ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第1回 新居宿~吉田宿(1日目)

2018年05月14日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
平成30年5月14日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第1回(1日目)は、新居宿(JR新居町駅)~二川宿(JR二川駅)である。

荒川沖駅5時28分発の電車に乗り、東京駅7時3分発
岡山行「ひかり461号」に乗車。
浜松駅で東海道線下り岐阜行に乗り換え、


9時10分、スタート地の新居町駅に到着。
第Ⅲステージの始まりということで、気持ちが高揚している感じだ。


新居町駅を出発して、駅前を走る国道301号を西へ進み、


浜名橋を渡る。


橋には東海道五十三次”荒井宿”の浮世絵が並べられていた。
6枚の浮世絵全て”荒井”と書かれている。


”新居”なのだが、江戸時代の記録などは”荒井”
と書くことが多かったようだ。


新居関所へ向かった。
塀の隙間から新居関所の建物が見える。


お~っと、月曜日は休館日だったのだ。
残念!


今切の関所とも云われ、箱根関所と並んで重要な関所だった新居関所は、
「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。
現在の建物は、安政の東海大地震後に再建されたもので、
現存する近世の関所建造物としては唯一のものとして、
国の特別史跡に指定されている。


大御門
明六ツ(午前6時頃)に開き、暮六ツ(午後6時頃)に閉じた。
大御門の前には、高札を置く枡形広場があり、東海道へつながる。
大御門の大きさは、高さ5.8m、幅4.6mで、城門と同じ屋根付きの
堂々とした高麗門の造りとなっている。


大御門の前に高札場があり、


高札が掛けられていた。


新居関所の少し先、道路の反対側に紀伊国屋の建物がある。
徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿を務めた縁により、享保元年(1716)
紀伊国屋の屋号を掲げ、以後宿内最大の旅籠として営業。
明治七年(1874)に大火により焼失したが、直後に建て替えられ、
明治30年まで旅館業を営んだ、そうである。


建物は明治初めの再建だが、江戸期の建築様式を色濃く残し、
平成13年(2001)に解体修理を行い、当時の風情を体感できる施設
として公開されている、ということだったが・・・
ここも休館中の札が。 ついてない!


紀伊国屋の隣に金松酒店がある。
”みちのく山形のどぶろく”と染められた幟り旗が見える。
この場所は江戸時代、旅籠屋(伊勢屋)として
東海道を行く旅人をもてなしていた、とある。


国道301号を直進すると、正面に旧い家が見えた。


家の傍に街道標識があり、新居宿 飯田武兵衛本陣跡とある。


飯田武兵衛本陣は、天保年間の記録によると、
建坪196坪で、門構え玄関を備えていた。
飯田本陣には小浜藩、桑名藩、岸和田藩など約70家が利用した。
明治元年(1868)の天皇行幸の際に行在所として利用された。
(湖西市教育委員会)


飯田本陣の南隣りにも疋田八郎兵衛本陣跡の石碑があった。
(リュウゼツランのような葉の陰に隠れて見えにくい)
建物などは何も残っていない。


天保年間の記録によると、建坪193坪で、門構え玄関を備えていた。
八郎兵衛本陣には吉田藩のほか徳川御三家など約120家が利用した。
疋田家は、新居宿の庄屋や年寄役を務めた。
(湖西市教育委員会)


旧街道を進むと、寄馬(よせうま)跡と書かれた説明板が。
江戸時代の宿場には公用荷物や公用旅行者のために
人馬を提供する義務があり、東海道の宿場では常に
百人の人足と百匹の馬を用意した。
しかし、交通量が多い時には助郷制度といって、
近在の村々から人馬を寄せ集めて不足を補った。
この場所は、寄せ集められた人馬の溜り場になった所である。
(湖西市教育委員会)


常夜灯がぽつんと立っていた。
特に説明などはない。


新居宿を進む。


新居一里塚跡
江戸日本橋から69里目の一里塚。
一里塚の里程の目印として、旅行者にとっては、馬代や駕籠代などの
計算の目安になった。
慶長九年(1604)二代将軍秀忠が一里塚を築かせたと云われ、
東海道では104か所あった。
ここには、左(東)にエノキ、右(西)に松が植えてあった。
(湖西市教育委員会)


旧東海道図に従って進むと、


枡形の曲り角に棒鼻跡碑と説明板があった。


ここは新居宿の西境で、一度に大勢の人が通行できないように
土塁が突き出て枡形をなしていた。
棒鼻とは、駕篭の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、
この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになった
とも云われている。
(湖西市教育委員会)


なるほど道が枡形に曲がっている。


県道417号(旧東海道)へ出ると、橋本 新居宿加宿の標識が。
加宿とは、主に江戸時代、五街道や脇往還において
駅逓事務を取扱う為設定された宿場(宿駅)において、
人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え
人馬の用を行わせたもの。
この主となる宿駅に対して隣接する村を加宿と言う。
(Wikipedia)


旧東海道を進む。


風炉の井(湖西市特別史跡)
この石積井戸は、深さ2m、口径は最大1.8mあり、以前はもっと深かった。
言い伝えによると、建久元年(1190)源頼朝が上洛の折、
橋本宿に宿泊した時にこの井戸水を茶の湯に用いたとされる。
(湖西市教育委員会)


教恩寺
源頼朝に寵愛された遊女が、頼朝没後に尼となり、妙相と号して建てた寺院。
鎌倉時代末期の正安二年(1300)創建の古刹で、楼門は江戸期のもの。 


教恩寺の先で道が二つに分かれている。
旧東海道は右の方だ。


旧街道を進むと、松並木が現れた。
浜名街道の松並木である。


東海道には松並木が似合う。


10時8分、紅葉寺跡の標識前を通過


松並木が続く。


藤原為家・阿仏尼歌碑
風わたる 濱名の橋の夕しほに さされてのぼるあまの釣舟
前大納言為家
為家は、中世の歌人の藤原定家の次男で「続古今」の選者。

わがためや 浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで
阿佛尼
阿仏尼は、為家の側室で「十六夜日記」の作者。


さらに松並木を進むと、


松並木が終わり、どことなく宿場の雰囲気が漂う家並みになった。


連子格子をそなえた旧い大きな家も散見される。


旧街道を進むと、


白須賀宿 火鎮神社(ほずめじんじゃ)の標識が。


火鎮神社は、元白須賀の東端に位置している。
かつての白須賀宿の鎮守の社だった。
祭神は火之迦具土神・品陀和気命
応永年間の津波、安永年間の火災で古文書は消失し、
創建の詳細は不明、とのこと。


街道を進む。


明治天皇御野立所址
明治元年(1868)9月20日、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため
京都を出発した明治天皇が10月1日、豊橋から新居へ向う際に休憩した所。
明治天皇はその後、新居宿の飯田本陣に宿泊、10月13日に東京に到着した。


元町一里塚跡・高札立場跡


この辺りでは一里塚のことを「一里山」と呼んでおり、
石碑にも「一里山旧址」と彫られている。
江戸日本橋より70里目の一里塚である。
白須賀宿高札立場は、ここ元宿と東長谷に一箇所ずつ設置されていたほか、
加宿である境宿村にも一箇所設置されていた。


神明神社
御祭神は、天照皇大御神・天手力雄命・萬幡姫命


石段を上ると、


神明神社本殿がある。
由緒には以下のように記されている。
当地を古来神森山と云い、里人は当社を内宮と称し、
菱地に鎮座する神明神社を外宮と称した。(中略)
当社には徳川吉宗公以降の朱印状寫が現存する。
明治六年三月郷社に列した。


堂々たる長屋門を構えた民家を過ぎると、


潮見観音(蔵法寺)への入口があった。


蔵法寺の山門
曹洞宗龍谷山の扁額が掛けられている。


由来は奈良時代に遡るが、現在の寺は、慶長三年(1598)に
曹洞宗の寺として開かれ、徳川家康より23石を賜ったという寺で、
この近くで戦死した今川氏親(義元の父)の墓がある。 
蔵法寺の本尊は、海から引き上げられた高さ一尺九寸(57,6cm)程の
潮見観音と呼ばれる仏様である。


境内にも潮見観世音菩薩を祀った観音堂がある。
潮見観音像縁起には、以下のように記されている。
承応三年(1654)三月十日当蔵法寺前の、遠州灘の海中より
漁師の網にかかって恩出現された観音様で、お丈は一尺九寸(57,6cm)で
その後堂内に安置され、毎年供養されて参りました。
宝永四年(1707)十月四日遠州灘一円に大地震があり、
その時起きた大津波に一瞬にして元町宿は悉く浪に呑まれ
大被害を受けました。
そのとき坂の上に逃れて、その地に現在も住んでいる子孫も多く居ります。
その前夜徳川幕府参勤交代で岡山藩城主池田綱政公当地本陣に宿泊中で、
夜半観音様が夢枕にお立ちになり、「この地に大地震あり、早々に立ち去れ」
とお告げがありましたので、夜半急ぎ一行は本陣を出立し、
危うく難を免れることが出来ました。
綱政公は観音様のご加護に感謝し邸内に潮見観音の御分身を祀り、
子々孫々現在の池田牧場まで続いております。


境内には聖観世音菩薩の銅像もある。


11時22分、潮見坂の上り口に到着した。


右旧道・左新道と刻まれた石の道標と、白須賀宿 潮見坂下の標識がある。
標識には、新居宿4.5Km、二川宿8.4Kmとある。
二川宿まで8.4Kmは、これまで歩いて来たおよそ倍の道のりだ。


やや急勾配の潮見坂を上る。


潮見坂は、街道一の景勝地として数々の紀行文などに
その風景が記されている。


潮見坂の途中から振り返るとかなりの急勾配である。
坂道の先に遠州灘が見える。
説明板には、
西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や
富士山が見ることが出来る場所として、古くから
旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変わらず、
訪れる人を楽しませてくれる、とある。


潮見坂を上り切って少し進むと、白須賀宿 潮見坂公園跡の標識が。
二川宿まであと7.6Kmだ。


潮見坂公園の石碑群


潮見坂上から見た遠州灘
遠江八景の一つ「潮見晴嵐」に選定された場所である。
富士山の眺望も見ることが出来た、そうである。


潮見坂上の石碑群
ここ潮見坂上には、明治天皇が明治元年10月1日にこの地で
休憩されたのを記念に建てられた明治天皇御聖跡碑をはじめ、
白須賀出身の国学者夏目甕麿と息子の加納諸平、正直者の藤屋五平、
義僕平八郎らの顕彰碑や忠魂碑が建てられている。


11時42分、白須賀小学校前を通過


白須賀宿を進む。


曲尺手(かねんて)の東側から鷲津停車場往還が分かれる。
分岐点に明治四十五年(1912)建立の鷲津停車場往還道標が。


曲尺手
直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、
大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。
江戸時代、格式の違う大名がすれ違うときは、格式の低い大名が
駕籠から降りて挨拶するしきたりであった。


しかし、主君を駕籠から降ろすことは、行列を指揮する供頭にとっては
一番の失態である。
そこで、斥候を行列が見えない曲尺手の先に出して、
行列がかち合いそうな場合は休憩を装い、
最寄りのお寺に緊急非難をした。


白須賀宿本陣跡


本陣職は代々世襲して本陣経営を続け、名字帯刀を許されているものもあった。
この地は、本陣大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864)の記録には、
建坪183坪・畳敷231畳・板敷51畳とある。


白須賀宿脇本陣跡
現在は脇本陣跡と書かれた石柱があるのみだ。


白須賀宿 問屋場跡の標識
二川宿まであと6.7Km。
新居宿からほぼ半分歩いたことになるが、まだ先は長い。


白須賀駐在前交差点を横断すると、角に白須賀宿が生んだ地元の偉人、
「夏目甕麿邸跡・加納諸平生誕地」の碑があった。


白須賀生まれの国学者、夏目甕麿は通称嘉右ェ門萩園と号した。
酒造を業とし国学を内山真龍に学び、後に本居宣長の門下に入り、
国学の普及に努めた。
加納諸平は甕麿の長男で、柿園と号した。
若くして紀州和歌山の本居大平のもとに寄寓、乞われて加納家の養子となり、
のちに紀州侯に召されて国学を講じ、国学所総裁となった。


白須賀宿の火防
白須賀宿は、津波の難を恐れ、宝永五年(1708)潮見坂の下から
坂上へ宿替えをした。
それまでの坂下の白須賀を元宿と呼ぶ。
宿場移転以来、津波の心配は無くなったが、今度は冬期に西風が強く、
度々火災が発生し、しかも大火となることが多かった。
当時、殆どの家の屋根が、わら葺きであったことにもよる。
そこでこの火事をくい止める為に、生活の知恵として工夫したのが火防で、
人々は「火除け」とか「火除け地」とか呼んで大切にした。
火防の広さは、間口二間(3.6M)奥行四間半(8.2M)で、
常緑樹で火に強い槙が10本くらい植えられた。
宿内に3地点・6場所の火防があった。


庚申堂入口鳥居?
鳥居の奥に見える筈の庚申堂の建物は、見当らなかった。


鳥居を潜ってすぐ右側に小さな庚申堂があった。


境内の小さな庚申堂の前には庚申信仰による、
「見ざる、聞かざる、言わざる」の3匹の猿の像がある。


見ざるの猿像


白須賀宿 加宿境宿の標識を過ぎると、


成林寺の前に境宿の高札立場跡の碑があった。
境宿は字のとおりに「遠州」と「三河」の境界付近にあり、
白須賀に宿場があった頃は加宿として賑わっていた場所だった。


高札場跡の碑


12時10分、県道173号に合流


県道173号に合流した所に笠子神社があった。
かつては海岸部にあったこの神社も度重なる津波の影響で
この地に移された。


笠子神社本殿
御祭神は、大己貴命・塩土翁命
古来より笠子庄内の住民、産土神として崇敬厚く、ここに住む人の
心と心を結ぶ拠り所として、深い信仰を集めている。


時計は12時20分を回っており、お腹も空いて来たので、ここで弁当にしよう。
この日の弁当は、東京駅で買った鰺の押寿し(980円)だ。
新居宿からここまでコンビニの一つもなかったことから、弁当にして良かった。


毎回同じ台詞で恐縮だが、『美味かった』の一言。


県道173号を進むと、12時48分、豊橋市に入り、


12時53分、一里山東交差点で国道1号に合流した。


国道1号を進む。


13時8分、豊鉄バス弥栄口停留所を通過


国道1号を進むが、見るべきものがなにもないので、疲れる。


13時48分、二川宿方面を示す道標が現れた。


右手は新幹線が走っており、ガード下を通り抜けて進めということのようだ。


ガード下を潜って進むと、


筋違(すじかい)橋があり、


梅田川を渡る。


東海道本線の線路を渡って線路沿いに進むと・・・


二川宿の東入口すぐに、川口屋という宿場町の案内所があった。


二川一里塚跡
川口屋の角に、一里塚跡の碑が残る。
江戸日本橋から数えて72番目の一里塚である。


川口屋には地域のイベントに関するパンフレットや二川宿についての
案内図などが置かれている。


往時の写真なども展示されている。


写真1


写真2


14時11分、日蓮宗妙泉寺前を通過


二川宿の旧街道を進む。


古くて大きい家の前には、”三十三番目の宿場町二川宿”
と書かれた、常夜灯の模型が置かれていたり、


また、玄関には、二川宿の暖簾が下げられたりして、
町を挙げて宿場町を盛り上げている様子が感じられた。


二川八幡神社は、二川の氏神様として信仰を集めている神社で、
元々は鎌倉の「鶴岡八幡宮」から勧請してきたと伝わっている。


東の枡形
道路が枡形に曲がっている。


東の枡形手前右側に東駒屋がある。
商家「駒屋」は、主屋・土蔵など8棟の建物からなり、
二川宿で商家を営むかたわら、問屋役や名主などを勤めた
田村家の遺構である。


東の枡形の少し先に「二川宿まちなか公園」がある。
特に目ぼしいものはなかった。


東問屋場跡
宿駅本来の業務である人馬の継立てを差配したところで、
宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、
人足を用意していた。
現在、二川宿の東問屋場跡は石碑のみとなっている。


問屋場跡周辺の家々には、かつては旅籠だったようで、
「旅籠屋 和泉屋」や「旅籠屋 中村屋」、


「旅籠屋 鍵屋」などと書かれた表札が懸けられていた。


脇本陣跡
説明板があるのみだ。


二川宿脇本陣跡
二川宿の脇本陣は松坂家が務めていた。
文化四年(1807)以前には、この地に後藤家・紅林家の本陣があったが、
文化四年、本陣職が紅林家から馬場家に移った際に、本陣建築のため、
街道の南側あった脇本陣はこの地に移っている。
脇本陣の建物は、間口七間(約13m)、奥行十九間(約35m)、
畳数は九十三畳あった。


二川宿本陣跡
この本陣は復元された物で、馬場家本陣ともいう。
馬場家は、文化四年(1807)から60年間本陣役を務めた。


本陣資料館
1991年にオープンし、東海道・二川・本陣という3つのテーマで
常設展示が行われている。
2005年には、隣接する旅籠屋「清明屋」を改修復元するとともに、
増改築を行った。
本陣資料館は、あいにく休館日で扉は堅く閉まっていた。


西駒屋は、江戸時代から味噌・たまり醤油を造り、
現在でも赤味噌を製造販売しているという。


本陣から少し先に進むと西の枡形があり、再び道が桝形に曲がっている所に・・・


高札場跡と書かれた石碑があり、二川町道路元標と常夜灯も建っていた。


旧くて大きな家
かつて商家だったのだろうか?


福井荒吉商店(金物屋)


さらに街道を進むと、


14時48分、この日のゴールJR二川駅に到着した。


東海道線下り豊橋行に乗車し、


15時5分、豊橋駅に到着


豊橋駅前から駅ビルを望む。
大きな駅である。


駅前のときわ通りを通り抜け、
15時17分、予約していたホテルルートインに到着


シャワーで汗を流し、ひと眠りした後、
ときわ通りのワインダイニングMuへ食事に出かけた。


第Ⅲステージ第1回目(新居宿から吉田宿)の1日目(新居宿から二川宿)を
歩き終わった。
新居宿では一番の目玉となる新居関所だったが、この日は月曜日ということで、
休館日だったため、見学出来なかったのは残念でならない。
ほかにも紀伊國屋や二川宿本陣資料館が休館日で見学出来なかった。

旧街道は、旧道ということで、どうしても便利さからは隔離された
場所が多くなり、コンビニのひとつも見当らないことがある。
今回の新居宿から二川宿にかけてがまさにそうであった。

今回は、幸い東京駅で駅弁を買って行ったから良かったが、
途中お茶やコーヒー、パンなど欲しかったが我慢するしかなかった。
次回からは、それなりのものは必ず持参することにしよう。

この日の万歩計は、29,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第1回 新居宿~吉田宿(2日目)

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