年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬とは何だったろうか 6

2010年05月21日 | 福神漬
 明治16年のこの様な社会状況の時、上野池の端の酒悦主人が商品名の企画を團團珍聞の梅亭金鵞に持ち込んだ。明治16年3月上野公園で水産博覧会があり、そこには水産缶詰が出品されていた。当然酒悦主人は博覧会を見学し、試作品だった福神漬を缶詰に入れて保存性を高め長期輸送に耐える食品にして、店頭に来る客だけでなく広範囲に販売することを考えていた。この当時池之端で盛業していた守田宝丹の影響を受け、商品名や宣伝の必要性を感じていた。そして当時の売れっ子戯文者であった梅亭金鵞に商品名を依頼したと思われる。ただ團團珍聞の主筆だった梅亭は商品名に密かにある寓意をいれ、材料に『なた豆』を入れるように仕向けた。『なた豆』にはちょん髷姿の酒悦主人の姿を見て、梅亭金鵞が廃刀令に対する寓意を入れたかもしれない。また明治14年から15年にかけて上野東叡山に元輪王寺宮(当時は北白川宮)が邸宅建築のため、一時滞在していて懐旧の情が出ている時でもあったと思われる。まだ堂々と旧幕府時代を懐かしむことはできず,密かに語る時でもあった。明治22年憲法が発布された時、恩赦が行われ、堂々と旧幕時代を語る事ができた。
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