年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

嘉永3年10月11月の月当番

2021年03月11日 | 宅老のグチ
入院中、何もすることもなく、頭で疑問を持ったことをメモし、退院したら調べてみようと思った。その中の一つで嘉永3年10月の南北の江戸町奉行の月当番はどうなったていたのだろうかを知りたくなった。どちらか10月で11月は違うことになる。普通は偶数月は南町奉行所で奇数月は北町奉行所となっている植松三十里 さんの小説には書かれているがどこか信用できない。連読して担当した時も文献にはあった記憶がある。高野長英が最初に捕まった時、本来なら南の担当月だったが、筒井政憲との関係で北町が担当したようだ。
 この件で文献を調べてみたが江戸幕府諸役人御用番名鑑と言う本が見つかった。藤岡屋日記の記録から、下曽根金三郎・内田弥太郎・戸田伊豆守氏栄は嘉永3年11月と12月は江戸に居た様だ。
 多くの高野長英の評伝本や小説でも高野の最後の江戸市中潜伏を助けたのが内田弥太郎となっている。しかし、12月に南町奉行の遠山左衛門尉の御裁きは内田に関して、何もお咎めがなかった。内田の実家である宮野家の信四郎が流罪となった。この記録は新島村史流人史に載っていて、嘉永4年4月に新島に着き、明治元年暮れに、恩赦があって釈放されている。つまり各種の長英本に書かれている、宮野家のお家断絶という事は誤りと思われる。
 江戸時代の牢獄の世界は金があれば結構生き残れる世界だった。(地獄の沙汰も金次第)宮野信四郎が新島で明治まで生き残れたのは彼に資金援助があったと思われる。誰が資金援助をしたかと言うと内田弥太郎と旗本長井昌言と思われる。
 長井家は文政年間長井五右衛門昌純は火付盗賊改の職だった。流人の諸手続きは南北両奉行と火付盗賊改が関係する。さらに江戸からの流人船は浦賀で船改めがあって、内田弥太郎も長井昌言(ペリ-来航時対応した戸田伊豆守氏栄3男)だったので流人の生き残りの資金援助や知識は十分あったと思われる。あとは三宅島に流された二名の生死が判明すれば、多くの高野長英本の最後が誤りとなる。早く都立中央図書館で確認したい。
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