年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福島県二本松で

2010年05月08日 | 福神漬
福島県二本松で
三春の次に二本松に向った。二本松城下にある歴史資料館と図書館を訪ねた。郷土資料のところで最後の二本松藩主・丹羽長国の正室の資料を探した。またついでに服部誠一についても資料を探した。実に資料が少ない。
会津の白虎隊の史料に比べると二本松少年隊はその名も後から付けられたくらい無名であった。少年隊の隊士は13歳から17歳までで二本松の戦闘で多数討ち死にした。隣の三春藩の裏切りと、貧弱な装備で彼らは戦った。そのような過去の歴史が都市民権派といわれた服部誠一(撫松)を改進党に向わせ、團團珍聞社主・野村文夫とも交友があった。そして三春藩出身の河野広中の自由党とは離れていた。これは二本松の人達の戊辰戦争の心の傷でもある。
服部の公益問答新聞社の社員であった花香恭次郎は自由党に向った。彼は東京士族で戊辰戦争の遺恨は何処にあったのだろうか。
丹羽長国の正室の大垣戸田藩出身で白河城攻撃の西軍に大垣藩がいた。つまり二本松藩東軍の人達にも裏切る可能性があるとみられていた。上野で彰義隊が負け、北関東で戦闘が終わると東北の地が戦いの場となった。先に三春藩が裏切って西軍になったためかえって、二本松藩は東軍を裏切ることはできなくなっていった。
維新後、丹羽長国は謹慎し赦免され、服部誠一は二本松藩の東京留守居役となった。これは幕府時代の各藩の外交を担っている役目を東京で果たした。このときの経験を『東京新繁盛記』として出版し、大いに売れた。花香恭次郎が公益問答新聞社に記者として就職できたのも大垣戸田藩のコネがあったためだろうか。
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