年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

浅野長祚

2021年03月29日 | 福神漬

嘉永5年浅野長祚 (あさの-ながよし)は浦賀奉行を辞任した。浦賀奉行史では浅野が浦賀奉行に就任してから、現地の状況を把握し、幕府に海岸防備が備わっていない実情を上申したが無視され続け、辞任した。浅野 長祚が浦賀奉行に就任した事情はアメリカ船ビットル号事件処理の不手際から急に戸田氏栄と浅野長祚 が浦賀奉行になったという。

 横須賀の中央図書館は開国関連の史料が多い。ビットル号が退去したのち、また異国船打ち払い令の復活の検討が始まったようだが種々問題があって、ズルズルと時間が経過し、ぺリ-が来てしまった。この間に株仲間の再興があって、筒井と阿部との間で頻繁なやり取りがあったようだ。

 浅野長祚は明治に死去したのだが評価としては浦賀奉行としての業績が反映していない。これはペリ-来航時の直前に京都町奉行へ転任していた。その後は大老となった井伊が浅野を一橋派とみなし京都町奉行の職から閑職に左遷し、今は蔵書家、芸術鑑定家としての 浅野梅堂としての名が残る。浦賀の歴史を調べている人達はペリ-来航以前に対外関係で武力の不備の危機感を持っていたのが浅野長祚 という。この浅野を抜擢の具申をしたのが老中阿倍正弘(備後福山藩主)だった。天保14年に老中に抜擢され、水野忠邦の改革の失敗の後処理に尽力した。阿倍の手足として活躍したのは石川和介(関藤藤陰)で浅野長祚を推薦したようだ。
 福神漬を調べていて、浦賀奉行と与力たちのペリ-来航時の関係が戸田伊豆守氏栄から調べていたが、水戸藩との関係がつかめず、さらに戸田の浦賀での評価があまり良くないので、戊辰戦争箱館の最後の戦闘で浦賀与力衆と共に千葉行徳の漬物商人が戦死した関係がうまく説明できず、今日まで来てしまった。
 ある時、浦賀で地方史を研究している所で浅野長祚を知り、彼が幕府上層部に資金がないので浦賀の警備が出来ないと言って嘉永5年に転任願を出したようだ。この上申書を見たいと思っていたが正月用に借り出した本にあった。
幕藩制国家の政治史的研究・藤田覚著1987年
 浅野長祚(海防策再稿)
どうやら多くの海防に関心のある人の検討を入れて、幕府幹部に上伸したようだ。しかし浦賀に金がなく、塩関係の株仲間再興で資金を作り、その後日本初の洋式帆船を浦賀で建造した。やっと行徳の漬物・塩と浦賀の人たちのつながりが理解できるようになった。
 浅野が京都町奉行から離れる時期に贈答品のやり取りがある人の名が老舗の御菓子(虎屋)のHPに載っていたので、図書館で借り出し読む。
  京都東町奉行日記 岡部 豊常著
ひょっとしたら漬物の贈答のやり取りがあるかもしれないと思い読むが記録は無い様だ。
コメント
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