ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(1日目)

2023年05月13日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月13日(土)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(1日目)

旧東海道第Ⅲステージは、第6回(2019/05/19~05/20庄野宿から関宿)までほぼ順調に歩いて来たが、
同年7月頃に予定していた、第7回(関宿~草津宿)直前になって、ちょっとした油断から風邪をこじらせ、
東京医科大での診断で、急性肺炎ということで緊急入院する羽目になり、当分の間は街道歩きの中断を
余儀なくされてしまった。

年が明けた翌2020年1月頃には肺の調子も大分良くなり、担当医師に通常の生活もOKと診断され、
街道歩きを再開しようと意気込んだその時、新型コロナウィルスの感染拡大で、他県への移動自粛制限
により、街道歩きどころではなくなってしまった。

それから1年9か月余の2021年10月にはワクチン接種のおかげもあってか、コロナ感染者数は
減り、他県への移動制限はなくなったことはご存じの通りである。

同年11月中旬になって、今度こそ”街道歩き再開”と亀山市と水口市のホテルの予約を済ませ、
数日後には出発を待つばかりという段階になって、急に胸の辺りに痛みが走り、息苦しさを
覚えるようになった。
何と、今度は肺から空気が漏れる”気胸”と診断され、再び10日間の入院を余儀なくさせられる羽目に。

急性肺炎やコロナ禍などで鈴鹿峠を前に関宿で留まること丸4年が経った。
このままでは近いうちに傘寿を迎えてしまうと思い、今回鈴鹿峠越えに挑むことにした。
計画では5月13日(土)に自宅を出て、14日に関宿をスタートして16日に草津宿到着を目指す
ことにしていたのだが、Yahooの予報では14日(日)、15日(月)はかなりの雨。
しかし、ホテルも既に予約済で、今回の旅行には是非とも付き合いたいという大分に住む
かみさんの妹も数日前から来宅して待機いることから、運を天に任せて13日早朝に自宅を出発した。
旧東海道関宿のある亀山市には13時半過ぎには到着した。
到着したこの日もあいにくの雨だったが、夕方には一時的に小降りになるというスマホの予報を信じ、
夕方までには鈴鹿峠は越えられるだろうと判断した次第。

14時46分、右手にデジカメ、左手に地図と折畳み傘を持ち、雨のなか関宿「西の追分」を出発。
西の追分は、大和街道との分岐点で、京都へは鈴鹿峠を越えて19里半(78Km)の距離がある。
一方、大和街道は加太(かぶと)越えをして伊賀から奈良へ至る道になる。


「西の追分」まで送ってくれたかみさん達とはいったんここで分かれ、いざ旧東海道へ。


しばらく国道1号に沿って進む。
甲賀まで27Kmの表示が見える。


鈴鹿川の一瀬橋手前に右”東海道(坂下宿)”の案内標識が。


案内標識に従って進み・・・


少し上流で鈴鹿川を渡り、


小さな集落を進むと・・・


国道1号に出た。


国道1号を横断したところに、浄土宗本願寺派の西願寺というお寺があった。
山門の前に常夜灯が建っているのが印象的である。


また国道に出て、しばらく国道1号を進む。


筆捨山バス停を通過
筆捨山はもともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと
筆をとり、翌日書き残した分を続けようとしたところ、雲や霞が立ち込め山の姿が全く
変わってしまったため描き足すことができず、諦めて筆を投げ捨てたことからこの名が付いたと
伝えられる。


この日の筆捨山方面も雲が立ち込めていて筆捨山は全く見えなかった。


15時28分、楢の木バス停辺りを通過。


東海自然歩道の道標があった。
文字は見づらいが、片山神社3.9Km、鈴鹿峠4.3Kmと判読できる。


沓掛の集落を進む。


真宗大谷派の寺院超泉寺前を通過


沓掛バス停前を通過


沓掛集落を進む。


15時43分、坂下簡易郵便局を通過
この辺りが坂下宿なのだろうか?


鈴鹿馬子唄会館前を通過して少し進むと・・・


道の左側に日本橋から順に旧東海道の宿場名を記した標柱が続いていた。


由比宿まで来ると、
昭和13年に建てられ、昭和54年3月に廃校となった「坂下尋常高等小学校」の校舎があった。
廃校後は坂下公民館等として坂下地区の人々を中心に利用され、現在は青少年のための
宿泊研修施設「鈴鹿峠自然の家」として利用されている、とのこと。
平成11年、国土の歴史的景観に寄与しているとして、国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。


宿場名を記した標柱が続く。


標柱は坂下、土山、水口、石部、草津、大津と続き、


最後は三条大橋で終わっていた。
京都三条大橋まであと6つの宿場を残すのみとなった。


旧東海道を進む。
ここまで来て、もしかしたら坂下宿を通り過ぎてしまったのか? という不安が頭を過ぎり、
確認のためにもう一度坂下簡易郵便局まで戻って、それらしい目印を探した。
しかし本陣跡等を示す石柱などは何も見つからず、また標柱まで戻って来たため、その間
往復30-40分はかかったと思われる大幅なタイムロスをしてしまった。


この辺りは坂下宿だろうか?
目を凝らして旧東海道を進む。


松屋本陣跡と書かれた石柱があった。
ようやく東海道47番目の宿場町坂下宿に到着した。
坂下宿には、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒があり、本陣などの規模も大きく、かなり大きな
宿場だった、とのこと。


大竹屋本陣跡の石柱


法安寺
ここの玄関は松屋本陣から移築したもので、これは坂下宿で当時を偲ぶ唯一の遺構だそう。


小竹屋脇本陣跡の石柱


坂下宿を進むと、


家並みが無くなり、しばらく道なりに進んで行くと・・・


16時48分、道端に東海自然歩道の道標があった。
片山神社1.1Km、鈴鹿峠1.5Kmと書かれていた。


道標の指す先には急な階段が・・・やや愕然としたが、ここから本格的な峠越えが始まるのだ。
角度は30%はありそうな急斜面だが、ここは頑張って登るしかない。
関宿を出発した時には右手にデジカメ、左手に地図と傘を持っていたのだが、傘は折り畳んで
リュックに仕舞い、代わりに杖を持つことにした。


左手で杖を使いながら、急な階段を登る。


5-60段ほど登ると平坦な径になった。
片山神社方面へ。


小さな谷には板張りの橋が続いていた。


今度はコンクリート製の階段があった。
段差があって登りづらいし、角度も急で厳しい。


この後、谷を跨ぐ橋と


急な登りの階段が


交互に続いていた。
思っていた以上に厳しい鈴鹿峠である。
昔の人や馬はこの峠を行き来していたと思うと感心せざるを得ない。


それまで急な登りだった径が突然下りになった。
鈴鹿峠が終わったのか???


下り切った所に”南無阿弥陀仏”と刻まれた碑が建てられていた。
馬頭観世音碑だろうか?


直ぐ近くに東海自然歩道の道標があった。
片山神社0.2Km、鈴鹿峠0.6Kmと書かれていた。
まだ鈴鹿峠を越えていないと分かってガックリ。


片山神社はもう直ぐ、と思って進むと、片山神社と刻まれた大きな石柱が現れた。
神社はもう少し先のようだ。


さらに小径を進むと・・・


17時30分、ようやく片山神社に到着した。
急な階段を登り始めて50分ほどかかったことになる。
鈴鹿大明神、鈴鹿権現、鈴鹿明神と呼ばれ、坂上田村麻呂を助けた鈴鹿御前を祀ったといわれている。
水害や火事の神様である。


一息入れていた時、かみさんから『万人講常夜灯で待っている』との連絡が入った。
鈴鹿峠を越えた先の万人講常夜灯を目指すことにした。
これまであった東海自然歩道の標識によると、鈴鹿峠はあと400mほど先ということになるのだが・・・


薄暗い坂道を上って行くと・・・


国道1号の下に出た。


石段を上って国道1号方面へ。


石段を上り切ると小さな空き地があった。
三重県関町と書かれた木製の柱があるのみで、案内板は剥げ落ちていて何が表示されていたのかは分からない。
鈴鹿峠は左の階段を登ることになると思われたので、手持ちの地図と勘を頼りに進んだ。


薄暗い坂道を上って行くと・・・鈴鹿峠の説明板があった。
鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道(あすはみち)」と呼ばれ、
平安時代の仁和2年(886年)に開通した。
八町二十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の
今昔物語集に水銀(みずがね)商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文を
唱えて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえた
という話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。
また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に
鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。
江戸時代の俳人、松尾芭蕉は鈴鹿峠について「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。
環境省・三重県


さらに上りの石段の坂道が続く。


曲がりくねった急坂を息を切らしながら上って行くと・・・


径が平坦になって、鏡岩150mの案内表示が・・・
この時点でかなり疲れていたし、かみさん達を待たせることになるため、鏡岩(往復300m)
へ行くのは諦めることにした。


鈴鹿峠の説明板が。
鈴鹿峠は伊勢と近江の国境をなす標高378mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている、とある。
(以下略)
ここが鈴鹿峠の頂上(378m)と思われる。


左三重県・右滋賀県の境界を記す石碑が建てられていた。


旧東海道の石柱に従って、


石柱を過ぎて少し進むと・・・


18時7分、かみさん達が待つ万人講常夜灯に到着した。


万人講常夜灯
道中安全を祈願して江戸時代に建立されたもので、「万人講」・「金毘羅大権現永代常夜灯」と刻まれています。
重さ38t、高さ5.44mの自然石の常夜燈で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられています。
由来書によれば、「文化年中」の霊験により見出された「神石」を用いたものといい、「甲賀郡中」の信心ある者たちが寄った「万人講」が企画・建立し、毎夜火を灯すようになったと云います。
鈴鹿トンネルの工事のため旧東海道沿いから現在地に移設されましたが、東海道随一の難所・鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことでしょう。
甲賀市教育委員会


この後、予約していた亀山市内のホテルに向かった。
夕食はホテルから5分ほどの和食レストラン「さがみ」へ。


和食御膳は盛りだくさんで美味かった。


この日の万歩計は18,000歩を計測していた。
関宿の西の追分から鈴鹿峠を越えただけだったが、意外と歩数が多かったのには驚いた。

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