ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(3日目)

2023年05月15日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月15日(月)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(3日目)

昨日までの雨も上がり、朝から時々晴れ間も見えるという良好なコンディション。
この日は土山宿の西の外れを出発し、水口宿を過ぎて、出来れば石部宿を目指したい。

9時19分、土山宿西の国道1号との合流地点を出発


国道1号は大型トラックなどが頻繁に走るのでちょっと怖さを感じながら進む。


道が二手に分かれていた。
右手は国道1号なので、左側の旧東海道と思われる方へ。


しばらく進むと、 
先へ足進めれば歌声橋 のんびり歩こう旧東海道 これより3Km先に松並木
何だか街道歩きが楽しくなる案内表示板である。


少し進むとモダンでおしゃれなドームに包まれた橋があった。
これが歌声橋なのだろうか。


下には野洲川が流れる。


右手に国道1号が直ぐ近くを走っている。
ここも左側の旧東海道を進む。
旧東海道は舗装の色が普通のアスファルトとは違う色が付いているので分かり易い。
この色の道がずっと続いているのだろうか?


旧東海道に沿って家並みが続く。


街道沿いの家はかなり間取りが大きいと推察される。


瀧樹(たぎ)神社の案内板
この神社には次の二つの宮が祭祀されている。
一、瀧樹大明神宮
この宮の主祭神は、速秋津比古之命と速秋津比賣之命という神で、この神は水門の神と
云われている神様で水害を守る神である。
近くに二つの川が合流している落合があり、大昔から洪水が多く、その度ごとにこの近辺は
大被害にあい困ったのでおまつりされた神様である。
一、天満宮
この宮の主祭神は、学問の神と云われている菅原道真をおまつりしている宮である。
この神は、室町時代の領主が信仰された神様で氏子が学問に励み立派な村にすることを
願ってまつられたものである。
この神社の祭礼日は、毎年五月三日で当日は、国の選択文化財に指定されているケントケ踊りを
はじめ、花奪(はなばい)神事や神輿の渡御が行われる盛大な祭りである。
平成十七年に本殿、拝殿が新築され、同時に境内の全面的な整備がなされ神域の荘厳さを増している。


100mほど先に瀧樹神社の参道入口の鳥居と2度目の案内板があり、ここより200m先という
案内表示を信じて、行ってみることにした。


最初の参道を過ぎると青々とした茶畑の景色が広がっていた。


茶畑の先に瀧樹神社の大きな鳥居があった。
本殿はもう少し先のようだ。


さらに進むと今度は杉並木の参道が続いていた。
本殿は近そうだ。
右手の方から川が流れる音が聞こえる、かなり大きな音である。


音のする方へ行ってみると・・・轟音とともに野洲川が流れていた。


神社の方へ戻って、石段を上ると・・・拝殿が現れた。
旧東海道から200mとあったが、実際には倍の400mはあったと思われる。


本殿のさらに奥に天満宮の本殿(左)と


瀧樹神社の本殿(右)が並んでいた。


旧東海道へ戻って旧東海道を進む。
瀧樹神社への往復に20分以上要してしまった。


10時16分、福彗山地安禅寺前を通過


前野の地安禅寺には、御水尾法皇の御影御位牌が安置されている。
御水尾法皇は慶長元年(1596年)後陽天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年に16才の若さで
即位された。
徳川幕府が成立していく中で、天皇になられたが、寛永6年(1629年)明正天皇に皇位を譲られ、
34才で上皇になられた。
元禄11年(1698年)、善明院(法皇の第一皇女)の意向により、法皇の像、位牌を下附され、
その安置所として宝永5年(1708年)地安寺境内に建立された。
平成二十八年一月
土山の町並みを愛する会 甲賀市教育委員会


旧東海道を進んで行くと、


垂水頓宮御殿跡の碑が。


伊勢神宮に伝わる「倭姫命世紀」によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神の
ご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。
土山町頓宮には巡行地のひとつである「甲可日雲宮」があったとされ、この時の殿舎が
この付近に設けられたことが「御殿」という地名の由来とされる。
また、後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。
平成十六年三月
土山の町並みを愛する会


浄土宗長泉寺前を通過


10時39分、大野市場一里塚跡碑前を通過


大日川に架かる大日川橋を通過


大日川(堀切川)掘割
往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れが広がり、このため一度
大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚だしかった。
大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、
間に挟まった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。
元禄十二年(1699年)、市場村は排水路を掘割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に
願い出て許可を受け、頓宮村境より延長504間(約904m)、川幅4間(約7.2m)の排水路工事に
着工し、河敷地の提供から市場村民の総腑役により、元禄十六年(1703年)に完成した。
平成七年三月
土山町教育委員会


野洲川に流れ込む掘割


1本の松の木があった。
かつてはこのような松の並木が続いていたのだろうか。
他には松の木は見当たらない。


11時ちょうど、花枝神社の一の鳥居を通過


甲賀市立大野小学校前を通過し、


さらに旧東海道を進む。


11時20分、明治天皇聖蹟碑前を通過


間の宿大野の説明板
江戸時代の東海道の江戸大坂間には幕府の指定した正式な宿場が五十七あったが、その宿場間
にあった休憩等がとれる集落のことを間の宿(あいのしゅく)とよんだ。
この大野の辺りは東の土山宿と西の水口宿のちょうど中間点になり、旅人の休憩や買い物
などのために茶店や商店などがあった。
間の宿は公認の宿ではないため宿泊は許されていなかったが、それは名目上のことで、実際には
宿泊のための旅籠もあり数軒の屋号が今も伝えられている。
1868年の明治天皇東幸の折には、ここにあった小幡屋という旅籠が小休憩の御用を務め、
それなりに設備が整っていた旅籠であったということが推察できる。
こうした施設は立場(たてば)とよび、この近辺にもいくつかの立場があったと伝えられている。
令和三年一月三十一日
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


魚屋の屋号を付けた大きな家


会席料理みよし 赤帆亭(せきほてい)の看板があった。


三好赤帆旧跡
三好赤帆(1798-1873)は、待花園月坡(じかえんげっぱ)と号し、通称才市と呼ばれた。
生家は代々の魚商であったが、少壮より俳諧に親しみ、嵯峨上田村の宍戸霞州に就いて教えを請うた。
その後家業を子に譲って京都に上り、東福寺法主虚伯(きょはく)に就いて十年余り研鑽を深めた。
その間、京・大阪の斯道の諸大家と広く交わった。
その後、郷里に帰って後進を指導し、この地方の俳諧の基礎を築いた。
俳著に『窓あかり』がある。
明治5年75歳で没した。
碑名 「ほととぎす 早苗に影を のこしゆく
平成二十四年二月八日
土山の町並みを愛する会  甲賀市教育委員会


国道1号を横断するため螺旋状の階段を利用することにした。
大津43Km、甲賀市街7Kmの標識が見える。


螺旋階段の上から水口方面を望む。


旧東海道の大野集落を進む。


さらに大野集落を進むと・・・


直ぐ左手を国道1号が走っている。


国道1号を横断すると、


11時54分、甲賀市水口に入った。


旧東海道を案内に従って右側の緩やかな坂道の方へ。


旧東海道を進むと・・・


古民家カフェ「一里塚」という店があった。
12時を少し回ったが、お昼はもう少し我慢しよう。


先ほど通った古民家カフェ「一里塚」から数百mの所に、今在家一里塚があった。
江戸日本橋から112番目の一里塚で、本町域では、泉・林口・今在家の3か所に存在した。
江戸時代の一里塚は明治の初年に撤去され、現在の一里塚はその後復元されたもの。
今は塚の上に榎が植えられているが、かつては桜が植えられていたと伝わる、とのこと。


バス停の待合室のような小さな休憩処のような建物があった。


中を覗いてみると、郷ノ里と書かれており、椅子やテーブルが置かれていた。
自動販売機も設置されていた。
休憩していきたいが、あまり時間もないのでそのまま進む。


さらに旧東海道を進むと少し広い道路に出たが、また直ぐ二手に分かれた。
右手の道(旧東海道)を進む。


旧東海道を進む。


12時23分、龍王山宝善寺前を通過して少し進むと・・・


岩神社・岩上神社参道の入口に到着した。


鳥居を潜って石段を上って行くと・・・


5分ほど石段を上ると岩神社に到着した。


岩神社の説明板


旧東海道に戻り、水口宿を目指す。


永福寺、八幡神社を過ぎて進むと、道が二手に分かれていた。
右旧東海道の案内表示に従って進む。


旧東海道の松並木についての碑があった。


前方に見える小高い山が古城山だろうか。


山川橋を渡ると・・・


旧東海道水口宿 田町に入った。


少し進むと、東見附跡があった。


東見附(江戸口)跡
この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた
東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長十年(1605)以降のことである。
特に天和二年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は
警備の施設も整えられた模様である。
(以下略)


さらに旧東海道を進むと、旧水口宿脇本陣の建物があった。
この建物は、水口宿の脇本陣の一部とされ、文久三年(1863年)の「水口宿内軒別書上帳」
の中に記述がみられることから、十九世紀前半の建築と推定されています。
現在残る建物は当時の一部のみとなっていますが、脇本陣の特徴である大きな間口・奥行
が見られ、もとの家屋規模は水口随一の大型町家であったと想像できます。
その構造や蟇股(かえるまた)などの装飾は石部宿や土山宿の本陣にも類似性が見られます。
甲賀市観光協会


さらに進むと、13時20分、水口宿本陣跡に到着した。


石畳を進むと・・・
水口宿本陣跡の石碑があった。
(前略)
本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門、玄関、書院などがあって格式を示し、
その経営には宿の有力者があたりました。
この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、
明治二年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。


奥には明治天皇聖蹟の碑が建てられていた。


また少し進むと高札場跡があった。


高札場跡の説明板には次のように説明されている。
「お達し」を公示する掲示板で、まちの中心のひとめにつきやすい辻、橋詰、出入口等に
設置されました。
水口宿では作坂町と旅籠町の境、三筋町の北筋と真ん中の筋の合流するところに設置されていました。
江戸時代には立札とも言われ、犯罪事実の公示・通報や、逮捕の協力を求めていました。
特に寛永十七年(1622)の宗門改役が設置されてからは「隠れキリシタン」取り締まりのため、
密告への賞金制度等が掲示されました。(甲賀市観光協会)


水口宿のこの辺りから町が三筋に分かれているため、三筋の町と呼ばれている。


「ふみや」という食事処があった。
時計は14時20分を過ぎており、お腹が空いていたので、この店で食事をしていくことにした。


旧東海道水口宿の街道沿いの古民家で、旧旅籠だったという雰囲気が落ち着く。


この店の売りは、目の前で炊く”釜土御膳”だ。
ご飯が炊ける間に注文したおかずを用意する、というシステムである。
メニューは、焼き魚・天ぷら・から揚げ・豚カツ・ハンバーグから選ぶことになる。
天ぷらを注文し、ご飯が炊きあがるのを待つこと凡そ20分、


炊き上げのご飯と出来立ての天ぷらは、まだ熱かったが、とても美味しかった。


旧東海道を進む。


14時35分、銭湯「清水湯」前を通過
街道沿いの銭湯は初めて見た(ような気がする)


真宗高田派 水口山蓮華寺前を通過すると、


14時41分、三筋の道の西端に到着した。


宿場町の水口が次のように紹介されていた。
天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて公用輸送を
確立、この時水口も宿駅となりました。
宿場は、町数27、家数718と発展、俳聖芭蕉も逗留し「命二つのなかに生たる桜かな」の句を
残しています。
庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠と本陣・脇本陣があって客引で賑わいました。
宿場の名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は
歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました。


近江鉄道水口・蒲生野線の踏切を横断すると、河内町に入った。


東海道案内図があり、
ここを右に直角に曲がり、少し先を今度は左に直角に曲がるように案内されていた。
水口城天王口跡
江戸時代この場所は水口城の東端にあたることから木戸が置かれ、「天王口御門」と呼ばれました。
もともと直進していた東海道も、ここで右に直角に曲がり、北町・天神町・小坂町と
城の北側を迂回し、林口五十鈴神社の南で再び当初の道に戻りました。
「天王口」の名の起源でもある八坂神社(八坂)がもと牛頭天王社と呼ばれたためです。
これより木戸内には「広小路」「南小路」などの武家屋敷が広がり、普段は藩士以外の
一般の通行は制限されていましたが、四月の水口祭には藩主や藩士に見せるため曳山が
曳き入れられました。


案内図に従って、北へ直進し、


突き当りを左に曲がって進む。


北町


天神町曳山蔵


天神町を通過し、


小坂町のところを左に曲がり、小坂の水口石のところを右に曲がって進む。


北邸(きたやしき)町の稲荷大明神を通過した先に、


真徳寺という寺があり、真徳寺の表門の説明があった。
当時の表門は、もと水口城内の郭内に所在した家臣(蜷川氏)屋敷の長屋門を近代に移築した
ものである。
寺院の表門に改めた際、かなり手が加えられたが、旧城下に残る数少ない武家屋敷遺構の
一つとして貴重である。
なお境内墓地には、明治の代表的書家として知られる巖谷一六の先祖の墓碑が伝えられる。
水口町教育委員会


真徳寺の表門


真徳寺


真徳寺を過ぎて少し進むと・・・
15時8分、五十鈴神社に到着した。


境内に入ると推定樹齢300年と云われるヒノキの大木があった。
水口町の古木・銘木に選定されている。
他にもイヌマキの大木があった。


五十鈴神社の本殿


五十鈴神社境内の片隅に林口一里塚碑があった。
林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが、水口城の郭内の整備にともない、東海道が
北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。
本塚は、往時を偲んで修景整備されたものです。


15時15分、水口宿西見附跡
水口宿の西の端に設けられたもので、「京口」と呼ばれています。
木戸や番所が置かれ、宿場の防犯施設となっていました。
東端の田町と片町の境界には東見附があり「江戸口」と呼ばれ、同じ機能を果たしていました。
東海道は最初はここから東へ真っ直ぐ延びていましたが、水口城築城と水口藩成立の二回の
機会に北へ迂回させられました。
またここを流れる川は見附川と呼ばれています。
甲賀市観光協会


すぐ横を流れる見附川


15時18分、美富久(MIFUKU)酒造会社前を通過


15時19分、柏木神社前を通過


北脇縄手と松並木
東海道が一直線に伸びるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。
縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲がりくねっていた旧伊勢大路を
廃し、見通しの良い道路としたことにちなむと考えられる。
江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。
街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。
旅人は松の木陰で涼を取り、旅の疲れを休めたと云われている。


旧東海道が一直線だ。


道端にお地蔵さんらしき石像が祀られていた。


回りは一面麦畑である。


こちら側は田んぼに水が張られ田植えは既に終わっていた。


旧東海道を進む。


割烹「米新楼」前を通過


15時35分、甲賀市立柏木小学校前を通過


柏木公民館の所に半鐘を鳴らすために梯子を上る人の姿が。


街道脇に水路があり、緩やかに水が流れていた。


16時9分、国宝延命地蔵尊泉福寺前を通過


道が二つに分かれていた。


道標に従って横田渡し方面へ。


泉川に架かる舞込橋を渡ると、


泉一里塚があった。
水口宿では泉、林口、今在家の三箇所に一里塚があった。


(前略)
当時のものは現在地よりやや野洲川よりにあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである。
水口町教育委員会


さらに進むと冠木門があり、


16時22分、横田渡跡常夜灯に到着した。
「横田の渡し」は「東海道十三渡し」の一つで、常夜燈は文政五年(1822)に建立されている。
常夜燈は万人講中のもので、普段は土橋、水かさが増した場合は舟渡しを行っていた。
現在は公園となり川が一望できる。


横田橋渡し跡から見た野洲川


当初この日は石部宿を目指そうと考えていたが、まだここから10Km以上はあると思われることから、
この日は三雲駅までとすることにし、かみさん達に連絡した。
横田渡跡常夜灯で一休みした後、三雲駅を目指した。


コンビニ(セブンイレブン)を横目で見ながら三雲駅を目指す。


コンビニの先で国道1号に合流し、


野洲川を渡るために人と自転車は陸橋へ。


陸橋の上から野洲川に架かる横田橋を望む。


横田橋を渡る。


横田橋から見た野洲川


16時52分、三雲駅に到着した。


この後、かみさん達と宿泊先の「水口センチュリーホテル」に向かった。
ホテルのシャワーで汗を流した後、近くの飲食店へ。


いくつか探したが、ちょうど良い店がみつからず、結局昨日と同じ店に入ることにした。


この日も生ビールが美味かった。


この日万歩計は33,000歩を計測していた。
街道歩きで30,000歩を超えるのは久しぶりのことである。

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