年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

新島村史 資料編⓷  新島役所日記

2021年03月21日 | 宅老のグチ
新島(にいじま)島役所日記-弘化~慶応 2003年刊行
 高野長英を匿い、南町奉行遠山左衛門尉によって、嘉永3年12月に流罪となった3人の記録を求めて借り出した。この古文書は新島に住んでいる人たちによって解読されたようだ。弘化2年から慶応4年までの本で一部欠けているが時代的背景が解説にあって、目的の文献は無かったが面白かった。特に江戸のコメ相場が新島の経済に関係していて、1両当りでいくらでコメが買えるか記載されていて、物価の変動の激しさを知る。さらに新島は黒潮の流れの中にあって、漂流船・漂着船や沖合を通過する異国船が頻繁に見られている様子が解る。
 弘化2年は高野長英が伝馬町牢獄から放火によって脱走した年であった。新島は日本本土と離れているが海という事で世界史の中にいるという事になる。
コメ相場
弘化2年2月5日 1両当り米 6斗5升
  12月19日    米 5斗7升 
 この年の最高は7斗2で最低は4斗5升だった。
安政3年3月7日 1両当り米8斗2升
  この年の最低は1両当り7斗2升だった。
文久3年1月21日 米1両当り4斗4升
1861年文久元年 米1両当り 3斗
1862年文久2年        4斗1升5合
1863年文久3年        4斗2升
1864年元治元年        3斗7升
1865年元治2年       1斗7升5合
 元治2年は1両でコメが少しか買えない。いかにコメが騰貴したか解る。
 明治維新直前の慶応3年4月18日 1両当り 米8升8合
        慶応3年12月13日    米1斗8升5合
 天候に左右される新島はコメも少しは取れるが主な食料はサツマイモだった。芋が手に入って餓死することが少なくなった。文化8年に新島から他の島へサツマイモ栽培が普及し、餓死が減り、人口が増えた。新島の人口の1割が流人で、幕府の慶事に恩赦があって、変動するが、流人の送り込みによって島の役人たちの島経営は大変だったようだ。
なぜコメ取れないのに江戸の米相場を気にしていたかと言うと新島は海から採れる塩を最初は上納していたが、後に金納となり、換算のためにコメ相場の情報が必要だった。今の日本でも、海外旅行に行かないのに米ドルの変動相場をニュ-スで流されているのと同じである。米ドルをコメと読むと理解しやすい。
 新島は人の出入りが少なく感染病の記録は少ないが天然痘がそれでも入ってきて、流人の医学的知識で防いだこともあった。
 

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