年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬とは何だったろうか 5

2010年05月20日 | 福神漬
 大垣藩主戸田氏正と側室(高島嘉右衛門の姉)との間に生まれた戸田欽堂は日本で最初の政治小説といわれる『民権演義情海波瀾』(明治13年)を書いた。戸田氏正と欽堂は明治4年アメリカに向かったが翌年には欽堂は帰国し、築地で知り合ったキリスト教徒原胤昭らと共同でキリスト教徒のための十字屋を創業し、聖書などを販売しました。原等の活動資金は戸田家と姉の弟である豪商高島嘉右衛門の資金援助があったという。戸田欽堂は横浜高島別邸で明治23年8月10日死去。41歳だった。福島事件被告花香恭次郎もほぼ同時期に亡くなっている(明治23年8月)。
 江戸町奉行の与力の子として生まれた原胤昭は築地でキリスト教徒となり、銀座で十字屋を営んでいたが店員に店を譲り、自身は神田須田町で錦絵を扱う店を開いた。明治16年福島事件を主題として『天福六歌撰』という錦絵を販売したが政府によって販売禁止となり、配布するなら問題ないだろうと配布したが直ぐに投獄され、石川島に留置された。この時、原と福島事件の被告田母野及び花香恭次郎と獄中で知り合ったという。田母野は獄中で病死した。この事から原は監獄の酷さを知り、日本で最初の教誨師として一生を過ごすきっかけとなった。花香は戸田伊豆守氏栄の5男であるので原は戸田欽堂から、福島事件を聞いていた可能性があり、最後の浮世絵師といわれる小林清親に絵をかかせ文は原胤昭で出版した。原胤昭の須田町の浮世絵屋と取引先でもある神田雉子町の團團珍聞とは近距離である。当然投獄された諸事情を梅亭金鵞が知っていたと思われる。
 福島事件の東京高等法院での裁判は数少ない傍聴席をめぐって徹夜の傍聴する人が現れたという人気であった。明治16年7月20日過ぎからの公判は連日新聞紙上に公判記録が記事となって掲載された。その中で唯一の東京士族被告人花香恭次郎は一番若く美男子だったので東京婦女の人気は絶大だったという。この事は内田魯庵の少年時期の思い出とし随筆に書かれている。9月初めに判決が出て、原は憤慨して浮世絵を出版した。

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