goo blog サービス終了のお知らせ 

TOPPO WORLD

TOPPO(ダックスフンド)から見た周りの出来事いろいろ。

トッポパパのメランコリー、 その13 『検査入院』

2009年07月12日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
突然の検査入院の案内で、急遽大学病院へ6月9日の早朝駆けつけました。
ママがこんな写真まで撮っているとは気がつきませんでした。
先日石原裕次郎の23回忌が行われたのも、すぐ近くの国立競技場です。
テレビでも再放映されていましたが、右上が裕次郎が解離性大動脈瘤の大手術から生還した時にファンに手を振った新棟の屋上のようです。

トッポパパは海外出張も入院も同じような感じなので可笑しいですね。



初日は、血圧検査、血液検査(5-6本もとられた)と心電図で簡単に終了した。
血圧は136-85でした。 血液検査は肝機能、腎機能、糖尿病そしてエイズや梅毒(これって、そうだったら家庭騒動になりそうですが、承諾書にサインさせられる。)などの全般的な検査なのでしょう。
以前、会社の血液検査で肝機能のGPT,GOPやγ-GPTの結果が、正常値から外れているので、再検査をするたびに痩せなさいと健康保険組合の栄養士に叱られていました。
手術するのに、脂が乗りすぎていてはメスの切れも悪くなるだろうと、ここ数ヶ月で5Kg以上減量したのが良かったのか、血糖値も含めすべて正常値とのことで安心しました。
これはトッポパパに関しては、快挙といっても良いほどの体質改善です。

病院食は、カレーや焼き魚、酢豚(一緒には出てきませんけど)で、味が薄いのと、量が少ない以外、近所の定食屋とあまり変わらないような気がします。
カロリー計算はされているのでしょうから、味に文句を言わず完食です。

点滴など30年ほどしたことがないので、ママが記念撮影です。
トッポパパの5分刈りの頭は中学以来ですよ。
これには訳がありまして、手術になると首の後方を切開するので耳の線より下の後頭部は剃られるとのネット情報がありました。
術後、ワカメちゃんみたいな頭は困るので、短髪に慣れておこうと床屋に頼んだ結果です。
しかし手術が延びているので、また伸びてしまいますね。



翌日はCT検査です。 CT検査はX線とコンピュータを使用して、体内の深部を観察するもので、ヨード造影剤の静脈内投与をおこなうようです。
個人差はあるようですが、副作用が出る場合があり、これまた同意書の提出になりました。
点滴を行い、その後ストレッチャーで検査室に運ばれました。
『歩いていけますよ!』といっても、『動かないで、ストレッチャーに乗ってください』の言葉に、そんな大変な検査なのかとちょっと不安になります。

ネット情報だと激痛や、血圧低下、吐気、腎不全などを経験した人の情報もありましたので、自分は大丈夫かなと心配してしまいます。
胎児のような格好をさせられ、『チックっとしますよ』の言葉と同時に、脊髄?へ麻酔?注射をされ、マイクを通じて、『それでは注入します!』の言葉で、何回か造影剤を注入されます。
左半身を下にして丸くなり、造影剤を注入されると、左半身の血管内に鉛を注入されたような感じになり、その後仰向けになると、ゴロっとなまりの固まりが背中に回ったような不思議な感じになりました。
『気持ち悪くないですか?』『寒くないですか?』『苦しかったら声をかけてください!』と何度も訪ねられましたが、その後は何の変化もありませんでした。
その後、20分ほどかけて造影写真を撮りました。
個人差があるようですが、トッポパパにはどうってことのない検査でした。

検査後、血圧が175-180と上がったので、ベッドに戻ってもう一度血圧測定をしましょうということになり、またストレッチャーで病院内の天上を眺めながら、ベッドに戻りました。
『自分で動けますよ!』といっても、『動かないでください!』と二人がかりで、ストレッチャーからベッドに移動、また点滴を続けました。
まるで医療関係ドラマの患者のような気分です。
遅発性服作用の心配もあるので、『トイレに行く時は必ず、ナースコールを押してください。 トイレまで一緒に行きます。』との言葉に、まだこれから何かが起こるのかと、気になった。
血圧測定の結果、正常値(普段の数値)にもどったので、造影剤投入の一過性の血圧上昇か緊張のため一時的上昇だったのでしょう。

その後暫く、ベッドでおとなしくしてしていましたが、特に体調変化はなく副作用は出ませんでした。 どうやら、まだまだ丈夫な身体?のようです。
トイレに行きたくなり、ナースコールをしたものの、一緒にトイレもないだろうと『ちゃんと歩けますから』と点滴をぶら下げて歩いたのを見て、やっと看護士さんも安心したのか、『気持ち悪くなったら連絡してください!』で、解放されました。

その後、ドクターが入れ替わり来て、痺れや筋力チェック、歩行チェック、知覚チェックといろいろなテストを繰り返しました。
自分のベッドに担当のドクターの名前が書かれています。
院長先生、准教授、助手、そのほか数名のドクターが担当らしく、難病ということもあるのでしょうが、さすが大学病院だと感心してしまいます。

夜9時には消灯ということもあり、早朝には目が冴えてしまい全米女子オープンゴルフを観ながら時間を過ごしました。

入院期間中、ところで手術は何時頃になるのか若いドクターに聞くと、『今年の外科手術は12月まで、すでにいっぱいのスケジュールが入っています』との言葉に、『今年いっぱいですか!』とショックを受ける。
『院長先生の話では、7月に検査入院して8月には手術を終えるようにしましょう。』と聞いていましたがと話すと、『部長床(院長が整形外科部長でもあり、外科部長枠?)で手術をするのかもしれません。』との話で、少し安心しました。

その後、執刀医?と思われる准教授が来られ、『院長から話を聞いています。8月8日の手術を予定しています。入院は8月上旬になります。 頑張ってください。』と聞かされる。
准教授が7月は海外の学会に出席のため出張になるので、7月中は無理なようです。
来年まで待つことを考えれば、日程が決まるだけでもと感謝です。

3日目の早朝、『これから手術の内容説明をしますので、別室に来てください。』と声をかけられ、5人のお医者さんが待つ部屋に案内される。
緊張しながら、CT検査を見ながらの手術方法の説明を受ける。
『第2頚椎から第7頚椎にかけて骨化が観られます。 特に第3、4と7が大きいようです。 前方からの手術も考えられますが、K大学病院では後方からの手術になると思います。 最終的には、後日の関係者会議で最終的に決まりますが.....』との説明でした。
手術の内容は少し勉強していていたので、特に驚くこともなく椎弓形成術の手術手順を聞いていました。 
頚椎の片側を開いて固定し、頚髄の除圧するという説明に、『そこにスペーサーか何か入れるのですね』と口を挟むと、『この方法は当病院が考え出した手術で、スペーサーは術後ズレが生じた場合、頚髄に損傷が生じる場合があるので使用しません。』とキッパリと言われる。
『開きっぱなしなんですか? 術後、首への衝撃があっても、(強度?は)大丈夫なんでしょうか?』と尋ねると、『骨折した状態と同じで、開いても強度は強くなるので問題ありません。』と説明される。
『筋肉がその保護をするわけですね。』と尋ねると、『そうです。』と、よく知っていますね、というような顔をされました。

あまり素人が口を挟む内容ではないので、優秀なドクターにお任せすることにします。
最後に、『一般的な話で結構ですが、私の場合の手術は大変な手術なのでしょうか?』と、ちょっと聞いてみました。
少し変な顔をしていましたが、『普通です。?』との話に、重症患者の手術をしている大学病院のドクターに、普通の手術だと言われれば、大丈夫、心配ないと、自分で自分を納得させました。
『頚椎のカラーはどのくらいしていなければいけないのですか? 退院までどのくらいかかりますか? その後仕事が出来るようになるのは?』と、気になることを聞くと、『術後、傷の痛みがひどくなければ、カラーは使用しません、2週間ぐらいで退院できるでしょう。 その後数週間で、職場復帰できるでしょう。』との話でした。
どうやら痛みはあっても、首の筋肉の衰えを避けるためのリハビリ優先で、カラーを使用しないのでしょう。 
あとは、多少の痛みがあっても、自分で体力回復をしなければならないようです。

手術に支障になる検査データも特にないようで、これ以上の検査は必要ないでしょうとの言葉に、気持ちが落ち着きました。
手術前に、もう一度細部のMRI検査などがあるので、手術前の通院と再入院手続きをしました。
ドクター書かれた入院手続書に、今度は大至急に丸がついているので、これ以上の延期はないでしょう。 4ランクあるようで、即日、大至急、至急、普通に分かれていて、普通に丸をつけられたら何時になるのでしょうね。
まだ色々ありましたが、とりあえず検査入院が終わりました。

ママと一緒に歩いて帰りながら、手術後も同じように歩いて帰るぞ!と心に誓う。
あと一ヶ月、体調と整えて頑張ります。

////////////////////////////////////////////////////////////////////////
個人の入院や手術のことを、何故ブログに書くのかという意見もあるのは承知しています。
トッポパパはトッポの場合もそうでしたが、病気になると患者は不安に駆られて、どんな情報でも欲しいものだと思います。 
今回も多くの経験者のブログに勇気づけられました。 
トッポパパと同じような病気の方に少しでも参考になればと、できるだけ分かりやすく書き留めてておきたいと思います。
元気になって、他の人の参考になれば幸いですが、こればかりは約束が出来ませんが頑張ってみます。
////////////////////////////////////////////////////////////////////////

トッポパパのメランコリー、 その12 『検査入院の連絡』

2009年07月08日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
携帯に大学病院からのメッセージがあり、会社より電話を入れると、『検査入院が決まりましたので、明日入院してください』とのことで、急遽、明日検査入院することになりました。
院長の連絡で検査入院が早くなったようです。

トッポ、『これからが大変だけど、よかったね!』



検査入院は2~3日?だと思います。
検査の結果で、手術方法及び日程が決まるのでしょう。
その後一時退院?して、どのくらいの間(数日?または1週間ぐらい?)、手術日まで待つのかは、執刀医の日程次第なのでしょう。

手術を喜ぶのも変ですが、とりあえず前に進んだので少し安心しました。
とりあえず、ご報告です。

トッポパパのメランコリー、 その11 『院長診察4、 早く手術してくれ!』

2009年07月07日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
6月15日に第3回目の院長診察後、すぐに検査入院の手続きをしました。
しかし、院長の話では多くの重症患者が手術待ちなので、日時がかかる場合があるとの事でした。
それから3週間経っても連絡なし........、入院前日の朝9時から午後2時までに連絡しますとのことで、毎日、会社から自宅に連絡を取りながら待っていたのですが、今日の4度目の院長診察になってしまいました。

院長の『その後、いかがですか?』の質問に、手の痺れは継続していること、痛みは薬のせいで緩和されているが、薬を止めると、また痛みがあること、時々ハネ指?のように指が勝手に動くこと、そして足の筋肉の強張りや、右手に痺れを多少感じるようになったことなど話していくと、院長は点数を計算して、『12点ぐらいですね、早く手術したほうがいいですね』ということでした。

トッポパパ、『3週間待っても連絡がないので、いつごろになるのでしょうか?』
院長、『なるべく早く検査入院できるように、連絡しましょう』とのことで、関係者への連絡メモを書いてくれました。
なるべく早く検査入院をして、最終的な手術方法を決めましょうとの話に、ただ『よろしくお願いします』としか言えませんでした。

トッポパパ、『頚椎の何番から何番までがオペの対象になりますか?』
院長、MRI画像をじっくり見ながら『頚椎の2番から7番までが対象になるかなー.............』
トッポパパ、『(そんなに広範囲!)そうですか。
院長、『最終的には、検査入院の結果で決めましょう。』

前々回は、後方からの手術と聞いていましたが、前回に骨化巣が厚い?ので、前からも考えるかもしれないようなことを話していました。
もしかすると両方からの手術(同時に、または前後して?)もあるのかなと、ちょっと不安ですね。

最後に院長より、『7月中に検査入院し、8月中には手術を終えるようにしましょう』との話があり、まだ少々、時間がかかるのかなと思いながら診察室を出ました。


オペ経験者のコメントをいろいろ参考にさせてもらっていますが、やはり手術前の症状が軽いほうが、術後の経過も比較的良いようなので、もう暫くこれ以上症状が悪くならないように頑張ります。
しかし、こればかりは神頼みになりそうです。
院長の言葉添えで、入院が早まる可能性を信じて、入院準備と少し身辺整理をしておこうと思います。


トッポ、『早くまた、愛車で散歩に出かけられるといいね!』



左手が痺れているので、マニュアルの車では事故になるといけないので、数ヶ月運転も控えています。
トッポ、『頑張って、もう一度運転できるようになるといいね。



この病気が難病であることは、すでに受け入れていますので、それほど過大な期待はしていませんが、世の中が世界同時不況から立ち上がるのを見届けてから、若い人たちにバトンタッチしてあげたいと思うのと、もう一度カメラを持って、トッポと散歩が出来るようになれればと思っています。

元気に退院して、また皆さんのブログへ訪問できるように、もう一度ギアを入れなおして頑張ります。
いつも激励していただき、皆様には心より感謝しています。

トッポパパのメランコリー、 その10 『長い入院待ち!』

2009年06月29日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
最近は掲載のアップもないのに、多くの皆さんにアクセスしてもらい激励をいただいてています。
ご心配をかけてはいけないので、近況を報告します。



トッポ、『毎日、連絡待ちだけど音沙汰ないね! まだ大丈夫だよね。』

教授の話では、重症患者が手術待ちなので、しばらく待って欲しいとの話でした。
検査入院の手続きを終えて、すでに2週間を経過しましたが、まだ連絡はありません。
日本の外科医不足は深刻なようです。
1996年から8年間で医師の総数はおよそ12%増えたのに対し、外科医はおよそ2%減り、また、外科医を志望する人は1980年代後半のおよそ6割にまで、激減しているとのネット情報でした。
理由はいろいろあるのでしょうが、若い医師が外科を選ばなくなっていて、10~15年経つと、日本ではがんの手術ができなくなるのではないかとの声も聞こえているようです。
トッポパパが通院している大学病院も、患者さんが全国から来られるので、手術待ちの人が多くなるとの話でした。

トッポパパの現状は相変わらずで、左手は痺れっぱなしですが、薬のおかげで痛みは和らいでいます。 
右手は時々、軽い痙攣のような動きをするときがありますが、まだ深刻な状態ではないようです。 
足のほうも、軽快とはいえませんが、歩行に支障をきたすこともありません。

薬を飲まなくてもこの状態であれば、日常生活に大きな支障はありません。
ただ、あるとき急激に悪化することもあるということと、個人差はあるが徐々に進行するというのが悩みですね。
この病気に罹ると、転倒したり、首に大きな負荷が加わると、圧迫されている頚髄(神経の束)が損傷したり、断裂して麻痺に陥ると警告されているので、精神的に参ってしまうのでしょう。
トッポパパは、考えてもしょうがないものは深く考えないようにしています。
会社に出て仕事をしているほうが気が紛れるようです。

重症患者を差しおいて自分の手術を優先しろとも言えないので、今しばらくは我慢なのでしょう。
手術をすれば現在の症状は50%は軽快すると言われていますし、転倒、即半身不随などの恐怖感からは逃れられるのでしょうから、やはり手術を前向きに考えたいと思います。
この病気の進行は通常、緩やかに進行すると書かれていますので、もう少し頑張れば大丈夫でしょう。

ところで、どんな手術をするのか興味がある方は、(気の弱い方は、お勧めしません。)
こちらからどうぞ
こちらの 『椎弓形成術』か『頸椎後方除圧固定術』だと思われます。
最終的には検査入院中に、直前の造影剤(CT)検査で手術方法が決まるようです。
ほんとに、最近はネットになんでも載っているようです。
しかし、感心しているときではないのですが、お医者さんというのはすごい手術をするものだと敬服しますね。
そんなわけで、まだなんとか元気に過ごしていますので、とりあえずご報告です。{

トッポパパのメランコリー、 その9 『院長診察3、 大学病院の手術はラッシュアワー!』

2009年06月15日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
早朝5時起きでシャワーを浴び、大学病院へ向かう。
たくさんの患者さんが待つなかで、整理番号1番で、8時40分の院長診察を受けました。
今回は手術日程の話しということもあり、トッポママも同席で話を聞きました。

院長先生が、『奥さんは今回の病気の事は知っていますか?』に始まり、MRI写真を見せながら、厚生省認定の特定疾患であること、ここからここまで神経が圧迫されていること、また手術のリスクを延々と説明してくれました。
現在の症状を説明すると、トッポパパの症状は現在10点??ぐらいで、15点ぐらいになると早急に手術をしたほうがよいとの説明です。(この前と話が違うぞ!
どうも、あとで調べたところ、たとえば麻痺で手が動かせない、箸が使えない、痺れているが動かせるなど、手足等のそれぞれの症状に点数があり、その累計点が低いほど重症のようです。

足の運びに違和感を感じ始めていると話すと、歩行できなくなると累計10点近くになるとのことです。
冗談じゃない、歩けなくなったら大変だと、すでにリスクは十分承知していますし、すぐにでも手術を受ける心構えがありますと食い下がる。

トッポパパ、『前回、手術をしても現在の症状は半減はするが痺れなどは残る可能性があると聞きましたが、症状が軽いうちに手術をすれば、回復の度合いも良いのでは?』と、早く手術をしてくれるよう強引に頼み込みました。
こういう病気で早く手術してくれというのは、少ないのでしょうかね。

その後、骨化巣が大きいので、造影剤によるCTほか各種の検査(検査入院)を経て、最終的に一番よい手術方法を決めましょうということになる。
でも現在300人近い人が、手術待ちで、中には緊急を要する重症患者もあるとのこと...............、また日本全国から、患者さんが来るので大変なんですとの説明でした。
色々な重症患者が、この病院を最後?の頼みの綱としてくるのでしょう。

何もない砂漠で、太陽に祈るような感じなのでしょう。
(これ、ちょっとこじつけです。



院長に頼み込んだ甲斐があり、検査入院の申込書に至急の○を入れてもらい、検査入院の申し込みをすませた。 大病院は手続きが大変です。 
こういうときは営業の経験が役に立つようです。
検査入院は3泊ぐらいとの事だし、検査入院しなければ手術方法や日程が決まらないので、個室でも何でも良いから最短での入院をお願いした。
巨大な病院ではベットの確保も過密ダイヤ並みなのか、前日に入院の連絡をしますので待機してくださいとのことでした。
なかなかトッポのように即日手術とはいかないようです。

検査入院の後は、ドクターのスケジュールに合わせる為、また自宅待機もありえるようです。 
院長先生の、一度自宅で過ごしたほうが良いでしょうとの話に、ちょっとひっかかる言葉だなと思いましたが、良いほうに解釈することにします。
院長の『最近は手術をしないので、准教授が手術をするようになるでしょう。 日本でも1,2を争う先生です。』の言葉に、ちょっと気が楽になりました。

この写真はドバイで太陽を手のひらの上にした写真です。
撮影者がヘボで、トッポパパがボケてしまったのでお蔵入りにした写真ですが、強運を信じて、縁起がよさそうなので貼り付けました。(CGではありませんよ。)



どうも死刑囚が死刑執行の日々を待つ心境?(これは喩えとしても縁起でもないですね)、だからプロポーズされて、まだいつ結婚すのか分からない心境!ってことにしましょう。
ということで、入院まで会社で仕事をすることにします。
みなさんに応援していただいているので、早く良い報告がしたいのですが、ラッシュアワーではしょうがないようです。

トッポパパのメランコリー、 その8 『半世紀を旅して.........』

2009年06月13日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
最近は手術前ということもあり、体力温存を優先し外出も控えています。
トッポも出かけることがなくなり不満顔ですが、運動不足の解消は手術後に頑張ることにします。

トッポ、『僕は今日血液検査してきて、全部正常だったけど、パパ、大丈夫かな?』



この歳になるまで、トッポパパもある意味で、忙しいを日々を過ごしてきたようです。
その昔、業界誌にエッセイを書いたこと思い出し、もう一度思いつくままに半世紀近くに及ぶ海外出張を、謹慎中(?)の身なので、暇に任せて振り返ってみました。

トッポパパが社会人になって、海外出張に出ることになったのは20代の後半で、今から35年も前のことです。(歳がバレバレですね。

海外に販路を広げようという会社の意向で、海外出張を考え、最初はアメリカか、それともヨーロッパがいいのか迷ったのですが、英語圏でもあり、多少近い?ということもあり、オーストラリアへ飛び立ちました。
当時はオーストラリアドルは、当時1ドル=400円(現在は80円前後)です。
メルボルンに到着し、一般的なレベルのホリデイインに宿泊。1泊90ドル=36000円にビックリし、出張費が瞬時に消えてなくなると、朝食を山ほど食べて昼食抜きの出張でした。
当時の給料は、確か5-6万円だったので、2泊すると給料が消えてしまう勘定になります。 会社にとっても、大変な経費だったと思います。
当時は独身でしたので、オーストラリアから母にエアメールを送り、驚きの様子を伝えました。
後日、母が娘にそのエアメールを見せたので、『お父さんも、可愛いところあるね。』と言われく苦笑したものです。
現在は、格安のパック旅行を探せば、数万円で海外旅行が出来る時代ですので、昔に比べれば夢のような世界です。
当時はまだまだ日本全体が貧しい国だった頃なので、大きな庭付きプール付きの家に招待されたり、オペラハウスを自家用クルーザーで案内された週末は、カルチャーショックに陥り、この格差は何なのだと驚きの毎日でした。
またオーストラリア人は開拓民族が主流なので、レディーファーストの徹底振りと、オーストラリア独特の英語の発音への戸惑いを、いまでも思い出します。

帰りに寄った国がシンガポールです。
シンガポールがマレーシア連邦から独立したのが1965年ですから、まだ独立して10年も経っていないころです。
現在はGDPも日本を抜いて、 近代国家に生まれ変わっていますが、当時は一部値域を除いて、まだまだ目抜き通りでさえ街灯もまばらで閑散としていた時代です。
日本のデパートも、たしかヤオハン(経営破綻で現在はイオングループ)だけだったと思います。
以来30年以上の付き合いになりますが、昔からの知人が今は会社の社長になっていたり、パートナーになっています。
シンガポール人は欧米のビジネスライクな感覚と、中国人の商売感覚を同時に持ち合わせ、現在は東南アジア諸国では、もっとも活力ある国に変貌しました。
シンガポールは現在、東南アジアの拠点としてビジネスも多くよく出張します。
ブログに良く登場する『島流しさん』の、駐在先でもあり、トッポパパには、第2のホームタウン感覚の国です。

半世紀の間にトッポパパが一番出かけた国はやはり韓国でしょう。 
最近は若い人たちにバトンタッチして、1年に数回の短期の訪問になりましたが、30代40代は毎月のように出かけていたので、延べ200回以上も訪韓したのでしょう。
当初は戦争の後遺症?なのか、対日感情も微妙なものがあり、ソウルの街を歩いていると、子供達に石を投げられたこともありました。
一番の思いでは、1979年の朴大統領暗殺事件です。 
トッポパパが仕事を終え、空港へ向かう途中でこの事件が報道され、暗殺者が日本人の可能性もあるとの臨時ニュースで、あわや出国停止になりそうでした。 
暫くして、日本人ではないと確認されたようで無事帰国が出来ましたが、心中穏やかではありませんでした。
当時は戒厳令下で、確か、夜12時間以降は韓国人は外出禁止、日本人はパスポートを携行するよう指示されていました。
韓国人曰く、韓国では大統領の次は監獄行きか暗殺だと冗談を言っていましたが、今回の盧泰愚大統領の自殺が報道されると、大統領も大変なんだと思いますね。
しかし、日本に追いつき追い越せを合言葉に、愛国心が強い韓国のここ20年ほどの経済の急成長は目を見張るものがあります。 
日本の良い点は真似ても良いと思いますが、悪い点はそれなりにと思ってしまうトッポパパです。

韓国についで訪問回数が多いのが台湾です。 
台湾人は比較的親日家が多く、知り合った人たちは、とても良い人ばかりで歓待してくれました。
戦中戦後の蒋介石の動向や、日本の北方領土問題の引き金になったヤルタ会談など、台湾の政治的背景は複雑なものがあったようです。
でも台湾の友人達が、戦後中国よりいち早く戦後の復興を果たすことが出来たのは、日本の教育の影響が大きかったと聞かされたときは、複雑な心境ではあるが、多少なりとも救われた感覚を持ったものです。
『友遠方より来る....』の気持ちで、胸襟を開いてくれた台湾の友人に感謝です。
まだまだ元気で活躍されている人もたくさんいますが、半分以上の友人はすでに他界され、一つの時代が終わりつつあるなと思います。
紹興酒を水代わりのように飲み、日本ではとても高価なヘネシーなどのブランディー(当時は1本30,000円)を、乾杯、乾杯と浴びるように飲んでいた豪快な人達です。 
トッポパパが酒に強くなったのは、彼らのおかげでしょう。(笑)
余談ですが、台湾人がフランスを旅して、夜な夜なブランディやワインを一気飲みする姿を見て現地の人は眉をひそめたそうですが、台湾人曰く『こんな美味しいものを、今まで味わうことがなかった。 だから急いで飲んでいるんです。』......台湾人らしい逸話です。

その後、中国へのビジネスが盛んになります。
蒋介石率いる国民党政府は台湾島に移った後、1949年に毛沢東が天安門で中華人民共和国の建国を宣言しました。
その後も毛沢東主導による共産主義社会の強化、中ソ対立、文化大革命と中国は激動の時代に入っていきます。
トッポパパが最初に中国を訪問したのは、田中角栄による1972年の日中国交樹立(正常化)前後の頃で、文化大革命で外国人の入国が制限されていた時期です。
当時は香港経由での広東交易会が唯一の商談の場所でした。
その後国交正常化により上海に訪問するようになりましたが、当時の上海は街灯も少なく、女性もすべて白のブラウスとグレイのスラックス姿で、『同士』と呼びながら、商談をしなければならない共産主義の色濃い時代でした。 
もちろん、女性もパーマ(古いね)などかけた人など皆無で、御土産店での一番の売れ筋商品も、硯や筆そして香港で有名な万能塗り薬、萬金油の類でした。
現在の上海は、東京と同じようなファッション感覚で、日本の50年を10年で通過してきたようです。
一番の強烈な思い出は、中華人民共和国河南省東部に位置する、中国でも最も歴史が古い都市で、北宋の首都であった開封を訪問した時に、ご馳走になった?『さそり』です。 
二度と口にすることはないと思いますが、カルシウム豊富だと言われても、これはなんとも表現できない経験でした。
近未来の潜在需要ということでは、人口も多く経済が急成長している中国やインドが、各国注目の市場なのは疑問の余地もないでしょう。 
中国の人口の30%の人が携帯電話を使うだけで、その数は日本の人口の数倍になるわけですから、想像を絶する可能性を秘めたマーケットです。
また貧富の差が大きく、富裕層は人口の10%だけとも報告されていますが、日本の人口と同じくらいの人が富裕層だと考えると驚きです。
今後どのように中国が変貌していくのかで、世界経済に与える影響も変わっていくのでしょう。

世界で第2の人口を誇るインドへ出かけたのも、同じ時期でした。
インドの国営企業との商談で、デリーとカルカッタには何度か訪問しました。
デリー訪問時、世界遺産であるタージマハルを案内されました。
ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、22年の歳月をかけて亡き妻に捧げた白亜の霊廟で『王冠宮殿』とも呼ばれる建築物は、正確無比で左右対称なパレス風の建物で、見事なものでした。
もし機会があれば、もう一度訪問してみたい場所です。
ボンベイ(現在のムンバイ)では、技術供与契約の際記念植樹もしたので、今頃は大木になっているのでしょう。
インドでは九死に一生を得た経験もあります。 
帰国便が離陸前に、直径2m近いジェット噴射口?より火炎放射器のような火を噴出し、窓際の席から目の前で起こった突然のトラブルに爆死を覚悟したものでした。
幸いに自動消化作用?のようなものが働いたようで、大事には至りませんでしたが、もし離陸時に起きていたら、間違いなくあの世行きでした。

危険な経験といえば、イラク出張も同じです。
日本のエンジニアリング会社のプラント建設ラッシュに伴い、何度かバグダッドとバスラにもでかけました。
当時のバグダッドは、滞在中のホテルでも満足な食事も取ることができず、時々持参のソーメンをすすって仕事を続けていました。
ある日、早朝にシャワーを浴びていると、窓際に閃光が走り、直後、ドーンという爆発音が響きました。
これが1980年9月に始まったイラン・イラク戦争の始まりです。
ホテルから1.5Km程の地点にミサイルが落ちたそうです。
外国人滞在者に緊急連絡がまわり、我々もあわててチェックアウトし、夜中に空港へ直行しました。
各国で自国民を帰国させようと緊急手配した特別便を待つ空港内は、少しでも情報を取ろうと罵声が飛び交う混乱になり、パニック映画を観ているような感じでした。
『アメリカ人!』、『韓国人!』『フランス人』と、到着便に合わせて、自国民を招集する拡声器による大音響が響来ました。
日本人は比較的我慢強いのか、心配顔ながらも混乱もなく、おとなしく待っていました。
でも、最後まで『日本人!』の声は聞けませんでした。
何故、韓国からは飛行機が来たのに、日本からは特別便がこないのかと、ガッカリして、疲れた身体でホテルに逆戻りです。
結局、翌日の便で、無事成田に到着しましたが、空港で関係者から『お疲れ様でした!』の言葉に、『うるせい! 日本はどうなているのだ!』と返したい言葉を飲み込んだものです。
それから数年後、ドイツに出張中の1985年、湾岸戦争の再燃を知りました。
テレビで相互の都市をミサイルで攻撃しあう映像を見ながら、ほんとに出張時にいろいろなことが起こると、考え込んでいました。
前後して、イラクの王子様を日本に迎え、参議院議長に挨拶し、京都にも案内したこともありましたが、ブッシュ大統領のイラク侵攻後、消息が不明になりました。
政治の世界はよく分かりませんが、戦争は絶対にいけませんね。

その後、1980年代はヨーロッパ諸国への出張が多くなり、北欧、ヨーロッパ、南アフリカ、北米と駆け回る時代を過ごしました。 
どの国にも、それなりの思い出がたくさんありますが、一冊の本にしても書ききれないでしょう。

家族との海外旅行は、インドネシアのバリ島でのダイビングやジェットスキー、象に乗っての散歩も懐かしい思い出です。
マレーシアのペナンで孤島へ向かい、入れ食いの釣りや、トローリングでブルーマリンを釣り上げた思い出も忘れられません。
しかし悲惨な思い出は、1993年に家族でグアムに出かけたある日の夕刻、美味しいステーキでも食べようと鉄板焼きレストランでビールを飲もうとしたその瞬間、グアム島をマグニチュード8.1の大地震が襲いました。
まるで遊園地の乗り物に乗っているような、大きな横揺れでした。
吹き抜けの天井からシャンデリアは落ちるし、部屋の冷蔵庫、セイフティボックスそしてベットまでも壁から数十センチも移動し、倒壊したものも多く、地震には慣れているはずの日本人にも、経験したことのない大地震でした。
雨が降る屋外に傘も持たずに避難させられ、津波の不安におびえる大勢の人の前を、傘を指しながら指示しているホテル関係者にトッポパパが激怒し、『予備の傘や毛布を避難している人に配れ! ダメなら俺が取りに行く!』と叫んでいた。
傍で、ママや娘が、頼むから傍にいてくれと止められなかったら、ホテルの中に入って行ってしまったかもしれないと、あとで見境の付かないトッポパパが反省させられました。 
幸い人的被害が少なかったのは、震源が深海であったことと、グアムが台風の通り道なのでリスク・マネジメントがしっかりしていたからでしょう。
トッポパパはほんとに色々な経験をさせてもらっているようです。
娘が一昨年結婚しました。 奇遇ですが、娘の結婚相手も、この地震の時グアムに旅行に来ていたようです。 
不思議な縁があったのも知れませんね。


左手の痺れは今も続いているので、これだけ入力するのに1週間もかかってしまいました。
支離滅裂な思い出話で中身はありませんが、ちょっと思い出すだけでも、いろいろなことを経験した半世紀でした。
しかし、こうして振り返ると、トッポパパは強運のようです。


15日は、また院長診察です。
どのような手術日程になるのか分かりませんが、もう一度強運を信じたいと思います。
元気になって、機会があれば後半の半世紀も書いてみたいと思います。

皆さんのブログは定期的に訪問させていただいています。
まだ余裕がなく、いましばらくコメントは残せませんが、ご容赦ください。

トッポパパのメランコリー、 その7 『人生万事塞翁が馬』

2009年06月01日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
今年になって、トッポママが急にウォーキングに興味を持ち始めた。
最初はママをウォーキングに参加させるための運転手のつもりが、トッポと一緒に参加するようになり、ならば基礎体力を向上させようとトッポママに万歩計を購入してもらった。
やるならば継続は力なりと、約3ヶ月続け、後半は病気に気がつきペースダウンしたものの、写真のように1日10,000歩平均はクリアーすることができた。



その頃はヘルスメーターに乗り、体脂肪他のデータを見るのも楽しくなりかけたときに、突然の激痛に見舞われたわけである。
『人生万事塞翁が馬』という中国のことわざは、比較的好きな言葉で『人の幸不幸なんて時間がたってみなければわからないこと』と考え、まるで無駄な努力のように思えたウォーキングも、すべからく良いほうに考えるようにしなければいけないのでしょう。

今は手術を数週間後に控え、強い薬の継続的服用は、間違いなく体力を消耗しているはずなのでしょうが、3ヶ月間頑張ったおかげで、まだちゃんと歩けると思えば、効果はあったのでしょうし、もしかすると目に見えない力で歩かされていたと考えても面白い。

後縦靱帯骨化症という病気は、特定疾患とか難病に指定されているが、症状がほんとうに悪化するまで 見た目は健常者とほとんど変わらないのでしょう。
頚髄(神経組織)圧迫のしびれや痛みの症状が、どのくらい痛いものかは、なかなか周囲の方にはわかってもらえないでしょう。
すでに約2ヶ月、左手は痺れっぱなしで、最近は正常な感覚がなんだか分からなくなってきたようです。 
きっと、手術がうまくいって、ある日この痛みや痺れが消えたら、毎日笑ってすごせそうです。
世の中、もっともっと厳しい病気と向き合っている人もたくさんいるので、簡単に言うべきことではないのでしょうが、五体満足がどれほど大切なのか実感し始めています。

この病気は1960年に日本で発見されたらしくまだ歴史が浅く、原因もはっきり解明されていないし、治療法も確立されていない。
しかも治ることのない病気とされ、だから難病といわれるそうです。

患部の骨化の進行による、ある日突然の麻痺も怖いが、日常生活で起こりえる『衝撃』により手足の自由を奪われてしまう可能性があるから恐れられているのでしょう。

トッポパパの場合も、まだ重度の障害は出ていないものの、脊柱管スペースの最も狭いところは狭窄率が50%になっているので、危険な範囲に入ってきているわけです。
すなわち、事故や転倒などの衝撃で脊髄損傷になりかねない状況なようです。

トッポパパA、『院長先生も95%社会復帰はできるといっていたので、まかせるしかないね。』
トッポパパB、『でも、ある術後経過のデータによると、25%は痛みや痺れもなく改善されるそうだけど、25%は痛みや痺れは残るそうだ。 ただ、神経への除圧手術が成功すれば、急激な脊髄損傷の恐れは回避できるそうだ。』
トッポパパA、『残りの50%は?』
トッポパパB、『いろいろ書いてあるが、専門的過ぎて良くわからない。 まして、医者も患者も人間だからと.......』
トッポパパA、『25%といえば4人に一人だから、確率は高い??と思うね。 大学受験も、合格確率30%でも、なんとかなったことだし
トッポパパB、『医療も進歩しているし、データーも古いことだから、現在はもっと良いデーターかもしれないので、気にしないほうがよさそうだ。』
トッポパパA、『確かに、俺は運が強いほうだし....。 頚椎ヘルニアだと思い込んで、すぐに手術をする準備を進めたので、MRIも早く撮れたし、その結果病名も早く分かり、有名大学病院へ直行できたわけだしね。』
トッポパパB、『もしかしたら、今頃マッサージや針灸で治そうとしていたかもしれないしね。』 
トッポパパA、『まだ重度の症状は出ていないので、回復率も高いと思うけど。』
トッポパパB、『しかし手術しても、骨化は止められないのが困るね。』
トッポパパA、『骨化の進行度合いも個人差があるし、10年かかっても進行しない人もいるようだし。』
トッポパパB、『そりゃそうだ! 10年先のことなど、誰も分からないからね。信じるものは、救われる! でいこう。』


トッポパパはAB型なので、こんなふうに自問自答しています。
仲間には常日頃、3分一生懸命考えても分からないことは、1日考えたって同じだ!と激を飛ばしているので、やはり『人生万事塞翁が馬』で行くことにしましょう。

今日はちょっと弱気になったトッポパパでした。
大丈夫、頑張る

トッポパパのメランコリー、 その6 『院長診察2、 手術決定!』

2009年05月19日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
トッポ、『パパの決断は?』



2度目の院長診察の日が来ました。
前回はレントゲン写真の追加を撮り、今日は再度のMRI撮影になります。
前回のMRI撮影は、痛み止めの薬を飲んでいなかったので、どうも首が動いたようで、鮮明な写真が撮れませんでした。 
今回は大丈夫だと思ったのですが、やはり、同じ姿勢で4-5分も動かず我慢をしていると、痺れから激痛に変わってしまう。
やはり、神経への圧迫が強いので、長い時間同じ姿勢はきついようです。
しかし何とか歯を食いしばりながら、撮り終えることができました。
その後、写真を持って診察室へ行く。
またまた、ウィッギーさんの横に座ることになり、ちょっと雑談しながら院長の診察を待つ。

今日撮ったMRI写真を見ながら;
院長、『やはり頚椎の2,3から7にかけて狭窄が進んでいます。 特に頚椎3,4が特にひどいようです。(何番の頚椎かは、ちょっとあいまいな記憶です。)』
トッポパパ、『このまま進行すると、右半身及び足腰にも痺れや麻痺が広がるわけですか?』

院長、『必ずしもそうなるとは言えませんが、その可能性はあります。』
トッポパパ、『やはり手術はしたほうが良いのでしょうね。 で、時期的には?』

院長、『一般的に?狭窄率が50%を超えると手術を勧めます。 この場合狭窄率が50%を越えつつありますので、手術をしたほうが良いでしょう。 時期的には、3ヶ月先にするか6ヶ月先にするかは、患者さんの決断になります。』
トッポパパ、『しかし、その間痛みをこらえるために強い薬を飲み続けるのも負担がありそうですし、その間に麻痺が進行するかもしれないので、1ヶ月先での手術をお願いします。』

概ね、この手術のリスクは調べたつもりですが、トッポパパ、『ざっくばらんで結構ですが、手術後の回復度や、職場への復帰はどうなんでしょうか? 色々な面で心構えをしておかなければならないので.......』
院長、『症状の改善は50%ぐらいだと思います。(ということは、多少の痺れや痛みは残る!) 社会復帰(職場復帰?)は可能です。 ただ、どんな手術でもそうですが、患者さんも人間ですし、医者も同じ人間ですので、リスクはあります。 手術前に詳しく説明しますが、了解ください。』

トッポパパ、『入院の期間は?』
院長、『最初に検査入院があり、手術をいれて2-3週間ぐらいでしょう。』
トッポパパ、『とすると、職場復帰はリハビリ期間も考えると、1.5-2ヶ月ですね。』
院長、『....................ですかね。』(いつから職場復帰が出来るかの質問に、少々呆れ顔でした。)

院長、『それでは6月15日の診察予約を入れます。 そこで、最終日程を決めましょう。 部屋が空けば、すぐ入院できると思います。』
トッポパパ、『仮に手術がうまくいった場合、その部位には骨化は進まないのですか?』
院長、『それはなんとも言えません。 原因が分からないので、難病とされているわけです。』
トッポパパ、『......(そうですよね)......よろしくお願いします。』

要約すると、OPLLの慢性的進行を手術でも止めることは出来ない。 しかし、このまま対症療法を続けても、いつかは麻痺が進行する。 麻痺が進行すれば、手術後の回復度合いに影響があるとすれば、選択肢は一つである。
この大学病院は、日本での最先端技術を持っていると信じて、これ以上躊躇することが、後の後悔になるような気がする。 よって、手術に踏み切ることにします。

カーネギーの名言集にでてきた言葉で、『想定できる最悪の事態を受け入れる覚悟をすれば、不安や、怖さを乗り切ることができる。』と聞いたことがあります。
トッポママの、『いざとなったら、私が面倒見てあげるから、運命だと思って手術をうければ.......』の言葉に、人のことだとよく言うよ!と思いながらも、感謝する。

こうなりゃ、信じるものは救われる!で、前向きに考えることにします。
そんなことで、ちょっと明日から海外出張へ行ってきます。

トッポパパのメランコリー、 その5 『院長診察』

2009年05月14日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
トッポ、『パパの手術はどうなるのかな?』



月曜日は早朝より家を出て、大学病院へ向かう。
正門から入り、病院の全景を見上げた時、そういえば石原裕次郎が、手術後のファンへの挨拶とかで、屋上のあの辺りで手を振っていたのをテレビで見たことがあると思い出す。

インフルエンザ対策で、物々しい警戒態勢のなか院長の診察を待つ。
隣りで順番を待つ黒人の顔が、どこかで見たような顔だと思ったら、以前テレビで通勤する人に、英語で話しかけていたウィッギーさん(名前違ったかな?)です。

待つこと1時間ぐらいで、院長診察が始まる。
整形外科部長が大学病院院長であると知って、怖そうな(偉そうな?)人を想像していましたが、とても優しそうな、それでいて大学の教授!って感じの先生でした。
助手?の人が、大先生の診察を緊張しながらアシストしています。

初診の場合は、浴衣のようなものを前後逆さに着せられ、背中が開くようにして診察室に入ります。
左手がちょっと不自由なので、うまく紐が結べず、パンツが丸見えなので、トッポママが飛んできて結んでくれた。
院長に現在に至るまでの経過説明をしたところ、レーザー治療に関して、『誰がレーザー治療を選択されたのですか? あの治療はまだ確立されていない治療です。』との厳しい言葉で、叱られてしまいました。 
医学の世界は、難しいものですね。 
一瞬、”白い巨塔”が頭をよぎりました。

院長はMRIとX線写真を交互に見た後、歩行のチェック、その後、体中を押したり、たたいたり、そして曲げ伸ばししながら助手の人に説明しています。 
最近はドイツ語ではなく英語でのやり取りも多く、内容が多少分かるので、うれしいような悲しいような感じです。

再度MRIを見ながら、『結構立派ですね!』(何が!骨化の進み具合のことか?)の話の後、『確かに、後縦靱帯骨化症です。 この病気は国の指定する特定疾患ですので、手術になると、手続きをすれば手術代は国の負担になり、無料になります。』、うれしいようなうれしくないような説明で、微妙ですね。 
宝くじは全然当たらないが、病気名は一発で当たるとは、運がいいようです。

『手術の緊急性は、どうなんでしょうか? あと、来週海外出張へ、どうしても行かなければならないのですが、行ってもいいでしょうか?』と、支離滅裂な質問を投げる。
院長は、MRIの写真に精巧な分度器のようなものをあてがい、骨間の距離を計りながら、『手術の話は憂鬱になるでしょうから、後にしましょう。 MRIの写真が鮮明でないので、わかりにくい部分がありますが、撮影時に動きましたか?』
最初の撮影時には、痛み止めも飲んでいなかったので、痛みで手が痙攣して首も動いたようですと説明すると、『来週、もう一度撮り直ししましょう。 あと、首だけでなく、胸、腰のレントゲン撮影も必要なので、今日撮って帰ってください。』と、どんどん検査予定が決められていく。

『すいません...、出張はいいでしょうか? それから、今飲んでいる薬では、痛み止めが効かないのですけど......』と、目先の心配ごとを再度尋ねる。 
『もっと強い薬を出しますので、それで様子を見てください。』との返事で、出張のことははっきり言わないが、否定もしないので、無理しない範囲で、いいでしょうということにする。

『来週、月曜日に再度撮り直した写真を見て、今後のことは考えましょう。』との話しで、再度院長診察の予約を取り、今日の診察を終えた。 
同行してくれたトッポママの話では、30分近くも診察にかかったそうで、高名な先生に長い時間をかけてもらったことに感謝しなければいけないようです。

その他の手続きをとり、出来るだけ首を固定して、炎症を押さえたほうがよいとのことで、首に巻くカラーを購入し会社へ行く。
しかし暑くて、カラーなんか巻いて仕事などできそうもない。
その後、他の人から話を聞くにつれ、有名大学病院の院長先生じきじきの診察など、めったに考えられないことのようで、人間関係に、あらためて感謝です。

ということで、今後どうなるのかは、また1週間延びたようです。
強い薬を、飲んでも痛さは変わりませんね。 
薬を飲んでも、これだけ痺れ、痛みが走るのは病気が進行しているのかと、ちょっと不安になります。

『痛いと思うからから痛いのだ!、 痛くないと思えば......(やっぱり痛い!)』.......これは、我慢するしかないのでしょう。

てなことで、痛みこらえて痺れますの、トッポパパです。

トッポパパのメランコリー、 その4 『後縦靱帯骨化症と戦う?、共存?』

2009年05月09日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
GWは休養につとめましたが、少しは歩かないと体もなまるのでトッポに連れられて、みなとみらいを散歩です。



さて、休み中にOPLL(後縦靱帯骨化症)を、いろいろ調べてみましたが、なんとも厄介な病気のようです。

自問自答です;

◎ この病気は、治るのか? (完治するの?)
原因が特定できていないので、治らない。 進行を止めることもできない。

◎ 進行のスピードは?
これが一番の問題のようです。 靭帯の骨化は15-20年かかって育ってきたのかもしれないと、最初のお医者さんは話していた。 
今後の骨化のスピードがどうなるのか、予測がつかない。

◎ 治療はどうするのか?
痛みや麻痺が高度にならなければ、湿布、薬物治療(痛み止め、消炎剤、神経活性剤、ステロイドホルモン局所の安静)、頚椎用装具などで症状の軽減を図る。
但し、 骨化が進むと麻痺が進行するので、手術を勧められる。

◎ 手術
手術は症状によって、色々な方法があるようです。
しかし、基本的には神経組織を圧迫しているのを取り除く減圧手術になるのでしょう。
手術をしても骨化がすすまないという保証はない。

◎ 最後は究極の二者択一?
手術しないで、痺れを進行を覚悟で生活を続ける。 
進行が限度を超えれば、仕事が出来なくなる。 
手術をしないと、神経組織が圧迫されて細くなっているので、事故か何かでいきなり神経切断が起こり、首から下が麻痺すれば寝たきりになってしまうこともある。
手術をするば、多少の痺れは残るが普通に近い生活を取り戻せる。
しかし難しい手術なので、術後の予測は不能のようです。
一般的にはハイリスクなのでしょう。
でも麻痺が進行すれば手術効果も少なくなるというので、難しい選択なのでしょう。

来週の月曜日に、院長自ら診断してもらえるとの事なので、安心して判断を任せようと思います。
診断の後も、検査が続くのでしょうから、今しばらくはバタバタしそうです。

トッポパパのメランコリー、 その3 『OPLLって何だ!』

2009年05月04日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
トッポ、『今年のGWは、自宅で静養だね。 パパ、頑張れ!』



院長が大学病院への紹介状の内容を看護婦?に伝えている趣旨は、『今回頚椎ヘルニアの疑いでPLDDを希望して来院された患者ですが、MRI画像及びX線写真より、OPLLと推定されるため、貴医院、整形外科部をご紹介いたします。』というようなことだった。

病院よりMRI画像、紹介状を頂き、途中処方箋による痛み止めなどの薬を受け取り会社へ戻る。
すぐに気になっていた、OPLLの意味を調べると(以下はネット情報の抜粋です);

◎ OPLLって何だ?
OPLLとは『後縦靱帯骨化症』という病気です。
後縦靭帯骨化症とは、脊椎椎体の後縁を上下に連結し、脊柱を縦走する後縦靭帯が骨化し増大する結果、脊髄の入っている脊柱管が狭くなり、脊髄や脊髄から分枝する神経根が圧迫されて知覚障害や運動障害等の神経障害を引き起こす病気です。骨化する脊椎のレベルによってそれぞれ頚椎後縦靭帯骨化症、胸椎後縦靭帯骨化症、腰椎後縦靭帯骨化症と呼ばれます。

◎ OPLLは難病(特定疾患)対象
難病(特定疾患)とは? 「難病」は、医学的に明確に定義された病気の名称ではありません。いわゆる「不治の病」に対して社会通念として用いられてきた言葉です。そのため、難病であるか否かは、その時代の医療水準や社会事情によって変化します。
しかし、治療がむずかしく、慢性の経過をたどる疾病もいまだ存在し、このような疾病を難病と呼んでいます。
難病については、昭和47年の難病対策要綱に、「(1)原因不明、治療方針未確定であり、かつ、後遺症を残す恐れが少なくない疾病、(2)経過が慢性にわたり、単に経済的な問題のみならず介護等に著しく人手を要するために家族の負担が重く、また精神的にも負担の大きい疾病」と定義されています。

◎ 原因は?
病気の原因については多方面にわたり研究されています。しかし明らかな原因は不明です。この病気に関係するものとして家族内発症があるということ、性ホルモンの異常が存在すること、カルシウム・ビタミンDの代謝異常、糖尿病、肥満傾向、老化現象、全身的な骨化傾向、骨化部位における局所ストレス、またその部位の椎間板脱出などいろいろな要因が考えられています。特に家族内発症においては遺伝子の研究から有力視されています。

明らかな原因は不明のようです。 だから難病なのか?
家族内発症といっても、誰もそんな病気にかかった家族はいないけど........、まぁ発症する前に死んじゃったのかもしれないし、これはなんといえない。

◎ どんな症状?
症状としては、首、肩のこり、手のしびれ・麻痺、痛み、手が使いづらい、細かい仕事が出来ない、四肢のシビレ・麻痺、知覚障害、筋力低下、運動障害、歩行困難になり、麻痺が高度になれば膀胱直腸障害、腱反射亢進、病的反射出現、痙性麻痺になる。
(トッポパパは現在、最初の4症状ぐらいだが、これから進むとなると冗談じゃない!って、思ってしまいますね。)

◎ 治療法は?
治療には保存的治療と手術療法があります。
保存的治療は骨化によって圧迫されている神経を守ることが治療の主目的になります。頚椎における保存的療法ではまず頚椎の安静保持を保つため、頚椎の外固定装具を寝ている時以外に装着します。この時頚椎は快適な位置にあることが必要です。
高さの調節可能な装具がよろしいかと思います。後屈する姿勢は避ける必要があります。2、3週間で症状の軽快を見ます。
場合によっては入院して、持続的に頚椎を牽引することもあります。通院しながらの牽引は他の頚椎の病気の時に行うのと比べ効果があがりません。入院管理の下に持続牽引する期間はおよそ一ヶ月程度です。胸椎や腰椎では頚椎よりも牽引療法の効果は少ない傾向にあります。牽引で経過良好な場合は装具療法に切り替え経過観察していきます。その他薬物療法として消炎鎮痛剤、筋弛緩剤等を内服して自覚症状の軽減が得られることがあります。

症状が強い場合は手術治療します。
これには神経の圧迫を取るため骨化部位を摘出して、その部位を自分の骨で固定する前方進入法と骨化部位はそのままにして神経の入った脊柱管を拡げる後方進入法があります。胸椎では背骨が丸くなっているため、前方進入法が選ばれますが、難易度の高い手術です。腰椎では後方進入法がよく選ばれます。前方固定を行うと約3カ月の骨がつく期間を要します。

◎ この病気はどういう経過をたどるのですか
後縦靭帯骨化症は黄色靱帯骨化症、前縦靱帯骨化症を合併しやすく、骨化部位は縦方向や横方向に増大、伸展していきます。骨化があればすぐに症状が出現するわけではありません。症状のない方は定期的にレ線写真検査をする必要があります。症状が重度になると、日常生活にかなり障害がでてきます。介助を要することもあります。一般に脊髄神経症状は慢性進行性です。また軽微な外力で四肢麻痺になることがありますのでその存在を知っておく必要があります。

ということで、トッポパパが厄介な病気にかかったことは間違いないようです。

友人の協力を得て、大学病院への紹介状及びMRI画像などは、すでに有名なK大学病院へ提出しました。
GW明けの月曜日に、K大学病院長(整形外科部長)が診断してくれる予約を取ることができました。

現在は痛み止めが効いているのか、睡眠も取れるようになり体調は回復してきているようです。
後は、この病気とどのように闘うかでしょう。
そう簡単に負けるわけにもいかないので、目の前の敵をもう少し勉強してみます。

トッポパパのメランコリー、 その2 『頚椎ヘルニア???』

2009年05月02日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
トッポ、『トッポパパが考え込んでいる時が多くなった。』



帰国した週末の金曜日に、急遽某病院の院長先生のスケジュールに空きができたと連絡がある。
早速、時間を繰り上げてMRIおよびレントゲン撮影をしてもらい、その後院長先生が診断してくれる予定になる。
さらに検査結果がPLDDの手術が適用であれば、日時は構わないので、最短での手術を希望する。

金曜日当日、早朝一番で病院を訪問し、病院長に現在までの症状説明をして早速検査に入る。
MRI検査は、3-4分の断続的検査で30分ほどかかる。
検査までは、痛み止めの薬などを飲んでいないので不安である。
MRI検査中は、頚椎周辺を動かしてはいけないのだが、普段でも寝ていると、上腕部に痺れ、麻痺が起こり、その後激痛が起こるので我慢できずに少し動いてしまう。 
それでも、歯を食いしばって痛みを堪え、1-2回のやり直しでなんとか撮り終えることができた。
その後のX線は簡単な撮影なので、すぐ終了し、その後院長先生に呼ばれるのを待合室で待つ。

診察室に呼ばれ、MRI画像とX線写真を前にして院長が話を始めた。
院長、『あぁ! こりゃダメだね。 これはPLDDでは手術できません。(キッパリ)』
トッポパパ、『手術できませんか! どうすればいいのでしょうか?』
院長、『これは頚椎ヘルニアとは違います。 頚椎の中の靭帯が肥大して、神経を圧迫している状態です。』
トッポパパ、『???(説明を受けるが、専門的でよく理解できない。)』

もっと大変な病気に罹ったのかという気持ちで、頭が真っ白になる。
院長先生より、大学病院での診断、手術を勧められたので、紹介状をお願いする。

紹介状を口頭で看護婦さんに指示している間、飛び交う専門用語を不思議な感覚で聞いていた。

その時の専門用語を思い出し、ネットで調べて、更なる衝撃を受ける。

続く....................................................................。

トッポパパのメランコリー、 その1 『衝撃的激痛 !』

2009年04月30日 | トッポパパの後縦靱帯骨化症(OPLL)闘病記
トッポ、『トッポパパが体調不良で、僕も毎日心配しています。』



いつもは毎日のように更新しているトッポのブログが突然、不定期になった。
ご心配の言葉をたくさん頂き、心苦しく思っています。

取り敢えず、トッポパパに何が起きたのかを、概略報告します。
4月中旬にヨーロッパ方面へ、出張に出かけました。 
ドイツ滞在中までは、それほど異変を感じなかったのですが、オランダへ移動してから首から背中にかけて、鈍痛を感じはじめた。

出張後半は無理をしないで、夜は休養につとめましたが、首、肩、肩甲骨、脇、二の腕、そして小指から中指までに痺れ、激痛が走り始め、結局ダウン寸前での帰国となる。

成田到着が日曜日早朝のため、取り敢えずこの痛みをとらなければと、休日でも開いていたカイロプラクテイックにて、多少なりとも痛みをとるための処置をしてもらう。
カイロプラクティックの院長先生の診断では、頚椎5-6番目のヘルニアと思われるとの話でした。
痛みを感じながら、トッポの頚椎ヘルニア手術を思い出す。
トッポも自転車が急ブレーキをかけたような悲鳴を上げていたが、トッポパパも痺れから始まり、ジーンという疼痛から、急転直下激痛に変わる痛みに、今も頭を抱えています。

家で考え込んでいても、事態は好転するわけがないので、頚椎ヘルニアだとこれからMRI他いくつかの検査が待っているだろうし、どこでこの手術をするか決めなければならない。

トッポの場合と同じように、ネットで調べまくり、頚椎ヘルニアが初期なら、PLDDという手術があることを知る。
PLDDとは、Percutaneous (経皮的)、Laser (レーザー)、Disk (椎間板)、Decompression (減圧術)の略で、簡単に言えば、ヘルニアになっている椎間板軟骨を従来のように切開して取り除くのではなく、椎間板軟骨の中心部をレーザーにより「蒸散」させることによって、腰痛や下肢痛、首や肩の痛みを解消または軽減させる療法のことです。

手術実績が抜群の、某病院に連絡をいれ、週末のMRI他の検査の予約を取り付ける。
最新の設備による手術とかで保険も効かず、頚椎の場合は小型車が一台楽に買える手術代がかかると聞いたが、痛みには勝てないので手術を受けようと思った。

ここまでは、予定内の行動だったのですが.........................。

続く....................................................................。