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これ、ヒガンやがな


 きょうはヒガンである。ヒガンちゅうても、ネズミよりちょっと大きくて、「キキー」と鳴く動物ではない。お彼岸である。墓参りに行ってきた。
 ウチの墓は西宮は満池谷。写真は満池谷墓園の南側正面ゲートから見た風景。この池はニテコ池という。桜の名所で満開の時期になると見事である。池の名前のニテコやが、西宮神社の大練塀の土をここから掘り出したとき、「ねってこい、ねってこい」という掛け声がなまって「ニテコ」になったとか。対岸はお屋敷町。おおきなお屋敷がある。なんでも、ぱなそにっく・ぱなの助さんのお屋敷もあったとか。
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JR 森ノ宮


 この駅の近くで日本SF大会が2回行われた。最初は1971年。第10回日本SF大会DAICON2。会場は府立青少年会館だった。この青少年会館は今はもうない。2回目は1981年第20回日本SF大会 DAICON3。会場は森ノ宮ピロッティホール。だからこの森ノ宮と土地はSFとは縁のある土地といってもいいだろう。実は、私たち星群の会も森ノ宮とは縁が深い。
 星群の会は創立当初からは、ずっと京都で例会をやって来たが、諸般の事情により、1988年より大阪で例会をやるようになった。ピロッティホールの会議室を借りて例会をしていた。ところが、このピロッティホール、2008年改築によりいったん閉館。2010年にリニューアルオープンしたが会議室は設置されていない。だから今、星群の会は森ノ宮で会合をしているが喫茶店で集まっている。
 星群は1971年の創立から1988年まで、17年間京都で例会をやってきた。1988年から今まで26年間大阪は森ノ宮で集まっている。星群というと京都のグループという印象がファンダムでは強いが、今となっては大阪で例会をやっている期間の方が長くなった。
 大阪といっても森ノ宮以外で例会をやったことはない。森ノ宮といっても2008年まではピロッティホールで、それ以降は近くの喫茶店で。だから森ノ宮駅周辺しかよく知らない。
 一次会のあとは、当然2次会は飲み会ということになる。あまり上等の居酒屋には行かない。チェーン店の安い居酒屋で、飲んで食って2000円ちょい。2次会のあとこれまた近くのショットバーで飲んで、帰るというパターンだ。ごくたまにカラオケに行くこともある。また、さらにまれに森ノ宮を離れて京橋あたりで飲み会をすることもある。
 飲んだあとはラーメンだが、京橋にわりあいうまいラーメン屋がある。そのラーメン屋で時々食べたが、飲んだあとにラーメンはメタボ男にとってご法度なので最近は食べてない。
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ベランダの黄色いハンカチ

 雨が降っている。晩秋の冷たい雨だ。墓石がぬれている。線香は火が点かないので、花だけを手向けた。
 40歳にならずに逝った母が、ここで眠っている。命日の10日には必ず墓参にくる。なぜか私が、墓参すると雨が降ることが多い。先月の10日も雨だった。
 墓石の裏には私の名前が赤く刻まれている。この墓石の建立者は私ということになっているが、本当の建立者は私ではない。母が亡くなって、ここには長い間、仮の卒塔婆を立てていた。当時、私には墓石を建立するお金は無かった。「あの人」がお金を送って来た。

拝啓
 寒い日が続いておりますが、お元気のご様子、私も安堵いたしております。あなたも、いよいよ今春、大学を卒業し、大学院に進学ですね。あなたご自身が生涯の仕事と定めた天文学の勉強を続けるとの事、私もうれしく思います。私などは、あなたが研究している宇宙の成り立ちなどは、さっぱり判りませんが、努力家のあなたのこと、いずれ世界的な業績を挙げられると信じております。
 ところで、幸子さんが亡くなって3年経ちましたね。私は幸子さんとは1度お会いしただけですが、幸子さん、あなたのお母さんは、私にとって生涯で最も大切な人です。ゆえ有って、私は、幸子さんとの再会はならず、また、あなたとお会いすることも叶いません。
 私は幸子さんへの想いのあかしとして、あなたの勉学の一助となればと、ささやかですが、私にできることをさせて頂いておりました。
 幸子さんが亡くなったことは、私にとっても筆舌につくしがたい悲しみでした。そこで私は、あなたと会わぬように、先月の1日に、幸子さんのお墓参りをしました。まだ、木の卒塔婆が立っているのを見て、心が痛みました。どうか、このお金で幸子さんのお墓を建ててください。お願いします。
敬具
                                 

 この手紙とともに100万円が送られてきた。母の墓石を建立するのには充分なお金だった。差出人は判らない。実は「あの人」が送金してきたのは、これが初めてではない。私が国立大学の大学院まで進学し、宇宙物理学者として一本立ちできたのは「あの人」のおかげだ。
 私は父を知らない。私が母の胎内にいるとき亡くなった。貧乏な母は、苦労して私を育ててくれた。
 私は勉強が好きだった。特に理科が好きだった。ずっと理科の勉強を続けたいと子供心に思っていた。学校の成績は良かった。テストは常に満点か、満点に近い成績だった。塾にも通っていた。学校より難しい塾の試験の、満点の答案用紙を見せると、母は大変よろこんだ。私も塾から帰ると、一刻も早く答案用紙を見せたいが、母はそれを許さなかった。

「いいですか。ベランダに黄色いハンカチがあったら、家に入ってきてはいけません」
 私の家は小さな公園の前の古いアパートの2階だった。ベランダの物干しに黄色いハンカチがあった。昨日もあった。このところずっとある。今日は国語と理科の答案用紙を返してもらった。両方とも100点だった。
 公園のベンチに座って空を見上げた。今日はなかなかベランダから黄色いハンカチが取れない。母が黄色いハンカチを外すと家に入っていいことになっている。満点の星空だった。あの星の向こうには何があるんだろう。そういえば、初めて黄色いハンカチがベランダに付いた日も、ずいぶん外で待った。あの日は父兄面談の翌日だった。先生にずいぶんほめられたと母はたいへんよろこんだ。
あの時も空で星が瞬いていた。あの時の星ときょうの星は同じ星なのだろうか。あの星の向こうには何があるんだろう。

母の用を待って、家の前の公園で星を見上げた日からずいぶん年月が流れた。大人になった私は母が何をしていたのか判る。母を非難する気はない。市内でも有名な塾に通わせてもらった。さしたる技能が無い母は、女手一つで私を育てるのには昼のパートの仕事では収入が足らなかった。私が高校入学する直前、母は乳がんで亡くなった。県下一の名門進学校に合格したことをずいぶんよろこんでいた。
「お母さん。来月の10日は来れないんだ。スウェーデンのストックホルムに行くんだ。お母さんと『あの人』のおかげで行けるんだ。だから今日は来月のぶんまでここにいるよ」冷たい雨にぬれて墓石の前にしゃがむ。寒いがここを離れがたい。
母の「客」はほとんどがろくでもない男だろう。しかし、奇跡的にそのなかに一人だけ、真から母と心が通じ合った人がいたわけだ。その人はただ一度の母との逢瀬で、終生の愛を生み出したのだろう。それから、誰とも判らない人から、いくばくかのお金が送って来るようになった。母が亡くなってからもそれは続いた。私が大学院を終了して博士になるまで送金は続いた。
 雨がかからなくなった。後ろからだれかがそっと傘をさしてくれた。老人が傘をさしかけてくれていた。見おぼえのある老人だ。
「緒方くん。いや、ノーベル賞学者にこんななれなれしいのはいかんな。緒方博士、ノーベル賞おめでとうございます」
「寺川先生、―ですか」
 小学校の担任の先生だった。あの初めて黄色いハンカチがベランダに出た前日に母と面談して、私のことをずいぶんほめてくれた先生だ。
「はい。お母さんもさぞかしおよろこびだろう」
 老人はずいぶん長い間、雨にぬれながら手をあわせていた。横顔を見ると薄く涙が見える。この世で、私以外にただ一人、母をしのんで涙を流す人がここにいる。
 老人は行った。その背中に私は深く頭を下げた。 

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尋常でない人たち

 公募ガイド今月号で、作家の薄井ゆうじが、作家志望者へのアドバイスとして「作家と付き合うのが一番いい」といっていた。作家なる人種と付き合ってみれば、彼らも同じ人間。特別な人間ではない。普通の人間が書いていると判れば「俺にも書ける」と思えるそうだ。
 そんなことは絶対にない。小生も長年のSFもんで、何人かのSF作家と知己を得ている。あの人たちは普通の人では決してない。
 うそだと思うのなら、作家ばかりのパーティーに参加すればいい。小生は何度かかようなパーティーに混ぜてもらったことがあるが、会場にいる人たちは一人一人がそれぞれ独特のオーラを放っている。初めて参加した人ならば、その「場」の一種異様な雰囲気に気おされるだろう。
 一度、眉村卓さんが友人の原稿を読んでいるのを横で見たことがある。その人は眉村さんに自作の講評を得るために読んでもらっているのだが。読むスピードがものすごく速い。パッパッパッと原稿をめくっていく。あっ、という間に読んでしまわれた。それで、実に的確に講評されている。
 その眉村さん、亡くなった奥様が闘病中、一日にショートショート1篇書いておられたのは、映画化もされよく知られた話。小生もショートショートを時々書くが、一日に1篇ショートショートを書く。それは、もう比叡山の千日回峰行に勝るとも劣らない偉業であることは想像に難くない。
 谷甲州は彼が作家になる前から友人だが、甲州と小生の共通の友人に柊たんぽぽという人がいる。甲州氏もたんぽぽ氏も大阪工大SF研究会だった。たんぽぽ氏に聞いた話だが、甲州は前の晩、どんな深酒して二日酔いでも、早朝から原稿を書いていたそうだ。プロになる前である。アマチュアのファンジン用の原稿である。
 いつかのSF大会での合宿でのこと。小松左京氏が麻雀をやっていた。だれかが小松氏に50枚ぐらいの短編の書き方を聞いていた。すると小松氏「そんなもん、プゥワーと書けばいいんだ。プゥワーと」小松氏は麻雀をやりながら、短編SFをプゥワーと書いた。
 京都のSF大会でのこと。一日目の朝のうち、ステージに半村良氏の秘書(奥様だったかな)が出て来られ、明日早く東京へ帰られる人はおりませんか。半村氏の原稿を出版社まで届けて欲しいとのこと。半村氏はSF大会に来てまで原稿に追われていたわけ。
 菅浩江は若干12歳で星群の会に入会。翌年、13歳で第4回星群祭実行委員長代理を立派に務めた。
 作家という人たちは、やっぱり常人ではない。
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若い自由な発想の芽をつんではならない

 つい二ヶ月足らず前は、新型万能細胞STAP細胞の作製者、若き女性研究者として華々しく登場し、生物学の常識をくつがえすといわれた小保方晴子女史。ノーベル賞有力候補さえといわれたが、今や、佐村河内守氏や森口尚史氏と同類あつかいされている。STAP細胞の実在さえ疑われ、小保方女史ご自身の博士号さえ疑問視されている。
 確かにコピペだらけの論文、間違った写真の使用など、問題山積であるが、今となって考えると、イギリスの科学雑誌ネイチャーに論文が掲載されたというだけのことであった。もっと冷静に見るべきであった。また、小保方女史をはじめ理化学研究所は、発表が拙速であったのではないか。こうなってしまったら、STAP細胞が小保方女史の妄想から生み出された、とんでも細胞ではなく、実在が実証され、あちこちの研究機関にて再現されて、再生医学進歩の大きな駆動力となることを祈る。
 もし、STAP細胞が幻であったとはっきりすれば、日本の自然科学研究の信頼を大きく損なうことになる。これは憂慮すべきことだが、小生は、さらに大きな弊害が発生することを恐れる。
 小保方女史は研究者としては若い。その若い女史が画期的な新発見をした。これにみんなは驚愕し賞賛したわけだ。彼女が所属していたのが理化学研究所だから良かった。どっかの大学だったら、手柄は教授のものとされ若い研究者が表舞台に立つことはないといわれたりもした。
 ところが、このたびの疑惑が発覚し、小保方女史の経験不足が問題視されている。理研の野依理事長も「未熟な研究者が多くのデータを無責任にあつかった。徹底的に教育しなくてはならない」と同女史を叱った。
 確かに、このような事が再び起こってはならない。しかし、今回のことに懲りて日本の科学研究が硬直し停滞するのを恐れる。
 小保方女史には直属の上司は不在だったとのこと。ユニットリーダーとして一つの研究室を任され、彼女が自由にSTAP細胞の研究を行っていたのではないか。まだはっきりしないが、STAP細胞実証できずとなれば、野依理事長のいうとおり若い研究者に任せたのが間違いだった。ところがSTAP細胞が実証されば、若い小保方女史に任せたのが正解だったということになる。
 常識はずれ、革命的、画期的、驚愕すべき新発見新発明、こういう事は、過去の常識にとらわれた経験者が成すのは少々困難。若い、恐れ知らずの者に自由にやらせればこそ成し遂げられるものではないのか。確かに若い者は間違いも犯すだろう。その点は教育しなくてはならない。しかし、自由な発想を摘んでは元も子もない。そのあたりの塩梅は難しい。ともあれ、今回のことに懲りて、若い研究者の芽を摘む事態だけは避けなければならない。
 羹に懲りて膾を吹いてはいけない。
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冬のライオン


監督 アンソニー・ハーヴェイ
出演 ピーター・オトゥール、キャサリン・ヘプバーン、アンソニー・ホプキンス、ティモシー・ダルトン

 歴史ドラマではあるが家族のドラマであり、恋愛ドラマともいえるかも知れない。
 1183年冬。イングランド国王ヘンリー2世は、三人の息子と、幽閉してある王妃エレノア、それにフランスの若き国王フィリップを城に呼び集める。話題はお世継ぎのこと。その場には、フィリップの姉のアレースも同席する。彼女は王子リチャードの嫁にすべく7歳でイングランドに連れてこられたが、成長してからはヘンリーのお手つきとなった。
王妃エレノアも元はフランスの先代国王の妃だったが、フランスを離れ今はイングランドの王妃。このエレノア、女傑で切れ者。陰謀反乱クーデターも企てかねない。危険な人物。ほっといたら何をするか判らんから幽閉しているというわけ。
で、イングランドのお世継ぎだが、三人の王子のうちの誰かを次代国王に指名しなくてはならない。国王ヘンリーは末っ子ジョンを溺愛している。ところがジョンは少々アホ。エレノアがひかえめな王妃だったら、ヘンリーの意向どおりジョンが御次代様になってめでたしめでたし。ところがエレノアはそんなタマではない。ヘンリーに勝ちたいがため、リチャードを次期国王にしたい。
 まんなかの子ジェフリーは「ぼくは補佐役でいいよ」なんていいながら、なにかたくらんでいる様子。リチャードとフィリップは男色関係。フィリップもフランス国王でありながらイングランドに野心を持っている様子。これらどろどろを利用しつつ、わが子さえ手駒にして、陰謀をたくらむエレノア。ヘプバーン演じるこの王妃さん。ヘンリーを愛してはいるが、憎んでもいる。すべてに絶望してもいる。いやあすごいおばさんだった。
 
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クリームコロッケ


 阪急神戸線王子公園駅を降りて、線路沿いに少し行ったところに、千疋屋という洋食屋さんがあります。なんでも先代のご主人は船のコックだったそうです。船のコックは陸のコックより腕が良くないと務まらないそうです。今も先代の伝統を受け継いで、たいへんにおいしい洋食屋さんです。この千疋屋の看板メニューがクリームコロッケ。私も何度か食べましたが、ものすごくおいしいです。衣はサクッと揚がって、中はあつあつ、とろとろ、くりーみぃ。ほっぺが落ちます。
 こんなおいしいクリームコロッケ、私も作ってみようと思ってチャレンジしました。さあて、千疋屋さんに勝てるかな。
 材料は次の通りです。

 玉ねぎ 1個
 バター 大さじ3
 小麦粉 大さじ4
 牛乳 300cc
 ローリエ 1枚
 カニ缶 1缶
 塩
 こしょう
 あとは衣用に、小麦粉 卵 パン粉
 つけあわせ スナックえんどう プチトマト

 これでコロッケが6個ぐらいできます。まず、切った玉ねぎをバターで炒めます。 玉ねぎが透きとおったら、小麦粉を振り入れて、さらに炒めていきます。焦がさないようにあせらず、弱火でじっくり炒めましょう。
 牛乳を入れます。火を少し強くして、ローリエを1枚浮かべて煮込みましょう。缶詰のカニ(もちろん生のカニの身をほぐして入れたらもっとおいしい)を加えて5分ほど煮ます。塩こしょうで味を調えます。
 煮込みが終わったらバットに取りましょう。これを冷蔵庫で冷やし固めます。普通のポテトコロッケは室温で粗熱が取れれば揚げていけますが、クリームコロッケは冷蔵庫でしっかり冷やしましょう。
 さて、半日経ちました。冷蔵庫から出しましょう。これをスプーンで取って、俵型に成形して、小麦粉、卵、パン粉をつけて揚げていきます。パン粉は細かい目がいいでしょう。揚げる温度は高い目。180度ぐらいがいいでしょう。
 さて、できあがりました。食べましょう。千疋屋さんに勝ってるかな。う~む。おいしいんだけれど、千疋屋さんに勝ったとはいえません。千疋屋さんのクリームコロッケはもっととろっとしていました。でも、私のクリームコロッケもおいしかったですよ。
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ホワイトデーのマドレーヌ


 きのうはホワイトデーだった。バレンタインのチョコのお返しにマドレーヌを焼く。ワシはホワイトデーのお菓子はマシュマロではなく、マドレーヌを焼くことにしておる。チョコの贈り主がマシュマロがお嫌いなのだ。甘ったるい、ぽわ~んとしたもんはイヤだそうだ。ワシもどっちかというと、マドレーヌの方がええ。
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とつぜん対談 第63回 靴との対談

 今日の対談相手は靴さんです。靴さんといっても何人かおられますが、ごく普通の黒い男物の革靴さんです。靴さんは長い間、お一人の男性の足元で働いてこられました。その方がこのたび定年退職となり、靴さんも引退されました。

雫石
 はじめまして。よろしくお願いします。


 こちらこそよろしくお願いします。

雫石
 完全に引退されたんですか。


 私の持ち主はサラリーマンを定年退職しましたが、まだ働いてます。年金だけでは老後を生きていけないそうです。市のシルバーの仕事で公園の掃除してます。背広ネクタイの時の足は私が仕事しましたが、今のお仕事はジャンバーに運動靴なので私の出番はありません。

雫石
 では、今はまったくお仕事はされないんですか。


 いえ、冠婚葬祭でお出かけの時は私がお供します。

雫石
 何年お仕事されました。


 そうですね。10年になりますね。

雫石 
 あなたで何代目の靴ですか?


 私で4代目になります。

雫石
 では初代の靴さんのころ、持ち主さんは新入社員だったんですね。


 そうですね。社会人1年生で、初代がお供して初出勤されたわけです。

雫石
 そのころから、持ち主さんは営業の仕事だったんですか。


 はい。あのころはこの国も右肩上がりで、未来にはきっといいことがあると信じてました。みんながんばってました。初代もせっせと外回りに精を出しました。

雫石
 どんな営業だったんですか。


 持ち主さんの会社は文房具メーカーです。全国にある文具卸商や大きな文具店をまわって納品と受注が仕事でした。

雫石
 すると全国をまわったのですか。


 48都道府県の県庁所在地はみんな行きました。月の半分以上が出張でした。

雫石
 2代目、3代目さんのころはどうでした。


 先代、先々代のころはバブル全盛で大変でした。文房具も面白いように売れました。生産が注文に追いつかず、受注を断ってまわるのが仕事でした。

雫石
 あなたの代になってからはどうでした。


 バブルが崩壊して不景気になって、文房具も売れなくなりましたね。

雫石
 4代の靴さんの中であなたが一番たいへんだったのではないですか。

靴 
 そうかも知れないな。売れない世の中でも売らなくてはいけないから、できるだけたくさんの取引先を訪問しました。少子化で子供が減っては文房具も売れません。地方の小学校がどんどん閉校になりましたね。

雫石
 持ち主さんもたいへんだったかも知れませんが、靴さんもたいへんだったでしょう。


 持ち主さんの足もとを支えるのが私の仕事ですから。

雫石
 今は靴さんは、どうして過ごしておられます。


 ときどき、仕事しますが、今は靴箱の中でのんびりしてます。

雫石
 本日は、どうもありがとうございました。


 いえ。おお、持ち主さんがお呼びだ。きょうはお葬式におでかけ。最近はお葬式が増えたな。次は俺かも、なんておっしゃってましたよ。

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真夜中の地震

バーボンの水割りを2杯飲んで、本を読んで、昨夜は11時ごろ寝た。夢も見ず気持ちよく寝入っていたら、突然、ゆっさゆっさと揺れた。夜中の2時ごろだった。地震だ。わりあいと長い時間ゆれていた。非常にこわかった。
 1995年1月17日に阪神大震災を経験するまでは、あっゆれてるな、地震や、と思うだけで、さしてこわいと思わなかった。ところが、あれから、少しのゆれでもこわいと思うようになった。地震の恐怖が身にしみたようだ。
 2時にゆれてから、明け方に少しウトウトしただけで、寝られず。きょうは眠たいのである。
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中小企業に手厚くすべし

 2014年の春闘の結果が出始めた。電機、自動車など、大手の製造業は軒並みベースアップとなった。久しぶりに景気の良いニュースだ。連合もいいスタートがきれたと歓迎の意を表明している。喜ばしいニュースであることは間違いない。しかし、手放しで喜んでいいものだろうか。
 はっきりいって今春闘の大手のベースアップはいわば、官製ベースアップといっていい。安倍首相の経済界への強い要望に、業界経営陣が応えたのが今回の結果だろう。政府主導のベースアップ実現だ。決して連合などの労働組合が勝ち取った結果ではない。労働組合は何をしていたのかと、ここでは叱咤しておきたい。今後は政府主導の官製ではなく、労働者自らの手で、賃金上昇を勝ち取ってもらいたい。
 景気上昇にともなって、安倍首相は労働者の賃金を上げろと、経済団体に要望してきた。しかし、これでは片手落ちである。ベースアップを回答しているのは、東芝、日立、三菱、トヨタ、日産といっただれでも名前を知っている大手だけ。確かにこれらの有名企業に勤めている人たちの給料は上がるだろう。しかし、これらの大企業の下請け、孫受け、ひ孫受けといった中小企業の労働者の賃金は上がるだろうか。
 自社ブランドを持っていて、自社製品を通じて直接消費者に接している企業はいい。しかし、多くの中小企業は、このたびベースアップをする大企業に製品を納品して、また、仕事をまわしてもらって成り立っている。小生も長い間、中小企業の製造現場にいるが、大手企業は下請け協力業者のことを「生かさぬ殺さぬ。少しでも単金は安く納期を短く品質は高く」と思っている。そして、文句があるのなら代わりの業者はいくらでもあるんだぞ。実際、こんな意識で下請け業者に接していたご仁もいた。
 確かに大手の労働者のベースアップも大切だが、それよりも大切なことは、大手企業から、取引のある中小の企業へと支払われる、単金、加工費、部品代、人件費、ようするに大手から中小へ流れるお金を増やすことが大切だ。安倍さんも、大手の企業に対して、自社のベースアップを抑えてでも、協力業者への単金の上昇を要求すべきだった。
 中小企業で働く労働者の収入が増えてこそ、真の景気回復といえるだろう。
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11/22/63


スティーヴン・キング  白石朗訳  文藝春秋

 読了後の感想。長かった。ともかく長かった。宮部みゆきの「ソロモンの偽証」も長大な作品だったが長さは感じなかった。ところがこの作品は長いと感じた。さすがにキングはうまく、読んでいるときはすらすら読めて、それなりに面白かったが、全体としてはくだくだとムダに長い。宮部みゆきの失敗作といったところか。
 時間旅行、歴史改変小説だから、カテゴリーで分類すればSFに分類してもいいと思うが、SF的な興趣は少ない。時を旅する、歴史を変える、そのことの面白さよりも、こういうSFの文脈はテーマに直結せず、作者のキングの興味は別のところにあると思うのだが。
 タイトルの数字は1963年11月22日のこと。アメリカのケネディ大統領が暗殺された日。主人公ジェイク・エピングは高校の教師。友だちのアルから奇妙な頼みごとをされる。「ウチの食品庫に『兎の穴』がある。その穴を通ると過去の世界へ行ける。俺はガンでもうすぐ死ぬ。君は俺の代わりに過去へ行ってくれ」ジェイクがアルから頼まれたこと。それはケネディ暗殺の阻止。ケネディが死んだことによってベトナム戦争が激化。その悲劇を防ぎたい。ジェイクは「兎の穴」を通って過去へ行った。
 つっこみどころはいろいろある。まずベトナムの悲劇といいつつも死者の数をアメリカ人の死者しか計算に入れていないようだ。それよりももっと多いベトナム人の死者は数に入ってないのではないか。それにケネディが生きててもベトナム戦争はひどくなっただろう。だいたいが北爆を始めたのは、ケネディの副大統領だったジョンソンではないのか。ま、それはそれとして。
 時間旅行ものは時間旅行にどういう制約を課すかが作家の腕の見せ所。それによって親殺しに代表されるパラドックスの扱いが違ってくる。この作品の場合タイム・パラドックスはあまり関係ない。で、この作品の時間旅行の制約は。
 「兎の穴」しかタイムトラベルができない。
 1958年9月9日にしか行けない。
 2011年に戻って来ても2分しか経ってない。
 1958年で何かしても、2011年に戻るとすべてリセットされる。
 この1958年にしか行けないというのがこの作品のキモ。ケネディ暗殺は1963年だから、直前に暗殺を阻止しようとすると、過去の世界で6年間生活しなければならない。作者キングは、この1950年代終わりから1960年代初めにかけての、20世紀のアメリカの生活を描きたかったのではないか。
 この過去の世界で、主人公ジェイクは、別名ジョージ・アンバースンと名乗り、高校教師として職を得、人望も得て、元校長、現校長にかわいがられ、演劇部の顧問として生徒たちに慕われ、そして図書館司書のセイディーと恋仲となる。実はこの作品、SFではなく純愛小説だったのだ。
 
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東日本大震災から3年

46分。この時刻を私は生涯忘れない。あと14分で午前6時になる。あと14分で午後3時になる。ところが、1995年1月17日兵庫県南部で、永遠に午前6時を迎えられない人が6434人。2011年3月11日東北で、永遠に午後3時を迎えられない人が15884人。
 東日本大震災から3年が経った。関連の報道に接するに復興は決して順調とはいえないだろう。それに阪神大震災とは違い、福島の原発事故という最悪の後遺症が存在する。私としては、同じ巨大地震の経験者として、あれから20年を迎えようとしている神戸の地で、東北の復興を祈ることしかできない。でも記憶にとどめることはできる。巨大地震の記憶記録は後世に残していかなくてはいけない。
 
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黙祷

今は3月11日。午後2時46分。

黙祷。
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許されざる者


監督 李相白
出演 渡辺謙、柄本明、佐藤浩市、柳楽優弥、小池栄子、惣那汐里

 クリント・イーストウッド監督主演の同名の名作西部劇の日本版リメイクである。舞台を明治初期の北海道に設定してのリメイクであるが、この映画、時代劇ではなく、立派な西部劇となっていた。どこまでも広がる荒野。開拓地にできた集落。食いっぱぐれの荒くれ男たち。日本映画で西部劇を創ろうとすれば、明治の北海道は最適だろう。
 ストーリーはイーストウッド版オリジナルとほぼ同じ。かって、さんざん人を殺めてた男が、剣を捨て、荒野でひっそりと暮らしている。かっての仲間がやってきて、賞金首をいっしょに追おうという。貧しい主人公は子供のため、賞金稼ぎをする。そして町を暴力で支配する警察署長と対立する。
 銃を剣に、保安官を警察署長に変更しただけで、ほとんど同じシナリオといってもいいぐらい。ただ、この映画とイーストウッド版では大きく違う点がある。主人公の設定である。イーストウッド版の主人公ウィリアム・マニーはならず者だった。悪いことをして散々人殺しをして、改心して真人間になった。それに対して、この映画の釜田十兵衛も人をたくさん殺めてきたが、ならず者ではない。ちゃんとした幕臣。侍であった。幕府方の人間として薩長の人間を殺めてきたわけである。いわば戦争で仕事として殺人をして、旧幕府の人間として新政府の役人に追われて、北海道の荒野に逃れてきたのである。マニーと十兵衛では事情が全然違う。
 イーストウッド版に比べて、重厚で非常に暗く骨太な映画になっている。この映画の底に流れるテーマが、敗れた者の哀しみということだ。このテーマはイーストウッド版にはない。
 戊辰戦争に敗れた旧幕府がたの人間が、勝者の薩長の明治政府がたに追われる。北の最果てまで逃げてきても、また剣を取らざるを得ない。大きな哀しみをたたえている。このように過去の歴史を背負っているぶん、この映画の重厚さが際立っている。
 だからこの映画のタイトルは「敗れし者」とした方が、よりテーマを具現化しているのではないか。「許されざる者」では十兵衛が悪いことをしていることになる。十兵衛はマニーと違って、もともと悪人ではない。ただ幕臣であったというだけ。佐藤演じる署長がいっていたではないか。
「記録というものは、勝った方を善、負けた方を悪とするものだ」幕府は負けて薩長が勝ったのだ。
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