ピアニスラー

ゴールド・フィンガー、ハイパー・ピアニスト矢沢朋子のブログ

徒然と忘備録

2020年06月09日 | 音楽

オンライン授業も1ヶ月経ちました。まだ続くのかな?

 

音質は当然・悪いですが(音楽部なので・・)、便利なことも発見

ミュート機能を使うと、ちょっとした譜読みが各自出来るので、1人しか音出しが出来ない授業より効率的に時間が使えるということ。これはいいよ

 

こじんまりとした学校なので、サーバーが落ちることもなく、時々は重い時もあるけど、使えてます。

 

こちらは川島氏の国立音大?でのソルフェージュの授業だそう。かなり作り込んだ動画なのは、やはり人数が多い学校だからオンラインだけじゃなくて自習用にファイルをアップしておく必要があるんだろうか。

 

内容も編集も情熱も素晴らしい。楽しい面白い

 

ケチャ講座(川島素晴によるオンライン授業の一部)

 

この魂を込めた「チャッ」を見てるうちに、なんとなく:「ベートーヴェンもこんな感じで和音は”魂”を込めて弾くんだよな。なんたって200年以上前の前衛作曲家だから、属9(9th)が”前衛”に響かないとならないんだよな」と思った次第。小さい響かないピアノで作った曲だからね。

 

現在の88鍵のピアノの荘厳でエレガントな音色で弾くのではなく、全身全霊、属9は1回ごとに完全燃焼で弾くのだよ。あっつー

 

 

私は基本・ドビュッシー以前の音楽は:あまり関心がないんです。バッハですらグールドの「ゴールドベルク変奏曲」を聴けばいいや、みたいな。別に自分で弾かなくても。

かつてベートーヴェンとかショパンも仕事で弾いてましたけどね。もうこんな時代ですし、暑苦しいことしたくないです。

 

ラヴェルも:腕を故障してメシアンが弾けなかったから、しょうがなくて弾いてたような感じ。やっぱり治ったらドビュッシー、メシアン、リゲティあたりとミュライユもまた弾いてみたい。あ、それと同じ筋をずっと動かすミニマル・ミュージックも

 

同じ時代で「印象派」で作風も似てるようなラヴェルとドビュッシーだけど、弾いてみると違いは明確。

 

ラヴェルには現代のゴージャスなスタンウェイより、プレイエルとかちょっとオンボロであまり響かないピアノで頑張って弾くのが合うと思う。そういうピアノで作曲したんだなという痕跡。和声がヘンなわけでもなく、でも倍音のことが計算されていない作りなのよね。

 

スタンウェイだとラヴェルは音が濁って汚い感じになりがち。特に「鏡」の1曲目とか「夜のガスパール」のオンディーヌとスカルボもね。「道化師の朝の歌」はなんだか=馬子にも衣装。な感じになるし。そんなハイスペックな楽器じゃないほうが良さが出るというか。

 

その点ドビュッシーは:当時のピアノのスペックには相当・不満があっただろうなーというのが楽譜から読み取れる。「ピアノという楽器はこのように響いて欲しい」という希望が書かれてます。ラヴェルが現状のピアノでベストを尽くしたのとは逆に。タイムトラベルでドビュッシーにスタンウェイを届けてあげたいです。というか、タイムトラベルをして、スタンウェイを弾いたことがあるというアイデアで溢れているし、自然に響く。「最近の曲」と言われてもさほど違和感ないと思うものも多いし。プレリュードとかね。

 

なんか似ててもラヴェルだと古色蒼然としたアンティーク臭が漂うんだよなー。19世紀って感じ。嫌いじゃないけど、やっぱりドビュッシーは凄いですね。フリーメーソンでしたね。きっとカバラの秘密なんでしょう。

 

ところでショパンは絶対・安いピアノか古いオンボロに近いピアノで弾くと魅力が全開になると思いますよ。そもそも音楽が田舎臭いし。現代ピアノだとうるさくなりがちなんです。 リストの方がまだ好き。まあショパンの方が偉業を遂げた気はするけど。シューマンはもう今後、聞かずに弾かずに人生過ごしたいです。ブラームスはまだ弾いてもいい曲が片手分はあるけど他人の演奏は聞きたくない。ベートーヴェンも。

 

メシアンはスタンウェイでないとダメです。素晴らしい美しいどの曲も

メシアンは色んな人の演奏を聞いてみたい。ユジャ・ワンとか弾いて欲しいな

サティは絶対・アップライト 最近流行りの駅ピアノとかだとロートレック的かも。

リゲティはビミョ〜で:スタンウェイとヤマハを弾き分けたほうがいい感じかな。リゲティはヤザワとスウェーデンのオタク風・フレデリック・ウーレンがオススメ

 

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以上が:川島氏の「ケチャ講座」を見て思いついたことでした。「違うんです」ってとこだけに反応して、日頃の潜在意識が浮上して考えとしてまとまるんですね。忘備録

 

FBのフレンドが読む、とか書いてたので自分も買った廃本の「金色のソナタ 商業主義の内幕 」は久しぶりに笑うほど楽しい本でした

カラヤンとかアイドル全盛期のポゴレリッチの「世界はオレを待っている」話がシニカルなユーモアを交えて書かれていて

 

最近のポゴレリッチはすっかり「薄く」なってしまって、かつての面影が少し残ってる分、無残な感じがします。なかなかデヴィッド・ボウイとかヤザワの先生クロード・エルフェのように歳を取るというのは難しいんですねぇ。かつてはホストいうかヨーロピアン・ジゴロのようだったポゴレリッチも、すっかりオっさんになってしまって。植えればいいのに。ファンもそれを「待ってる」ゾ

もともと私はポゴレリッチの演奏はタイプではないので、どうでもいんですけどね。

 

オスカルって若い頃のポゴレリッチに似てたなぁ。態度も。

ウチに来る人は、全員・自分のファンだと思って生きてたから。ファン・サービスとして、挨拶に出て来るんですよ。犬のようだけど違うんだな。あくまでファン・サービスなの。

「アンドレ(←ヤザワ)、メシ」

 

それと、どういうわけか、この手の本は全く読まないし、必要でもない私が、急にポチった本。指が勝手に。。呼ばれたわ

練習しないで上達する―導入期のピアノ指導

人柄が素晴らしい。まるでピアノ教師のガンジーのような方です。

 

指導法というより、呉先生の哲学書だと思います。とても感銘を受けました。

子どものための指導法も書いてはあるんですが、それより著者の音楽に対する気持ちというのが素晴らしい。私が子どもを教えるのが楽しいと思えないのは、人間の子どもが特に好きというわけでもないからだということが分かりました。以前よりは(うるさい子どもを)許せるようになったし気にならなくなったけど。やはりオールマイティというわけにはなかなかいかない。向き不向きは別に悪いことじゃないと。

泣いて寝てミルク飲むだけの人間の赤ん坊は苦手

私からすると人間の赤ん坊ってスフィンクスみたいな感じなんですよ

ネットで検索した画像ですよ

まあそれで:

「ピアノで遊ぶ方法を教えるのがピアノ教師」「毎日の気分で今日は何を弾いてみようかなと決める。弾きたい曲が1週間もなかったらピアノ教師なんてやめたほうがいい」←だったかな?

 

自分が自分の先生に習った曲や弾いたことのある曲しか教えない先生というのも、子どもの可能性を摘み取ってしまうと。子どもに対してに限らず、それは「投資した分を回収」するだけの行為だと思うんですがね。プチ資本主義?

私は生徒が自分の弾いたことのない曲を持ってくると楽しいと思える。投資の回収とは反対で、与えるだけだと消耗する気がしてしまうから。

クラシックピアノは練習時間が長いから、同じ曲をずーっと教えて自分も練習して、という状況だとちょっとヤバい感じはする。神経衰弱気味というか。精神科の医者が見たら病名つけると思うんだけど。

 

そして、これが心に残りました:「素晴らしいピアノで自分のためにピアノを弾く贅沢。本当に素敵な音で、音楽っていいなあと思う」←というようなことが書かれていて、しみじみほのぼのしました。

そういう心境が分かるようになったということですね

 

以前はクセナキスの言葉に激しく共感出来てしまうような暮らしだったから。

「音楽とは、辛く・苦しく・厳しいもの」みたいな。これは産みの苦しみだとは思うけど。

コンサートのチケット売上の週報告とか、吐きそうなこともありましたな。

もうしばらく、そんなことも起こり得ない世の中になってしまったし。

楽しいと思えることを1つでも、毎日していきます。

 

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