風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

帰郷4

2011年05月31日 | 雑感
朝起きて岩風呂にゆっくりと浸かりました。
新緑が渓谷に覆い被さっています。
渓流の中にはイワナかヤマメか知りませんが、2~30cmの魚が悠々と泳いでいます。
昨夜からなにも食べていないので腹が空きました。
前夜カウンターで一緒になった人から、近くの「定義如来」という仏閣の門前町で油揚げが名物だと聞いていましたので、
チェックアウトしてそこに向かいました。
あいにくしのつく雨が降っています。
山道に入り、ダムの傍らをクネクネ行くと「定義如来」がありました。

仙台に住んでいるときは全くその名前を耳にしたことがありませんが、古い立派な寺でした。

「定義如来の由来」

開祖ともいうべき、肥後守平貞能公は、平重盛公(内大臣、小松殿)の重臣でした。
貞能公は、平家が、壇ノ浦の戦いに敗れた後も、平重盛公より託された阿弥陀如来の御霊像をまもり、源氏の追討をのがれて、
この地に隠れました。
ここにおいて貞能公は、なおも世をはばかり、名を「定義」と改めました。この地を「定義」、
阿弥陀如来様を「定義如来」と呼ばれる由縁です
貞能公は、建久9年(1198)7月7日、御年60歳を以てお隠れになり、そこで従臣達は貞能公の遺命を奉じ、
公の墓上に小堂を建て如来様の宝軸を安置し守りました。
宝永3年(1706)、従臣の後裔早坂源兵衛が、自ら出家し「観蓮社良念」と称し、「極楽山 西方寺」を開創されました。

「極楽山 西方寺」のHPより

という、とても由緒正しい寺でした。
もちろん父親の往生を願い奉りました。

門前の茶店で、名物だという油揚げの焼いたのと、味噌をつけた焼きおにぎりを食べました。
昔のごちそうだったのでしょう。
年をとったらこういうのが好きになっていますので、大満足でした。

境内には五重塔や茶室もあり、とても荘厳なものでした。
言っておきますけど、今なら車で簡単に行けますが、当時はとんでもなく辺鄙なところでした。
森の奥の奧のさらにその奧にぽつんと開けた境内であったはずです。
境内の背後には泉ヶ岳が白い雪を頂きに残したまま聳えていました。
泉ヶ岳はぼくの中学の時の校歌にでてきた山です。

それから仙台の海岸部に向かおうとしたのですが、途中気になるところがありました。
「錦ヶ丘」という新興住宅地なのですが、とてつもなく高級感を漂わせていました。
立ち寄ってみると、おしゃれなアウトレットモールや城郭みたいな式典場があったり、天文台があったり、とてもおしゃれでした。
そこから「秋保温泉」という道標がありましたので、そちらに曲がりました。
15分くらいで秋保温泉街に着きました。
う~ん、なんというかどんどん便利に快適になっています。
秋保温泉というのは、仙台ではかなり有名ですが、仙台から車で1~2時間かかるという認識でした。
ついでに日帰り温泉に入ってきました。
作並温泉とは全く別の泉質で、錆色に濁っていました。

そこから一路海岸部に向かって走ります。
クネクネと細い道をどんどん東へ東へと向かいます。
4号線のバイパスに出て、大きな被害のあった空港へと向かいます。
空港は再開されたのを知っていますから、空港に向かう道路から北に折れ、災害地のまっただ中に入っていきました。
小型のプロペラ機が二台折り重なっています。
さらに行くと、防風林であった松の木のずたずたに折れたのがあちこちの汚泥の中に残されています。
見渡す限りの汚泥と人の営みの残骸です。
時折自衛隊の車両とすれ違います。
時折損傷の少なかった住宅からものを運び出す姿は見受けられましたが、ほとんど人影はありません。
どんより曇った空の下で、大地は死んでいました。
このあたりは子供のころから、自転車で、バイクで、車で良く来ていたところです。
もう再び人が住むことはないのでしょう。
所々の住宅が密集したところは関係者以外立ち入り禁止となっていました。
通電が止まった信号機のところには警察官が立ち、あちらこちらでは自衛官が働いていました。

電車の時刻も迫ってきていたので、駅に向かいました。
レンタカーを返したちょうどその真ん前に有名な牛タン屋がありましたので、牛タンを食べました。
なんやらかんやらいろいろな思いを巡らしながら、最終の列車で無事な九州にたどり着きました。