年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

為替予約

2010年05月16日 | 築地市場にて
為替予約
中国との漬物原料の決済はドルである。最近のギリシャの国債問題で為替の変動が激しく、想定した円ドル関係を改定しなければならないのだろうか。漬物新年度ともいえる秋口の新物価格がどうなることやら。国内産物と思われている漬物さえ、海外政情の影響を受ける。今タイ国に出張することは命がけということになるのだが生姜の産地情報が入らなくなる。
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福神漬とはなんだったのか 1

2010年05月15日 | 福神漬
三菱1号館美術館の南
三菱1号館美術館の真南に大きな建物がある。元東京都庁で今は東京フォーラムとなっている。ここは江戸時代土佐藩上屋敷跡とされる。ここに上って上から三菱レンガ街を想像してみたい。しかし下から見上げると窓が無い。
 そろそろ福神漬の命名時に隠された意図がなぜ伝わらなかったか調べる時期となった。大正12年7月に日本缶詰協会が大手町にある三菱商事の会議室で会合を開いた。そこに出席した鶯亭金升(長井総太郎)いて、出席者に回想的な語り口で鶯亭の師匠・梅亭金鵞と福神漬命名時の話をした。この話が機関紙『缶詰時報』に掲載され、昭和9年輸入食品を中心として商っていた明治屋が従業員のための食品辞典を作ったとき、福神漬の由来を転載した。
今多くのカレー本に書かれている福神漬の由来の多くは明治屋の食品辞典からの引用と思われる。
 缶詰時報が発行されて間もなく関東大震災が起き、この伝承が食品関係者から忘れ去られた。つまり明治屋の食品辞典が無ければ福神漬の由来の多くは消えていたと思われる。
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特殊なドア

2010年05月14日 | 築地市場にて
特殊なドア
築地市場内は狭いため世間の規格と違ったもの使われている。水産部の通路が狭いため場内運搬車(ターレー)も幅が狭く長さが他の市場と共通ではない気がする。先日冷蔵庫のスライドドアが壊れた。修理の見積もりから部品代の金額より、都内でありながら出張費のほうがはるかに高い。築地市場で今新品の冷蔵庫を買う人は10年は移転工事が無いと観た人だろう。
外部の人から見れば面白いところかもしれない。14日DOCCOMOのイベントが築地市場内であった。東京都講堂など昔の風景が見えるだろう。
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しょうがない

2010年05月13日 | 築地市場にて
しょうがない
仕事柄『しょうがない』ことは無い。しょうが(生姜)はある。谷中生姜のおいしい季節となった。国内の生姜産地の人と国内産の状況を話す。今中国が食品価格のインフレが酷く、安価な漬物原料の基地としてそろそろ限界と思われるという。ついでにインドの話が出てきたがインドは生姜を輸入しているという。
 深夜海外の天気予報を見ていると東南アジアのほうが雨季になったようだ。
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品物豊富から

2010年05月12日 | 築地市場にて
品物豊富から
ある店で特売の売り残しの商品を加工用に変えて販売したところ、味が劣化していた事件があった。この問題は様々な要素があるが基本的な問題は売り残しをどう処理するかである。当然廃棄になれば店の利益は減る。特売の商品が大量に不足すれば顧客からクレームがくる。
 どうやら新しいマニュアルが必要になったようだ。中国の食品インフレ率が5%を越えたようでその影響がまもなく日本にやってくる。食料自給率の問題で何を緊急時に利用するか議論する時代が来たと思われる。
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ニセ東京電力

2010年05月11日 | 築地市場にて
ニセ東京電力
先日・東京電力のものですという電話があった。どうも何かの売り込みのようだったが築地市場内は東京都の電力回線を使用しているので直接東京電力に電気料金は支払っていない。それだから東京電力に電話して勝手に電力の増加が出来ない。東京都の許可をもらって市場全体の容量の中で使用するしかない。つまりお金があっても電気容量がないということもある。
 とにかく築地市場は別世界である。今時金があっても電気容量を増やせないところは日本全国でも少ない。
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築地のニュースが多いようで

2010年05月10日 | 築地市場にて
築地市場のニュースが最近多く、だんだんプラス情報からマイナス情報が増えて来た気がする。どちらの情報も場内外で働いている人には周知のことだが情報発信することもなく内々の話であってあえて話す必要もなかった。今日から解禁となったマグロのセリ見学ももとはと言えば時差ぼけ解消のために築地市場に来た人から始まっていて、消えた昔の日本が残っている。つまり場内には横文字が少ない。大八車や天秤棒が現役で活躍している。
歌舞伎座の建て替えもゆっくりと進んでいるようで裏のほうは工事用の塀が出来ていたが表はまだ休業としか思えない様子である。新橋演舞場の上に何時の間に築地にあった阪和興業が移転し、日産自動車が消えた。新橋演舞場付近にだいぶ空き地が増えて、歌舞伎座が再建した時かなり変わってしまう気がする。
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二本松で何が

2010年05月09日 | 福神漬
歴史読本 第49巻 第10号 通巻779号 2004年10月
二本松藩 最後の藩主夫人 丹羽久子 戦火からの逃避ルートをたどる
戊辰戦争の中で二本松藩は藩主婦女子を篭城させず、米沢に逃避させる方針を採った。
丹羽久子は天保7年(1836)3月に大垣藩主戸田采女氏正の息女として生まれ、明治33年死去した。嘉永元年二本松藩主丹羽長国と婚約、嘉永6年4月成婚。結婚時長国は19歳・久子は17歳であった。この結婚後間もなくペリー来航があって、大垣藩は浦賀に警備の出陣等があって忙しかっただろう。
 戊辰戦争で西軍の先鋒となっていた大垣藩は二本松に密使をおくり、藩主夫人久子を大垣に連れ戻そうとしたが夫人に断られた。また維新後長女舞子に養子を迎え、二本松藩を維持した。東京の生活で二本松藩の交渉役であった服部誠一とはどの様な交流があったのだろうか。ここに戸田家によってその縁者の花香恭次郎が服部誠一の公益問答新聞社へ就職した事が想像できる。
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福島県二本松で

2010年05月08日 | 福神漬
福島県二本松で
三春の次に二本松に向った。二本松城下にある歴史資料館と図書館を訪ねた。郷土資料のところで最後の二本松藩主・丹羽長国の正室の資料を探した。またついでに服部誠一についても資料を探した。実に資料が少ない。
会津の白虎隊の史料に比べると二本松少年隊はその名も後から付けられたくらい無名であった。少年隊の隊士は13歳から17歳までで二本松の戦闘で多数討ち死にした。隣の三春藩の裏切りと、貧弱な装備で彼らは戦った。そのような過去の歴史が都市民権派といわれた服部誠一(撫松)を改進党に向わせ、團團珍聞社主・野村文夫とも交友があった。そして三春藩出身の河野広中の自由党とは離れていた。これは二本松の人達の戊辰戦争の心の傷でもある。
服部の公益問答新聞社の社員であった花香恭次郎は自由党に向った。彼は東京士族で戊辰戦争の遺恨は何処にあったのだろうか。
丹羽長国の正室の大垣戸田藩出身で白河城攻撃の西軍に大垣藩がいた。つまり二本松藩東軍の人達にも裏切る可能性があるとみられていた。上野で彰義隊が負け、北関東で戦闘が終わると東北の地が戦いの場となった。先に三春藩が裏切って西軍になったためかえって、二本松藩は東軍を裏切ることはできなくなっていった。
維新後、丹羽長国は謹慎し赦免され、服部誠一は二本松藩の東京留守居役となった。これは幕府時代の各藩の外交を担っている役目を東京で果たした。このときの経験を『東京新繁盛記』として出版し、大いに売れた。花香恭次郎が公益問答新聞社に記者として就職できたのも大垣戸田藩のコネがあったためだろうか。
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急落の予感

2010年05月07日 | 築地市場にて
急落
五月の連休があまりにも青果の成長には恵まれた天候のため、入荷が急上昇し、従って青果の価格が急落してくるだろう。円も変動が激しく、ちょっと油断していると何が起こったか解らなくなる。何事も人は予想で動くので青果物は先安感が出れば政府が張り切らなくても品物が出てくる。逆に先高感が出れば売り惜しみとなる。
 ここ最近8時には青果物の搬出が終わっていて、のんびりしていた雰囲気が築地市場青果駐車場に漂っていたが、搬出が追いつかない青果物が昼過ぎまで残っていて様変わりの様子。
 毎年5月連休が終わって1週間過ぎると漬物は暇となる。
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桜谷枝垂れ桜

2010年05月06日 | 福神漬
桜谷枝垂れ桜
福島県三春町民俗資料館前に満開となった桜がありました。三春の滝桜は既に葉桜になっているようで観光客が少なくなっていた。ここの広場に自由民権家の河野広中の銅像があり、この地の自由民権運動の活動状況を展示してあった。
明治14年3月10日発行東北新報 第64号 『東北有志策を開く図』というのが以前の企画展の冊子の中にありました。その図に同じ釜の中の粥を東北の自由民間家が食べています。部屋の外にいる者に中に入るように誘っていて襟元に『福』の文字が見える着物を着ているのが河野広中と思われます。粥のお椀には『セミ』の絵が描いてあります。セミは『ミンミン(民)』と鳴くので民権を表しています。つまり既に『福』というのが福島人をあらわす一例です。福神漬が戯作者・團團珍聞編集者梅亭金鵞によって命名されたのが明治16年から18年頃ですが、福島事件のことは十分に知っていたと思われます。

1878(明治11)年には自由民権運動家が仙台で「東北有志会」を結成した。この『東北』という言葉が今の東北6県を意味する言葉となった初めという。
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安積国造神社へ

2010年05月05日 | 宅老のグチ
安積国造神社へ
福島県郡山市・JR郡山駅から歩いて8分のところに安積国造神社がある。ここは明治の博識・石井研堂の出身地でもある。その石井の思い出から、安積艮斎の生まれた安積国造神社を訪ねました。1000円高速でしたが渋滞を避けるため、朝8時過ぎについてしまいましたが、10時から開くのを境内の掃除していた神職さんにお願いして神社の会館の4階の資料館を開けてもらいました。
 エレベーターの中で若い神職さんと話しをしたところ『竜馬伝』の影響で最近ここを訪問する人が増えているという。安積艮斎は幕末の儒学者でその弟子は2000名を越える。多くの弟子の行動をみると、どちらかと言えば異国を知り、対等な国力を持とうとするように指導したと思われる。土佐藩・長州藩に弟子が多く、また土佐藩も開明の考えを持っていた人達との交友が多い。ただ忘れ去られた原因は安政の大獄時に吉田松陰を門人扱いをしなかったことにある。
 二本松藩の儒者の家に生まれた服部誠一はどの様な理由があるのか安積艮斎の門人としての記録がない。しかし、一時二本松藩で教えていたので藩士に多くの弟子がいるので間接的に艮斎の弟子ともいえる。
 安積艮斎資料館の中に和算の資料があり、緯度経度を測る六分儀があった。何を意味するのだろう。内田五観(弥太郎)という名前もあった。
安積艮斎は渡邊崋山、高野長英等の洋学者とも交わっていて、洋学者のネットワークが結果として福神漬の資料探しの中に現れて来る。
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xジャパン13回忌 2

2010年05月04日 | 築地市場にて
xジャパン13回忌 2
もう12年経ったのだろうか。築地本願寺から勝鬨橋・そして佃大橋まで葬儀の参列者が連なった。喪服を着ていた若人は列が動くと彼らが留まっていたところを清掃した。葬儀が終わっても帰らず(ヒデ)の霊柩車が築地本願寺をでて首都高速の汐留インナターに上るところまでならんで合掌して見送った。5万人を越えていたという。築地の歴史に残る一日であった。
 中央区の図書館に本を返す途中で葬儀の参列者にあったが、12年の年月はファンにとってどのような意味があるのだろうか。
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xジャパンの13回忌 1

2010年05月03日 | 築地市場にて
Xジャパンの13回忌
築地市場の上空にヘリが舞っている。配送の運転手が築地本願寺で何かがあって警備の警察官が多いと話していた。そう今日は伝説のXジャパンの13回忌の日なのだ。既に勝鬨橋まで並んでいるという。9時半頃の話。
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断・食

2010年05月02日 | 築地市場にて
断・食
隣のインフレの国からデフレの国へ低価格の食品がいつまで来るのだろうか。22年春節以後、中国沿海地区の食品工場は次第に内陸のほうに工場を誘導されているように思われる。他国から農産物を輸入するということは水資源を輸入することと同じとなる。中国の野産物投機は業者間で話題となっているだけで一般にはまだ知られていない。
 為替の変動の問題もあるから彼らが売り急ぐ必要性は少ない。

天気が恵まれれば農産物は順調に生産される。そして貯蔵性の力が少ない農産物から価格は下落する。価格変動の波が生産者の意欲を刺激する。いつの世も為政者が農民を制御すること関心を払う。一番簡単な方法は圧制である。しかし生産量を増やすには先進性の地域から技術を導入しなければならないが技術と共に他のものが入ってくる。日本の鎖国時代にもキリスト教は禁止したけれど医学から色々なものが入ってきた。
そろそろ金さえあれば輸入できる時代が終わりそうだ。
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