年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬とは何だったろうか 8

2010年05月23日 | 福神漬
団団珍聞は今日の週刊誌が絵探しやクイズを毎回のように出していた。例えばセミの犬の絵は「ミン・ケン」と絵解きし、民権運動のことを示していた。同様に黒い貝殻は「コッカイ」国会開設、大きな熊は大隈重信、海坊主は三菱の岩崎弥太郎を示している。これらの比喩や寓意や似顔絵らを使って、読者に中味を伝えようと努力していた。
 明治14年頃から自由民権運動の高揚に危惧した明治政府は新聞雑誌等の弾圧を強めていった。そして団団珍聞が発行禁止を恐れの風刺力が弱くなっていった。しかし購読者が参加する投書によって風刺文芸の最後の花を咲かせた。雑誌の中身を編集者と読者が言葉遊びで反明治政府意識を交換する場だった。これはまだ主たる読者層が教養のある都市民衆の多数が東京では反明治政府意識の高い人達だった。
御用新聞と言われた東京日日新聞の読者は官員が多かったといわれる。明治の20年頃まで主な読者、作者が旧世代の人達で20年頃から維新後の世代となり、文芸・演劇改良が始まる事となる。根岸に集まった根岸派と称される人達は旧世代の文人を新世代との交流の場で福神漬の缶詰を酒の友としていた。
 少年投書家(鶯亭金升16歳)が団団珍聞に投書し掲載され頃、福島事件の高等法院の裁判が東京で始まった。明治15年1月に福島県令となった三島通庸は土木工事を推進し、福島県民に労力の提供を迫った。しかし松方デフレで不況となっていた福島県の自由党員・農民は三島の圧政に対して反抗した。ここで三島県令は福島の自由民権運動を警察力で弾圧した。これが福島事件である。そしてただ一人の東京士族被告人花香恭次郎で鶯亭金升の叔父にあたる人だった。
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