走る営業公務員、奮闘記!!

地方分権が進展する中での地方からみた木っ端役人の奮闘記です。

この世は命のプール

2011年06月11日 16時25分18秒 | ちょっといい話
 歌手、加藤登紀子さんの人生は決して順風満帆なものではありませんでした。
彼女の夫は藤本敏夫さん。
彼と知り合ったのは1969年。
戦後社会が大きくうねった頂点の年に出会ったそうだ。
藤本さんは学生運動の指導者として、彼の言葉で数万の学生が動いたといわれています。

 そして、彼は獄中の人となります。

加藤さんは、すごい決断をしました。
獄中での結婚式。

 社会復帰をした藤本さんは農業へと自分の生き方を進めます。
その場所は、千葉県房総の鴨川。
彼は、加藤さんに一緒にいこうと誘います。

 加藤さんはかなり悩み、東京へ残る道を選択されたそうです。

そのときのことを加藤さんは次のように語っています。

「結婚の決断、東京に残ると決めたとき、人の心は振り子です。
思いは大きく左右に揺れ動きました。けれど、いつも人生の決断はひとつなのです。
あの時、私の心の振り子は、ひとつの答えを指しました。
そして、そのあとの人生を私は自分の責任で編み続けてきたつもりです。
 人生とはかくのごとく、のっぴきならない現実に向かい合うことの繰り返しです。
人は、その起こる現実に翻弄(ほんろう)されながらも必死で生きようとする。
そこに真に命の輝く瞬間があるのではないでしょうか。」と

 そして、娘のYae(ヤエ)さんは彼女と同じ歌手の道に進みながらも、父が選んだ鴨川に住んでいます。
その背景には、子どもの頃飼っていたハムスターが死に、埋める場所を探し回ったが見つからなかった悲しい思い出が、そうさせたのではないかと
 そして次のように続けます。

「都会で暮らす人々は、安全・快適・便利な生活のかわりに、約束ごとの多い社会で、あるべき姿に縛られながら生きています。
 一方、鴨川での暮らしも、毒虫に刺され、猪に襲われる危険性を常に覚悟する毎日。
自然において生と死はすぐに隣り合わせにあるのです。
 つまり、どちらの世界にあろうと、生きることは常に戦いをはらんでいます。
生きるとは本来、穏やかならざるもの。
そう悟ったなら、『どうしてこんなに心が波立つの?』と悩む度合いも減ると思います。
 それでもまだ苦しいならば、いっそハッキリと生きてみることです。
泣きたいときは泣き、困ったときは困ったと言う。
自分の心に素直に従うことが、結果的にはおだやかに生きることへつながるかもしれません。

 本来、人の心はゴムまりのように柔らかくて、しぼむように泣いたり、弾むように笑ったりするものです。
そのゴムまりをどんなに尖らせ、四角く見せても、人間の心はみな丸い。
そのことに気づく経験がありました。

 キャバレーで歌っていた頃のこと。
やくざの人たちがお客としてやってきました。
シャンソンを歌い始めた私に『そんな歌は歌うな、ひっこめ』と言う。
『じゃあ、何を歌えばいいの?』と私が聞くと、彼らは、『童謡を歌え』と言いました。
 私は『七つの子』や『かなりや』『シャボン玉』を一生懸命歌いました。
ふと見ると、やくざの人たちが泣いているのです。
誰にでも、愛しい人、大切な思い出やどうしても失いたくないものが心の奥底にあります。
彼らも、子どものように純なゴムまりの心を忘れていないのだと知りました。

 あの頃、私は現実を生き抜く人間の力に圧倒され、生きるとはどういうことかを教えられました。
今思えば、そうした経験が私に歌を続けさせてくれたのでしょう。
 心が揺れないと、歌は歌えません。
悲しみを知り、泣き、叫び、その末に笑った記憶がなければ、歌は聴く人の心に響きません。
 客席には心の振り子を揺らすまいと構える力もあります。
けれど、ふとした言葉や歌の間に、その方の表情が変わってきた時、私はその方を抱きしめたくなります。
その人のすべてが愛おしくてたまらなくなるのです。
 客席を眺めると、そこにはいのちのプールが見えます。
数え切れない人生の悩みや苦しみ、喜びをたたえたプールが目の前に広がっているのです。
 もし、あなたが悩み苦しんでいたとしても、そのあなたを愛おしく思い、抱きしめたいと思っている人はいます。
そしてまわりを見渡せば、あなたと同じように、悩みながらも生き続けている人ばかりだと気づくでしょう。

 この世は命のプール。

みんなで生きている。
あなたは、その中のひとり。
みんなの中のひとりなのです。」


 どうです?気が楽になりましたか。