ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

念願の股のぞきから「伊根の舟屋」へ

2012年08月03日 | ウマさんのキャンピングカードライブ
2012年8月3日(金)


小谷城を後にし、天橋立へ急いだ。
今から10年前にも一度天橋立に行ったのだが、到着が遅くなってリフトに間に合わず、
股のぞき(飛龍観)が出来なかった、という苦い経験がある。
そのときは仕方なく直接天橋立の松林の中を少しばかり歩いて帰ったことが思い出される。

この日は、時間的には余裕があったが、今度は駐車場がままならない。
結局県道沿いの有料駐車場(1,000円)に止めざるを得なかった。

駐車場から北近畿タンゴ鉄道宮津線の線路を渡って直ぐのところにリフト・モノレール駅があった。


待つことなく直ぐに乗れので、リフトで上ることにした。
前の行くのはかみさんだ。


リフトから振り返ると、天橋立が美しい。(リフトのロープが少し邪魔だが)
左が阿蘇海で、右は宮津湾だ。


天橋立ビューランドに着くと展望図があった。
天橋立の股のぞきのことを「飛龍観」(ひりゅうかん)と言うらしい。
文政三年(1820)の難波の旅人の即興詩からとったものだそうだ。


「天橋立」の眺めは素晴らしい。さすが日本三景の一つだ。
対岸にケーブルカーが見える。


動画で見ると・・・


早速股のぞき(飛龍観)をしてみる。
逆さまなので、良いのか悪いのかよく分からない、というのが正直なところである。
まあ、それはともかく、念願が叶って一安心。


今度は二人で記念撮影だ。


宮津湾に真っ白な旅客船が浮かんでいる。
青い海に映える船体が美しい。


天橋立の景色に満足したところでリフトで降りる。



この後、あまり時間はなかったが、かみさんの強いリクエストで「伊根の舟屋」へ向かった。
場所ははっきり分からないが近くまで行けば何とかなるだろう。

伊根の舟屋(1)
伊根湾に入った辺りに小さな舟屋があった。


伊根の舟屋(2)


伊根の舟屋(3)
少し先へ行くと向こう岸にびっしりと舟屋が見えた。


伊根の舟屋(4)
伊根湾一帯が舟屋群になっている。


伊根の舟屋(5)
隙間なく舟屋が立ち並んでいる。壮観である。
直ぐ目の前が海だ。


伊根の舟屋(6)
伊根湾の一番奥に行くとTVなどで見た風景が広がっていた。


伊根の舟屋(7)
ここに住んでいる人はみな漁師なのだろうか? と思ってしまう。


動画で見るとこのような感じだ。


伊根の舟屋の街を歩いてみた。
通りを挟んで左側が海側である。
普通の商店なども見ることができる。
漁師だけではないようだ。


酒造家などもあった。


一杯飲りたいような、なかなか良い雰囲気である。
立寄って行きたいが、車の運転もあるのでそうはいかない。


家と家の間の細い道を抜けると海が目の前に広がっていた。
沖合にある”青島”が防波堤の役目をしてくれるので、大きな波は打ち寄せて来ないらしい。


それに日本海は干満の差が小さいので、このような海面すれすれに家を建てられるのだろう。


青サギ?が一羽じっとしていたのが印象的であった。


念願の天橋立の股のぞきを果たせ、またかみさんのたっての希望も叶えられて、良かった。
この後、天橋立に引き返し、駅前の「知恵の湯」で汗を流した。
その後は、天橋立から約80Kmほど離れた「竹田城」のある朝来市(あさごし)の
道の駅「但馬のまほろば」に向かった。


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日本100名城巡り No.49 小谷城

2012年08月03日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月3日(金)


8月のこの時期はウォーキングも”一時お休み”ということで、久しぶりに日本100名城巡りに出掛けた。
今回は主に中国地方の城を巡ることにした。
前日の夜土浦の家を出発し、東名道養老SAで一泊、この日は朝から小谷城を訪問した。
ご存じ昨年のNHK大河ドラマ「お江」生誕の地として紹介された城である。

小谷城は、北近江の戦国大名浅井氏3代の居城で、小谷山城とも呼ばれる。
標高299mの小谷山に築かれ、小谷山中腹の本丸部分と小谷山背後の標高495mの大嶽の部分からなっている。
城は大永四年(1524)近江守護京極氏の被官である浅井亮政(すけまさ)によって初めて築かれた。
以来、久政(ひさまさ)、長政(ながまさ)と居城した。
長政は織田信長の妹お市の方と結婚し、信長といったん手を結んだが、のち手を切り、
ついに天正元年(1573)信長の大軍に攻められ落城した。
その後一時羽柴秀吉が入城したが、長浜に移城して廃城となった。

7時50分、「戦国ガイドステーション三代の里」に到着した。
案内らしき資料を求めようとしたが、早すぎて閉まったままである。
100名城スタンプ設置場所である「戦国歴史資料館」も見当たらない。どうやら場所を間違ったようだ。


「戦国ガイドステーション三代の里」から少し離れた小さな尾根の反対側に「小谷城戦国歴史資料館」入口があった。


小谷城戦国歴史資料館
まだ8時ちょうどのため扉は閉まっている。開館は9時からとなっている。
スタンプは下山してからにしよう。


小谷城の曲輪の配置と登山コースが示された案内板があった。
清水谷~大嶽~山崎丸経由で資料館まで4.9Kmとある。
自分は適度な距離と判断したが、かみさんはあまり乗り気ではない。途中で引き返すつもりらしい。
とにかく行って見よう!!


小谷城戦国歴史資料館前の駐車場横に「大手門」があった。
ここがハイキングコースの入口だ。


真直ぐに伸びた細い道「追手道」を進む。


山に入る手前に磯野屋敷跡(石の碑)があった。
磯野丹波守員昌は、猛将として知られる浅井家重臣で、佐和山城主。
元亀元年(1570)姉川の合戦では浅井隊の先陣を務め、織田信長隊の十三段構えの陣形のうち十一段まで突き破り、
信長の本陣まだあと一歩と迫ったが、朝倉隊に勝利した徳川隊に横槍を入れられ敗退、佐和山城へ引き上げた。
翌元亀二年織田軍の猛攻を受け、小谷城とも孤立し、和議を結び佐和山城を明け渡した、と案内されている。


磯野屋敷跡を過ぎるといよいよ登山の開始となる。
薄暗い林の中を上って行く。


7-8分ほど上ると、舗装された道路に出た。
番所跡まで1.2Kmとある。


道路を少し下ったところに出丸跡があった。


出丸は一段小高いところに設けられていた。


出丸跡
小谷山の主部尾根の最先端にある曲輪で、独立した砦だ。
上下二段の曲輪と土塁からなっている。


小谷城を守る最前線の砦で城下を見降ろすように設けられている。
出丸の直ぐ下に「戦国ガイドステーション三代の里」が見える。


登山道路に戻り、標識に従って番所・本丸跡を目指す。


この辺りは急な坂道になっていて、結構きつい。
この日は朝から30度を超える暑さで、全身から汗が噴き出して来る。
500mlのペットボトル2本が瞬く間に空になった。


山道の一角に「間柄峠址」と書かれた碑と案内板があった。
案内板によると、
大永五年(1525)七月、江南の六角高頼が小谷城初代城主浅井亮政を攻めた時、それを助けるため
越前より朝倉金吾教景と先鋒の眞柄備中守が来援した。
越前軍が布陣した地を、それぞれ金吾丸、眞柄峠と称するが、地元では古くから「間柄峠」として伝わる、とある。
間柄峠とあるが、峠ではなく登山道の途中といった感じだ。


さらに上ると望笙峠(ぼうしょうとうげ)に到着した。


望笙峠からの眺望
琵琶湖に浮かぶ竹生島が見える。
左手前は織田信長が小谷城攻めの拠点として陣を構えた虎御前山である。


望笙峠から長浜市街地を望む。


山頂まで2.0Km地点
少し緩やかになったが、まだまだ上りは続く。
暑い時期の山城ハイクは堪える。良い運動ではあるが・・・


周囲には蝉の声がこだまする。
余計に暑さを感じる。


右の階段の先が越前軍が布陣した金吾丸跡だ。
左側は平坦だが、ここは当然金吾丸を選択するしかない。


8分ほど上り、金吾丸跡に到着した。
4段の曲輪と土塁からなる、平らな場所である。
浅井亮政を助けるため越前より朝倉金吾教景と先鋒の眞柄備中守が来援し、布陣したとされる場所である。
かみさんは、次第にへばってきた様子だ。
『ここで引き返したい』と言い出し始めたが、なんとか本丸まで一緒に行くよう説得。


金吾丸を下ったところの裏手に「番所跡」があった。


小谷城の主要部への入口に位置し、通常「番所」があったところと云われる。
遠方からは見えず、間道もここに集まる要所に位置する登城者の検問所である。


一段と広くなっている。
いくつかの曲輪で構成される。ここから本格的な城郭になる。


番所跡からの眺望


番所跡を示す標識の横に”熊出没”の物騒な看板が。
この時は大して気にせずに、次の御茶屋跡を目指した。


次第に標高が高くなり、見晴しもなかなかのものになってきた。
正面に見える小高い山が信長が小谷城攻めの拠点とした虎御前山である。


眼下には小谷城戦国歴史資料館が見える。


番所跡から10分ほど上ると御茶屋跡だ。
小谷城主要部最先端の曲輪である。
御茶屋と風雅な名で呼ばれているが、立派な軍事施設である。


御茶屋跡の上段に御馬屋と馬洗池がある。


馬洗池は湧水ではないが、往時は年中水が絶えなかったそうだ。
南北9m、東西6.6mの石積みの池だ。
よく見ると、今でも水が溜まっていた。


御馬屋跡
三方を高い土塁で囲まれた曲輪で、本丸の前面にあり、本丸を守るための曲輪である。


御馬屋跡からの眺望


御馬屋跡から少し上ると、首据石なるものがある。
天文二年(1533)六角氏との合戦の際、京極氏の重臣今井秀信が敵方に内通したことで
神照寺で打ち首にし、その首をこの石の上に置き見せしめにしたと云われている。


赤尾屋敷跡への分岐
ここから160m先とのことなので、行ってみることに。


分岐点から数分ほど入って行くと、浅井長政の重臣赤尾清綱の屋敷跡があった。
家臣の屋敷では最も本丸に近く、長政最期の地となった。


浅井長政自刃の地
ドラマなどでは小谷城の本丸で自刃する場面が描かれているが、実際には赤尾屋敷で自刃したとのこと。
天正元年(1573)9月1日、黒金門から討って出た長政は信長の兵に攻められ、本丸に帰る事が出来ず、
やむなく重臣赤尾美作守の屋敷に入り自刃した。享年29歳であった。


桜馬場跡
御馬屋跡の上、本丸黒金門の南に位置した曲輪である。


桜馬場跡には、”浅井氏及家臣供養”の碑が静かに佇んでいた。


桜馬場跡はNHK大河ドラマ「お江」の撮影が行われた場所でもある。


撮影したと思えるところから琵琶湖方面を望む。
桜馬場跡西側の細長い曲輪の南西端は、信長の本陣があった虎御前山を見張る最適の地でもあった。


中央のやや低い細長く突き出た山が「姉川の合戦」を前に浅井・朝倉軍が軍議を開いた大依山のようだ。


動画で見てみる。


黒金御門(くろがねごもん)跡
城の主要部の表門で大広間・本丸に通じる。
「黒金門」と呼ばれているのは、鉄を打ちつけた門であったと考えられている。


黒金門の左、大広間手前に「小谷城址」の碑が建てられていた。


本丸広場。通称「大広間跡」
別名「千畳敷」と呼ばれ、長さ約85m、幅約35m。
お江が生まれたとされる曲輪跡だ。


ここで、山頂方向から腰に鈴を付けた地元の人と思しき人とばったり。
大嶽から山崎丸を目指したいことを伝えると、山崎丸辺りは熊の巣があるらしく、今は子育ての時期なので、
行かない方が無難とのこと。
実際、『昨年、8月20日頃に熊に出くわして怖い思いをした』そうで、以来山崎丸方面には怖くて行けないとのこと。
それを聴いていたかみさんは、『ここで引き返したい』と言い出した。
なんとか本丸までは行ってもいいが、そこからは引き返したいの一点張りである。


本丸
案内板には、
「鐘の丸」ともいう石垣をめぐらした約12mの高所に、約30mに約25mの広さをもつ。
落城寸前まで城主長政が居住していた処である。
彦根城西の丸三重櫓は元小谷城天守と伝える、と書かれている。


本丸跡は木々が生い茂っていた。


本丸跡から大広間跡を望む。


「大手門」からここまで約1時間30分の道のりだ。思った以上に時間がかかっている。
この分では京極丸・山王丸などを経由して、大嶽から山崎丸に至るにはまだ相当な時間が見込まれる。
山崎丸には熊もいるらしいので、大嶽へ行って引き返すにも、かみさんを一人残して行くわけにもいかない。
残念だが、やむなくここで引き返すことにした。

番所跡から金吾丸跡へ通じる道とは別の道(右)を下る。


途中、振り返ると大嶽(495m)らしき山が見えた。
いつかまた来るときがあるかなぁ???


石ころの道を汗をかきながら下る。


10時30分、ようやく登山口まで下りてきた。


この後、100名城のスタンプを押し、次の目的地天橋立に向かった。
明日は、竹田城を目指すことにする。


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