ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(2日目)

2018年10月29日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年10月29日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」第Ⅲステージ第5回(2日目)は、四日市宿(近鉄四日市駅)~
石薬師宿(JR加佐登駅)を歩くことにする。

ホテルの食堂
7時頃だったがそれほど混んではいなかった。


朝食は無料である。
メニューは簡単なものだったが、この日の朝食は駅周辺のファミレスのモーニングあるいは
コンビニのおにぎりを想定していたので、助かった。


7時44分、三交インを出発!


近鉄四日市駅のガード下を抜けて国道1号方面へ。


スワマエ商店街に東海道の垂れ幕が下がっていた。


スワマエ商店街のアーケードを進むと、


中央緑地帯のある広い中央通りに突き当たった。


中央通りを横断して旧東海道へと進んだが、朝の時間帯で車も少なかったためか、
横断歩道を無視して渡る人も見かけた。


佛法山 宗顕精舎 左横面に丹羽文雄生誕之地と刻まれた石柱が建っていた。
”哭壁””蓮如”を残した作家丹羽文雄は、宗顕寺で生まれ少年期を過ごした、そうである。


街道沿いの旧い家
連子格子が美しい。


和菓子屋「東京堂」前を通過
主人と思しき人が店の前の道路を箒で掃いていた。


近鉄名古屋線の高架橋(諏訪赤堀線架道橋)下を進む。


街道沿いの旧い家
大きな家である。


旧東海道は狭いのだが、意外に車が多い。
車がすれ違う度にどちらかが道を譲るのがルールのようだ。


落合川を渡る。


東海道の標識
案内板によると現在、四日市宿と日永の中間地点を歩いていることになる。
もうすぐ鹿化(かばけ)橋だ。


鹿化橋


鹿化川


鹿化川を渡ると道路は大きく右に曲がって、一段と狭くなった。
それにしても車が多い。
歩き難いことこの上ない。


大宮神明社
永宮さんとも呼ばれ、主祭神として天照大御神を祀る。


大宮神明社拝殿
400年ほど前に炎上し、当時出来つつあった東海道に遷ってきたのがこの社である。


垂仁天皇の時代、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を伊勢の地にお遷しする際、
この社に一時お留まりになったという伝えもある。


境内に皇大神宮遙拝所の碑が建てられていた。


風格のある家である。
ほんの一瞬だが当時の街道を歩いている気分にさせてくれる。


天白川に架かる天白橋を渡る。


天白川


広い通りを横断して進むと、


8時53分、日永神社に到着した。
日永神社の創祀は鎌倉時代建仁年間とされる。


鳥居脇に石柱と追分道標の説明板が。
この石柱は昔、日永の追分の神宮遙拝鳥居の傍に立てられていた道標である。
この道標の正面に「大神宮 いせおいわけ」、右側面に「京」、左側面に「山田」
そして裏面には「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」と刻まれている。


この道標が立てられた明暦二年(1656)といえば、神宮遙拝鳥居が建立された時よりも
約120年も前であり、東海道における最古の道標としても貴重なものである。


日永神社の参道を進む。


日永神社拝殿
昔、南神明社と言われており、主祭神として天照大御神を祀る。
日永神社という単称が許されたのは明治40年からである。


大宮神明社にあったものと同じような皇大神宮遙拝所の碑があった。


日永神社の直ぐ隣に建つ長命山薬師堂
鎌倉時代中期の制作と云われる檜材による寄せ木造りの薬師如来座像が安置されており、
市指定有形文化財(彫刻)となっている。
(四日市市教育委員会)
戸は閉じられており、内部は見えなかった。


街道沿いの旧い家


東海道総合案内図があった。
現在地は、四日市あすなろう鉄道内部線の南日永駅を少し過ぎた辺りだ。


日永一里塚跡
日本橋から100番目の一里塚である。
(四日市あすなろう鉄道内部線泊駅入口辺りで、この一里塚碑を見落としたことに気付き、
戻って来て撮ったという次第)


名残の松
富田の”かわらずの松”と並ぶ唯一残った松である。
こちらは、”東海道名残りの一本松”と呼ばれている。


9時22分、四日市あすなろう鉄道(近鉄)内部線泊駅入口を通過しようとした際、日永一里塚跡を
見落としていたことに気が付き、日永一里塚跡まで戻ることにした。
0.8Kmほど行き過ぎていたため、往復では約1.6Kmとなり、25分ほどタイムロスしてしまった。


東海道日永郷土資料館
何か街道歩きに参考になる資料でもと思って営業日に目をやると、


何と、土日と水曜日以外は休館日となっていた。
残念!


9時49分、国道1号に合流し、


9時52分、日永の追分に到着した。
「日永の追分」は東海道と伊勢街道の分かれ道である。


日永の追分説明板


追分道標
左いせ本宮道 右京大阪道と刻まれている。


神宮遙拝御鳥居(伊勢神宮の二の鳥居)は、安永三年(1774)久居出身で江戸にいた渡辺六兵衛
と言う人が、江戸から京都へ行くとき、ここから伊勢神宮を遙拝するようにと思って立てたものである。
道路が拡幅される前は街道を跨いで立っていた。
鳥居は皇大神宮の遷宮に合せて、二十年ごとに建て替えられることとなっていた。
今の鳥居は、昭和五十年に建て替えられたもので、最初の鳥居から数えて第九次の鳥居となる。


二の鳥居の傍に神宮遙拝御鳥居碑が建てられていた。


旧東海道を進む。


四日市あすなろう鉄道(近鉄)内部線追分駅を通過


追分駅前の旧東海道の道標


旧東海道を進む。
裏通りといった感じで、車は少なく歩きやすかった。


大蓮寺
当山の縁起は、当町南面に土岐代康氏が居城し、その跡に八幡宮を勧請した。
祈願所を米田山珠寳法鎮寺と号した、とのこと。


大蓮寺本堂


小許曽神社(おごそじんじゃ)入口


細い参道を進んで行くと鳥居があり、


その先に小許曽神社拝殿があった。
昔より産土神として地元民に崇拝されており、醍醐天皇の御代延喜五年(905)式内神社と、
神名帳に記載されているところから、伊勢の国の235の大・中・小社の一小社として1100年程の
歴史を有する神社である。


小許曽神社
厳かな感じがする。


旧街道は大きく右に曲がっていた。


願誓寺前を通過し、


道なりに進む。


山中胃腸科病院前の県道407号小古曽交差点に旧東海道道標があった。


県道407号を横断したところに東海道と刻まれた石柱があった。
こういう道標を見つけると安心する。


しばらく進み、見えて来たのは内部(うつべ)橋である。


内部川を渡る。


内部川を渡って石段を降り、今渡って来た内部橋を潜って道路反対側へ。


道路反対側の直ぐ先の石段を上がり、堀に架かる橋を渡ると、
MAX VALUの看板が見えた。


MAX VALUの前で道は二つに分かれている。
旧東海道は左側の道で、右は国道1号である。


ここで、休憩のためMAX VALUに立ち寄り、昼の弁当と果物などを買った。
この日は朝から腰の調子が思わしくない。
昨日歩き過ぎたせいかもしれない。
背中の腰の辺りにいつも持ち歩いているバンテリンを塗って、様子を見ることにした。


旧東海道を進む。


右に大きく曲がり、


道なりに進んで左に折れると、小さな金刀比羅宮が鎮座していた。


金刀比羅宮の前の急坂の道を上って行くと、


道の左側に何かの碑が。


史跡杖衝坂の碑である。
杖突坂とも書き、東海道の中でも急坂な所。
日本武尊が東征の帰途、大変疲れ「基地より、やや少しいでますにいたく疲れませるによりて、
御杖を衝かして、稍に歩みましき、故基地を杖衝坂といふ」(『古事記』)とあり、
その名が称されるようになり、加えて、芭蕉の句「歩行(かち)ならば 杖つき坂を 落馬かな」により、
その名が世に知られることになった。


井戸と説明板
杖衝坂にある二つの井戸は、坂の上手の井戸を「弘法の井戸」、下手のものを「大日の井戸」
といい、前者は弘法大師が水に困っている村人に杖で指し示され、そこを掘ったところ
清水が湧き出た井戸であると伝えられている。
後者は、坂の中腹にあった大日堂に供える閼伽水(仏に手向ける水)を汲み上げた井戸と伝承されている。
写真は「弘法の井戸」
(芭蕉の句碑の左側に「大日の井戸」があったようだが、見落としてしまった)


芭蕉の句碑
歩行ならば 杖つき坂を 落馬かな
貞享四年(1687)松尾芭蕉は紀行”笈の小文”の道中、伊賀へ向かう途次に
杖衝坂を馬で登っていたところ、落馬の憂き目にあってこの句を詠んだ。


さらに急坂を上る。
厳しい勾配の坂道のため、脚は疲れるし息も上がる。


黒塗りの土蔵の先に、


血塚社があった。


日本武尊御血塚社
日本武尊命が傷ついた足から流れる血を封じた場所と伝えられている。


采女(うねめ)の一里塚跡の説明板
日本橋から101番目の一里塚。
采女一里塚は、戦後しばらく土盛りした土に木柱が立っていたが、昭和30年から40年代にかけて行われた
国道1号線の拡幅工事で姿を消した。
その後昭和62年(1987)「郷土の文化遺産を後世に残そう」という地元采女町の取り組みに
地元の企業が協力して敷地と費用を提供し、国道1号線を挟んだ反対側、約100m西のガソリンスタンド脇に
石碑が建てられている。


少し進むと、旧東海道は国道1号と合流した。


旧東海道の道標


国道1号反対側のガソリンスタンド脇に采女一里塚跡の碑があった。


しばらく国道1号を進むと、


12時2分、鈴鹿市に入った。


国道1号から分かれて旧東海道を進むと、


延命地蔵尊(右)と単直庵(左)という小さなお堂が並んで建っていた。


旧東海道沿いにある旧い家


旧東海道を進む。


国道1号を横断し、旧東海道を進む。


また道路が二つに分かれていた。


12時21分、東海道の標識に従って右へ進むと、直ぐ左手に石薬師宿の碑が現れた。
石薬師宿は、江戸から数えて44番目の宿である。


石薬師宿入口に北町の地蔵堂がある。
延命地蔵尊で、家内安全・交通安全を祈願すると霊験あらたかといわれる。
江戸時代、東海道の宿場として賑わった石薬師宿の入口に旅の安全のために建てられ、
宿場を往来する人々の信仰を集めた。


地蔵堂の前に小公園と東屋があったので、


弁当タイムにした。
MAX VALUで買った弁当である。


これより南 石薬師宿 信綱かるた道
1.8Kmの間に信綱かるたの短歌50首を掲示している、とある。


歩き出すと直ぐに佐々木信綱の短歌が掲示されていた。
湯の宿の つんつるてんの 貸し浴衣 谷の夜風が 身にしみるなり


佐々木信綱の和歌
氷りたる 水田にうつる 枯木立 心の影と 寂しうぞ見る


旧い家があり、


その軒先にも佐々木信綱の和歌が掲示されていた。
一すぢの 煙をあとに のこしおきて 沖をはるかに 船はゆくなり 十歳作とある。


12時50分、大木神社鳥居前を通過
大木神社は石薬師の氏神様で、椎の森に囲まれた拝殿がある。


小沢本陣跡
歴史を感じさせる建物である。


小沢本陣跡の説明
東海道石薬師宿は元和二年(1616)、幕命によって設置された。
この時から、村名も宿の名も「石薬師」となった。
当時、石薬師寺が近郊近在に知れ渡っていたので、寺名をとって村名とした。
小澤家が本陣を勤めていた。
小澤本陣のまわりには高い松の木があったので、別名「松本陣」とも言われていたという。
小澤家には当時の文書が多く残されており、元禄時代の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の
名も見える。
(石薬師地区明るいまちづくり推進協議会)


小沢本陣跡に掲示されている佐々木信綱の和歌
障子から のぞいて見れば ちらちらと 雪のふる日に 鶯がなく 五歳作とある。


天野記念館
天野修一翁はタイムレコーダーで名高いアマノ(株)の創業者である。


12時55分、鈴鹿市立石薬師小学校を通過


石薬師文庫
石薬師小学校に隣接している。
佐佐木信綱が還暦にあたり旧石薬師村に寄贈したもので、現在も図書館として
ボランティアにより運営されている。


佐々木信綱資料館(記念館)
明治・大正・昭和にわたり、歌人・歌学者として万葉集研究の最高峰を究めた佐々木信綱博士
の業績を顕彰するとともに、市民の文化の向上と広く文学の研究に寄与するため、博士誕生の
地に建設された。
著作や遺品などが収蔵・展示されている。
♪卯の花の匂う垣根に 時鳥(ほととぎす)早も来鳴きて♪ 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ♪
の作詞者として知られる。


資料館の隣に信綱の生家がある。


県道115号を横断したところに信綱の孫にあたる佐々木幸綱の歌碑と
しゃくなげを 愛し短歌を すずか嶺を愛し 石薬師を 愛したる人 幸綱


信綱の父佐々木弘綱翁の記念碑が建てられていた。


真宗高田派の浄福寺
開基(創建)は室町時代の永正年中(1504~1520)と伝えられている。
佐々木家累代の菩提寺である。


旧東海道沿いの旧い家


国道1号を跨ぐ瑠璃光橋を渡る。


瑠璃光橋の下を国道1号が走っている。
(写真は、加佐登方面)


瑠璃光橋を渡ると右手に石薬師寺の大きな看板があった。


石薬師寺の裏の山門を入る。


高富山石薬師寺の薬師如来と薬師堂
聖武天皇の時代の神亀三年(726)、泰澄(たいちょう)・空海(弘法大師)の開山。
弘仁年間(810~823)の開創と伝えられる。
東海道の名刹として知られ、参勤交代の大名が必ず参詣したという。
本尊の薬師如来像は、弘法大師が土中から現れた霊石に1日で薬師如来を刻み込んだと伝えられ、
厄除け信仰を集めている。


弘法大師像


中門を抜け


正門を出て石薬師寺を後にする。


旧東海道を進む。


旧東海道沿いの旧い家


緩やかな坂道を上って行くと、


鈴鹿川の支流蒲川に架かる蒲川橋があった。


蒲川を渡ると、


13時21分、左手に史跡 石薬師の一里塚碑に到着した。
江戸より102番目の一里塚である。
信長記には、天文九年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて四十町を一里として一里塚を築かせ、
その上に松と榎を植えさせたという。
くたびれた やつが見つける 一里塚」(江戸の川柳)


信綱かるた道はここで終わっていた。
生家にゆくと 弱かりし母が 我をせおひ 徒渉せしか 此の甲斐川を


次の宿場は庄野宿となる。


旧東海道は、JR関西本線の線路を潜って右に折れ、


JR関西本線に沿って続いている。


国道1号とJR関西本線が交差している。


今度は国道1号に沿って進むと、


旧東海道の道しるべがあり、


国道1号を潜る。


国道1号を潜って道なりに進み、小さな川を渡り、


県道27号の下を通り抜けると、


国道1号に合流した。


しばらく国道1号を進む。


国道1号から分れて右側の道路を進み、


JR関西本線の踏切を渡ると、


左手に加佐登駅が見えた。


加佐登駅へ。


13時49分、加佐登駅に到着した。


時刻表を見ると、次の四日市・名古屋方面行きは14時34分だ。
あと40分ほどここで待つしかない。


14時34分、JR関西本線名古屋行きに乗り、


名古屋駅には15時35分に到着した。
15時35分発のひかり号が出た直後だった。
次のひかり号は16時26分発である。
のぞみ号は本数は多いが、大人の休日倶楽部では、指定券を別に購入しなければ
のぞみ号には乗れない。
ひかり号を待つ間、数本ののぞみ号を見送った。


16時26分発のひかり526号で品川駅に向かった。

品川駅には18時3分に到着。
通勤時間帯だったが、18時24分発の常磐線には何とか座れて一安心。

第Ⅲステージ第5回目(桑名宿~石薬師宿)の2日目(四日市宿から石薬師宿)を歩き終わった。
次回(第Ⅲステージ第6回目)は、石薬師宿(JR加佐登駅)から関宿(JR関駅)を予定している。

この日の万歩計は、28,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く第Ⅲステージ第5回 桑名宿~石薬師宿(1日目)

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