ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.75 萩城

2012年08月06日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月6日(月)


この日は午前中津和野の街を散策し、その後萩城を訪問した。
萩に到着したのは、12時15分を少し回っていた。

関ヶ原の合戦の敗戦で、西軍の総大将であった毛利輝元は、長門・周防2国に移封されてしまった。
輝元は慶長九年(1604)日本海に面した長門国の萩に築城を開始し、阿武川河口の三角州を整地した。
萩城は、標高143mの指月山の山麓に本丸が築かれたことから指月城とも呼ばれる。

城郭の構造は指月山山麓の平城の部分と山頂の山城の部分を合わせた平山城の形式で、
山麓には本丸・二の丸・三の丸を備えていた。(城址案内板)

萩史料館に車を止めて萩城へ向かった。


二の丸南門を進むと・・・


正面に初代藩主毛利輝元公像が建てられていた。
輝元は関ヶ原合戦の敗戦で、西軍総大将の責を問われ、これまでの領地中国地8か国120万石を削られ、
周防・長門の2国(36万9000石)の領主に移封された。
そこで輝元は、居城として防府・山口・萩の3か所を候補地として徳川幕府の意向を伺い、
萩指月山麓に築城することにした。
慶長九年(1604)築城に着手し、同十三年(1608)に完成させた。
これより文久三年(1863)第13代藩主敬親が藩府を山口に移転するまでの260年間、政治の中心地になった。


二の丸南門の枡形を抜けると・・・


本丸門の前に出た。


本丸門から指月山(143m)を望む。


本丸門前に架かる極楽橋から天守閣跡と指月山を望む。
極楽橋は、萩城本丸と二の丸とを区切る内堀に架かっていた木橋である。
橋の長さは6間(約12m)、幅が2間(約4m)余りあった。別名幸橋とも呼ばれ、また観音橋の名もあった。


本丸跡に入城する前に、内堀二の丸側を歩いてみた。
本丸門の遠景


天守閣跡
約11mの高石垣の天守台上に、五重五階の大型望楼型天守が威容を誇っていたとのことである。




天守閣跡
本丸の南西にあたる位置に高さ14.4m、下層は東西19.8m、南北16.2mで、五層の白亜の天守閣があった。
毛利輝元の命により慶長十三年(1608)に完成、以後266年間存続したが、明治七年(1874)に解体された。


天守閣跡と内堀


今度は本丸門の反対側から内堀を通して指月山(143m)を望む


入場料210円を払って城内に入り、内堀側の土塀跡から天守閣跡方向を望む。
100名城のスタンプも本丸入口料金所に置かれていた。


天守閣跡に上ってみる。


天守閣跡は二段構成になっており、さらに一段上が天守台になる。


天守閣跡
天守台いっぱいに礎石が並んでいる。


天守閣跡から本丸門方向を見る。


天守閣跡から指月山を望む。


広大な城内本丸跡地は今は「指月公園」になっている。
芝生が敷き詰められ、たくさんの桜の木が植えられている。


萩城址記念碑


志都岐山神社の鳥居


鳥居の先を真直ぐに進むと本殿へ通じる万歳橋があるが、危険なため、渡ることは出来ない。
藩学明倫館孔子廟の池にかかっていたものを移したものだとか。


旧福原家書院
福原家は厚狭郡宇部に給領地(11,314石余)を持つ萩藩の永代家老として代々仕えてきた。
この建物は三の丸(堀内)にあった萩屋敷内の書院で、明治十五年(1882)現在地に移築した。
建築年代は天明年間(1781~88)ごろと思われるが、当時の重臣の住居を知る上で貴重な建物である。
(案内板より)
市指定有形文化財となっている。


花江茶亭
藩主の別邸にあった茶室を明治二十年頃移築したもの。幕末の頃、13代藩主毛利敬親が茶事にことよせて
家臣とともに国事の密議をこらした場所で有名だそうだ。
この場所は本丸御殿の奥藩主の御座間近くにあたり、庭石・池・築山は当時のままとのこと。
あいにくこの日は閉まっており、中には入れなかった。


志都岐山神社


志都岐山神社の本殿
祭神は、毛利元就・毛利隆元・毛利輝元・毛利敬親・毛利元徳の5柱である。


志都岐山神社裏手を差月山(143m)登山口へ向う。
ここまで来たら上らない訳にはいかない。
かみさんとはここでいったん別れ、萩資料館で落ち合うことにした。


差月山への登り口
ここから約20分の道のりらしい。
かみさんを待たせているので少し速足で上る。


仰徳神社(こうとくじんじゃ)跡
仰徳神社は、宝暦十二年(1762)7代藩主重就(しげたか)によって建立され、
毛利氏の始祖天穂日命(あめのほひのみこと)と元就・隆元・輝元・
初代藩主秀就(ひでなり)が祀られていた。


登山道は最初のうちはそれほどきつくはないが、風がないので蒸し暑い。


上るにつれて次第に急な山道になってきた。
汗びっしょりになってきたので、どこからともなく蚊が寄ってきだした。
虫除けも持ってないし、タオルで蚊を追い払いながら上る。


15分ほどで突然目の前に詰丸の石垣が現れた。


詰丸の枡形石垣と土塀である。
山頂から海を監視するために詰丸は築かれたようだ。


15分ほどで詰丸の本丸に到着した。
麓の平城に合せ山頂に詰丸を設け、狭いながら本丸・二の丸を置いて陸と海とを監視するため、矢倉数か所、
天水溜二か所などを持つ望楼であった。


こちらは詰丸の二の丸と思われる。


石垣造りのための石を適当な大きさに割ろうとしていたと思われる。
切り口がしっかりと残っていた。
こうやってカメラを構えているとあっと言う間に両手に蚊が群がって来る。
料金所で『蚊が多いよ』と言われた通りだった。
こんなところに長居するつもりはない。一刻も早く下山することにした。


急いで下山して涼む間もなく二の丸東門へ向かった。
指月小橋から二の丸東門を見たところ。


二の丸東門
二の丸南門と同じようなしっかりとした造りである。


海側を見ると幕末の長州藩士らしき侍が数人。
望遠で撮ったが、侍たちはなかなか様になっているように見える。


遊覧船が戻って来た。
暑い日には、遊覧船に乗って涼むのも悪くはないかもしれない。


この後、数多くの幕末維新のヒーローを排出した松下村塾、松陰神社に向かった。
また、毛利家の墓所でもある東光寺にも立寄ることにした。


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日本100名城巡り No.66 津和野城

2012年08月05日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月5日(日)


午前中の郡山城に続いて、津和野城に登城した。
津和野城は、津和野城は、津和野盆地を見下ろす城山山頂部(367m)に築かれている。

津和野城は鎌倉末期の永仁三年(1295)、西石見の地頭職を与えられた吉見頼行が築城し、戦国期まで13代居城。
関ヶ原の戦い後の慶長五年(1600)、坂崎出羽守直盛が入り、城の大改築を行ったが、千姫奪還事件(1616)
を起こして切腹。
その後を受けて元和三年(1617)、亀井政矩が4万3千石で入城し、明治維新まで十一代続いて累代の居城とした。
城は津和野川西岸の標高367mの山上に本丸、二の丸、三の丸を設ける典型的な山城で、山麓に藩邸があった。
城跡は国指定史跡となっている。

津和野城は山の頂上にあるため、登城するには、自力で歩いて上るかリフトを利用することになる。
ここはリフトに乗って(往復450円)楽をしよう。
リフト駅前の駐車場に津和野城の標識があった。


リフト駅に向かう。


リフト駅に津和野城の縄張りが表示されていたが、詳しくは分からない。


より詳細な縄張りは以下のように配置されている。


15時15分、リフトは16時30分までの運転とのこと。あと1時間15分しかない。
かみさんは明日ゆっくりと見た方が良いとの意見だが、少し急げば何とかなるだろう。
ということでリフトに乗ることにした。


6分ほどで山頂駅に到着。
雨がパラパラと降りだしてきた。あいにく傘は持ってこなかった。
小雨の中、時間がないので急ぎ足で本丸を目指した。


5分ほどで、出丸の案内板があった。
かみさんは出丸は興味がないのか、先に行ってしまった。
仕方がないのでここは一人で行くしかない。


少し上ると出丸の石垣があった。


なかなか立派な石垣である。
出丸は本城を守るための戦略上、防塁としての役割は重要であった。
戦国時代には鉄砲に頼る実践的な戦術が進んでいたため、この場所を強化する必要があった。


出丸の上部は平坦になっている。
広さは東西約18m、南北44.5mあるそうだ。


出丸の案内板が建っていた。
出丸は坂崎直盛の弟である浮田織部が普請したことから織部丸ともいう。


津和野の町並みが一望できる(ちょっと木が邪魔をしているが)
形の整った青野山(906m)が印象的だ。


津和野の町並み


ちょうどSLやまぐち号が力強く走っていくところだった。
津和野15時20分発の新山口行きだ。


SLやまぐち号を写真に納め、山道を走ってかみさんの後を追いかけた。


一段下ったところに「史跡津和野城址」と刻まれた碑と説明板があった。
説明板によると、
当城跡は、初め一本松城といい、のち三本松城と改めた、全国でも有数の山城跡である。
築城は弘安の頃この地の地頭として鎌倉幕府から補任された吉見三河守頼行の永仁三年(1295)に始まり、
二代頼直の正中元年(1325)に完成したと伝えるが、まだそのころには今のような構えではなかったろう。
(以下略)


ここを過ぎると急な上りになる。


息きって坂道を上り大手門(旧東門)に到着、ようやくかみさんに追いついた。


東門跡
坂崎氏以降亀井氏の代には大手門となっていた。


東門の下をくぐった先に石垣が三段になった三段櫓跡がある。


本来は三段櫓跡を通り抜けて本丸へ進むところだが、工事中のため東門の反対側へは梯子を上る必要がある。


東門跡から腰廓・二の丸の石垣を見たところ。
苔蒸した石垣が歴史を感じさせる。


馬立跡・台所跡
ここは本丸の西、津和野城の三の丸にあたる。
階段を上って左は馬立と云われ、乗馬を繋ぎとめておく所、右は三段櫓の最上部の建物へ繋がる。


馬立の奥には台所跡がある。


台所跡の奥には海老櫓跡があり、搦め手に直面する望楼であった。
石列による排水施設を見ることができる。


馬立跡・台所跡から本丸を望む。


馬立跡・台所跡をさらに三の丸方向に進むと右手に西櫓門跡がある。


西櫓門跡の先に人質櫓の石垣がそびえる。


三の丸から人質櫓の石垣を見たところ。
津和野城内で最も高い石垣である。


三の丸の先は南門櫓跡になっている。


南門櫓跡の外側から人質櫓跡・三十間台を見たところ。


天守台
かつては三層の天守があったが貞亨三年(1686)の雷火で焼失し、石垣のみが修築され天守は再建されていない。


天守台から一段高い三十間台を見上げる。
天守台は本丸最高所(三十間台)より一段下に位置している。


天守台から馬立跡・台所跡を見たところ


津和野城最高所の三十間台に到着した。
三十間台から青野山(906m)を望む。


三十間台
一間(1.8m)x 30間=54m?


動画で見ると・・・


三十間台から人質櫓跡、三の丸南門櫓跡を見たところ。


三十間台から太鼓門跡・太鼓丸を見たところ


太鼓丸
津和野城の北東に日本五大稲荷の一つと云われる太鼓谷稲荷神社があることから、この名前が付けられたと思う。


三十間台から津和野の町並みが見下ろせる。
津和野高校や津和野小学校のグラウンドが見える。


萩方面を見たところ。
津和野川に沿って県道13号線が走っている。


津和野の町から三十間台を見たところ。


リフト駅を目指して山道を急ぐ。


16時5分、リフト駅に到着。
最終時間に間に合ってホっと一息だ。
雨はすっかり止んでいた。


リフトから津和野の町を見たところ。
正面は青野山(906m)である。


この日は、朝から郡山城、続いて津和野城を駆け足で見て回ったため、やや疲れたというのが正直なところである。
この後、津和野の街外れにある道の駅「津和野温泉なごみの里」へ行き、ゆっくりと温泉に浸って疲れを落した。
明日は、津和野の街を散策し、萩城を目指すことにする。


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日本100名城巡り No.72 郡山城

2012年08月05日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月5日(日)


前夜は、神楽門前湯治村で汗を流し、道の駅北の関宿安芸高田で一泊。
この日は朝から郡山城に登城した。

郡山城は、戦国武将毛利元就の居城として知られる。
吉田盆地を見渡す可愛川(えのがわ)と多治比川(たじひがわ)の合流点の北側に築かれ、
東西1.1Km、南北0.9Kmの戦国期最大級の山城である。

館内に入ると先ず安芸高田市歴史民俗博物館に立ち寄った。
毛利氏や郡山城に関する貴重な資料が展示されているとのことだ。
日曜日の朝8時30分、開館前にも関わらず、快く中に入れて貰いスタンプを押すことができた。


先ず毛利元就公と甲冑が目に飛び込んでくる。
椅子に座って毛利元就と一緒に記念撮影ができる。


奥にはもう一つ別の甲冑が展示してあった。
手前の甲冑は毛利家の家紋付だ。


今は展示をゆっくり見ている時間はない。郡山城への登城が先である。
歴史民俗博物館前の郡山城登城モデルコースを見ると、ゆっくり歩いても2時間程度を見ておけば充分だろうと考え、
8時50分、猛暑の中スタートした。


博物館の人から郡山城址案内図を戴いたので、その地図を参考に歩くことにした。
なお、以下の文中の歴史的な文章は、郡山城址案内図の説明を一部参考にした。


博物館の直ぐ裏のところに登山用の竹の杖が置いてあった。


郡山城址の碑


毛利元就公像
この場所は元就晩年の御里屋敷との伝承がある。
三矢の訓跡碑(三本の矢)の伝説を記念した石碑もあったそうだが、見過ごしてしまった。


大通院谷遺跡
石垣、堀、建物の柱穴が出土したらしいが、今は公園となっている。


伝元就火葬場跡
元就は元亀二年(1571)六月十四日75歳で病没。
初七日の法会後に竹原妙法寺の住持、嘯岳鼎虎禅師(しょうがくていこぜんじ)を導師に火葬された。


大通院谷遺跡の公園の一角に郡山城の碑が建てられていた。


西谷地点石垣跡
この遺跡は郡山城跡の西谷に造られた郭群の一角にあたり、豪雨によって大きく崩落した。
復旧工事のため、発掘調査が行われた。
この石垣は保存処理され、そのままの形で見学が可能になっている。


毛利隆元の墓所
毛利隆元は元就の長男である。


毛利隆元の墓
元就の長男隆元は、父元就の出雲攻略を応援のため吉田を出発し、途中佐々部で和智誠春らの接待を受けて、
翌朝永禄六年(1563)八月四日に41歳で急死した。
元就は暗殺の疑いで和智誠春らを誅伐、もしくは切腹に追い込んだ。


毛利元就の墓地への参道入口に建てられている鳥居


鳥居をくぐるとしばらく参道が続く。


参道は次第に杉の木立が多くなる。


毛利元就の墓所に建てられている鳥居


最初の段には毛利一族の墓所がある。
元就墓所の一段下にあり、洞春寺境内にある。


毛利一族の墓所
初代毛利時親(もうりときちか)以来歴代一門の墓がここに改葬されている。
左から興元墓(元就の兄)、幸松丸墓(興元の長男)、長男隆元夫人墓、そして手前の少し大きいのが先祖合墓である。
因みに元就は12代、輝元は14代になる。


毛利一族の墓所の一段上に毛利元就の墓所がある。


毛利元就の墓
大きいな木が寄り添うように生えている。


百万一心碑
元就の墓と向かい合って建てられている。
郡山城築城の際に元就が、人柱に代えて「一日一力一心」と彫った石埋めさせると工事がうまくいったという伝説がある。
日を一にして、力を一にし、心を一にする、という協同一致の精神を示したものである。


百万一心碑の裏が登山道入口になっている。


登山道
墓所のすぐ後ろはご覧のように整備されて上り易い。


少し上ると元就の火葬の導師を務めた嘯岳鼎虎禅師(しょうがくていこぜんじ)の墓があった。


郡山城への道は次第に山道になってきた。


途中、吉田町吉田の市街が一望できる場所がある。
安芸高田市の市役所は右手になり、ここからは見えない。
少しばかり上ってきたな、という感じだ。


郡山城への山道は続く。
次第にきつくなってくると同時に汗が噴き出してきた。


百万一心碑登山口から休憩も入れて約25分、御蔵屋敷(おくらやしき)に到着。
御蔵屋敷は、北に釣井の段、東に三の丸、西に勢溜の壇(せだまりのだん)に繋がっており、
約600㎡の兵糧蔵跡と云われている。
この辺りから本丸を取り囲む様にして郭群が配置されている。
時計回りで1周しながら本丸を目指すことにした。


釣井の壇
広さ約1,000㎡の長大な曲輪である。
この壇に石垣井戸があり、本丸に最も近い水源であった。
城内で残る石組の井戸としては唯一のもの。
今は水は湧いていないが、埋れた土を掘ればかつてのように水をたたえると考えられている。


姫の丸壇
本丸の北の要所。
本丸北側の石垣はこの壇が基礎となり、この石垣に「一日一力一心」の文字を刻んだ礎石を埋めたと云われている。
幕末に長州藩士武田泰信がこの郭で百万一心石を発見したと伝わるが、今も見つかっていない。
郡山城最大の謎の一つと云われている。


姫の丸壇跡の先はご覧のような山道になっている。


釜屋の壇
本丸から15m下がった北側に位置し、炊事場にあたる所。


さらに山道の通路を進むと・・・


厩の壇
三の丸の東から東南方にのびる約400mの尾根の基部で、壇の下に馬場がある。
厩舎があったところと考えられている。


三の丸の石垣跡


三の丸
城内最大の曲輪である。
二の丸の約25m下段にあって、東西約40m、南北約47mの広さがある。


三の丸から二の丸を見たところ。


二の丸
二の丸は本丸の南に位置し、東西約36m、南北約20mの広さがある。


本丸
元就による拡張後の中心地。
城主の館があったと思われ、北端の山頂部には櫓台が残る。


本丸への最後の階段を上る


本丸跡
郡山の山頂に位置し、標高は389.7mで、比高は約200m。
大永三年(1523)に元就が宗家を相続して以来、郡山の南東にあった城(本城)を郡山全山に拡大した。
元就はここを本拠城として幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し遂げた。


本丸から二の丸、三の丸を見降ろしたところ。


三の丸の石垣跡
かなり損壊しており、石が散乱している。
三の丸に入る大手道にあたる。


勢溜の壇(せだまりのだん
御蔵屋敷跡の下段を堀切で区画して独立させた大小10段からなる大型曲輪である。


案内図に従って下山することにした。


満願寺跡
毛利氏の郡山城築城井前からあった寺と伝えられ、境内には今も蓮池が残っている。
行基菩薩が可愛川から得られた小さな観音を安置するために自ら千手観音を彫刻して、
この寺を建立したと伝えられている。
寺は、毛利氏の移城に伴い、広島に移り、さらに萩城内に移っていたが、現在は防府市にある。


満願寺の蓮池


尾崎丸
旧本丸との間を三条の堀切で隔てた独立的な曲輪群にあり、その中では最大。


尾崎丸の堀切
尾崎丸は隆元が本城から移り住んだと伝わる。
長大な郭の背後を掘切っている。


尾崎丸の尾根を300mほど進むと本城があることになっていたが、道がはっきりしないのと、
また戻ってくる必要があり、時間的な余裕もないことからこのまま下山することにした。


郡山公園の直ぐ上に展望所があった。


展望所から安芸高田市の市街地を望む。
安芸高田市の市役所も見える。


郡山大師堂


大師堂の裏手から毛利隆元、毛利元就の墓地に続く道にずらりとお地蔵さんが並んでいた。


郡山公園の池


中国原産の木、広葉杉(こうようざん
140年前に中国から苗木を江戸へ持ち帰る。
吉田の武士が数本持ち帰り、郡山へ植える、と案内されている。
あまり見かけない木である。


清神社
神社には毛利氏が吉田荘に土着する以前の正中二年(1325)からの棟札が十六枚も残り、
戦国時代は郡山の鎮守社として毛利氏の祈願所となった。
広島県重要文化財に指定されている。
現在の本殿は元禄七年(1694)の建立。


清神社の5本の杉の巨木
安芸高田市の天然記念物に指定されている。


清神社の鳥居


出発地の歴史民族博物館が見えてきた。
時計は11時25分を過ぎていた。
2時間半を優に越え、思ったより時間を費やした。


毛利元就の「歴史秘話」(NHK)が上映されていた。
冷房が効いていたので、汗びっしょりになった身体を録画を見ながらしばらく涼んで行くことにした。
熱中症にならなくて済んだのがせめてもの救いである。


この後、次の目的地、津和野城へ車を走らせた。


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日本100名城巡り No.67 津山城

2012年08月04日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月4日(土)


この日は午前中に竹田城に登城し、山陽道を約100Kmひた走って、津山城には13時40分に到着した。

津山城は、慶長八年(1603)森忠政(森蘭丸の弟)が信州河中島から18万6,500石の大名として入封されたとき、
13年の歳月を費やして築いた。当初は鶴山に築城開始したことから「鶴山城」と云われていたが、鶴山を津山と改めて
「津山城」として城と城下町の建設を行った。

郷土博物館横に津山城”備中櫓”の名前の由来の看板があった。
それによると、
櫓は一般的には武具や食糧を保管する倉のことであるが、備中櫓は内部が全て畳敷きの部屋で構成されていることから、
藩主やその身近な人の私的な生活空間に使われたと考えられている。
森忠政の長女と四女が嫁入りした娘婿、鳥取藩主の池田備中守長幸がその由来とのこと。
池田備中守長幸が津山を訪れたときに完成した櫓からという説が一番有力視されている。
池田長幸は、織田信長の武将として有名な池田恒興の孫にあたり、姫路城を築いた池田輝政の甥になる。
長幸は慶長十九年(1614)に父長吉の跡を継いで鳥取城主(六万石)となり、元和元年(1615)には従五位下備中守に叙任された。
その後、元和三年には備中松山城主となった。


登城口


登城口の石段を上りきると正面に大きな石垣がある。
その大きさに圧倒される。
じりじりと焼けつくような暑さだが、頑張って行こう。


振り返ったところ


忘れ去られた石
平成10年の台風10号通過後、津山市大谷の石山登山道近くの谷川で、津山城築城時に切り出されたと思われる石が発見された。
石の重さは約2.3トン。
近くにある「津山城石切場跡にある矢穴と同じ大きさのものが石の上下に計9箇所残っている。
津山城築城時に切り出された石の一部であることは間違いなく、何らかの理由で築城現場まで運ばれなかったようだ。
この石は「忘れ去られた石」と名づけられた。
平成16年3月に谷川から引き上げられ、同年5月の津山城築城400年記念事業で「歴史石曳き」として市内中心部を曳かれた後、
津山城に400年振りに届けられた。(案内による)


城主(森忠政公)の像
幼名を千丸。元亀元年(1570)、美濃金山城に生まれた。
本能寺の変で織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟である。
天正十二年(1584)兄・長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山7万石を与えられた。
のち徳川家康に仕え、慶長五年(1600)信濃川中島13万7000石を領す。
同八年には美作国一円18万6500石を与えられ、津山に入封。翌九年より築城に着手した。
また城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした。
寛永十一年(1634)3代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死。享年65歳。


三の丸表門前の料金所
入場料300円を払って中に入る。


三の丸表門である冠木門跡


三の丸冠木門を入ってすぐ左にこれまた見事な石垣が現れる。


三の丸へ至る階段


三の丸
明治四年に城は取り壊しになったが、津山町は城を町有にして、鶴山公園とした。
城跡の鶴山公園には数千本の桜が植えられ、日本の歴史公園100選、日本桜の名所100選にも選ばれている、とのこと。


表中門の石垣


表中門
表中門は、三の丸から二の丸にいたる通路の正面にあたるが、それにしても広い階段である。
櫓門の形式で城内に存在する櫓の中で最大であった。
門の櫓部分の長さは十六間(約32m)もあり、大阪城や江戸城の城門にも匹敵する大きさである。


四脚門手前の階段


二の丸への正面を絶ち切り、左へ折れて四脚門が構えられていた。


四脚門を過ぎると二の丸である。
右へ曲って上を見上げると、備中櫓が正面に見える。


備中櫓
津山城には、70棟以上もの櫓があったそうだが、その中で一番大きな櫓が備中櫓である。


備中櫓を左に見ながら進むと切手門がある。
切手門跡辺りから道幅が狭くなる。
これは、大勢の敵が攻め上がって来たときに急に道が狭くなって敵が右往左往しているところを狙い討ちにできる、
という計算があったようだ。


切手門を過ぎると右手に弓櫓がある。


弓櫓を過ぎると、辰巳櫓が控える。


辰巳櫓を過ぎた辺りから備中櫓を見る。
絵になる風景である。


辰巳櫓跡から見た吉井川の支流、宮川沿いの市内(上之町)展望


宮川上流の展望(津山総合体育館方面)


辰巳櫓を左に曲った奥に表鉄門跡がある。
本丸への入口の櫓門で、門扉全体が鉄で覆われていたことから、この名前が付いている。


表鉄門の階段を上ると・・・


ようやく本丸広場に到達する。
かつては、表鉄門二階の櫓の中を通って本丸御殿へ行っていた。
つまり表鉄門は、城門としてだけでなく、二階の櫓内部は本丸御殿への正式な入口としての役割も持っていた。
見えているのは、本丸の東側の矢切櫓跡である。
武者走りの石段が見える。


長局から見た備中櫓
長局は現在は藤棚になっている。
かみさんの気分が優れないため、ここで、一休みしていくことにした。


長局辺りから見た備中櫓


備中櫓正面


備中櫓内部は、全て畳敷きになっている。


一階にある「御茶席」


櫓二階にある「上段の間」
本丸御殿の一部として機能していたと考えられる。格式の高さが伺える。


本丸天守台への入口、五番門
備中櫓の北側に位置し、天守曲輪への南からの入口になっている。
高麗門あるいは薬医門だったと推測されているそうだ。


五番門を通り抜けると本丸天守台の石垣に辿り着く。


本丸天守台石垣の西側
コンクリートの部分には、かつては多聞櫓があり、その内側には天守曲輪があった。


七番門
天守台の回りには、いつくかの門がある。
天守台の西側には天守曲輪があり、その北西部にある門が七番門である。


天守台へ上がってみる


天守台から備中櫓を見たところ。


天守台
天守は地上五階建て、高さは石垣を除いて約22mで、一般的な五層の天守としては最大規模であった、とのこと。
いずれ天守閣再現となるのであろうか? 期待したいものである。


時間は15時近くになっていた。
猛暑の中、午前中に竹田城を登城見学したのに続き、約100Km離れた津山城も見学したため、少々疲れた。
津山城の一部しか見て回れていないが、津山城はひとまずここで終わりにして、次の目的地である、
毛利元就築城の郡山城のある安芸高田を目指すことにした。


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日本100名城巡り No.56 竹田城 

2012年08月04日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2012年8月4日(土)

この日は朝から竹田城を訪問することにした。
竹田城は、JR播但線竹田駅の西方、古城山(標高353.7m)の山頂に位置する。
南北400m、東西100mの縄張りで、その姿は虎が伏せているように見えることから
「虎臥城」(とらふすじょう)と呼ばれる。
但馬守護だった山名持豊(後の山名宗全)の有力家臣のひとり、
太田垣が室町時代中期の1400年代中盤に築城したとされている。

先ずはスタンプを設置しているJR竹田駅に立ち寄り、スタンプを押下。
「日本100名城巡り」には竹田城へは竹田駅から歩いて1時間と案内されていたが、
駅員の方によると途中まで車で行けるとのことで、道順を教えて貰い、中腹駐車場へ向かった。

駐車場の端に”竹田城の山門”がある。
どうやらここが、大手門への登城口のようだ。
近道として「花屋敷」から入るコースもあるそうだが「大手門」へ向かうことにした。


門を潜っていったん階段を降りる。


舗装された緩やかな上り坂に沿って進む。
約1.6Kmほどの距離と案内されている。


ときどき眼下に竹田駅周辺の町並みが見える。


13分ほど上り、後ろを振り返ると石垣が見えた。
どの辺りの石垣だろうか?


約18分で竹田城址の碑前に到着。


石段を上る。


この石垣は北三の丸辺りと思われる。


正面の石垣は北千畳見付と思われる。
左に曲がると・・・


正面に大手門の見事な石垣が現れる。
左の石垣は北三の丸だろう。


大手門石垣
この石垣は織田信長の安土城と同じ穴太積みあのうづみ)の技術を用いているとのこと。
穴太積みとは、近江 国坂本の穴太衆の手による石垣積み技法(野面積み)のことである。
石材は花崗岩で山麓付近から集められたと考えられている。最大のものは5tと推測されている。


大手門石垣を右に曲がると北千畳の広大な曲輪が広がる。


広い北千畳の曲輪


眼下に竹田の町並みが広がる。
これほどの見晴しの良い城は初めてである。


左側に目を移すと、遠方は朝来市方面である。


さらに左側には播但連絡道が見える。
素晴らしい景色だ。


北千畳から三の丸、二の丸、本丸、南千畳が一望だ。


動画で見るとこのような風景が広がる。


北千畳から三の丸、二の丸、本丸、天守台を望む。


大手門の素晴らしい石垣の間を通って・・・


三の丸への階段を上る。


三の丸


三の丸から南千畳方面を見たところ。
なんとも言いようがないほど美しい。
『素晴らしい!』の一言に尽きる。


北二の丸から見た竹田の町並み。


北二の丸から天守台・南千畳を観たところ。


北二の丸から南千畳を望む。
素晴らしい眺めである。


北二の丸から播但連絡道を見たところ。


北二の丸から一段と高い天守台に向かう。


天守台から南二の丸、南千畳を見たところ。


天守台から見た竹田の町並み


南二の丸


南正門


南二の丸から天守台を見上げる。


南二の丸から北千畳方面を見る。
舗装道路が右下に見えるところから判断すると、上りのときに見えた石垣はこの辺りだったのか?


南二の丸から天守台を見る。
本当に石垣が素晴らしい。
築城から400年を経た今でも、一部の復元箇所を除き当時のままの姿を残しているということに
感動せざるを得ない。


南千畳
北千畳と同じくらい広い。


南千畳から本丸・天守台を見る


南千畳から青倉・新井方面を見る。


南千畳から本丸天守台を見る


南二の丸の本丸寄りに搦め手口があった。


搦め手口を降りると平殿がある。
南二の丸よりはやや小さめな曲輪である。


平殿から南千畳を見る。


平殿から「山城の里」を見る。
帰りに立ち寄ろうと思ったが、道路は一方通行のため、来た道を戻ることは出来ないので諦めた。


平殿から花屋敷曲輪を見る。
本丸跡の北西部にあり、主郭の中でも最も低い位置にある。


竹田城跡が最も美しいのは、10月下旬から12月中旬の良く晴れて冷え込んだ朝だそうである。
山麓を流れる円山川からの朝霧が石垣の裾まで迫り、柔らかな絨毯のように広がり、
雲海を下に見下ろせる事もあると言う。
一度朝霧に包まれた竹田城を見てみたいものである。


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