年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

40頁X120冊 

2021年03月28日 | 福神漬
埼玉県蕨市図書館郷土資料室に所蔵されている、研究誌(暁斎・キヨウサイ)120冊をコロナ感染封鎖の隙間を狙って8回位通ってようやく読了とはいかないが目を通した。多分もう一度確認で数回通うだろうがおおよその河鍋暁斎をめぐる美術関係者の関心がどこにあるかが知りえた。自分の関心事は暁斎画談を瓜生政和と河鍋暁斎がどのような関係で評伝を書いたことに関心があった。この画談の出版は明治20年という事で暁斎絵日記に瓜生政和がいつ打ち合わせしたか気になるところだがそれでも明治19年のことだろう。そうなると瓜生政和(梅亭金駕)が酒悦主人に命名依頼された時期が明治18年なので福神漬命名の方が先となる。
 福神漬の命名由来の調査を始めたとき、台東区中央図書館郷土資料の所で河鍋暁斎の晩年が根岸の笹の雪付近に住まいを構えていた。そこで河鍋暁斎の絵を調べたら、画集に多くの七福神の絵が見つかった。そこで西川口駅から歩いて、河鍋暁斎美術館へ行き、七福神の絵を見て、特に毘沙門天の絵を学芸員に見てもらったが、福神漬に入っているナタマメを想像できる暁斎の絵は無かった。15年ほど前の話で西川口は普通の人には馴染みのない町のように見えた。並木にカリンの実がついている時期だった。美術館の中に入ると普通の家の様で不思議な感覚がした。学芸員に七福神の絵を見せてもらったのは応接間にあるソファ-のようなイスだった。ここは美術館ではないなと今でも思う。河鍋暁斎の子孫が如何に日本より外国で有名であることから、日本人に存在を知らせる前線基地で司令塔は館長と思った。
 そこに美術知識の欠けている自分が七福神の絵を眺めて妄想にふけっている。暁斎画談に文章を書いた梅亭金駕は明治政府の弾圧を避け、さらに面白くする戯作者として何をたくらみを入れたのだろうか。素直に読んではいけない気がする。
 明治期に狩野派の画家は幕府の庇護が無くなり、生活維持に苦しんだ。こだわりの薄い暁斎は年末になると商家に七福神の絵を買ってもらっていたようだ。多くの暁斎の絵は商家へ行き、物と交換された。確か灘の酒を扱っていた新川の酒問屋鹿島本店の人は河鍋家に店員が常在しているときもあったという。なんでも依頼があれば絵にしていたようだ。
まだ未発見の河鍋暁斎の絵が多く、また偽物が膨大で鑑定には難儀しているようだ。
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