年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬とは何だったろうか 4

2010年05月19日 | 福神漬
福神漬とは何だったろうか 4
福神漬の語り部ともいえる鶯亭金升は当時の人気雑誌(団団珍聞)に17才で就職できたのはコネ縁故)であると思える。しかし、旧幕臣で工部省鉄道局の役人だった彼の父は新橋-横浜間の鉄道開業して間もなく明治6年に死去していて。明治の士族で生計を立てることは厳しかった上さらに未亡人と一人っ子の生活が下谷根岸で始まった。しかし下谷・下町の人々の援助によって彼らは育てられた。しかし旧幕臣の経済力は弱く、大垣戸田藩関係の援助があったと思われる。しかし大垣戸田藩は彼を援助する必要性はどこにあったのだろうか。鶯亭金升の父は長井昌言でペリー来航時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の3男である。
 異国船渡来時、浦賀奉行だった戸田氏栄は防備の不備を浦賀与力から指摘されたが、幕府財政が逼迫していたため、いざ異国船渡来時の警備の不足を予想し、親族でもあった大垣戸田藩の重臣小原鉄心の応援を依頼していた。ペリーの艦隊を見た小原はこの後大垣藩の兵制を改革してゆく結果となり、鳥羽伏見の戦い後、大垣藩を東軍から西軍支持に変更させ東征軍の先鋒として江戸へ進軍した。もし大垣藩の武力が東軍支持となっていたら、西軍の江戸への進軍がかなり遅れただろう。維新後大垣藩はその功績により優遇された。
 幕末大垣藩主戸田氏正の側室に高島嘉右衛門の姉が嫁いでいた関係で、新橋-横浜間の鉄道敷設時に横浜の埋め立て事業で活躍した高島の口添えで工部省鉄道局に長井昌言が就職できたと思われる。長井昌言の早すぎる死はこの間の事情を推測するしかない。
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