年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬とは何だったろうか 9

2010年05月24日 | 福神漬
東京士族花香恭次郎がなぜ福島の自由民権運動に参加したのだろうか。千葉県干潟町史(現旭市)に花香恭次郎の経歴がある。一般には花香の経歴は千葉の出身となっているが高等法院の経歴でも東京生まれの士族である。
 明治9年頃、銀座にあった公益問答新聞社に勤めた。ここは福島県二本松出身の服部誠一(撫松)の経営する雑誌社であった。花香は明治10年西南戦争が勃発すると社の方針と合わず、同僚の佐藤清と共に退社し、東北遊説に向かった。花香はどうして公益問答新聞社に就職出来たのだろうか。服部は明治維新後二本松藩(一時二本松県)の東京での交渉役(江戸時代は留守居役=各藩の情報交換役)をしていて東京の新情報に精通していた。旧藩主夫人丹羽久子とも交友があったと思われる。この久子は大垣藩主戸田氏共の娘であった。大垣藩の助力によって、維新後間もなく旧藩主は赦免され、服部が東京での交渉役となった経緯がある。従って戸田家の縁者である花香が服部の公益問答新聞社に就職したのもこのコネ(縁)と思われる。同様に花香が学んだ共慣義塾は南部藩の学校で南部藩は横浜の豪商高島嘉右衛門と関係がある。
2歳の時、父の戸田伊豆守氏栄を亡くした孤児は氏栄3男(長井昌言=鶯亭金升の父)の尽力によって、高野長英を一時かくまった干潟町の花香恭法の養子とし育ててもらった。ペリー来航時に対処した、浦賀の人脈がここに現れてくる。高野長英が死去した時、長英をかくまった(浦賀奉行へ出向していた)内田弥太郎(五観)はどの様な理由か処罰されず終わった。内田は弟子である花香恭法を孤児の養子先として長井昌言に推薦したのではないのだろうか。内田は戸田伊豆守の恩義を感じて幼い5男を学問上の弟子に託したのではないだろうか。花香恭法にはすでに一人の養子がいて、恭次郎は次男となる。(谷中墓地にある花香恭次郎の墓誌から)
服部誠一(撫松)は二本松藩儒官の子として生まれたが、同じ二本松出身の安積艮斎の直接の弟子という記録はないが艮斎が一時的に教えた二本松藩校に通っていた。三菱の岩崎弥太郎が初めて江戸に上った時、安積艮斎の所で学ぶことが目的であった。

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