風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

一所懸命

2009年08月17日 | 雑感
お盆休みも終わり今日から出勤です。
なんだかだるくて仕方がありません。
休養したという感じはありません。
目的も計画もなく連休を無駄に過ごすとこの様です。

でも、娘とは出来るだけ一緒にいました。
海水浴にも行きましたし、船にも乗りましたし、川遊びもしました。
一つ一つの思い出が娘の記憶に刻まれていくのなら嬉しいことです。

ぼくの数少ない夢のひとつは、いつか娘とキャンプをしてみたいということです。
森で枯れ枝を集めて火をおこし、簡単な料理を作り、虫の音を聞きながら狭いテントで眠り、
朝起きたら川で顔を洗い、言葉少なに一緒に時間をすごせればいいです。
今のところはどこへでもついて来たがりますが、変な知恵がついたら嫌がるでしょう。
まぁ、すべてはなるようになればいいです。

変な智恵といえば、おそらくぼくも世間が無秩序に供給する変な知恵に染まって、頑なになり、
余計な迷路をあちこちとうろうろしました。
進むべき道筋をしっかりと見据えてしまえば、そういうのもひとつの笑い話ですみますが、
いつまでも迷路に迷い続けてしまえばことは重大です。
若いうちの迷路は冒険ですが、中年を過ぎてまでの迷路は、愚昧と呼ばれても仕方がなくなります。

やはり生きている限りは、「道」というか、「筋」というか、そういう自分なりの生きるうえでの原理原則を掴まないと、
なかなか先の見通しが暗くなります。
中年を過ぎても「変な知恵」頼りでは堂々と生命の野原を渡っては行けないでしょう。

「変な知恵」というのは、誰かの都合による人工的なその場限りの知恵です。
それに反して、生命の野原には荒々しくも雄大で、繊細で、ハーモニックな「智慧」が支配するフィールドです。
ちんちくりんな「変な智慧」などが出る幕がありません。
楽しい時には大笑いをし、悲しいときには悲しみの泥の中にうずくまり、弱った人を見れば手をさし伸ばし、
奢った人を見ればたしなめる、そういうシンプルな本物の「智慧」は誰かの都合を超えていきます。

そこでは何ができるかを競う合う場所ではありません。
その時々の自分がしたいと思うこと、できることを一所懸命にするだけのことです。
したいと思わないこと、できないことに焦点を合わせることを「愚痴」といいます。
愚痴を払いのけて、ここ今の「一所」に「命を懸ける」こと。
一所懸命になれたら、どんな境遇であろうと命のど真ん中に繋がったということなのだと思います。