ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.66 津和野城

2012年08月05日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月5日(日)


午前中の郡山城に続いて、津和野城に登城した。
津和野城は、津和野城は、津和野盆地を見下ろす城山山頂部(367m)に築かれている。

津和野城は鎌倉末期の永仁三年(1295)、西石見の地頭職を与えられた吉見頼行が築城し、戦国期まで13代居城。
関ヶ原の戦い後の慶長五年(1600)、坂崎出羽守直盛が入り、城の大改築を行ったが、千姫奪還事件(1616)
を起こして切腹。
その後を受けて元和三年(1617)、亀井政矩が4万3千石で入城し、明治維新まで十一代続いて累代の居城とした。
城は津和野川西岸の標高367mの山上に本丸、二の丸、三の丸を設ける典型的な山城で、山麓に藩邸があった。
城跡は国指定史跡となっている。

津和野城は山の頂上にあるため、登城するには、自力で歩いて上るかリフトを利用することになる。
ここはリフトに乗って(往復450円)楽をしよう。
リフト駅前の駐車場に津和野城の標識があった。


リフト駅に向かう。


リフト駅に津和野城の縄張りが表示されていたが、詳しくは分からない。


より詳細な縄張りは以下のように配置されている。


15時15分、リフトは16時30分までの運転とのこと。あと1時間15分しかない。
かみさんは明日ゆっくりと見た方が良いとの意見だが、少し急げば何とかなるだろう。
ということでリフトに乗ることにした。


6分ほどで山頂駅に到着。
雨がパラパラと降りだしてきた。あいにく傘は持ってこなかった。
小雨の中、時間がないので急ぎ足で本丸を目指した。


5分ほどで、出丸の案内板があった。
かみさんは出丸は興味がないのか、先に行ってしまった。
仕方がないのでここは一人で行くしかない。


少し上ると出丸の石垣があった。


なかなか立派な石垣である。
出丸は本城を守るための戦略上、防塁としての役割は重要であった。
戦国時代には鉄砲に頼る実践的な戦術が進んでいたため、この場所を強化する必要があった。


出丸の上部は平坦になっている。
広さは東西約18m、南北44.5mあるそうだ。


出丸の案内板が建っていた。
出丸は坂崎直盛の弟である浮田織部が普請したことから織部丸ともいう。


津和野の町並みが一望できる(ちょっと木が邪魔をしているが)
形の整った青野山(906m)が印象的だ。


津和野の町並み


ちょうどSLやまぐち号が力強く走っていくところだった。
津和野15時20分発の新山口行きだ。


SLやまぐち号を写真に納め、山道を走ってかみさんの後を追いかけた。


一段下ったところに「史跡津和野城址」と刻まれた碑と説明板があった。
説明板によると、
当城跡は、初め一本松城といい、のち三本松城と改めた、全国でも有数の山城跡である。
築城は弘安の頃この地の地頭として鎌倉幕府から補任された吉見三河守頼行の永仁三年(1295)に始まり、
二代頼直の正中元年(1325)に完成したと伝えるが、まだそのころには今のような構えではなかったろう。
(以下略)


ここを過ぎると急な上りになる。


息きって坂道を上り大手門(旧東門)に到着、ようやくかみさんに追いついた。


東門跡
坂崎氏以降亀井氏の代には大手門となっていた。


東門の下をくぐった先に石垣が三段になった三段櫓跡がある。


本来は三段櫓跡を通り抜けて本丸へ進むところだが、工事中のため東門の反対側へは梯子を上る必要がある。


東門跡から腰廓・二の丸の石垣を見たところ。
苔蒸した石垣が歴史を感じさせる。


馬立跡・台所跡
ここは本丸の西、津和野城の三の丸にあたる。
階段を上って左は馬立と云われ、乗馬を繋ぎとめておく所、右は三段櫓の最上部の建物へ繋がる。


馬立の奥には台所跡がある。


台所跡の奥には海老櫓跡があり、搦め手に直面する望楼であった。
石列による排水施設を見ることができる。


馬立跡・台所跡から本丸を望む。


馬立跡・台所跡をさらに三の丸方向に進むと右手に西櫓門跡がある。


西櫓門跡の先に人質櫓の石垣がそびえる。


三の丸から人質櫓の石垣を見たところ。
津和野城内で最も高い石垣である。


三の丸の先は南門櫓跡になっている。


南門櫓跡の外側から人質櫓跡・三十間台を見たところ。


天守台
かつては三層の天守があったが貞亨三年(1686)の雷火で焼失し、石垣のみが修築され天守は再建されていない。


天守台から一段高い三十間台を見上げる。
天守台は本丸最高所(三十間台)より一段下に位置している。


天守台から馬立跡・台所跡を見たところ


津和野城最高所の三十間台に到着した。
三十間台から青野山(906m)を望む。


三十間台
一間(1.8m)x 30間=54m?


動画で見ると・・・


三十間台から人質櫓跡、三の丸南門櫓跡を見たところ。


三十間台から太鼓門跡・太鼓丸を見たところ


太鼓丸
津和野城の北東に日本五大稲荷の一つと云われる太鼓谷稲荷神社があることから、この名前が付けられたと思う。


三十間台から津和野の町並みが見下ろせる。
津和野高校や津和野小学校のグラウンドが見える。


萩方面を見たところ。
津和野川に沿って県道13号線が走っている。


津和野の町から三十間台を見たところ。


リフト駅を目指して山道を急ぐ。


16時5分、リフト駅に到着。
最終時間に間に合ってホっと一息だ。
雨はすっかり止んでいた。


リフトから津和野の町を見たところ。
正面は青野山(906m)である。


この日は、朝から郡山城、続いて津和野城を駆け足で見て回ったため、やや疲れたというのが正直なところである。
この後、津和野の街外れにある道の駅「津和野温泉なごみの里」へ行き、ゆっくりと温泉に浸って疲れを落した。
明日は、津和野の街を散策し、萩城を目指すことにする。


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日本100名城巡り No.72 郡山城

2012年08月05日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月5日(日)


前夜は、神楽門前湯治村で汗を流し、道の駅北の関宿安芸高田で一泊。
この日は朝から郡山城に登城した。

郡山城は、戦国武将毛利元就の居城として知られる。
吉田盆地を見渡す可愛川(えのがわ)と多治比川(たじひがわ)の合流点の北側に築かれ、
東西1.1Km、南北0.9Kmの戦国期最大級の山城である。

館内に入ると先ず安芸高田市歴史民俗博物館に立ち寄った。
毛利氏や郡山城に関する貴重な資料が展示されているとのことだ。
日曜日の朝8時30分、開館前にも関わらず、快く中に入れて貰いスタンプを押すことができた。


先ず毛利元就公と甲冑が目に飛び込んでくる。
椅子に座って毛利元就と一緒に記念撮影ができる。


奥にはもう一つ別の甲冑が展示してあった。
手前の甲冑は毛利家の家紋付だ。


今は展示をゆっくり見ている時間はない。郡山城への登城が先である。
歴史民俗博物館前の郡山城登城モデルコースを見ると、ゆっくり歩いても2時間程度を見ておけば充分だろうと考え、
8時50分、猛暑の中スタートした。


博物館の人から郡山城址案内図を戴いたので、その地図を参考に歩くことにした。
なお、以下の文中の歴史的な文章は、郡山城址案内図の説明を一部参考にした。


博物館の直ぐ裏のところに登山用の竹の杖が置いてあった。


郡山城址の碑


毛利元就公像
この場所は元就晩年の御里屋敷との伝承がある。
三矢の訓跡碑(三本の矢)の伝説を記念した石碑もあったそうだが、見過ごしてしまった。


大通院谷遺跡
石垣、堀、建物の柱穴が出土したらしいが、今は公園となっている。


伝元就火葬場跡
元就は元亀二年(1571)六月十四日75歳で病没。
初七日の法会後に竹原妙法寺の住持、嘯岳鼎虎禅師(しょうがくていこぜんじ)を導師に火葬された。


大通院谷遺跡の公園の一角に郡山城の碑が建てられていた。


西谷地点石垣跡
この遺跡は郡山城跡の西谷に造られた郭群の一角にあたり、豪雨によって大きく崩落した。
復旧工事のため、発掘調査が行われた。
この石垣は保存処理され、そのままの形で見学が可能になっている。


毛利隆元の墓所
毛利隆元は元就の長男である。


毛利隆元の墓
元就の長男隆元は、父元就の出雲攻略を応援のため吉田を出発し、途中佐々部で和智誠春らの接待を受けて、
翌朝永禄六年(1563)八月四日に41歳で急死した。
元就は暗殺の疑いで和智誠春らを誅伐、もしくは切腹に追い込んだ。


毛利元就の墓地への参道入口に建てられている鳥居


鳥居をくぐるとしばらく参道が続く。


参道は次第に杉の木立が多くなる。


毛利元就の墓所に建てられている鳥居


最初の段には毛利一族の墓所がある。
元就墓所の一段下にあり、洞春寺境内にある。


毛利一族の墓所
初代毛利時親(もうりときちか)以来歴代一門の墓がここに改葬されている。
左から興元墓(元就の兄)、幸松丸墓(興元の長男)、長男隆元夫人墓、そして手前の少し大きいのが先祖合墓である。
因みに元就は12代、輝元は14代になる。


毛利一族の墓所の一段上に毛利元就の墓所がある。


毛利元就の墓
大きいな木が寄り添うように生えている。


百万一心碑
元就の墓と向かい合って建てられている。
郡山城築城の際に元就が、人柱に代えて「一日一力一心」と彫った石埋めさせると工事がうまくいったという伝説がある。
日を一にして、力を一にし、心を一にする、という協同一致の精神を示したものである。


百万一心碑の裏が登山道入口になっている。


登山道
墓所のすぐ後ろはご覧のように整備されて上り易い。


少し上ると元就の火葬の導師を務めた嘯岳鼎虎禅師(しょうがくていこぜんじ)の墓があった。


郡山城への道は次第に山道になってきた。


途中、吉田町吉田の市街が一望できる場所がある。
安芸高田市の市役所は右手になり、ここからは見えない。
少しばかり上ってきたな、という感じだ。


郡山城への山道は続く。
次第にきつくなってくると同時に汗が噴き出してきた。


百万一心碑登山口から休憩も入れて約25分、御蔵屋敷(おくらやしき)に到着。
御蔵屋敷は、北に釣井の段、東に三の丸、西に勢溜の壇(せだまりのだん)に繋がっており、
約600㎡の兵糧蔵跡と云われている。
この辺りから本丸を取り囲む様にして郭群が配置されている。
時計回りで1周しながら本丸を目指すことにした。


釣井の壇
広さ約1,000㎡の長大な曲輪である。
この壇に石垣井戸があり、本丸に最も近い水源であった。
城内で残る石組の井戸としては唯一のもの。
今は水は湧いていないが、埋れた土を掘ればかつてのように水をたたえると考えられている。


姫の丸壇
本丸の北の要所。
本丸北側の石垣はこの壇が基礎となり、この石垣に「一日一力一心」の文字を刻んだ礎石を埋めたと云われている。
幕末に長州藩士武田泰信がこの郭で百万一心石を発見したと伝わるが、今も見つかっていない。
郡山城最大の謎の一つと云われている。


姫の丸壇跡の先はご覧のような山道になっている。


釜屋の壇
本丸から15m下がった北側に位置し、炊事場にあたる所。


さらに山道の通路を進むと・・・


厩の壇
三の丸の東から東南方にのびる約400mの尾根の基部で、壇の下に馬場がある。
厩舎があったところと考えられている。


三の丸の石垣跡


三の丸
城内最大の曲輪である。
二の丸の約25m下段にあって、東西約40m、南北約47mの広さがある。


三の丸から二の丸を見たところ。


二の丸
二の丸は本丸の南に位置し、東西約36m、南北約20mの広さがある。


本丸
元就による拡張後の中心地。
城主の館があったと思われ、北端の山頂部には櫓台が残る。


本丸への最後の階段を上る


本丸跡
郡山の山頂に位置し、標高は389.7mで、比高は約200m。
大永三年(1523)に元就が宗家を相続して以来、郡山の南東にあった城(本城)を郡山全山に拡大した。
元就はここを本拠城として幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し遂げた。


本丸から二の丸、三の丸を見降ろしたところ。


三の丸の石垣跡
かなり損壊しており、石が散乱している。
三の丸に入る大手道にあたる。


勢溜の壇(せだまりのだん
御蔵屋敷跡の下段を堀切で区画して独立させた大小10段からなる大型曲輪である。


案内図に従って下山することにした。


満願寺跡
毛利氏の郡山城築城井前からあった寺と伝えられ、境内には今も蓮池が残っている。
行基菩薩が可愛川から得られた小さな観音を安置するために自ら千手観音を彫刻して、
この寺を建立したと伝えられている。
寺は、毛利氏の移城に伴い、広島に移り、さらに萩城内に移っていたが、現在は防府市にある。


満願寺の蓮池


尾崎丸
旧本丸との間を三条の堀切で隔てた独立的な曲輪群にあり、その中では最大。


尾崎丸の堀切
尾崎丸は隆元が本城から移り住んだと伝わる。
長大な郭の背後を掘切っている。


尾崎丸の尾根を300mほど進むと本城があることになっていたが、道がはっきりしないのと、
また戻ってくる必要があり、時間的な余裕もないことからこのまま下山することにした。


郡山公園の直ぐ上に展望所があった。


展望所から安芸高田市の市街地を望む。
安芸高田市の市役所も見える。


郡山大師堂


大師堂の裏手から毛利隆元、毛利元就の墓地に続く道にずらりとお地蔵さんが並んでいた。


郡山公園の池


中国原産の木、広葉杉(こうようざん
140年前に中国から苗木を江戸へ持ち帰る。
吉田の武士が数本持ち帰り、郡山へ植える、と案内されている。
あまり見かけない木である。


清神社
神社には毛利氏が吉田荘に土着する以前の正中二年(1325)からの棟札が十六枚も残り、
戦国時代は郡山の鎮守社として毛利氏の祈願所となった。
広島県重要文化財に指定されている。
現在の本殿は元禄七年(1694)の建立。


清神社の5本の杉の巨木
安芸高田市の天然記念物に指定されている。


清神社の鳥居


出発地の歴史民族博物館が見えてきた。
時計は11時25分を過ぎていた。
2時間半を優に越え、思ったより時間を費やした。


毛利元就の「歴史秘話」(NHK)が上映されていた。
冷房が効いていたので、汗びっしょりになった身体を録画を見ながらしばらく涼んで行くことにした。
熱中症にならなくて済んだのがせめてもの救いである。


この後、次の目的地、津和野城へ車を走らせた。


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