あた子の柿畑日記

田舎での日々の生活と趣味のレザークラフトについて

桃色昼咲き月見草の思い出

2010-06-15 13:49:08 | 植物

 たまたま通りがかったおうちの庭先に桃色昼咲き月見草の群れを見つけました。 草1本生えてないよく手入れされた庭の入り口付近に、華やかに咲き誇っていました。



 結婚して間もない頃、この花の咲いているのを見て是非ほしいと思いました。 その当時勤めていた小さな学校の先輩教師が、「それならうちにあるけん、株を持ってきてあげよう。 そのかわり、いやになるほど増えるぞね。」と株を分けてくださり、その言葉の通り大きく広がってうすピンクの優しい花をたくさんつけました。その花もあまりに増えすぎて粗末に扱っていたらいつのまにか絶えてしまいました。



 賑やかに咲きますが、一つひとつの花は真昼の月のようにはかなげです。



 その先輩教師、K先生はもう故人になられました。 当時まだ50代だったのに頭髪は真っ白で、酒豪でした。 たまに二日酔いの臭いがする日もありました。 


 あるとき、忘年会か何かだったと思いますが、
 「この話は今までいっぺんもしたことがなかったんじゃけど・・・・・」
と語り始めたことがあります。 


 K先生は、戦後最大の海難事故と言われた沈没事件の当事者で、修学旅行の引率者の一人でした。 そしてその事故で実に教え子の3分の1強の子どもたちを失ったのです。
 自らも死と隣り合わせの恐怖を体験しながらも教え子を救えなかった悔しさ悲しさ、落ち度はなかったとはいえ、生き残ってしまった教師に対してぶつけられた遺族の悲しみや怒りを受け止めなければならなかったつらさ、生き残った子どもたちの心のケアをしながら教壇に立つ日々・・・・ 先生の髪は事故後真っ白になり、お酒を借りなければ眠られなかったといいます。


 K先生は定年まで教壇教師として勤められました。 定年前の数年間をまたご一緒したことがありますが、「子どもらが可愛いてたまらんのよ。」と言っておられました。


 この桃色昼咲き月見草を見る度にK先生を思い出し、あのときなぜ先生はそれまでの沈黙を破って心情を吐露されたんだろうと考えます。 
 教職員は校長先生や用務員さんを含めて6人、本当に小さな学校で一つの家族のように協力して子どもたちを育てているという思いがありました。その人間関係のなかで先生の心がほぐれたのかもしれません。 あるいは事故後20年以上たってようやく心の整理がついたということだったかもしれません。 
 でも一番の思いは、若い教師に、子どもの命を預かることの重みを伝えておかねばということだったのではないでしょうか。 
 東予で育った人なら知らない者のないあの事故を、わたしは全く知らなかったのです。そして怖いもの知らずのわたしは、放課後も子どもたちを引き連れて裏山をかけずり回っていましたから。 時には校長先生や教頭先生が「今日はわしも一緒に行こう。」とついてくることもありました。 あれは今考えると、不測の事故を心配してのことだったかも
 「○○せよ」とか「○○してはならない」とか、そういうことは一切言われませんでした。 自由にのびのびと働かせてもらい、言外に貴重な教えをいただいた心に残る職場でした。


 桃色昼咲き月見草ーもう一度我が家に咲かせたい花です。


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コメント (10)
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