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トッポパパの日本気まぐれ紹介、 その208 『川越・小江戸』 その9

2017年08月22日 | トッポパパのディスカバー・ジャパン
一番街の蔵造りの町並みを歩いてみます。 



『世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり』、そう言わせた蔵造りの町並みは、江戸の町並みが今なお残されています。
黒漆喰の壁に、重厚で豪華な蔵造り商家が軒をつらね、往時の商人の活気を感じさせてくれます。



大きな文字で書かれた「フカゼン」は、川越市の有形文化財にも指定されている蔵造りです。
明治28年に建造された小谷野家住宅は、屋号を「深善」とし、美術表具店を営んでいます。
伝統的な蔵造り商家の外観が保存され、特徴的なのが2階部分で、一般的には重厚な観音開扉が設けられるのに対し、小谷野家は生活の利便性を重視し、開放的な窓にしています。
火災対策として、窓の両端には袖壁(火の廻り込を防ぐ)が設置されています。



同じように見えて一軒一軒違う造りをしており、それぞれに個性を出しながら、堂々とした風格さえ漂わせています。



江戸時代、川越藩主松平信綱の町割りによって、通りに店が向かい合う形の家並みができあがりました。
その後、度重なる大火のため幕府がかわらぶきを奨励し、火事に強い建物として江戸の町で土蔵造りが流行しました。
これによって商業で江戸と結び付きが強かった川越でも、蔵造りの商家が建つようになりました。



しかし、一番街の蔵造りの町並みが形成されたのは、江戸時代ではなく明治時代です。
1893年(明治26年)の川越大火により、町を建て直す際に耐火建築である蔵造りが採用されたためです。
現在の蔵造りの多くは、川越大火後に建てられたもので、今も30数棟が残っています。



川越大火では、西北の風にあおられて、西から東へと焼失地域を拡大してしまいました。



その被害は、明治の銅鐘の銘文によると、家屋1,065軒、土蔵100余り、神社4、寺院5、それに時の鐘の鐘楼が消失しました。



この大火で川越の町の2/3が焼けてしまいました。



その後、大正12年の関東大震災やその後の戦災によって東京の蔵造りが姿を消したこともあり、江戸の景観を受け継ぐ重要な歴史的遺産として、「時の鐘」をはじめとするこの一番街周辺は、平成11年12月1日に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。



続く.................................................................。

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