ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(2日目)

2023年05月14日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月14日(日)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(2日目)

この日は昨日の続き、鈴鹿峠を越えた万人講常夜灯からのスタートとなる。
APA HOTEL亀山を出発し、かみさんには国道1号の鈴鹿峠トンネルを出て直ぐの万人講常夜灯
近くで降ろしてもらった。

10時01分、2日目のスタート地点は、万人講常夜灯を少し過ぎた国道1号からである。
道路反対側へ渡ろうと地下通路へ向かったところ、かみさん達が車のクラクションを鳴らして
『そこは通れないわよっ』と教えてくれた。
昨日自分を迎えるために万人講常夜灯へ向かう時に確認したのだと言う。


対抗車線の車がないことを確認して道路反対側へ移動。
この日も朝から強めの雨、しかも風がかなり強い、街道歩きには最悪のコンディションだ。
昨日の鈴鹿峠越えは折畳み傘を差していたが、今日は少しでも濡れるのを和らげるために
大きなコウモリ傘に変えた。


10時10分、滋賀県土山町山中付近を通過


雨は正面からではなく背中から降って来る感じなので、まだ少しは我慢できる。


道路反対側に十楽寺という寺が見えた。
十楽寺は甲賀市土山町にある浄土宗の寺院で、山号は清浄山。
本尊は阿弥陀如来、本尊は甲賀三大仏の一つ、とのこと。


前方に新名神高速道路の橋脚が見えて来た。


東海道を示す標識を見ると何故か気持ちが落ち着くから不思議である。


街道沿いに民家が立ち並ぶが、いずれも間取りが大きそうな家ばかり。
雨は相変わらず強く降っているため、ズボンの裾がかなり濡れて来た。


道路脇に建つ地蔵菩薩堂
歴史を感じさせる建物である。


新名神高速道路の橋脚が次第に大きくなって来た。


10時34分、新名神高速道路の橋脚下を通過


新名神高速走路を通過した所に”「第二名神」滋賀県起工の地”のモニュメントと碑があった。


「第二名神」滋賀県起工の地 碑
平成7年12月18日に当地滋賀県土山町山中地先の土山橋下り線の下部工工事が第二名神の
滋賀県での最初の工事として着工されました。
当地が第二名神の起工の地であることを記念し、また、古より東海道の宿場町として道と共に
栄えてきた”あいの土山”の未来永劫の発展を願い、ここに記念碑を建立します。
滋賀県土山町


10時37分、山中一里塚公園に到着した。


櫟野観音道(いちのかんのんみち・大原道)道標


山中地区の旧東海道沿いから南西に伸びる道は、古くから東海道と神村(甲賀町大字神)
・櫟野村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。
当時、道標は東海道との分岐点に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ
一里塚緑地に移転されている。
この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には櫟野寺(らくやじ)本尊の十一面観音の
慈悲を詠んだ、虚白の「盡十方(つくすとも) 世にはえぬきや 大悲心(だいひしん)」
という句が刻まれており、櫟野の櫟野寺への参詣道でもあったことを伝えている。
平成十五年三月 土山町教育委員会


山中一里塚公園には鈴鹿馬子唄の碑と、


馬子が馬を曳く像が建立されている。


旧東海道(国道1号)を土山宿を目指す。


道の駅「あいの土山」まで2Kmの標識が。


東京から437Kmの標識を通過


国道1号沿いの民家の前を通過して、


さらに国道1号を進むと・・・


道が2手に分かれていた。


右側の道が土山町蟹坂(かにがさか)から道の駅「あいの土山」への道が赤く表示されている。
また、東海道土山宿はここから800mと案内されている。


右側の道に入って直ぐ右側に榎島神社(白川神社の末社)があった。
この神社の椎の木は御神木で樹齢は約400年とのこと。


蟹坂地区の案内図
左側は蟹坂古戦場跡、田村神社を経て土山宿へ800m、右側は現在地から鈴鹿峠4.5Kmとある。


蟹坂の集落を進む。


両側に工場のある場所を通り抜けると・・・


11時12分、蟹坂古戦場跡の碑があった。


蟹坂古戦場跡の説明
天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将
神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。
当時の山中城主は山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。
こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛り返し、さらに北伊勢の軍勢を加えて
再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、
軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。
一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国と合戦した。
この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。
平成七年三月 土山町教育委員会


蟹坂古戦場跡を後にして田村神社方面へ向かった。


真っ直ぐ進むと、高札があった。


高札の解説(太字の部分)
「この橋を渡ることのできるのは、安永四年(1775)の閏月12月23日からである。
(旧暦には閏月があり、この年は12月が2回続く)
この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。
また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない
人達の渡り賃も無料である。
しかし、それ以外の住民および一般の旅人については一人につき三文、また荷物を馬に乗せて
渡る荷主についても馬一頭につき三文、渡り賃を取ることになっている。
この規則は一時的なものではなく、橋がある限り永遠に続くものである」


高札の先に木製の橋があった。街道橋である。
江戸時代の安永4年(1775年)に架けられた田村永代板橋を復元した橋。
往時の橋は、巾二間一尺五寸(約4.1m)、長さ二十間三尺(約37.3m)。
高さ0.3mの低い欄干が付いた、当時としては画期的な橋であった。


街道橋の上から下流(土山宿方面)を臨む。


街道橋を渡り切ると・・・
歌川広重の「東海道五十三次」の「春の雨」が紹介されていた。
天保四年に刊行された「東海道五十三次」には、土山を描いた「春の雨」が描かれている。
雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り田村神社の杜のなかを
宿場に向かっている風景であると云われている。


田村神社の杜のなかを進むと・・・


右側に田村神社の鳥居があった。


参道を進んで行くと・・・田村神社があった。
祭神は坂上田村麻呂で、平安時代初期の建立と云われている。
社殿は鈴鹿峠から移されたものであるらしい。
明治時代の初め、付近の氏神を廃してここに合祀して以来、現在の壮大な姿となった。
田村麻呂の、鈴鹿峠の鬼退治の伝説にまつわる「厄よけの神」としても有名。
この鬼退治が2月18日だったことに因み、毎年2月17日、18日、19日に厄除祭が催されている。


11時34分、田村神社を挟んだ国道1号の反対側にある道の駅「あいの土山」に到着した。


道の駅「あいの土山」で一休みすることにしよう。
かみさん達は先に到着して、車の中で休憩していた。
この頃から雨が一段と強くなったため、弱くなるまで待つことにした。


車の中で待つこと約1時間、雨が少し弱くなって来たので、とりあえず土山宿の西の外れまで
進むことにした。
その後、近くで一緒に昼食を摂ることにして、12時40分に道の駅「あいの土山」を出発した。
道の駅「あいの土山」の少し先に土山宿の絵地図があった。


土山宿は、上方へ向かう旅人が、鈴鹿峠を越えて最初に入る宿場である。
当時は、小田原宿や三島宿と同様に賑わっていた、とのこと。
土山宿の説明板
(前略)
宿場の主体をなしたのは宿中央にあたる現在の仲町・吉川町あたりで、そこには人馬継立を
差配する問屋場や公用者の休泊のための本陣などがあり、徳川幕府は役負担を義務付けられた
宿の保護のために地子(じし:租税)の免除などの特権を与えていた。
また宿の中心には旅籠や商店、茶屋なども多く、街道に沿って細長く宿場町を形成していた。
1843年の記録では本陣2軒、旅籠44軒、家数351軒で人口は1,505人だった。
令和2年1月31日  土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


東海道 土山宿の碑


土山宿の街並みを進む。


重厚な家が多い。


お六櫛
江戸元禄の頃、信濃の国の櫛職人が伊勢参りを終えて京都見物に行く途中、ここ土山宿の
生里野で重い病気になり、生里野の民家で養生させてもらって一命をとりとめ、京都へと
旅立つことが出来ました。
その旅人は信濃へ帰国した後、土山で受けた恩恵に報いようと、櫛の製法を伝授すべく
再度土山を訪れました。
この櫛は「みねばり」などの木を材料にして作られ、土産物として大変人気がありました。
最盛期には十軒余りの業者が櫛に関わっていましたが、今は姿を消してしまいました。
(甲賀市観光協会)


土山宿を進んで行くと、お六櫛の本家櫛所と書かれた看板の家があった。
前述の説明と関係があるのかも・・・


土山宿の街並みを進み、


来見橋を通過。


続いて白川神社前を通過。


大原製茶場前を通過。


森鴎外の泊まった平野屋
平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治33年3月2日に一泊した旅籠である。
土山の町並みを愛する会


蕎麦処 うかい屋前を通過
土山宿で食べ物屋を営んでいる店があるとは知らなかった。


二階家本陣跡


堤家(二階家)本陣跡
(前略)
土山宿には吉川町の北土山村側にあった土山家本陣と、中町の南土山村側にあった堤家本陣の二軒があった。
堤家本陣はその屋号から「二階家本陣」とも呼ばれ、代々忠左衛門を名乗った。
(中略)
堤家本陣は幕末には衰微し、これより250m西、吉川町の北土山村側にあった大旅籠の大黒屋が
その代替として利用された。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


土山宿伝馬館


東海道伝馬館に入ると・・・


伝馬館内部(1)


伝馬館内部(2)


伝馬館内部(3)


伝馬館を出て直ぐ右側に土山宿問屋場跡があった。


土山宿の問屋場は、中町と吉川町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、
時代と共にその場所は移り変わってきた。
明治時代の宿駅制度の廃止に伴い問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。


土山宿問屋宅跡


土山宿本陣跡
土山宿本陣は、寛永11年(1634年)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。
土山氏文書の「本陣職之事」によって分かるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門
を初代として之を勤めた。
本陣は当時の大名、旗本、公家、勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されて
いたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


本陣跡には必ずと言っていいほど明治天皇聖蹟の碑が建てられている。
ここ土山宿本陣も例外ではない。


土山宿は続く。


一の松通りを横断した所に小さな大黒屋公園があり、形の良い松の木が1本植えられていた。


また、『高桑闌更(たかくわらんこう)句碑』があった。
土山や 唄にもうたふ はつしぐれ  闌更


作者 高桑闌更 俳人 享保十一年(一七二六)~寛政十年(一七九八)
加賀国金沢(石川県金沢市)に生まれる。 生家は屋号釣瓶屋という商家。
本名忠保(または正保)、通称は長次郎。
俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献。
後年、医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を安置する芭蕉堂を営む。
芭蕉関係の俳書を翻刻、注釈するなど功績をあげた。 俳風は温和高雅。
門下から桜井梅室や土山に縁のある虚白禅師等を輩出する。
代表的な句集や編書に「半化坊発句集」「落葉考」「芭蕉翁消息集」「花の故事」「深川集」などがある。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


その隣に大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の碑が並んで建てられていた。


土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣宿の事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と
土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。
大黒屋本陣の設立年代については、はっきりと判らないが、旅籠屋として繁盛した大黒屋が
土山本陣の補佐宿となっている。
古地図によると、当本陣の規模は、土山宿本陣のように、門玄関、大広間、上段間をはじめ
多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であることが想像できる。
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の碑の奥に明治天皇聖蹟の碑が建てられていた。


大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の碑を過ぎて東海道を進む。


土山宿 旅籠 古め屋跡


吉川に架かる大黒橋を渡って進むと、


国道1号が見えて来た。


国道1号との合流地点に土山宿の案内板があった。


土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠を越える旧東海道筋を通るようになって以来、難所を
控える宿駅として発達してきた。
源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が
一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、庶民の通行も以前に増して盛んになった。
とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国規模で設け、土山宿は東海道五十三次の
第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。
宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどを司る問屋場、公用者の
宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、幕府は御役町の保護の
ために地子の免除その他の特権を与えていた。
この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道の脇に
細長く宿場町を形成していた。
平成七年三月  土山町教育委員会


13時30分、この日の東海道歩きはここまでとし、かみさん達の待つ蕎麦処「うかい屋」へ。
10分で蕎麦処「うかい屋」に到着、この時雨はかなり小降りになっていた。


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(1)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(2)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(3)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(4)


蕎麦処「うかい屋」の内部の様子(5)


注文したのは鴨蕎麦だったが、なかなか美味しかった。
お腹が空いていたので、安倍川餅も注文してしまった。
餅2個は自分にとっては、ちょっと多過ぎた。


食事の後、かみさん達の観光に付き合う形で、甲賀流忍術屋敷(甲賀望月氏本家旧邸)へ。
40分ほど甲賀流忍術屋敷の巧妙なからくりを見学したり体験したりして過ごし、


この日予約していた「水口センチュリーホテル」へ向かった。


ホテルによれば、近くにはレストランはなく、普通の料理屋があるというので、行くことにした。
「酔虎伝」という店で、メニューは豊富で美味しかった。


この日万歩計は14,000歩を計測していた。

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