ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(2日目)

2019年05月20日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2019年(令和元年)5月20日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」第Ⅲステージ第6回(2日目)は、亀山宿(JR亀山駅)~
関宿(JR関駅)を歩くことにする。

朝、ホテルの窓から外を見ると、霧雨のような小雨が降っていた。
ここで引き返していては来た甲斐がない。
予報では午前中は降ったり止んだりなので、傘を差してでも行くしかない。


先ずはホテルの食堂へ。
バイキング形式で、和食・洋食の両方から選べる。


7時ちょっと過ぎだったが食堂は空いていた。
というより、宿泊客の多くは既に食事を終えていたようだ。


メニューは簡単なものだった。
パンにサラダに味噌汁、煮つけ。食後に果物・コーヒーといったところか。
ホテル宿泊の場合、自分が選ぶのは大体こんなメニューである。
朝食は宿泊代込みで5,200円だった。


7時45分、APA HOTELを出発!


先ずは北方面の「はま寿司」の方向へ。
昨夜夕食で訪れた店である。


県道565号商工会議所前交差点を横断し、緩い坂道を東町商店街へ。


7時57分、東町商店街に到着した。


東町商店街を市役所方面へ進むと、


ほどなく江ヶ室交番前に到着した。
昨日はここを真直ぐ亀山城址へ進んだ所である。


この日は交差点を左折して進むことにする。


遍照寺
微妙に曲がる道を進むと、左手に天台真盛宗の延寿山地蔵院遍照寺がある。
鐘楼門を潜ると急な坂で、坂の下に本堂があるため「頭で鐘撞く遍照寺」と云われた、そうだ。


屋号札の掲示の説明板
亀山市は、江戸時代の城下町、また東海道46番目の宿場町として栄えた町です。
そんな亀山から近年急速に古い建物が姿を消し、路地もさびれて、以前の賑わいも見られなくなりました。
かかる現状を憂え、協議を重ねた結果、歴史的な町の佇まいを復活する最初のプロジェクトとして、
屋号の木札を作り、該当する家に掲てもらうことを始めました、とある。
(以下略)
平成十三年十月 きらめき亀山21 町並み保存分化会(宿場の賑わい復活一座に改名)


屋号のある家
東海道亀山宿 万町いせや跡


屋号のある家
東海道亀山宿 万町だいさく家跡


古い大きな屋号のある家
東海道亀山宿 万町あらものや跡 の前を通り、緩やかな坂道を下って行くと、


右側に池があった。


県道302号を渡ると坂道の上り口に東海道亀山宿の碑が建っている。


緩い坂道を上って道なりに右に曲がって行くと、
旧館家住宅の案内表示があった。


東海道亀山宿 おかだや本店前を通過すると、


旧舘屋住宅(枡屋)があった。
枡屋は、幕末から大正にかけて呉服商を営んでおり、現在の主屋は明治六年(1873)に
建てられたものである。
木造2階建てのこの建物は、亀山宿を代表する商家建築として、平成19年市指定文化財に
指定されており、一般公開されている、とのこと。


亀山城西之丸外堀跡
この西之丸外堀は、寛永十三年(1636)に亀山城主となった本多俊次により、
同十六年から3年かけて行われた亀山城修築の際に築かれたという。
江戸時代の絵図には石垣を示す記述はなく、すべて土造りの空堀か水堀であったと
推測されている。


旧東海道を進む。


旧東海道を進む。


京口門跡碑があった。


京口門跡の解説
亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。
「九々五集」によれば、亀山藩主板倉重常によって寛文十二年(1672)に完成したとされる。
翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに亀山城惣構の城門として位置づけられ、
両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。
往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、
亀山に過ぎたるものの二つあり、伊勢屋蘇鉄に京口御門 と謡われるほどであった。


京口坂橋
京口門跡の先で竜川(たつかわ)に架かる京口坂橋を渡って進む。


こちらは竜川下流域


照光寺
京口坂橋を渡り詰めた右手に、日蓮宗の妙亀山照光寺がある。
照光寺は、もとは玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。
亀山藩主板倉重冬公の養母照光院は篤く法華経に帰依し、元禄二年(1689)
野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号をとり寺号としたという。


旧街道を進む。


森家住宅
照光寺から程なく左手に森家住宅がある。
街道に面して間口が広く、入口から順次整った座敷を配置している。
また街道に面した外観は出格子戸を設けるなど町家的な表構えを見せている。
現在は、伊勢うどんなどの幟を立てて飲食店として使用されている。


浄土真宗本願寺派の究竟山光明寺
光明寺の創建年代等は不詳であるが、街道に面して鐘楼門が建っている。


野村の町並み
連子格子の旧家が建ち並び、往時の町屋の雰囲気を偲ばせている。


古い蔵のある家


信号十字路手前の右角に明治天皇御召替所跡がある。


壁面の解説には次のように記されている。
明治13年5月、明治天皇が東京から山梨県を行幸され、続いて三重県で伊勢の
内宮と外宮を参拝された。
東京へ帰る途中、高田山専修寺や、鈴鹿郡亀山を行幸された。
亀山では陸軍の大阪鎮台の様子を見分された。
その折、ここ内池家で御休みになり、御茶料として三円を下された。


信号十字路を渡った所に小さな四阿があったので、雨宿りも兼ねて一休み。


東屋の隅に周辺地図があったので、この先の訪問地などを確認
間もなく野村一里塚である。


慈恩寺
浄土宗の亀鶴山無量院慈恩寺がある。
慈恩寺は、聖武天皇の勅願により僧行基が開き、忍山神宮の神宮寺として
創建されたと伝えられている。
往時には七堂伽藍があったが、たび重なる兵火で焼失したという。


旧街道を進む。


8時53分、野村一里塚に到着
江戸日本橋から数えて105里目の一里塚である。
現在は三重県下で唯一原型をとどめる一里塚で、我国の交通史を考える上で
貴重な遺跡として、”国史跡”に指定されている。


この塚上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。


大庄屋屋敷跡の標柱
広い空き地の前に標柱が建っており、正面に「史跡 亀山藩大庄屋打田権四郎昌克宅跡」
と記されている。
打田家は江戸初期に近江国から野尻村に移住し、代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を務めた。
打田権四郎昌克(1641~1758)は、元禄十五年(1702)亀山藩領86ヶ村を中心にした
記録集「九々五集」を編纂した。
現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。


東海道を進むと三叉路があった。


”東海道関宿 右”の標識が。


標識に従って進む。


大きな家を過ぎると、


左手に布気皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)があった。
布気皇舘太神社は、延喜式巻九「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布気神社」とあり、
神話時代垂仁天皇18年の創始にかかる式内社である。


参道を進む。
一の鳥居の先に並ぶ石燈籠


布気皇舘太神社拝殿
布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、
明治41年近郷の小社・小詞を合祀し、現在の社名となった。


街道に戻って神辺簡易郵便局前を進むと、


左手に落針観音堂があった。
観音縁起によれば、通称「昼寝観音」と呼ばれ、東大寺再建の折りに造られ、
奈良より背負われて各地を巡り、此の地に伝わったという。
また、各地の観音様が集まって西日本で観音様を巡ってお参りする33カ所の寺を
決める会議が開かれた時、落針の観音様は昼寝をしていて会議に行かなかったので、
33ヶ所の寺に選ばれなかったという。


落針観音堂


地蔵堂


落針観音堂前の坂道を下る。


坂道を下っていくと、逆Y字路に出た。
Y字路中央に、安政六年(1859)の常夜燈が建っている。


旧街道を進むと、


旧東海道は左折するよう案内標識があった。


案内標識に従って跨線橋を渡って国道1号と関西本線を跨ぐ。


跨線橋の先に大岡寺畷(だいこうじなわて)の桜並木が現れた。
大岡寺畷は、鈴鹿川の北堤を約18丁(3.5km)に及ぶ東海道一の長縄手であった。
江戸時代は松並木であったが、明治になって枯松の跡へ桜を植えたが、
その桜もほとんど枯れてしまった。
芭蕉もこの長い畷を旅して
から風の 大岡寺縄手 吹き通し 連(つれ)もちからも みな坐頭なり」と詠んでいる。


大岡寺畷のいわれ
畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。  
大岡寺畷は、東海道が約2Kmにわたって鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通り、
東海道の畷道では随一とされています。
松尾芭蕉の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が
から風の 太岡寺縄手 吹き透し」と詠んでいます。
この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、この地である
との認識がありました。
かつては「わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い 松〈待つ〉ばかり」(『亀山地方郷土誌』)
と謡われたほどの松並木で、太田南畝(蜀山人)が享和元年(1801)に江戸から大阪まで
の旅を記した『改元紀行』にも、「松の並木両行に立てり、此の十八町にて太岡寺縄手といふ」とあります。
なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった寺である「六門山四王院太岡寺に由来すると伝えられます。


名阪国道と東名阪自動車道の高架が横切っている。


高架下には、歌川広重の東海道五十三次画が描かれている。
桑名宿 (七里渡口)


四日市宿 (三重川)


石薬師宿 (石薬師寺)


庄野宿 (白雨)


亀山宿 (雪晴)


関宿 (本陣早立)


坂之下宿 (筆捨山頂)


旧街道は、鈴鹿川に沿って続いていた。


左側を流れているのが鈴鹿川だ。


さらに旧街道を進み、


関西本線の小野踏切がある。


線路を横断すると国道1号に合流した。
左に曲がり、小野川歩道橋を渡る。


国道1号に入って直ぐ右手に旧道があり、道端に関宿の大きな看板があった。


関の「小萬のもたれ松」
小野ポケットパークの斜め向かいに関の「小萬のもたれ松」がある。
江戸中期、久留米藩士牧等左衛門の妻は夫の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿に止宿、
一女小萬を生んだ後病没。
小萬は母の遺言により、成長して3年程亀山城下で武術を修行し、見事仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者の戯れを避けるために、姿を隠してもたれた
と伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになった。


関宿の東端の家並みが続く。


10時26分、東の追分に到着した。
東の追分は、伊勢別街道の分岐点で、鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、
古い鳥居を移築するのが習わしになっている。
関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、
これが地名の由来ともなっている。


東の追分を過ぎると関宿の町並みが始まった。
慶長六年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で
47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられた。
江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家が200軒ほど、約2kmにわたって続いている。


関宿を進む。


関宿を進む。


まちかど博物館があった。
何か資料でもと思って入ってみたが、館内には誰もいなかったので直ぐに出た。


関宿を進む。


関宿を進む。


御馳走場跡
宿場の役人が、関宿に出入りした身分の高い武家や公家に対し、衣服を改め宿場両端の
御馳走場まで出迎え・見送りを行った場所
享保十九年(1734)に造られた。
関宿には4カ所の御馳走場があった。


御馳走場跡には関宿かるたが提げられていた。
うち揃い 殿様迎える 御馳走場


芸妓置屋 開雲楼
関を代表する芸妓置店であった。
凝った意匠の二階手摺りや格子窓などにその面影を残している。


その隣に鮮魚青果物商「遊快亭」が
地元のスーパーのようだが、かつては松鶴楼という芸妓置屋だった、とのこと。


百五銀行
百五銀行は、町並みに配慮した意匠の建物で、平成9年度の三重県さわやかまちづくり賞
(景観づくり部門)を受賞している。


食事処
喫茶もやっているようだ。


関宿を進む。


関宿中町の町並み
関宿中町の町並みが続き、かつてこの中町に本陣や脇本陣があった。


関まちなみ資料館
この資料館は、江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築のひとつであり、
亀山市関町の文化財・歴史資料を展示するほか、関宿の町並みの移り変わりを
写真展示している。


鶴屋脇本陣
脇本陣は、本陣に準じる宿として、主に身分の高い人達の宿泊の用を勤めたが、
平素は一般庶民も泊まれた。
鶴屋は西尾吉兵衛を名乗っていたので西尾脇本陣とも言った。
座敷の前に付いた千鳥破風がその格式を示している。


鶴屋脇本陣
関宿かるたが提げられていた。
泊るなら 鶴屋か玉屋 会津屋か


鶴屋脇本陣跡の隣に問屋場跡があり、山車庫が建っている。
「関の山」の言葉の語源にもなった関宿の山車は、最盛期には16基あった。
互いに華美を競い、狭い関宿を練ったことから生まれた言葉である。


現在は4基の山車が4箇所に残っている。


川北本陣跡
山車庫の隣に川北本陣跡がある。
江戸時代初期から関で本陣を務めていた川北家の跡で、現在は、川北本陣跡碑が建っているのみだが、
本陣門は延命寺に移築されている、とのこと。


百六里庭
川北本陣跡の斜向かいに百六里庭・眺関亭がある。
関宿が江戸から百六里余りあることから名付けられた。
ここは関宿の町並みの中にある小公園で、中には東屋が設けられ、
休憩場所としては絶好の場所である。
通りに面した「眺関亭」からは、関宿の家並みが一望できる。


関宿地図で現在地を確認


伊藤本陣跡
伊藤本陣は川北本陣と並んで関宿の中心的な役割を果たした。
現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に
道具置場に供する建物である。


伊藤本陣跡(逆方向から見たところ)


玉屋(旅籠玉や)
玉屋は「関で泊るなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と謡われたほどの、
関宿を代表する大旅籠のひとつである。


旅人宿 石垣屋


「銘菓 関の戸」の深川屋(ふかわや)
徳川三代将軍・家光の時代(寛永年間)から続く創業370余年の餅菓子の老舗である。
屋根瓦のついた立派な看板だ。
看板の文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなになっている。
旅人が向かう方向を間違えないための工夫だと云われている、とのこと。


関郵便局


高札場跡
関郵便局前に、復元された高札場跡がある。
関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した場所にあり、街道に面した間口11間余のほぼ中央に、
枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付替えなどは亀山藩が行っていた。
その内容は、生活に関わる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった
幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などであった。
関郵便局の敷地は、天正二十年(1592)徳川家康が休息したので、御茶屋御殿屋敷と呼ばれ、
陣屋・役人の詰所などに使用された。


関宿を進む。


江戸時代より街道の旅人に親しまれてきたと云われる、関宿名物・志ら玉
1個90円(税込)とのこと。


地蔵院
天平十三年(741)、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、
この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられる、日本最古の地蔵菩薩。


地蔵院の鐘楼
明治天皇行在所の碑も立っている。


地蔵院の向かいに会津屋がある。
会津屋は、関宿を代表する旅籠の一つであり、もとは山田屋と称し、小萬が育ったことで知られている。


関宿を進み、西の追分を目指す。
会津屋の先は新所と呼ばれる町並みで、江戸時代の特産物として火縄があり、
新所を中心に数十軒の火縄屋があったという。
火縄は鉄砲に用いたため大名の御用があったが、道中の旅人が煙草などに使うために
購入したため、大いに繁盛した、そうである。


西の追分を目指す。


古い家


西の追分を目指す。


観音院
新所の家並みを見ながら進むと、右手に天台真盛宗の関西山観音院がある。
観音院は、古くは福聚寺といい、嵯峨天皇の御代(820)に開創したと言われ、
土地の豪族関氏の祈願所として栄えた。
その後、江戸時代に入り寛文五年(1665)この地にお堂を建立し関西山観音院と称した。


坂道を下ると、西の追分である。


西の追分 休憩施設とあったが、扉は閉まっていた。
(開ければ開いたのかもしれない)


11時34分、西の追分に到着
西の追分は、大和街道との分岐点で、京都へは鈴鹿峠を越えて19里半(78㎞)、
大和街道は加太(かぶと)越えをして伊賀から奈良に至る。
この先で国道1号に合流する。


東海道五十三次 関宿 本陣早立ちの画


裏面には鈴鹿峠越えの馬子唄が書かれていた。
坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る
(以下略)


西の追分から引き返し、JR関駅へ向かう。
しばらく来た道(関宿)を引き返す。


会津屋、地蔵院辺り


「銘菓 関の戸」の深川屋辺り


関宿を引き返す。


百五銀行の手前の十字路を右折すると、関西本線のJR関駅方面だ。


しばらく進むと、関駅が見えて来た


12時9分、関駅に到着した。
11時59分発の亀山行きは10分前に出発した後だった。
次の亀山行きは1時間後の12時59分である。


駅の売店があった。
先ずはコーヒー(300円)を頼んだ。


巻き寿司(1本450円)は直ぐに取り寄せることが出来ると云うので頼んだ。
ものの数分で巻き寿司が届いた。
お茶は駅売店のおばさんがサービスに煎れてくれた。


12時59分発の列車に乗って1つ先の亀山駅へ。


亀山駅で13時24分発の名古屋行に乗り換え、名古屋駅からは15時26分発の
ひかり524号で東京・品川に向かって帰路に就いた。


第Ⅲステージ第6回目(庄野宿~関宿)の2日目(亀山宿から関宿)を歩き終わった。

この日の万歩計は、19,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第6回 庄野宿~関宿(1日目)

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