年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬とは何だったろうか 11

2010年05月26日 | 福神漬
ここまで来るとなぜ梅亭金鵞の寓意が伝わらなかった事が気になって来る。その主な理由は自由党幹部・板垣退助・後藤象二郎等の政府秘密資金での外遊があげられる。自由民権運動が過激化し、さらに内部対立によって解党まで行くようになった。さらに明治22年の憲法発布、23年の国会開設によって言論の場が新聞と議会に移った。また福島事件の悪役となってしまった三島通庸は明治21年10月に死去した。つまりあれほど盛り上がった自由民権運動が終息し、憲法発布後旧幕府の人々も語る事が自由となり江戸という時代が終わった。福神漬に寓意を入れたと思われる梅亭も明治23年2月には病床に伏し、言論の第一線の場から離れた。また明治23年夏には花香恭次郎・戸田欽堂も亡くなった。明治16年自由党党首だった板垣退助・後藤象二郎は三菱に外遊資金を頼んだが断られ、政府の秘密資金で外遊することとなった。この事が自由党内部や改進党系の新聞の攻撃を招き、自由民権運動が衰退した。また自由党は立憲改進党の資金源が三菱だと機関紙で攻撃していた。政府はこの時井上毅・渋沢栄一が海上輸送を独占していた三菱を攻撃するため共同運輸を設立し、激烈な運賃値下げ競争をしていた。つまり福神漬が作られた時池の端の隣の茅町三菱本邸では連日のように対策を考えていた時でもあった。 岩崎弥太郎が明治18年に亡くなり、日本郵船が発足した。福神漬の様々な経緯を考えると、日本郵船のホームページで株主の皆様へというところに社史がある。この1ページ目にエピソードとして福神漬が出てくるのが無難な話題でなく、三菱の日本郵船として記憶に残る食べ物だったことを表している。

新資料が出るまで 福神漬史は『完』 
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