ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(1日目)

2019年05月19日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2019年(令和元年)5月19日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第6回(1日目)は、庄野宿(JR加佐登駅)~亀山宿(JR亀山駅)である。

東京駅7時33分発の新大阪行きひかり503号は、定刻通り9時17分に名古屋駅に到着した。


出発地の加佐登駅に向かうため、先ず名古屋駅から関西線四日市行き快速に乗る。


四日市駅から後から来た各駅停車の亀山行きに乗り替え、


11時2分、この日のスタート地加佐登駅に到着した。
家を出てから5時間半が経過していた。


11時3分、加佐登駅を出発!


加佐登駅前を亀山方面へ進み、


踏切を渡って、


500mほど進むと、庄野町西交差点があり、11時11分、東海道庄野宿の入口に到着した。


東海道庄野宿の碑
庄野宿は東海道45番目の宿場である。


安藤広重が描く「東海道五十三次」の風景版画の傑作といわれる、
「庄野の白雨」が知られている。


旧街道を進む。


庄野宿資料館
庄野宿に残る膨大な宿場関係資料の活用と旧小林家(市指定文化財)の保存を進めるため、
主屋の一部を創建当時の姿に復元して、平成10年に開館した。
入館料は無料だが、内部の写真撮影は遠慮して欲しいとのこと。
内部は言うに及ばず、実物大の高札や減免陳情書控え、焼き米など一切撮らせてもらえなかった。


ただ、中庭の撮影だけはOKだった。
(中庭だけ撮ってもしようがないのだが・・・)


庄野宿資料館の直ぐ先の庄野町集会所に、庄野宿本陣跡の標柱が建てられていた。
”距津市元標九里拾九町”とあるのは、津までの距離(38㎞)と思われる。


庄野町集会所の左隣に高札場跡の立札が。
立札が建っている家が庄野宿脇本陣跡である。


高札場跡の説明板
庄野宿資料館には人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示してある、とある。
(庄野宿資料館が撮影禁止で紹介できないのが残念で仕方がない)


郷会所跡


郷会所は助郷の割当を受けている各村の代表者(庄屋または肝煎)が集会する場所であった。
江戸時代も後期になると助郷人馬の割当が多くなり、該当の村々の疲弊が重なり、
減免陳情のための会合が繰り返された。
庄野宿資料館には陳情書の控え等が保管されている、とある。


延喜式内川俣神社


川俣神社社殿


神社境内の奥に県指定天然記念物スダジイの巨木がある。


高さ11m、幹周り5m、樹齢300年と云われる古木である。


庄野宿の提灯を提げた連子格子の古い家が、街道の面影を偲ばせてくれる。


比較的新しい東海道庄野宿道標の右側を進む。
この辺りが庄野宿の西口(京口)になる。


11時44分、国道1号に合流した。


合流点の国道1号に面して上手い具合にコンビニがあったので、おにぎりと菓子パンを買い、


地下通路を潜って国道1号の反対側へ。


県道637号の高架橋下を潜り、


旧街道は左に折れている。
汲川原東バス停を通過すると、


平野道と書かれた道標があった。
いぼとり地蔵 この奥50mとある。


旧街道を進んで行くと、


右側に従是東神戸領と書かれた領界石が建っていた。


反対側にも従是東神戸領の碑と女人堤防の碑が。


従是東神戸領の領界石


女人堤防の碑


女人堤防碑の説明
この辺りは安楽川と鈴鹿川の落ち合う処で、度々水害があり、人々は悩まされていた為、
文政十二年(1829)頃、築堤を神戸藩に申し出たが許可が出なかった。
そのため、女であれば許可がなくても罪が軽くなるだろうと、女性たちが禁を犯し打ち首を覚悟で
6年の歳月をかけて堤防を築き、補強したところである。
いったん捕らえられたものの、その後許され労をねぎらわれた。
(赤色で示されているのが、女人堤防)


今も女人堤防の一部が道路の両側に残っている。


12時15日分、旧街道を進むと式内川俣神社があった。


川俣神社社殿


お昼も過ぎていたので、境内の大木の下でコンビニで買ったおにぎりを食べた。


川俣神社には中富田一里塚跡碑がある。
江戸日本橋から数えて103里目の一里塚跡である。


中富田一里塚の説明
中富田村は、亀山領の東端にあたり、隣の神部領との境界を接する村である。
享和三年(1803)に作成された「東海道亀山宿分間絵図」には、中富田村川俣神社の
東隣に街道を挟んで「一里塚」が描かれている。
大きな木の繁みのある大規模な塚であり、榎木の大木があったといわれている。
平成十三年十月 中富田一里塚保存会


一里塚碑の隣に従是西亀山領の領界石が建てられていた。


旧街道を進む。


富光山常念寺
天台真盛宗総本山西教寺の末寺である。


常念寺は、承応年間(1652-54)智詮和尚の開基と云われ、かつては別の場所にあったが、
安政元年(1818)の大地震により倒壊し、同じ村内にあった平建寺を買収して現在地に移転した。
本尊阿弥陀如来を祀る常念寺本堂


境内には、平建寺の本尊だった延命地蔵尊を祀った地蔵堂などがある。
真言宗白波山平建寺本尊延命地蔵尊の標柱が建っている。


延命地蔵堂の直ぐ近くの小さな地蔵堂にお地蔵さまが祀られていた。


十字路右角に道標らしき碑が建っていた。


ひろせ道と刻まれている。


安楽川の堤防手前に西富田の川俣神社があった。


庄野宿・中富田に続き3社目の川俣神社で、ここも「式内川俣神社」の社標があり、
延喜年間(901-22)の時代に、すでに存在していた神社である。


安楽川に架かる和泉橋を渡る。


安楽川
江戸時代、平水時は土橋、出水時は徒歩渡しだった、そうである。


和泉橋を渡って左へ進む。


13時ちょうど、和泉町公民館前を通過


旧街道を進む。


街道左手に小さな地蔵堂らしきお堂があり、


中には観音菩薩と思われる端正な顔立ちの石仏が祀られていた。


連子格子の趣のある古い家を過ぎ、


小田坂の下バス停を通過すると、


13時9分、極楽山地福寺に到着した。


極楽山地福寺には、常夜燈や観音堂、明治天皇御小休所石碑がある。
その他にも地蔵像や、


百度石なども。


13時21分、関西線の踏切を渡る。


13時32分、左手に井田川駅舎を見ながら通過。


国道1号を川合歩道橋で横断すると、


旧街道は少し先を左に折れて、法悦題目塔の方向へ。


旧街道を進む。


川合椋川橋を渡る。
昔、椋川がしばしば氾濫し、多くの家屋が浸水したため、安永年間(1624-44)頃、
亀山藩士生田理左衛門が私財を投げうって水流を南に変え、橋を架け替えたので、
理左衛門橋と呼ばれた。


椋川


国道1号亀山BPを潜る。


ひょうたんがびっしり


法悦題目塔
東海道の川合と和田の境にあり、昔から「川合のやけ地蔵さん」 「法界塔さん」と呼ばれている。
総高2.5mで、塔身の正面に「南無妙法蓮華経」、右側に「後五百歳中廣宣流布」、左側に「天長地久國土安穏」、


そして背面に「施主谷口法悦」と刻まれている。


和田の道標
「東海道分間延絵図」には「脇道として神戸城下町へ三里半、白子町へ三里、
若松村へ三里三十四丁」と記され、亀山城下より亀山藩領若松港への重要道路であった。
市内に残る道標の中で最も古い。


旧街道を進む。


石上寺
右手段上に高野山真言宗の石上寺(せきじょうじ)がある。
正面に遊歌詠浄土と刻まれた石塔が建てられている。


石上寺本堂
石上寺は、延暦十五年(796)大和国布留郷(奈良県天理市)の住人「紀真龍」により
勧請された「新熊野三社」の神宮寺として開創されたという。
鎌倉時代には将軍家祈祷所となるなど手厚い保護を受け、広大な伽藍寺領を誇ったが、
織田信長の伊勢侵攻による兵火で伽藍等を失い、衰微したと伝えられる。


東海近畿地蔵霊場第5番地蔵堂


弘法大師像


石段を上ると、


仁王護国般若経石塚が。


三重四国八十八箇所霊場の石仏の間を奥へ進むと、
鐘楼と社殿が見えた。


熊野三社を祀る拝殿、とのこと。


14時29分、和田の一里塚に到着した。
江戸日本橋から数えて104里目の一里塚である。
この一里塚は、亀山市内に所在する野村一里塚と共に慶長九年(1604)の幕府の命により
亀山城主であった関一政が築造したものである。


かつては榎が植えられており、昭和59年の道路拡張までは塚の一部が遺されていた。
現在の塚は、塚跡地の東側に近接する場所に、消滅した和田一里塚を偲んで模式復元したものである。


旧街道を進む。


亀山ローソク前バス停を通過すると、


左手に亀山ローソクの本社工場があった。


道路の分岐点に鳥居があった。


能褒野神社(のぼのじんじゃ)
明治時代に創建された神社で、旧社格は県社。
日本武尊を主祭神とし、建見児王および弟橘姫命を配祀する、とのこと。


鳥居を潜って150mほど進んでも神社らしき建物は何も見えなかった。
これ以上進むのは諦めて、ここで引き返した。
(能褒野神社は、ここから北北東3㎞のところにあるそうで、引き返して正解だった)


露心庵跡
能褒野神社鳥居の直ぐ先に露心庵跡がある。


露心庵跡の説明
天正十二年(1584)神戸正武が亀山城を急襲したが、城を守る関万鉄斎はわずか13騎でこれを撃退した。
この合戦の戦死者を城下東端に2つの塚を築き葬ったという。
関氏一門の露心はその近隣に仏庵を建立し戦死者を供養した。
この仏庵が露心庵で、本来の名称を友松庵というが、建立した露心の名から露心庵と呼ばれていた。
明治に至り廃寺となった。
この庵から西が亀山宿となる。
(亀山市教育委員会)


宿場の面影を残した古い家が続く。


巡見道
十字路角に東屋のある本町広場があり、傍らに巡見道解説が建っている。
巡見道という呼称は、江戸時代にこの道を巡見使が通ったことによる。
巡見使が最初に派遣されたのは、三代将軍家光の寛永十年(1633)のことで、
その後将軍の代替わりごとに、諸国の政情、民情などの査察や 災害などの
実情調査を行う目的で実施された。


巡見道は、ここで東海道から分岐して北上し、菰野を経て濃州道と合流した後、
伊勢国を通過し中山道とつながる。
(左が東海道亀山宿方面になる)


旧東海道を進む。


次第に古い家が多くなってきた。


連子格子の旧家が左右に建っている。


これらの家には、「はまだや跡」 「みかわや跡」 「きりや跡」 「まつばや跡」 「なべや跡」
「おけや跡」など、かつての屋号が掛けられている。


江戸口門跡
県道566号線に突き当たると、左角に江戸口門跡の解説があった。
解説によると、江戸口門は延宝元年(1673)亀山城主板倉重常によって築かれ、
東西120m、南北70mで、北側と東側に塀を巡らし、土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、
東端には平櫓が一基築かれていた。
曲輪内は3つに区画され、それぞれが枡形となっていた。
この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計2万人が動員されている。
江戸口門は東海道の番所としてではなく、城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門
と位置づけることができる。
現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路に
その名残をとどめている。
(亀山市教育委員会)


江戸口門跡を直角に右に曲がると東町商店街入口になる。


東町商店街を進む。


東町商店街を進む。


東町商店街の端の江ヶ室交番前に東海道の標識があった。
旧東海道はここを左折することになるが、それは明日にして、
この日は亀山城跡へ向かうことにして、真っ直ぐ進むことにした。


亀山西小学校を通過。
なかなか立派な建物である。


続いて亀山市役所前を通過すると、


15時36分、亀山城跡に到着した。
伊勢亀山城は、文永二年(1265)に関実忠が最初に築城し、元亀四年(1573)織田信長により
関盛信が追放されるまで、関氏16代の居城であった。
天正十八年(1590)岡本宗憲が入城後、新たに築城したとされ、『九々五集』には
本丸・二之丸・三之丸からなり、天守も建てられたと記されている。
明治六年の廃城令によりほとんどの建造物は取り壊され、現在は多聞櫓と
石垣・土塁・塀の一部が残されているに過ぎない。


亀山城址碑


本丸多門櫓と城郭石垣
多門櫓は、原位置のまま遺存する唯一の城郭建築として昭和28年に三重県指定文化財に指定されている。


本丸御殿跡から見た多門櫓


明治天皇行在所
解説によると、
明治天皇は、明治十三年(1880)三重県下御巡幸の折、7月10日東町藤屋(伊藤市次郎宅)
を行在所とされ、10日・11日の両日にわたり名古屋・大坂両鎮台対抗演習をご統監されました。
この建物は、この折玉座とされた奥8畳間など行在所の一部が移築保存されてきたものです。
建物はまず井尻町に移されましたが、昭和10年(1935)亀山小学校(現亀山西小学校)地内に移築され、
同14年三重県史跡に指定されました。
同26年には市指定文化財(建造物)となり、同32年亀山城多門櫓石垣北側に再移築されました。
なお、平成23年多門櫓石垣修復に伴い、石垣保護のため現在地に移動しました。
何と4度も移転している。


亀山神社
亀山城址にある亀山神社は、江戸時代中期の延享元年(1744)備中国松山から
石川総慶が亀山城に入城した際、城内に小祠を設けて奉斎したのが始まりとされる。


大久保神官家棟門
江戸時代に南埼権現社の神官であった大久保家の邸宅門だった。


亀山神社拝殿
亀山宿に無事到着したことを報告!


宝篋印塔基礎部
正慶元年(1332)の銘があり、市内の石造物としては最古である。


楠門跡の碑前を通り、


坂道を下って行くと、


関見櫓跡の碑があった。
関見櫓は、西出丸の二重櫓で亀山城西端の関町方面を望見する位置にあることから、
関見櫓と呼ばれた。
(亀山市教育委員会)


本宗寺前を通り、亀山駅へ向かうため、旧東海道へ。


亀山城西之丸外堀跡


西之丸外堀は、寛永十三年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、同十六年から
3ヵ年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたという。
江戸時代の絵図には石垣を示す表現はなく、すべて土造りの空堀か水堀であったと推測されている。


亀山城西之丸外堀跡の先に亀山藩主石川家家老加藤家屋敷跡が残る。
現在屋敷内に残されている長屋門は江戸時代中期に建てられたもので、三重県内に残る
数少ない武家屋敷の遺構として貴重なことから昭和25年に亀山市指定文化財に指定されている。


石川家家老加藤家屋敷
一般公開されており、開館日は土曜日・日曜日・祝日で、入場は無料となっている。


道が分岐しており、


左方向に亀山城の多門櫓が見えた。


右に曲がり、亀山駅を目指すことにした。


左前方にこの日の宿泊先APA HOTELが見える。


亀山駅へ。


16時14分、亀山駅に到着。
電車の時刻表などを確認し、


APA HOTELへ。


APA HOTELの近くには「はま寿司」や、


ラーメン「えびすや」がある。
夕食に困ることはなさそうだ。


APA HOTELに隣接してコンビニもある。
これは助かる。


16時56分、APA HOTELに到着した。

一息入れて、「はま寿司」、ラーメン「えびすや」へ向かった。


第Ⅲステージ第6回目(庄野宿~関宿)の1日目(庄野宿から亀山宿)を歩き終わった。

この日の万歩計は、26,000歩余を計測していた。
少々疲れた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(2日目)

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