2012年8月7日(火)
山口市の瑠璃光寺の次に向ったのが防府市にある、毛利氏庭園である。
毛利氏庭園は、旧防長藩主毛利氏が大正五年(1916)に完成させたもので、自然の美を配した豪壮な館と庭園である。
本邸は、明治・大正時代の建築技術の粋を集め、江戸期御殿造りの様式を採用した壮大美麗な殿堂である。
邸内の毛利博物館には、国宝・重文等重要な宝物を収蔵・展示している。(案内板より)
駐車場に車(キャンピングカー)を停めて、毛利氏庭園入口に向かった。
車が楽に通れる舗装された道が続くが、歩いて行くよう案内されている。
じりじりと照りつける太陽が憎らしいほど暑かった。
200mほど進むと、城のような大きな門があったのに驚かされる。
毛利氏庭園の入口である。
入口を過ぎると、またしばらく大きな道が続く。
いったいどこが本当の入口なのだろうと思わせられる広さである。
途中に案内図があった。
中は博物館(赤の部分)と庭園(緑の部分)がある。
結局、駐車場から10分余りでようやく博物館・庭園入口に到着した。
正面のロータリーの木の向こうが博物館である。庭園はその右側だ。
券売所では、庭園と博物館の共通券が1,000円ということで売られていた。
庭園(400円)だけでもと思ったが、かみさんが『せっかく来たのだから』、と言いだして聞かない。
結局両方見ることにした。
先ず、毛利氏博物館へ入る。
毛利邸は、明治維新後、旧長州藩主毛利家の本拠に相応しいところとして、
維新の元勲井上馨公に奔走によりこの地が選定され、建設された。
建物及び庭園は、明治・大正時代の技術の粋を集め、自然の美に人口の妙を尽くした壮大華麗なもので、
明治二十五年(1892)に着工、大正五年(1916)7月に完成したものである。(案内板より)
博物館正面玄関
玄関を上がると、毛利家の家紋が目に付いた。
本家と徳山・長府・清末各毛利家の家紋は微妙に異なる。
本邸1階の様子
本邸1階の様子
室内は絨毯が敷かれている。
豪華な造りである。
中庭の様子
本邸1階の様子
畳張りの廊下が長い。
本邸1階の室内の様子
「百万一心」の書が掛けられていた。
毛利元就の居城、安芸高田氏の郡山城で見たばかりなので記憶に新しい。
郡山城築城の際に元就が、人柱に代えて「一日一力一心」と彫った石を埋めさせると工事がうまくいったという伝説に因み、
日を一にして、力を一にし、心を一にする、という協同一致の精神を示したものである。
2階に上がってみる。
2階も1階と同様に広い。
2階の毛利庭園側の廊下
2階から毛利庭園の一部を見たところ。
2階の部屋の様子
書院造りの右の掛け軸には、狩野栄川(かのうえいせん)筆の「鶴亀図」(複製)が掛かっている。
中庭を見降ろしたところ。
河原屋根の部分が博物館になっている。
再び1階に戻る。
この部屋は、大正五年十一月に大正天皇、大正十一年三月には貞明皇太后、
昭和二十二年十二月に昭和天皇、昭和三十一年四月には昭和天皇・皇太后がお泊りになった部屋とある。
天皇家専用の部屋であった。
博物館に入る前の廊下に毛利家の歴史が図入りで分かり易く展示されている。
これは、元就と「三矢の訓」(みつやのおしえ)
元就が長男毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景に宛てた書状で、三人兄弟が一致団結して
毛利家を守るように諭している。
この教訓状は、元就の遺訓として、毛利家に代々受け継がれていく。(説明より)
これより中(博物館内部)は撮影禁止となっている。
博物館に続いて、庭園を見て回ることにした。
庭園の入口
庭園から本邸(博物館)を見たところ。
庭園の景色(1)
庭園の景色(2)
庭園の景色(3)
庭園の景色(4)
庭園の景色(5)
庭園の景色(6)
庭園の景色(7)
庭園の景色(8)
庭園の景色(9)
うだるような暑さの中、駆け足で毛利博物館と庭園を見て回ったが、特に庭園の美しさは
言葉に言い表せないほど素晴らしいものであった。
どこを切り取ってみても”見事”の一言に尽きるのではないだろうか。
これまで、本間家別荘庭園(酒田市)、栗林公園(高松市)、中津万象園(丸亀市)などいくつかの庭園を見てきたが、
恐らく最高の庭園(個人の意見として)だと思う。
防府を訪れる機会があったら、是非一度ご覧になって欲しいものである。
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山口市の瑠璃光寺の次に向ったのが防府市にある、毛利氏庭園である。
毛利氏庭園は、旧防長藩主毛利氏が大正五年(1916)に完成させたもので、自然の美を配した豪壮な館と庭園である。
本邸は、明治・大正時代の建築技術の粋を集め、江戸期御殿造りの様式を採用した壮大美麗な殿堂である。
邸内の毛利博物館には、国宝・重文等重要な宝物を収蔵・展示している。(案内板より)
駐車場に車(キャンピングカー)を停めて、毛利氏庭園入口に向かった。
車が楽に通れる舗装された道が続くが、歩いて行くよう案内されている。
じりじりと照りつける太陽が憎らしいほど暑かった。
200mほど進むと、城のような大きな門があったのに驚かされる。
毛利氏庭園の入口である。
入口を過ぎると、またしばらく大きな道が続く。
いったいどこが本当の入口なのだろうと思わせられる広さである。
途中に案内図があった。
中は博物館(赤の部分)と庭園(緑の部分)がある。
結局、駐車場から10分余りでようやく博物館・庭園入口に到着した。
正面のロータリーの木の向こうが博物館である。庭園はその右側だ。
券売所では、庭園と博物館の共通券が1,000円ということで売られていた。
庭園(400円)だけでもと思ったが、かみさんが『せっかく来たのだから』、と言いだして聞かない。
結局両方見ることにした。
先ず、毛利氏博物館へ入る。
毛利邸は、明治維新後、旧長州藩主毛利家の本拠に相応しいところとして、
維新の元勲井上馨公に奔走によりこの地が選定され、建設された。
建物及び庭園は、明治・大正時代の技術の粋を集め、自然の美に人口の妙を尽くした壮大華麗なもので、
明治二十五年(1892)に着工、大正五年(1916)7月に完成したものである。(案内板より)
博物館正面玄関
玄関を上がると、毛利家の家紋が目に付いた。
本家と徳山・長府・清末各毛利家の家紋は微妙に異なる。
本邸1階の様子
本邸1階の様子
室内は絨毯が敷かれている。
豪華な造りである。
中庭の様子
本邸1階の様子
畳張りの廊下が長い。
本邸1階の室内の様子
「百万一心」の書が掛けられていた。
毛利元就の居城、安芸高田氏の郡山城で見たばかりなので記憶に新しい。
郡山城築城の際に元就が、人柱に代えて「一日一力一心」と彫った石を埋めさせると工事がうまくいったという伝説に因み、
日を一にして、力を一にし、心を一にする、という協同一致の精神を示したものである。
2階に上がってみる。
2階も1階と同様に広い。
2階の毛利庭園側の廊下
2階から毛利庭園の一部を見たところ。
2階の部屋の様子
書院造りの右の掛け軸には、狩野栄川(かのうえいせん)筆の「鶴亀図」(複製)が掛かっている。
中庭を見降ろしたところ。
河原屋根の部分が博物館になっている。
再び1階に戻る。
この部屋は、大正五年十一月に大正天皇、大正十一年三月には貞明皇太后、
昭和二十二年十二月に昭和天皇、昭和三十一年四月には昭和天皇・皇太后がお泊りになった部屋とある。
天皇家専用の部屋であった。
博物館に入る前の廊下に毛利家の歴史が図入りで分かり易く展示されている。
これは、元就と「三矢の訓」(みつやのおしえ)
元就が長男毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景に宛てた書状で、三人兄弟が一致団結して
毛利家を守るように諭している。
この教訓状は、元就の遺訓として、毛利家に代々受け継がれていく。(説明より)
これより中(博物館内部)は撮影禁止となっている。
博物館に続いて、庭園を見て回ることにした。
庭園の入口
庭園から本邸(博物館)を見たところ。
庭園の景色(1)
庭園の景色(2)
庭園の景色(3)
庭園の景色(4)
庭園の景色(5)
庭園の景色(6)
庭園の景色(7)
庭園の景色(8)
庭園の景色(9)
うだるような暑さの中、駆け足で毛利博物館と庭園を見て回ったが、特に庭園の美しさは
言葉に言い表せないほど素晴らしいものであった。
どこを切り取ってみても”見事”の一言に尽きるのではないだろうか。
これまで、本間家別荘庭園(酒田市)、栗林公園(高松市)、中津万象園(丸亀市)などいくつかの庭園を見てきたが、
恐らく最高の庭園(個人の意見として)だと思う。
防府を訪れる機会があったら、是非一度ご覧になって欲しいものである。
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