ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(4日目)

2023年05月16日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年5月16日(火)

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(4日目)

この日は今回(旧東海道第Ⅲステージ第7回)の最終日ということで、昨日の続きとして
三雲駅をスタートして、石部宿、ゴールの草津宿を目指すことになる。
昨日三雲駅までしか進めなかったためその分距離は長くなることから、少々早めに
ホテルを出て三雲駅まで送ってもらった。
この日の天気は晴れ、最高気温は27℃という予報である。
熱中症で途中でストップなんてことにならないよう水分補給は怠らないようにしたい。
かみさん達は近江八幡や多賀大社などを観光するという。

7時44分、かみさん達と分かれて三雲駅を出発!


しばらく旧東海道を歩く。


昨日までの3日間見て来た同じような街道の景色が続く。


JR草津線の踏切があった。


踏切を越えた所に旧東海道の道標と観光地図があった。


きずな街道(旧東海道)の歴史探訪・史跡めぐりマップで現在地と周辺の史跡などを確認する。


JR草津線を電車が走っているのが見えた。


しばらく進むと”きずな街道休憩所”があった。


歴史探訪・史跡めぐりマップを確認すると、大沙川隧道・弘法杉は直ぐ先である。


対向車が来ないことを確認して大沙川(おおすなかわ)隧道を通り抜ける。


大沙川隧道の説明板
大沙川は、旧東海道の上を流れる天井川です。
奈良時代に奈良の仏教寺院や石山寺の造営時、この辺りの木々が切り倒されて禿山となり、
大雨の毎に土砂が流れ、川底が上がり天井川になったと伝えられています。
当時三雲地区には天井川が多く、大沙川・由良谷川・家棟川も旧東海道と交差していた。
人々は天井川に出会えば土手を登り、小橋か浅瀬を渡って川越するという
「人馬通行ノ難所タルハ衆人ノ熟知スルところ」であった。
明治になると東海道を整備することになり、その一環として天井川に隧道を掘って人馬の
通行の便宜を図ることになり、明治17年3月に県下最初の道路トンネルとして築造された。
全長16.4m、高さ4.6m、幅4.4m、半円アーチ形天井、壁は花崗岩の切石積みという立派で
頑丈な構造で造られており、地元では「吉永のマンボ」と呼ばれ親しまれている。
また、このトンネルの上には弘法大師の伝説で伝えられている樹齢750年の「弘法杉」が
聳えている。
平成29年(2017)3月  三雲学区まちづくり協議会


隧道を通り抜け、隧道の上に上って振り返ってみると・・・そこには杉の大木が!


旧東海道を横切る大沙川の堤上に、樹高26m、周囲6m、樹齢約750年の杉がある。
この大杉を古来より弘法杉、または二本杉と人々はよんでいる。
伝説によれば、もとは2本あって並立していたが、洪水のために堤防が崩壊して一樹は倒れた
といわれている。
昔からこの地方の子どもが左手で箸をもって食事をするものは、この木の枝で箸を作って
使用させると自然と右手で食事をするようになるといわれている。
そのために、下の方の枝はたいてい切り取られていたと伝えられている。
一説によれば弘法大師(空海)がこの地方を通過した時、二本の木を植えたとも、
また弘法大師が食事をしたあと杉箸を差しておいたのが芽をだしたとの説がある。
その後、大風のために折れて朽ちたので里人が再び植えたが、安永2年(1773年)の台風で
そのうち1本が倒れたともいわれている。
平成6年3月 甲西町教育委員会


大杉の裾に弘法大師を祀った大杉弘法堂があった。


旧東海道を進む。


浄土宗了安寺入口前を過ぎ、


続いて三雲小学校を過ぎると・・・


夏見一里塚跡を示す説明板があった。
この夏見の一里塚は江戸日本橋から115里の地点にあり、東の先は水口(泉)に、西の先は
石部にそれぞれ一里塚があります。
しかし、多くあった一里塚も明治以降は保護されず、道路の拡張や開発によってなくなり、
そのまま残っているのはごく僅かで、この一里塚のように跡地を示すだけになっています。
この写真は数少ない愛知県名古屋市にある笠寺一里塚で、このような塚がここにもあったと
想像されます。
平成27年1月(2015) 三雲学区まちづくり協議会


夏見一里塚跡を過ぎて少し進むとまた隧道があった。由良谷川(ゆらたにがわ)隧道だ。
大沙川隧道の2年後の明治19年竣工、花崗岩で出来た切石を追石に使用してどっしりとした
重厚な造り。
由良谷川は野洲川に合流する河川で東海道の上を流れる天井川である。
毎年辺りは紅を差した様な明るくなる見事な桜並木である。
きずな街道の歴史探訪・史跡めぐりマップより


由良谷川隧道を通り過ぎて振り返って見たところ。


由良谷川隧道を過ぎると新由良谷川があった。
小さな川である。


旧東海道を進む。


おやすみ処の看板が目に入った。


針公民館にあるきずな街道休憩所だ。
ここで一息入れて、


また旧東海道を進むと・・・北島酒造があった。


北島酒造は米どころ近江平野にあり、最高の酒米と鈴鹿山系の伏流水を使用し、丁寧な
手造り行程で醸造している「御代栄」は全国でも数少ない本当の技と愛情で少量しか造らず、
全量低温発酵、低温貯蔵で造られているお酒である。
「気に入らないものは一本も出荷しない」と社長自らが全ての製品を厳しくチェックする。
そんな手造り手の思いがこもったお酒である。
きずな街道の歴史探訪・史跡めぐりマップより


北島酒造を過ぎて少し進むと、
国指定天然記念物 うつくし松 の案内板があった。
次のようにと紹介されている。
平松に自生する赤松の変種。
根から放射状に出て傘を開いたような美形の松で、その名も「うつくし松」。
大小二百本が群生し、日本でこだけしかなく、国の天然記念物に指定されています。
湖南観光協会


家棟川橋を渡り、


旧東海道を進んで行くと・・・


天然記念物うつくし松自生地0.9Km の案内標識が。
時間があれば是非とも立ち寄って行きたいところだが・・・


石部宿高木陣屋跡の説明板
元禄11年(1698)道中奉行に任命された高木伊勢守が、元禄12年に平松を領するようになった。
その後、文化年間(804-1817)に広壮な二階建ての陣屋を建てたが、明治維新後、個人の所有
となり、建物は取り払われた。
しかし、陣屋の門はその後所有者が転々とするが、現在は、三雲の郷内にあるレストラン入口の
門として再移築されて、当時の面影を残している。
湖南市観光協会


浄土真宗本願寺派 紫雲山光林寺前を通過


バス停のような小さな”きずな街道お休み所”を通過


9時34分、石部宿に入った。


東の見附跡
東の見附は目川屋より約30m東に行ったあたりで、道路の中央付近まではみ出していた
巾3m、高さ2mほどの台場であり、石部宿場の両入口にあった。
桝形城門の俗称で、番兵が通行人を見張るところから、「見附」といった。
石部宿には東西二ヶ所に設けられた。
湖南市観光協会


吉姫神社
御旅所のある上田の地に斎き祀られていたが、明応年度の兵火によりこれを焼失し、
天文三年に現在の地に祭祀された。
境内には南北朝時代作の木造狛犬や万病に効能あらたかな宮前の湧き水がある。


9時46分、石部宿に到着


西福寺前を通過して少し進むと・・・


石部宿駅(休憩所)があった。
厠(トイレ)なども整備されている。


東海道五十三次宿場地図
三条大橋まで残す宿場は3つである。


旧東海道を進むと、東海道五十三次 目川ノ里 の浮世絵があった。
五十一番目の宿場として、二軒の本陣、六十二軒の旅籠、二百余軒の商家で栄えた所です。
と説明されている。


10時5分、石部宿本陣跡に到着した。
ここにも明治天皇聖蹟碑がしっかりと建立されていた。


石部宿 小島本陣跡説明板
石部宿には、幕府直轄と膳所藩直轄の二つの本陣が置かれ、全盛期には216軒の商家や
62軒の旅籠が並び、東海道51番目の宿場町として栄えました。
数多くの大名や明治天皇なども宿泊した小島本陣は、慶安3年(1650)に創建されましたが、
膳所藩主本多俊次、康将二代に対する小島氏の顕著な奉公により承応元年(1652)に本陣職を
許されました。
湖南市観光協会


小島本陣跡を過ぎて少し進むと、道は大きく右に曲がっていた。
その角に田楽茶屋があった。


田楽茶屋の説明板には、
歌川(安藤)広重が天保3年~4年(1832-1833)の時、東海道を55枚の風景道中画で表し、
田楽茶屋は石部宿の象徴として紹介されました。
栗東の岡に、「京いせや」、「こじまや」、「元いせや」の3軒の代表的な田楽茶屋があり、
ここは平成14年町政百周年記念事業として再現されました。
湖南市観光協会


田楽茶屋を過ぎて進むと、


100mほど先が直角に左に曲がっていた。


鉤の手道の説明板
京都方面から来て、見附を過ぎると街道が鉤の手に二か所設置されていて、敵がむやみに
侵入しにくい構造になっていた。
石部宿には街道に8か所の交差点があったが、宿内を見渡せない遠見遮断で防御の役割を
果たしていた。
湖南市観光協会


旧東海道を進む。
前方にこんもりとした山が見える。近江富士(三上山)らしい。
後で調べてみると、次のような説明があった。
高さ432mで、なだらかな稜線を描くその美しい姿から、「近江富士」と呼ばれています。
また、この山を7巻半した「大ムカデ」を武将「俵藤太」が弓矢で退治したという伝説が
残っており「ムカデ山」の別名もあります、とのこと。


石部宿の西のは外れと思しき所に小さな公園があった。
西縄手である。


西縄手
縄手とは立場から立場の道のことを言い、石部宿の西にあたることから西縄手と呼ばれていました。
江戸時代、ここは宿内に入る前に参勤交代の為の大名行列を整理した場所で、長い松並木がありました。
湖南市観光協会


宮川を渡って旧東海道を進むと、国道1号石部ランプが見えた。


国道1号石部ランプ下を通り抜けてJR草津線を右に見ながら進むと、踏切があった。


踏切は渡らず、JR草津線に沿って真っ直ぐ進む。


名神高速道のトンネル下を潜って、


田舎道を進む。


右手にはっきりと近江富士(432m)が見えた。
きれいに富士山の形をしている。


10時59分、浄土真宗本願寺派 弁天山徳生寺前を通過


旧東海道を進む。


この地区の各家にはかつての屋号(職業)が付けられている。
この家は東海道 林村 刀鍛冶「刀屋」とある。


ほかにも東海道 林村「甘酒屋」や


東海道 林村 人力車「人力屋」などがあった。


長徳寺 薬師如来堂前を通過


六地蔵地蔵尊へ立ち寄ることにした。
この辺りは六地蔵という村だったと後で分かったが、ありがたい村名だと思った。
たまたま立ち寄ったのだが、立派なトイレがあったので使わせて戴きました。
(少しだけですが寸志は納めておきました)


本堂にお参りをすると・・・


ご本尊の地蔵尊(国宝)を拝むことが出来た。


六地蔵地蔵尊を少し進むと・・・和中散本舗の建物があった。
家康が腹痛を起こした時、この薬を服用し快復したところから「和中散」と名付けた。
道中薬として広く普及した。


建物は小休本陣、シーボルトも立ち寄った、とのこと。


国の指定重要文化財となっている。


和中散本舗を過ぎて道なりに進むと、六地蔵の小公園があった。


11時48分、直ぐ近くに一里塚碑があった。
六地蔵一里塚跡で、江戸日本橋より117番目の一里塚となる。


東海道名所図会(梅の木)
江戸時代の東海道沿線のガイドブックに記載されていた六地蔵村の様子。
宿場と宿場の間の休憩所である立場(たてば)が置かれ、梅木(うめのき)立場と称された。
「ぜさい」を名のる道中薬、腹薬の「和中散」を商う店があることで、京・大坂・江戸にまで
知れ渡っていた。


旧東海道(六地蔵村)を進む。


景観重要樹木指定標識には以下のように案内されている。
肩かえの松(クロマツ)
指定の理由となった樹容の特徴
東海道沿いにあり、歴史街道景観のシンボルの1つとして、往時を彷彿とさせる景観形成に
重要な役割を果たしており、地域住民や東海道を訪れる方々にも親しまれている。


実際の肩かえの松


旧東海道を進む。


12時11分、名神高速道栗東IC付近の道路下を通過


東海道手原村 手原醤油
塩屋藤五郎と書かれた看板がかかっていた。


里中大明神


12時25分、東経136度子午線の標識を通過
北緯35度01分22秒とある。


旧東海道を進む。


旧東海道を進む。


旧東海道は大きく左に曲がっていた。


道なりに進むと・・・


道路脇に 九代将軍足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地 文明十九年(一四八七年)
と刻まれた石碑があった。
室町幕府は応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れた。
近江守護職位高頼は、社寺領等を領地とした。
幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため、時の将軍足利義尚は長享元年10月
近江へ出陣、鈎に滞陣した。
滞陣2年目に病で延徳元年3月に、25歳の若さで当地で没した。
本陣跡は西に約200mの永正寺の一帯である。


鈎の陣所ゆかりの地碑の後ろは大きな池になっている。


旧東海道を進む。


真宗大谷派 養煙山善性寺を通過すると、


道が二手に分かれていた。


左は中郡街道となっているので、右に曲がって東海道の方へ。


目川 ひょうたん展示・販売 の店があった。


店の塀には目川の歴史が。
栗東市の目川は、東海道五十三次草津の宿に接する立場(旅人の休憩所)として栄えた所で、
旅人の必需品を売るいろんな店や茶店がありました。
その中でも瓢箪(ひょうたん)は旅人がお茶やお酒などを入れる容器として売られていたものと
思われ、江戸時代中期以降明治の頃まで当地方の農家の副業的地場産業でした。


12時59分、目川一里塚跡に到着
江戸日本橋より118番目の一里塚となる。
一つ前の六地蔵一里塚から1時間10分ほどかかっていた。


田楽発祥の地 元伊勢屋の碑
東海道を往来する旅人の休憩所として江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。
ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し、東海道の名物となった。
(以下略)


目川田楽古志ま屋跡碑


目川田楽 京伊勢屋跡


13時15分、東海道新幹線下に到着、新幹線下で一休みしよう。
休んでいる間にかなりの数の新幹線が通過していった。


13時26分、草津市に入った。


国道1号を横断し、


少し進むと・・・


小汐井神社(地蔵尊)前を通過


いつの間にか草津駅の繁華街に迷い込んでしまった。
歩いているのとは逆の方を示す草津本陣跡の標識があった。
どこかで道を間違ったようだ。
この日は時間がないことから、最終回に本陣跡へ行くことにして草津駅へ向かった。


13時54分、草津駅前の道標に到着した。
最後は慌ただしかったが、何とか無事に草津宿(JR草津駅)に到着した。


かみさん達とは彦根駅で待ち合わせすることになっているため、とりあえず駅前で軽い食事を
摂ることにしよう。
近くにコメダコーヒー店があったので、サンドイッチとコーヒーを注文。
急いで食べ終わり、真っ直ぐ草津駅へ。

13時55分、草津駅に到着。
かみさん達が観光している多賀大社に近く、名神高速道彦根ICからも近い彦根駅へ向かった。

彦根駅でかみさん達と合流し、帰路に就いた。


この日万歩計は32,000歩を計測していた。
前日に続いての30,000歩越えである。

旧東海道第Ⅲステージ第7回 関宿~草津宿(1日目)

旧東海道第Ⅲステージ トップ(1日目)に戻る。

ウマさんの「旧東海道を歩く」目次に戻る。

ウマさんの気ままな行動日記(その2)目次に戻る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 旧東海道第Ⅲステージ第7回 ... | トップ | 小町の心に触れられたかな?... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ウマさんの「旧東海道」を歩く」カテゴリの最新記事