ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第8回 大磯宿から国府津

2014年08月24日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年8月24日(日)

この日は、第八回目ということで、大磯宿から国府津までの約10Kmを歩いた。

常磐線荒川沖を6時54分発の電車に乗り、上野駅には定刻どおり7時53分に到着。
元気良く山の手線へ向かう、この日の参加者は11名だ。

荒川沖駅からの4名は、青春18キップ(2,370円/1人)を利用。
休日お出かけパス(2,670円)よりもさらに300円お得である。

東京駅では8時3分発の熱海行きに間に合い、全員座ることができた。
発車時刻が少し遅れていたこともある。


この日のスタート地大磯駅には9時8分に到着。
すこぶる順調である。


大磯駅前でめいめい準備を整える。
この日は曇りで気温もさほど高くない。
”街道歩き”には願ってもない好天気である。


9時16分、国府津駅目指して出発!!


駅前に観光案内所があったので、「大磯観光ガイドマップ」を入手。
先ずは地福寺(じふくじ)へ。
観光案内所の前に地福寺方面への近道があった。
急東海道から大して逸れないことを確認し、こちらの道を進む。


近道を入ると風格のある洋館が目に入った。
洋館は旧木下家別邸と呼ばれている。(中略)
周辺環境と調和した風格のある佇まいは、新館と石垣を携えた敷地と一体となって、
大磯の別荘文化を現代に伝える景観を形成している、ということで、
大磯町の景観重要建造物に指定されている。
また、国登録有形文化財にも登録されている。


ちょっと道に迷いそうになったが、地元の人に案内されて地福寺へ到着。


地福寺には、弘法大師坐像や地福寺文書がある、とのこと。


境内には島崎藤村の墓があり、その左隣には静子夫人のやや小ぶりな墓もあった。
どちらの墓にも菊の花が供えられていた。


地福寺から数分で旧東海道(国道1号線)に出ることができた。
旧東海道へ出て直ぐに尾上本陣跡碑があった。
大磯宿には本陣が3つ(小島本陣・尾上本陣・石井本陣)あったが、脇本陣はない。
明治元年(1868)の明治天皇東幸にあたり、御宿泊所となった大磯宿の代表的本陣の小島本陣は、
地福寺へ近道をしたせいで通り過ぎてしまったようだ。
(地図で確認したら僅か50mほど戻った場所だった)


いかにも旧い感じのする和菓子屋「新杵」
島崎藤村や吉田茂に愛された店だそうだ。
「西行饅頭」「虎子饅頭」は彼らにも愛された、とのこと。


9時34分、新橋から68Km地点を通過
ゴールの国府津駅まで約10Kmということなので、78Kmの標識があることだろう。


道路の反対側に新島襄終焉の地の碑があった。
明治時代の三大教育家として知られる同志社の新島襄は、大磯の旅館百足屋(むかでや)で47歳の生涯を閉じた。
かつて百足屋の玄関だったところに徳富蘇峰の筆による碑が、門下生によって建てられている。


鴫立庵(しぎたつあん)の標識があった。


寛文四年(1664)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、
元禄八年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し、第一世庵主となった。
現在は、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに、日本三大俳諧道場の一つと云われている。


西行法師が詠んだ「心なき 身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ」という名歌は
ここからの風景を詠んだものと云われている。
後に崇雪が西行を慕い訪れ、「湘南清絶の地」と絶賛し、草庵を結んだ。


このことから、ここ大磯が「湘南発祥の地」として注目を浴びている。
中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南と言い、
大磯がこの地に似ているところから湘南と呼ばれるようになった。


上方見附跡
見附とは城下に入る見張り門のことで、江戸時代の宿場の出入り口にも見附を置き、
宿場を守る防御施設として造られた。
街道を挟んで両側に台形状をもって造られ、高さは1.6mほどでその上に竹矢来が組まれていた。


宿場の京都側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいる。
平和な江戸時代には防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入り口を示す役割を果たすようになった。


大磯の松並木の始まりだ。
昨年「関東ふれいの道」で歩いた場所なので、見覚えがある。


大磯の松並木は、今に残る神奈川県内有数の旧東海道松並木で、
樹齢300年を超える松も残り、借日の姿を残している。


松並木に沿った歩道を進む。


この切り株は、平成6年11月に松の天敵であるマツクイムシの被害にあってしまった老松(樹齢217年)で、
「東海道の歴史を語り続けて欲しい」との気持ちから歴史年表として保存する、と紹介されている。
しかし、まだ20年しか経っていないのに、既に松の株は朽ち、覆いも一部壊れている。
この後も補修し続けないと後世には残せないだろう。
大変な手間がかかることである。


滄浪閣(そうろうかく
伊藤博文の旧宅だが、閉じられていた。


旧東海道(国道1号線)を進む。


城山公園(じょうやまこうえん)の信号が見えてきた。
城山公園は、もとは三井総領家三井高棟の別荘地だった。
高棟は昭和九年に「城山荘本館」を山頂に築き、大雄殿をはじめとして、国宝茶室「如庵」などがあった。
現在は県立公園となっている。


『この辺から大磯駅までバスに乗ったんだよねぇ』
皆さん懐かしそうである。


城山公園の信号を過ぎると左手に吉田茂邸宅跡があった。
ここは城山公園の一部で「吉田茂邸地区」、道路の反対側は、「旧三井別邸地区」となっている。
休憩も兼ねて立ち寄ることにした。


内門(兜門)
サンフランシスコ講和条約を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも言われている。
また、軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれる。


日本庭園
池を中心にその周囲を散策して自然の移り変わりを愛でるもので、「池泉式回遊式」と呼ばれている。
吉田茂は晩年、この庭園を散策することを日課にしていたと伝わっている。


日本庭園の反対側の洋式庭園へ行ってみると、


吉田茂がその生涯を閉じる昭和42年、89歳までを過ごした邸宅跡地があった。
平成21年3月、旧吉田邸は焼失してしまったため、大磯町が「町有施設」として再建することとなり、
現在、建物の再建工事が行われている。


「旧吉田茂邸地区」はかなり広い。きれいに手入れされた竹林もある。
とても短時間で回りきれるものではない。竹林辺りで引き返した。
後で分かったことだが、竹林の先に相模湾を一望できる散歩道もある、とのこと。
また、サンフランシスコを向いて立つ吉田茂像や、七賢堂もあるそうだ。
(七賢人:岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝充・伊東博文・西園寺公望・吉田茂)


無料の管理棟があったので、


一休みしていこう。
ボランティアの方から庭園ガイドのお誘いがあったが、先を急ぐ身なので、丁重にお断りした。
次に訪れる機会があれば、「旧三井別邸地区」も含めて案内していただくことにしよう。


旧東海道(国道1号線)を進む。
不動川の新不動橋を渡る。


10時50分、日本橋から71Kmの地点を通過。
大磯駅を出発してから1時間30分経過しているが、まだ3Kmほどしか進んでいないことになる。
少しペースを上げよう。


六所神社の鳥居
もとは石神台の地に置かれていたが、大化改新後、現在地に移った。
その後、相模国府がこの地に移り、相模の六社の分霊が六社神社に祀られ、相模の総社となった。


11時8分、二宮町に入った。


11時24分、二宮駅に到着


ガラスのうさぎ像
二宮駅南口に、父の形見となった「ガラスのうさぎ」を抱いて静かにたたずむ乙女の像は、
第二次世界大戦終戦間近の8月5日、二宮の空襲で父を失った体験を綴った高木敏子さんの
小説「ガラスのうさぎ」にちなんで建てられた。
町民の平和への願いも込められている。


伊達時 景徳碑(だてとき:明治-大正時代の政治家・医師)
明治維新以降、二宮の発展と社会福祉の増進に尽くした伊達時を記念して建てられた。
彼の功績は二宮駅の設置、大磯女子敬業学舎の開校、平塚盲学校初代校長など多岐にわたる。


二宮駅から10分ほど進むと、道が分岐していた。
旧東海道は右方向である。


”旧東海道の名残り”の標識が立てられていた。
この道が”名残り”ということだろうか?


目の前に吾妻神社の鳥居があった。
この神社は日本武尊の后(妻)、弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)が夫の武運を祈り、海に身を投げた。
その後海辺に流れ着いた櫛を吾妻山山頂に埋めた場所だと伝えられている。
役場横の階段を登った山の頂上には公園があり、相模湾を見下ろせて、眺めは格別だそうだが、
距離は短いとは言え、これから登山は大変だ、先へ進もう。


大きな釜が置かれていた。
隣の醤油漬物醸造工場(ヤマニ醤油)で実際に使われていた釜だ。
ヤマニ醤油は、江戸時代の天保十三年(1842)にこの醤油蔵を開いたと伝えられており、
二宮町で創業165年という老舗、だそうだ。


緩やかな坂道を上って行くと、


右手に等覚院があった。
別名藤巻寺と呼ばれ、薬師堂の前には町の天然記念物に指定されている古い藤の木がある、とのことだが、
寺の境内は葬儀の様子のように感じられたため、中へ入るのは控えた。


もとは吾妻神社にあったと伝えられる梵鐘は、町指定の重要文化財となっている。
(道路から見えたのでカメラに収めた)


二宮消防署山西第一分団詰所の前で、団員総出?で消防車の点検らしき作業が行われていた。
(今年の2月に消防車を入れる倉庫が新しくなったそうである)
『御苦労さまですっ!』
詰所の直ぐ前にたくさんの道祖神などの石碑が並べられていた。


11時58分、日本橋から75Kmの地点を通過。


道路の反対側に一里塚の跡碑があった。
「江戸より十八里」の一里塚があった場所に、昭和57年一里塚の跡の碑が築かれた。
既に8Kmほど歩いているが、この日初めて見る一里塚碑だ。


観通しの良い、長くて緩やかな車坂を下る。


中村川の押切橋を渡ると・・・


二宮町???
途中で別の町を通った覚えはない筈だが・・・


数10mも行かないうちに今度は小田原市に入った。
どういうこと???
(押切橋でいったん小田原市となるが、直ぐに二宮町の小さな飛び地になっていることが分かった。
その小さな飛び地を過ぎたとたん、再び小田原市になったということだと思われる)


小田原市に入ると、左手に海が見えてきた。相模湾である。
遠くに霞んで見えるのは、熱海・伊東方面と思われる。


史跡車坂碑が立っていた。


太田道灌、源実朝・北林禅尼(阿仏尼)が詠んだ歌碑が掲げられている。


車坂碑の前の木陰で一休み。


車坂碑からほんの少し先に大山道の道標が立っていた。
大山道は大山阿夫利神社へ参拝するための道で、その案内標識が大山道道標である。
不動明王像の下に”従是大山道”、横面には”大やまみち”と刻まれている。


12時33分、ガストの看板が目に入った。
そろそろ昼食の頃合いだが、これより1.7Km先とある。
国府津駅より先のようだ。


のんき亭を通過。


12時42分、日本橋から78Kmの地点を通過。
大磯駅を出発して直ぐに68Kmの標識があったので、10Kmを過ぎている。
そろそろゴールの国府津駅だ。


12時43分、この日のゴール国府津駅に到着。
しかし、駅前にはレストランなど店は見当たらない。
こうなったら、食事場所を求めて『小田原駅まで行こうっ!』ということに。
休日お出かけパス、青春18キップだから小田原まで別に料金は必要ない。


13時11分、小田原駅に到着


小田原城も我々を迎えてくれている?


うまい具合に駅前に個室割烹料理屋があった。


ゴールしたことだし、兎に角生ビールで乾杯だ。
『かんぱ~いっ!』『お疲れ様~っ』
いつもは遠慮してかあまり飲まない女性も、この日ばかりは我慢できないようだ。
『美味しいっ!』


『生ビールが一番っ』


刺し身定食(980円)を注文。
刺し身は新鮮で、ご飯(新潟産こしいぶき)もけっこう美味かった。


『海鮮丼美味しかったなぁ』
『次また来ても良いわねぇ』
皆さん大満足の様子。


せっかく小田原に来たことだし、何か土産でも買って帰ることにしよう。


『何にしようかなぁ』
皆さん、迷っている様子。
晩酌のつまみに魚のすり身の天婦羅を買うことにした。


14時45分、小田原駅改札口に集合。


ホームの椅子に座り、ちょっと疲れた様子。


帰りの東海道線車内
『久しぶりに飲んで今日は楽しかったわぁ』
すごぶるご機嫌である。
『今日は大変お疲れ様でしたぁ』


「旧東海道を歩く」第八回目(大磯宿~国府津)を歩き終わった。
この日は曇り空で、昨日までの猛暑は影を潜めてくれたお陰で、何とか最後まで歩き通せた。
来月はいよいよ小田原入りである。
最後まで元気に楽しく歩きたいものである。

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