唐様を巧みに調和させた建築様式で、桧皮葺の屋根と朱塗りの柱や垂木の
コントラストが美しい塔である。


かみさんと商店街で落ち合い、土産物店で一休み。
かき氷(いちごミルク)が冷たくて美味しかった。
かき氷を買ってまで食べたことなど最近では殆どないが、この時は何故か妙に食べたくなった。


温かいもみじ饅頭もなかなか美味しかった。
甘いものが欲しくなったのは、暑さで疲れていたからなのだろうと思う。


帰りの舟から見た大鳥居は夕日を受けて輝いていた。


既に16時20分を過ぎていたが、フェリーはまだ頻繁に宮島に向かっていた。


JR宮島口駅


この辺りの瀬戸内海一帯は穴子がたくさん採れるのだろう。
あちこちで「穴子めし」が売られていた。
駅前の穴子飯の専門店で一つ(1,470円)買ってみた。


この後、温泉付道の駅「スパ羅漢」に向い、汗を流してさっぱり。
夕食には穴子飯(穴子弁当)を食べた。


味は香ばしくてとても美味しかった。
かみさんと半分づつだったが、十分な量だった。
二つ買っていたら食べ残すところだ。



明日は、広島城に登城することにしたい。
広島記念公園にも寄ってみたい。


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日本100名城巡り No.74 岩国城

2012年08月08日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月8日(水)


この日は朝から岩国城を訪問した。

関ヶ原の役の後、吉川広家は出雲の国富田城より岩国3万石(のち6万石)に転封された。
慶長五年(1600)岩国に移った吉川広家は、要衝の地横山の山頂に要害を、山麓に居館を築くことにし、
慶長八年(1603)に起工し、同十三年(1608)に竣工した。
しかし、完成して僅か7年後の元和元年(1615)徳川幕府の「一国一城令」により、山上の要害は廃城となり、
以後山麓の居館で藩政が行われた。

現在の天守閣は、昭和三十七年(1962)錦帯橋付近からの景観を考え、旧天守台から南へ50m、
古地図をもとに再建されたものである。


吉香公園きっこうこうえん
一帯は江戸時代初期から明治初年まで、吉川藩の武家屋敷が軒を連ねていたところで、
旧制岩国中学校の跡地である。
正面にロープウェイ山頂駅が見える。


吉香公園の入口に吉川広嘉(きっかわひろよし)像が建てられている。
吉川広嘉は、江戸時代前期の毛利家家臣で、周防岩国領の第3代領主。
延宝元年(1673)同二年(1674)と連年錦川に架橋工事を行い、現在の形の錦帯橋を架橋した。


吉香公園は、藩主吉川氏の居館跡を公園化したもので、樹齢100年を超す大樹が多い。


吉香公園の一角に佐々木小次郎像があった。
佐々木小次郎は、周防の国の岩国出身とされている。
吉川栄治氏の小説「宮本武蔵」の一節が刻まれていた。
祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名は小次郎と親からもらい、また剣名を”巌流”とも呼ぶ人間は、
かくいう私であるが・・・



目加田家住宅の入口
岩国藩の家臣、目加田家の住居。


目加田家住宅内部
中級武家屋敷の様式を残している。
国の重要文化財に指定されている。


岩国といえば錦帯橋である。
錦帯橋入橋料と岩国城入城料、それにロープウエイ往復料のセットチケット(930円)を購入し、
先ずは錦帯橋を渡ってみる。


錦帯橋


錦帯橋から岩国城を見上げる。
岩国城は錦川にかかる錦帯橋とともに、岩国観光のメインの一つになっている。


錦帯橋から岩国城を動画で見てみよう。


錦川


鮎がたくさん泳いでいた。釣り師の姿も。


錦帯橋
5連のアーチは日本三名橋の一つと云われる。
全長193.3m、幅員5.0mで、組木の技術によって造られている。


ロープウェイに乗って横山山頂の岩国城を目指す。
正面の建物は岩国美術館だ。


ロープウェイからの眺望。
吉香公園、錦川、錦帯橋、岩国市街地が一望である。


錦帯橋


数分で山頂駅に到着する。
山頂駅から道は二手に分かれる。
右手の山道を選択した。


山道といっても平坦に近い道である。
やや狭いが歩き易い。


しばらく行くと、左手に石垣が見える。
二の丸の石垣らしい。


二の丸跡には、築城当時の石垣がそのまま残っている。


二の丸出丸跡の石垣だ。塀もあるが、これは修復したものであろう。


案内図


左手に出丸跡がある。
石垣造りに使ったものなのか、大きな石がそのままになっている。


最期の階段を上ると冠木門形式の大手門がある。


大手門を入ると二の丸広場になっており、長さ110m、幅50m余りの広さである。
写真は二の丸の左側をみたところ。東屋などがあり、公園になっている。


大手門の右側に岩国城の天守閣がそびえる。
岩国城天守閣は、吉川広家によって慶長十三年(1608)本丸北隅の山陽道が眼下に見える場所に築城され、
桃山風南蛮造り、三層四階に物見を置く形式であったが、元和元年(1615)江戸幕府の一国一城令で破却された。


岩国城
現在の天守閣は、昭和三十七年(1962)錦帯橋付近からの景観を考え、旧天守台から南へ50m、古地図をもとに
再建されたものである。


岩国城
岩国城は六階と四階がそれぞれ下階より張り出した形になっている。
当時この天守を「唐造り」と呼んでいた。
最上階(望楼)を「唐造り」とした城には、小倉城、高松城があるが、
さらにその下階まで「唐造り」を取り入れている城は岩国城だけである。
岩国城の姿の美しさは、この「唐造り」にあるといえる。(説明板より)


岩国は日本三名橋の錦帯橋があるということから、
全国の珍しい橋の写真が展示されているのがひと際目を引いた。


そのほか城内には名刀や


火縄銃などが展示されていた。


全国の名城と刀も展示されていた。


天守閣最上階の物見からは眼下の錦川、錦帯橋、瀬戸内海の島々の展望が素晴らしい。
城のある横山の三方を錦川が流れ、天然の外堀となっている。


城山山頂から望む錦帯橋


旧天守台は、発掘調査の結果往時の姿が相当残っていたため、石垣のみが
慶長十三年(1608)築城当時のものに復元された。


石垣は穴太積(あのうづみ)(穴太衆と地元石組集団の割普請)となっている。
隅石には算木積の技術が取り入れられ、反りはなく安全性に重点が置かれた造りで、
戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる。


旧天守台から見た岩国城の雄姿。


二の丸広場から大釣井方面への下り道。


大釣井
慶長十三年(1608)山頂の要害築城時に造られたもので、この付近は「水の手」と呼ばれ、
城の水場として重要な場所で、峪筋下方には「小釣井」が設けられていた。
また、非常時の武器弾薬等の収納をはかるとともに、敵に包囲されたり、落城の危機にさらされたりした場合の
脱出口を備えた井戸であったとも伝えられている。


こちらの道は舗装されている。


ロープウェイ山頂駅から見た岩国城城下町


ロープウェイ山麓駅の真ん前に「白蛇」観覧所があった。
今から40年近く前のことだが、現役時代勤めていた会社の同僚が岩国の出身で、
実家が酒造家で”白蛇”という銘柄の酒を醸造していた。
彼が帰省の折などに土産として譲って貰って飲んでいたものだが、お世辞抜きでこれが実に美味かった。
理由のほどは定かではないが、”白蛇”はその後造られなくなった。
しかし、今では”錦の誉”や”雁木”という銘柄のお酒を暑中見舞いやお歳暮の度に欠かさずに注文している。
味は”白蛇”に勝るとも劣らない。


「シロヘビ」(白蛇)が気になり、覗いてみることにした。
入場料100円を払い中へ入る。


本当に真っ白な蛇である。体長1,5mほどはあるだろうか。
日本の固有種であるアオダイショウの白色変種で、岩国市の限られた地域にだけ生息している、
世界的にも珍しい蛇、とのこと。


蛇の白色変種が、遺伝的にも安定した形質を維持して集中的に生息している例は、
世界的に見ても他に例のないもの、だそうである。


シロヘビが白いのは、身体の表面にあるメラニンという褐色の色素をつくることができないからで、
このような白化個体のことをアルビノという、そうである。
「岩国のシロヘビ」は国の天然記念物に指定されている。


生まれて間もないシロヘビの赤ちゃんだ。
「岩国のシロヘビ」は順調に増えており、今では1,000匹近くになっている、とのことである。


錦帯橋、岩国城、シロヘビを見たことで大いに満足な気分になった。
岩国城を後にし、次の目的地「厳島神社」に向って車を走らせた。


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一度は見ておきたい名園 毛利氏庭園

2012年08月07日 | ウマさんのキャンピングカードライブ
2012年8月7日(火)


山口市の瑠璃光寺の次に向ったのが防府市にある、毛利氏庭園である。

毛利氏庭園は、旧防長藩主毛利氏が大正五年(1916)に完成させたもので、自然の美を配した豪壮な館と庭園である。
本邸は、明治・大正時代の建築技術の粋を集め、江戸期御殿造りの様式を採用した壮大美麗な殿堂である。
邸内の毛利博物館には、国宝・重文等重要な宝物を収蔵・展示している。(案内板より)

駐車場に車(キャンピングカー)を停めて、毛利氏庭園入口に向かった。
車が楽に通れる舗装された道が続くが、歩いて行くよう案内されている。
じりじりと照りつける太陽が憎らしいほど暑かった。


200mほど進むと、城のような大きな門があったのに驚かされる。
毛利氏庭園の入口である。


入口を過ぎると、またしばらく大きな道が続く。
いったいどこが本当の入口なのだろうと思わせられる広さである。


途中に案内図があった。
中は博物館(赤の部分)と庭園(緑の部分)がある。


結局、駐車場から10分余りでようやく博物館・庭園入口に到着した。
正面のロータリーの木の向こうが博物館である。庭園はその右側だ。


券売所では、庭園と博物館の共通券が1,000円ということで売られていた。
庭園(400円)だけでもと思ったが、かみさんが『せっかく来たのだから』、と言いだして聞かない。
結局両方見ることにした。


先ず、毛利氏博物館へ入る。
毛利邸は、明治維新後、旧長州藩主毛利家の本拠に相応しいところとして、
維新の元勲井上馨公に奔走によりこの地が選定され、建設された。
建物及び庭園は、明治・大正時代の技術の粋を集め、自然の美に人口の妙を尽くした壮大華麗なもので、
明治二十五年(1892)に着工、大正五年(1916)7月に完成したものである。(案内板より)


博物館正面玄関


玄関を上がると、毛利家の家紋が目に付いた。
本家と徳山・長府・清末各毛利家の家紋は微妙に異なる。


本邸1階の様子


本邸1階の様子
室内は絨毯が敷かれている。
豪華な造りである。


中庭の様子


本邸1階の様子
畳張りの廊下が長い。


本邸1階の室内の様子


「百万一心」の書が掛けられていた。
毛利元就の居城、安芸高田氏の郡山城で見たばかりなので記憶に新しい。
郡山城築城の際に元就が、人柱に代えて「一日一力一心」と彫った石を埋めさせると工事がうまくいったという伝説に因み、
日を一にして、力を一にし、心を一にする、という協同一致の精神を示したものである。


2階に上がってみる。


2階も1階と同様に広い。


2階の毛利庭園側の廊下


2階から毛利庭園の一部を見たところ。


2階の部屋の様子
書院造りの右の掛け軸には、狩野栄川かのうえいせん)筆の「鶴亀図」(複製)が掛かっている。


中庭を見降ろしたところ。
河原屋根の部分が博物館になっている。


再び1階に戻る。
この部屋は、大正五年十一月に大正天皇、大正十一年三月には貞明皇太后
昭和二十二年十二月に昭和天皇、昭和三十一年四月には昭和天皇・皇太后がお泊りになった部屋とある。
天皇家専用の部屋であった。


博物館に入る前の廊下に毛利家の歴史が図入りで分かり易く展示されている。
これは、元就と「三矢の訓」(みつやのおしえ
元就が長男毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景に宛てた書状で、三人兄弟が一致団結して
毛利家を守るように諭している。
この教訓状は、元就の遺訓として、毛利家に代々受け継がれていく。(説明より)
これより中(博物館内部)は撮影禁止となっている。


博物館に続いて、庭園を見て回ることにした。
庭園の入口


庭園から本邸(博物館)を見たところ。


庭園の景色(1)


庭園の景色(2)


庭園の景色(3)


庭園の景色(4)


庭園の景色(5)


庭園の景色(6)


庭園の景色(7)


庭園の景色(8)


庭園の景色(9)


うだるような暑さの中、駆け足で毛利博物館と庭園を見て回ったが、特に庭園の美しさは
言葉に言い表せないほど素晴らしいものであった。
どこを切り取ってみても”見事”の一言に尽きるのではないだろうか。
これまで、本間家別荘庭園(酒田市)、栗林公園(高松市)、中津万象園(丸亀市)などいくつかの庭園を見てきたが、
恐らく最高の庭園(個人の意見として)だと思う。
防府を訪れる機会があったら、是非一度ご覧になって欲しいものである。


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国宝五重塔と毛利氏墓所 瑠璃光寺

2012年08月07日 | ウマさんのキャンピングカードライブ
2012年8月7日(火)


朝早く萩を出発し、秋吉台を歩いたので少し疲れたが、
岩国城への途中、山口市の瑠璃光寺、そして防府市の毛利氏庭園を見ることにした。
こうした場所の選定は、かみさんに任せているため、自分としては車を運転するだけである。

瑠璃光寺は、陶弘房(すえひろふさ)の菩提寺で、本尊は陶弘房念持佛の薬師如来である。
曹洞宗の寺院で、山号は保寧山(ほねいさん
日本三名塔のひとつに数えられる国宝瑠璃光寺五重塔があるところだ。
国宝の五重塔を中心として、境内は香山公園と呼ばれ、桜や梅の名所にもなっている。
大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、「西の京・山口」を代表する観光名所となっている。

瑠璃光寺(香山公園)の入口
瑠璃光寺は、大内氏の重臣陶弘房の夫人が応仁の乱で戦死した夫の菩提を弔うため、
文明三年(1471)に仁保に創建した寺で、元禄三年(1690)にこの地に移された。


香山公園
国宝の瑠璃光寺五重塔を中心として、境内は香山公園と呼ばれ、桜や梅の名所にもなっている。
「日本の歴史公園百選」に選定されている。


瑠璃光寺五重塔
室町時代、大内氏25代・大内義弘が現在の場所に香積寺を建立。
しかし義弘は、応永六年(1399)に応永の乱を起こし足利義満に敗れて戦死。
義弘の弟である26代・大内盛見(もりはる)が兄義弘を弔うためここに五重塔の建設を開始するが、
盛見自身も九州の少弐氏・大友氏との戦いで永享三年(1431)に戦死。
五重塔はその後嘉吉二年(1442)頃に完成した。


こちらは、”満月の庭”から見た五重塔。
高さは31.2m、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)で総檜造り。
大内文化の最高傑作と云われ、日本三名塔に数えられている。


瑠璃光寺の山門
「保寧山」と書かれた山門から、寺の中に入る。


右手の鐘楼下の長い廊下を進む。


長寿薬師如来堂がある。


長寿薬師如来堂のお参りは、写真のように数珠玉が連なっており、
ゆっくりと手前に引いて数珠玉を8個落すと、煩悩を払うことができる、とされている。
数珠玉が滑車から落ちて手前の玉とぶつかる時に”カチッ””カチッ”と音を立てるのが、興味深い。


本尊は長寿薬師如来である。
左奥に高祖承陽大師(曹洞宗開祖道元禅師)の像が鎮座している。


長寿薬師如来の先に瑠璃光寺本堂がある。
瑠璃光寺は曹洞宗の寺院で、山号は保寧山(ほねいさん)。


本堂内部
ご本尊は薬師如来である。


本堂の内側から山門、鐘楼を見たところ。


瑠璃光寺の山門左正面辺りに大内広世公の馬上姿像がある。
大内広世は、周防・長門・石見の守護で、本拠を大内館から山口へ移転した。
山口で京都に倣った都市計画に基づく市街整備を行い、後の大内文化に繋がる基礎を築いた人物。
大内弘幸の子で義弘、満弘、盛見、弘茂らの父にあたる。


毛利氏の墓所は、大内弘世公像から歩いて数分のところにある。
うぐいす張りの石畳
この位置に立って、手を叩いたり、足を強く踏むと、その音が反響する仕組みになっている。
人為的に造られた物ではなく、前方の石垣や石段等に反響して美しい音色を出すものと思われる。
石畳の奥が毛利家墓所となっている。


香山墓地
山林を背にして広大な地に整然と配置され、その規模の大きいことと荘厳さといい近世墓所の代表的なものである。
昭和五十六年(1981)国の史跡に指定されている。(案内板より)


この墓地は、萩藩主(毛利本家)の墓所で、13代敬親公が文久年間に居城を萩から山口に移し、
それ以降の墓地として使用するために造成されたものである。
毛利敬親・元徳・元昭の三公と各夫人及び毛利家歴代諸霊の七基の墓がある。


毛利家墓所は、土饅頭の前面に墓石を建てる形式となっている。


この後、観光センター前の蕎麦屋で昼食を摂り、防府市にある毛利氏庭園に向かった。

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歩いて実感&そして満足 秋吉台

2012年08月07日 | ウマさんのキャンピングカードライブ
2012年8月7日(火)


この日も朝から暑い。
今日は日本100名城巡りはお休みにし、山口県の観光地を巡ることにした。
朝、萩市内の道の駅「萩しーまーと」を出発し、先ず秋吉台へ向った。

秋芳洞には40年以上も前に一度訪れた記憶があるが、秋吉台はTVなどでしか見たことがない。
従って今回の目的は、広大な秋吉台をこの目で見渡してみたい、また、秋吉台を実際に歩いてみたい、のである。
それに相応しい場所を知っていれば問題ないのだが、この辺りの地理は全く不案内のため、
適当な場所を見つけることから始め、車を走らせた。

秋吉台は山口県美祢市中・東部に広がる日本最大のカルスト台地である。
台地面の標高は180〜420mで、北東方向に16Km、北西方向に6Km、
石灰岩の分布の総面積は93平方kmに及ぶ。(Wikipediaより)

秋吉台エリアに入ると、高原のあちこちに石灰岩が露出しているのが見えてきた。


道端に車を止めて見てみると、「地獄台」とあり、次のように書かれていた。
カルスト台地の上に突き出た石灰岩を石灰岩柱という。
この石灰岩が地獄の針の山のように見渡す限り見られることから「地獄台」と呼ばれる。


回りはご覧のような風景である。自分の目で見る初めての景色だ。
大部分が自然公園として国定公園に指定され、その中の一部(地獄台を含む秋吉台上1,384ha)が
国の特別天然記念物に指定されている、とのこと。


遠くから見えた展望台らしき場所へ車を走らせた。
思ったとおり近くに展望台があった。
写真は駐車場から見た景色で、草原に歩道のようなものが見える。


駐車場から数分のところに”カルスト展望台”があった。
約270度の展望が開ける。展望台からの景色はこのように見えるらしい。


実際に見てみると、広い草原のいたるところに石灰岩が顔を突き出している。
この草原の地下一帯が鍾乳洞になっているのだろうか?
素晴らしい眺望である。


草原には歩道があり、おおよその距離と時間が示されている。
”おすすめコース”を歩いてみることにしよう。
かみさんは、あまり乗り気ではない。




展望台にかみさんを待たせておいて、歩道へ向かった。


”カルスト展望台”を振り返ってみる。


歩道(妙見原)入り口


平たくなっているところが妙見原(みょうけんばら)のようである。


道はいったん下りになっている。


右手に大きな窪みがある。
直径数百m以上はあるだろう。案内にあった”ナガジャクリウバーレ”?
何万、何十万年もの時をかけて窪んでいったのだろう。
この下は鍾乳洞になっているのかもしれない。


下りを過ぎてしばらく坂道を上ると・・・


展望台方向を示す標識があった。


標識の方向を見ると、今歩いてきた道の先に展望台が見える。
左の建物は秋吉台科学博物館


展望台にはかなりの人が見える。
しかし、殆どの人は歩道を歩く気配はない。


妙見原(みょうけんばら


妙見原の秋吉台(特別天然記念物)の理由と名称についての説明板だ。


若竹山への案内標識にした従って、若竹山を目指す。


若竹山への道
遠くにポツンと一本の木が見える辺りが若竹山のようだ。


道端にはあちこちに岩(石灰岩)が突き出ている。


展望台を出発して15分が経過した頃に若竹山へ到着した。


昭和二十五年(1950)建立の若竹山の碑


「日本山脈縦走西日本起点」の碑が建てられている。


若竹山から展望台を望む。
右の建物は土産物店。


かさぎ山方面を見る。
森の中にホテルのような建物が見える。


剣山方面を見る。
写真中央に白く見えるのは、”平和と観光の塔”のようだ。


若竹山から動画で回りを見てみる。


若竹山から剣山までは、案内によると15分、往復だと30分かかることになる。
かみさんを一人で待たせておくのは申し訳ないので、ここ若竹山で引き返すことにした。

秋吉台は想像していた以上に広い。
たかだか1-2時間程度の滞在ではほんの一部しか見ることが出来なかったが、
実際にカルスト台地を歩く、という初期の目的を達成できて、満足している。
妙見原、若竹山を往復したが、暑いとはいえ一人も会わなかったのは、ちょっと寂しい気がした。
展望台からカルスト台地を眺めて、直ぐに引き返す観光客が圧倒的に多いようだ。
少し時間を取って自分の足で歩いてみてはいかがであろうか。


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