雫石鉄也の
とつぜんブログ
ラタトゥユ
ラタトゥユや。こないなおしゃれな紅毛碧眼の言葉でゆうから、おしゃれな食いもんや思うけど、ようは、夏野菜のごった煮や。ぐちゃぐちゃやけど、夏野菜のうまみがたっぷり堪能できる、すぐれもんの料理やな。
鍋にオリーブオイルをたっぷりととって、野菜をどんどん入れて加熱していったらええんや。最初に玉ねぎを炒めるんや。メインの鍋とは別にフライパンを横に置いておく。
フライパンで野菜を順に炒めて鍋に入れていくんや。火の通りにくい硬い野菜から炒めて入れていくんやで。一番下が玉ねぎや。それからズッキーニ、なす、ピーマン、パプリカ、軟らかいトマトが一番上や。あとは鍋に蓋をして煮る。あ、あんまり煮込んだらあかんで。余熱で火が通るさかい、煮込みすぎて、ぐちゃぐちゃになりすぎて、野菜たちが正体不明になったらあかん。ある程度野菜たちのアイデンティーを残しとった方がおいしいで。
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神戸文学館 かんべむさし氏「神戸・人・小松左京」を聞きに行った
神戸文学館の「小松左京展」の記念講演。前回は眉村卓氏だったが、今回は、かんべむさし氏。
かんべさんは、小松さんにはずいぶんかわいがられたようだ。その小松さんとのエピソードを交えながらの講演であった。
この日のために、かんべさん、ずいぶんと神戸の知識を仕入れてこられたようで、神戸人の小生が聞いても興味深い話をされた。江戸時代の北前船をあつかう大店の話。北前船が神戸の港に着くと、ただちに荷作業をしなくてはならない。そのため店には常に、飯とみそ汁、漬物が大量に常備されていて、いつ、だれが来ても食事できるようになっていた。だから当時、神戸ではその大店のハッピが一枚あればメシ食うには困らない。こんなことは、かんべさんは知らなかったとか。小生も知らなかった。
戦前の鈴木商店。かっては三井三菱を抜いて日本一の、世界に通用する総合商事だった。番頭金子直吉の才覚で大きくなったが、消滅。神戸製鋼、帝人などの鈴木商店の系列の会社が今も生き残っている。このことは小生は知っていた。
かんべさんは西宮の人。小生も生まれは西宮で神戸育ち。若いころ、三宮、元町、元町高架下、新開地あたりを、よくウロウロされたとか。小生のウロウロテリトリーと完全に重なる。たぶん、かんべさんとすれ違っていただろう。
ダイエーの中内功氏たち神戸ゆかりの人の話題も。その内の一人。神戸市灘区中郷町3丁目に前田というブリキ屋があった。そこの息子さんで達くんという子がいた。大変にかわいらしい子供だった。のちの桂枝雀師匠である。
もちろん、小松さんの思いでも語られた。かんべさんは、冒頭に書いたように「かんべちゃん」「かんべちゃん」と大変に小松さんにかわいがられ、引き立てられたとか。ところが小松さんに何かいうと話が大きくなる。
NHKのアナウンサーだった頼近美津子のことを「かわいい」というと、「かんべちゃん、だったら頼近美津子と見合いするか。ワシが話つけたるで」
「笑い宇宙の旅芸人」を出版した時、「こんなん書けるんやったら、関西大学の教授になったらどうや」
かんべさんが飛行機模型のマニアだと知った小松さん「どこやらに飛行機の博物館ができるねんて、かんべちゃん、館長になるか。ワシが推薦したるで」
もし、小松さんが本気で動いていたら、かんべさんは頼近美津子のダンナで、関大の教授で、飛行機博物館の館長だったとか。
小生も、長年のSFもんで、SF作家の講演もずいぶん聞いたが、きょう、かんべさんの講演を聞いていて、少々違和感を覚えた。なんか、この人、小生たちとは違うんだな。なぜか考えた。
かんべさんはSFファンを経験せずに作家になった人。ファンダムを通過せずに作家になった人だ。そのあたりの毛色が違うことを、SFもんとして意識してしまうのだ。かんべさんが「決戦、日本シリーズ」でデビューしたころは、すでに小生はファンダムで棲息していた。だから、今までとはちょっと違う新人がデビューしたという認識だった。かんべさん、DAICON3で名誉実行委員長をやったとはいえ、作家になってからもファンダムとは距離をおいてはったのだろう。かんべさん、よそから来はった人、という感じがいまだにする。
かんべさんは、小松さんにはずいぶんかわいがられたようだ。その小松さんとのエピソードを交えながらの講演であった。
この日のために、かんべさん、ずいぶんと神戸の知識を仕入れてこられたようで、神戸人の小生が聞いても興味深い話をされた。江戸時代の北前船をあつかう大店の話。北前船が神戸の港に着くと、ただちに荷作業をしなくてはならない。そのため店には常に、飯とみそ汁、漬物が大量に常備されていて、いつ、だれが来ても食事できるようになっていた。だから当時、神戸ではその大店のハッピが一枚あればメシ食うには困らない。こんなことは、かんべさんは知らなかったとか。小生も知らなかった。
戦前の鈴木商店。かっては三井三菱を抜いて日本一の、世界に通用する総合商事だった。番頭金子直吉の才覚で大きくなったが、消滅。神戸製鋼、帝人などの鈴木商店の系列の会社が今も生き残っている。このことは小生は知っていた。
かんべさんは西宮の人。小生も生まれは西宮で神戸育ち。若いころ、三宮、元町、元町高架下、新開地あたりを、よくウロウロされたとか。小生のウロウロテリトリーと完全に重なる。たぶん、かんべさんとすれ違っていただろう。
ダイエーの中内功氏たち神戸ゆかりの人の話題も。その内の一人。神戸市灘区中郷町3丁目に前田というブリキ屋があった。そこの息子さんで達くんという子がいた。大変にかわいらしい子供だった。のちの桂枝雀師匠である。
もちろん、小松さんの思いでも語られた。かんべさんは、冒頭に書いたように「かんべちゃん」「かんべちゃん」と大変に小松さんにかわいがられ、引き立てられたとか。ところが小松さんに何かいうと話が大きくなる。
NHKのアナウンサーだった頼近美津子のことを「かわいい」というと、「かんべちゃん、だったら頼近美津子と見合いするか。ワシが話つけたるで」
「笑い宇宙の旅芸人」を出版した時、「こんなん書けるんやったら、関西大学の教授になったらどうや」
かんべさんが飛行機模型のマニアだと知った小松さん「どこやらに飛行機の博物館ができるねんて、かんべちゃん、館長になるか。ワシが推薦したるで」
もし、小松さんが本気で動いていたら、かんべさんは頼近美津子のダンナで、関大の教授で、飛行機博物館の館長だったとか。
小生も、長年のSFもんで、SF作家の講演もずいぶん聞いたが、きょう、かんべさんの講演を聞いていて、少々違和感を覚えた。なんか、この人、小生たちとは違うんだな。なぜか考えた。
かんべさんはSFファンを経験せずに作家になった人。ファンダムを通過せずに作家になった人だ。そのあたりの毛色が違うことを、SFもんとして意識してしまうのだ。かんべさんが「決戦、日本シリーズ」でデビューしたころは、すでに小生はファンダムで棲息していた。だから、今までとはちょっと違う新人がデビューしたという認識だった。かんべさん、DAICON3で名誉実行委員長をやったとはいえ、作家になってからもファンダムとは距離をおいてはったのだろう。かんべさん、よそから来はった人、という感じがいまだにする。
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