年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

流人の子 三河屋幸三郎

2021年03月24日 | 宅老のグチ
やっと緊急事態制限が解除され、再度発動される前に埼玉県蕨市の図書館へ行った。郷土資料室には珍しく人がいたがそれでも2名であった。河鍋暁斎の研究誌があと40冊読んでいないので、残りを読む。第80号から100号までが一日の目標で約3時間ほどかかる。時々館内放送で長時間滞在はご遠慮くださいと言われるが、その時は一人しかいないので無視して読む。
86号 上野戦争で活躍した三河屋幸三郎と河鍋暁斎との関係が書かれている。暁斎絵日記には明治17年頃から出てくるようだが、絵ではちょん髷が書かれている。
 家では高野長英の判決で流罪となった人の行方を捜していて、近藤富蔵著八丈実記には近藤富蔵が明治の10年代にようやくIHIの創業者平野富二の尽力で赦免され、江戸から東京となったところへ戻った。その時の記録で三河屋幸三郎から富蔵へ多大な寄付があって、どのような想いがあったのか不思議だった。研究誌暁斎によると、三河屋幸三郎の父は流罪で八丈島に渡り、現地の女性との間に子供が生まれた。その後幸三郎の父が赦免となり、江戸に戻ったが当時の決まりでは子供は八丈島に残った。その後江戸の人たちの尽力で幸三郎が江戸に八丈島から出ることが出来た。明治15年5月に三幸は富蔵に八丈島の実父の記録を求めて一代記を作成依頼したようだ。幸三郎が有名になったのは、上野戦争の敗者となった幕府方の死者が新政府軍が監視していて山中に放置されたままでいるのを見て、西郷隆盛像の後ろで遺体を集め、荼毘にしたという。その遺骨を弔っている南千住の 円通寺 住職と共に遺体を片付けたという。その後の活躍は横浜での美術品輸出で活躍し、河鍋暁斎と関係ができた。
 結局福神漬の命名の経緯とか巷間に伝わる逸話はすべて上野周辺の人たちに繋がり、幕府の恩恵が消え、困窮していた江戸時代から住んでいて、文明開化に適応しない人たちへの支援という事が読み取れる。

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