近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沖縄の歴史・文化 “琉球王国”時代 “薩摩軍”の侵攻とは!

2007年12月21日 | 歴史
1609年薩摩軍は3千ほどの兵と千艘余の船で琉球を攻め、首里城を占拠した。



写真は、薩摩軍による琉球侵攻の絵図。
琉球侵攻の理由は、琉球が奥州に漂着した琉球船送還について、江戸幕府へ謝礼の使いを実行しなかったことや豊臣秀吉の朝鮮出兵時における兵糧米の要求を断ったことなどが挙げられている。



写真は、沖縄本島北山・“今帰仁城”跡の光景。
薩摩軍は奄美の島々を難なく制した後、沖縄本島の北部前線基地であった“今帰仁城”を陥落させ、その後首里・那覇を攻めたが、往時の琉球でも戦国時代を戦い抜いてきた薩摩軍に抗する力はなく、簡単に降伏させられた。

首里城は占拠され、時の“尚寧王”や家臣たちは捕虜の身となり、薩摩経由で駿府・江戸まで連れて行かれた。
その後帰国を許されたが、尚寧王は薩摩への忠誠を誓う起請文へ署名させられ、琉球は薩摩藩を介した幕藩体制下に組込まれていた。

以降琉球王国は薩摩藩の徹底的な監視の下に、実質的には薩摩藩の支配下に置かれながら、形式的には独立国として清国との朝貢体制を維持することが至上命令となった。清国や周辺諸国に対しては、交易のメリットを維持するために、朝貢体制下の琉球王国として振舞わされた。

このように琉球王国は約270年間にわたり、表向きは中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であると云う微妙な国際関係に中で存続していた。

やがて明治維新によって成立した日本政府は、1879年軍隊を派遣して首里城から“国王尚泰”を追放し、沖縄県の設置を宣言したことにより、琉球王国は滅亡した。

第二尚氏王統は、初代“尚円王”から数えて19代目の“尚泰王”まで約400年の長きにわたり存続したが・・・・・。

沖縄の歴史・文化 “琉球王国”の象徴・“首里城”の歴史とは!

2007年12月19日 | 歴史
首里城の創建年代は明らかでないが、最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代に“中山の城”として使われていたことが確認されている。

“尚巴志”が三山を統一して琉球王朝を立ち上げると、首里城は王家の居城として用いられると共に、国王統治の行政機関“首里王府”の本部でもあった。

叉各地に配置された神女たちを通じて、王国祭祀を運営する宗教上のネットワークの拠点でもあった。首里城は琉球有数の聖城でもあり、当初は鬱蒼とした大木の森や岩があるだけの場所であったらしいが、この森こそが首里城発祥の地であったと云う。

更に首里城とその周辺では芸能・音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が数多く活躍するなど文化芸術の中心でもあった。





写真は、那覇市“首里城公園”から望む、東シナ海・海岸線及び同公園内で復元された石垣。

首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中で多くの施設が建てられている。叉いくつもの広場を持ち、信仰上の聖地でもある。
首里城は内郭と外郭に分けられ、内郭は15世紀初期、外郭は16世紀中期に完成している。











写真は上から、那覇市の現在の首里城正殿と玉座、南殿、北殿及び奉神門。
正殿の前庭には広場が設けられ、それを取り囲むように行政施設である北殿、儀礼などに用いられた南殿、前庭への入口となる奉神門が建てられている。

正殿をはじめとする城内の各施設は、東西の軸線に沿って配置され、中国や日本本土との長い交流の歴史があったため、首里城の随所に中国・日本の建築文化の影響を受けているそうで、正殿・南殿・北殿はその代表的な例とされる。

正殿は“唐破風”と呼ばれ、一階と二階には、写真のような玉座が設けられている。

首里城はその役割から、3つの空間に分けられ、政治・外交が行われた“行政空間”、信仰上の聖域が点在する、城内でも最も神聖な聖地として崇められた“祭祀空間”、更に国王とその家族が住む“御内原”と呼ばれた、“居住空間”であった。
“御内原”については、現在復元・整備が進められており、完成後随時追加開園される予定と云う。

首里城は数度にわたり焼失しており、その度に再建されてきたが、現在再現されている建築は、18世紀以降のモデルに基づいていると云う。

首里城は本土の城と異なり、中国の影響を大きく受けており、門をはじめ各種建築物は漆で朱塗りされ、屋根瓦には初期は高麗瓦、後には赤瓦が使われ、各部の装飾は国王の象徴である“龍”が多用された。

平和な琉球王朝時代に再建されたこともあり、軍事目的よりも政治の中心としての役割を重視して設計されている。



写真は、1945年沖縄戦で廃墟と化した首里城跡。

1879年首里城から国王が追われ、沖縄県となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種学校等に使われた。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、僅かに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。

戦後琉球大学のキャンパスとなったが、大学移転後の1980年末から、発掘調査された遺構や昭和初期の改修工事図面などを元に、工芸家・職人を総動員して、本格的な復元事業が推進され、現在も復元工事が継続されている。

2000年には“琉球王国のグスク及び関連遺産群”として世界遺産に登録されたが、復元された建物・城壁などは世界遺産の対象ではない。

沖縄の歴史・文化 “第二尚氏王統”時代の繁栄とは!

2007年12月18日 | 歴史
沖縄諸島は、古くから日本本土と連なる縄文土器文化にありながらも、中国との朝貢貿易を梃子にして、独自な王朝文化を築き上げていった。
この琉球王国は、中国・日本本土・東南アジアなどの中継貿易を通して、多くの富と先進的文化を移入した。



写真は、奄美大島・沖縄・石垣島までの広域沖縄諸島地図。

琉球王国は奄美・先島を統一し、中央集権化を図っていくと共に、中国大陸・東アジアの大海原を架け橋とする舟を操り、各地の産物が国中に溢れるほど繁栄し、台湾に比較して沖縄は“大琉球”と呼ばれるまでに発展した。



写真は、繁栄を謳歌していた、当時の琉装した“琉球人”たち。

琉球王国の繁栄を支えたのは、漁師・商人の海を舞台にした活躍が基盤となり、琉球王国では独自な王朝文化の華が開き、400年余りの栄華を誇ったと云える。

華麗な琉球王朝文化は、多角的中継交易の結晶であり、琉球が中国・朝鮮・東南アジア諸国との間に行った貿易の最盛期は14~16世紀で、将に貿易国家・海洋国家であった。

そして多角的交易を下支えしたのが、明の“海禁政策”によって行き場を失った、海船の操縦・航海に必要な技術者であり、東南アジアの港市国家にも溶け込んでいた広東系の中国商人であったらしい。

即ち明は商船の自由な海外渡航を禁じていたため、中国商人の活躍の舞台が大幅に狭められ、そのため陶磁器・絹織物をはじめとして優れた商品を中国商人に代わって海外諸国に貿易することができるようになった。

しかしやがて明の海禁政策が緩められ、琉球王国の国家管理を超えた交易が行きかい、中国商人が日本の戦国武士と手を組んだ海の活動に伴って、中国と琉球王朝との間の太いパイプは役立たなくなり、琉球官営貿易は、次第に衰え始めた。

代わって、当時の那覇港は、博多・堺などの日本商人やポルトガル・スペインなどの外国商人たちが来航して賑わっていたと云う。

1609年“薩摩藩”の琉球侵攻は、そのような状況の中で引起され、琉球王朝は薩摩藩の管理下におかれ、清国との進貢貿易のほか、薩摩商人との限定された貿易のみに縮小されたと云う。

沖縄の歴史・文化 “第二尚氏王統の3代目・尚真”とは!

2007年12月17日 | 歴史
1470年尚円王がスタートさせた“第二尚氏王統”は、1879年の琉球処分によって沖縄県が置かれるまで、19代400年余り続いた。

琉球王国を、江戸幕府より100年以上も長い平和な治世の礎を創り上げたのが、“尚真王”であった。



写真は、第二尚氏王統・3代目の“尚真王”の肖像。
“尚真王”は“尚円王”の長子として、約50年間にわたり多くの功績を残し、長期安定の治世を確立したと云われている。

尚円王の弟・2代目の“尚宣威王”は、尚真の母・“オギヤカ”が企んだとされるクーデターにより失脚させられ、神のお告げがあったとされる、若干12歳の尚真が王位の座に就いたと云う。

尚真王の主な功績には、中央集権国家体制の確立・地方領主からの武器没収と首里城内移住・身分制度の確立・八重山や与那国など離島の支配強化など江戸幕府の長期政権に似た諸施策を導入・定着させたことにある。

琉球支配者特異の施策には、王女や王の姉妹を最高の神官・“聞得大君”に任じ、地方の女神官を支配下に置いたことや、中国との関係強化のため、朝貢を3年1貢から1年1貢へとより緊密化したことなどが挙げられる。



写真は、那覇市の首里城公園内の“円覚寺”跡。
尚真王は、首里城の周囲に役人たちを住まわせ、石畳の道・寺・墓などが造られ、首里城下町として整備した。
仏教の篤い信者であった尚真王は、父・尚円を祀るため“円覚寺”を建造した。



写真は、那覇市首里城に近い“第二代尚家歴代玉陵”。
この時期、尚真の母は王一族の王陵を築き、自分の血を引くものだけが、この墓に葬られた。当時高貴な人物が逝去すると、その付添い人も一緒に死ぬという残酷は風習があったが、母が亡くなり、王陵に葬られた際には、尚真王はこの悪習を止めさせたと云う。

更に当時華僑がアジア全域に進出していた時代でもあり、尚真王は東南アジアとの交易を広げ、シャム(タイ)・ジャワ・マラッカ(マレーシア)・パレンバンなどの国々を相手に、輸出品は中国産の陶磁器・絹織物・琉球産硫黄・工芸品など、輸入品には染料・胡椒・南蛮酒・象牙などで交易進行を図ったと云う。



写真は、沖縄最古の歌集・”おもろそうし”の文面・内容。
文化的功績として、琉球の伝統的なうた・“おもろ”をまとめた“おもろそうし”は、沖縄最古の歌集として、当時を偲ぶ歴史的価値が高いらしい。

沖縄の歴史・文化 “琉球王国”時代 “第二尚氏王統”の成立

2007年12月16日 | 歴史
琉球王国の歴史の中で、一度だけ大きな政権交代があった。
統一王朝が成立してから約40年後の1469年、伊是名島の農夫出身の“金丸”が、ゆるやかなクーデターにより新王朝を開いた。







写真は上から、沖縄諸島の地図の通り、“伊是名島”は沖縄本島の北西に位置、伊是名島の上空写真及び伊是名島で農民生まれの“金丸・尚円王”の碑。

伊是名島・諸見村で長男として生まれた“金丸”は、青年期父を助けて農業を手伝っていたが、再三にわたり旱魃に見舞われたり、20歳の時には両親を亡くすなど必ずしも幸福な島生活ではなかった。

27歳で那覇・首里へ向かい、幸運にも“第一尚氏王統”の第6代目・“尚泰久王”に才能を認められ、家来となった。

尚泰久王により、高官に抜擢された金丸は、直ちに頭角を現し、1454年に当内閣の領主に任命され、更に1459年には王朝府の“貿易長官”に就任するなど、順調に出世していったが、何故か54歳の若さで隠遁生活に入った。

貿易長官の要職は、尚泰久王への取次職でもあり、王への上申は、金丸を経由する必要があるほど、尚泰久王の絶大な信頼を得ていたと云う。

1460年尚泰久王が薨去すると、世子尚徳が即位したが、“琉球史書”では尚徳王の悪政が綴られている。
結局“第一尚氏王統”の7代目・“尚徳王”は、悪政を重ね次第に王朝重臣の信頼を損ねていったと云う。

尚徳王に見切りをつけた、第一尚王朝重臣は、王朝会議で“金丸”を次期琉球王に推すことを決定したため、“金丸”は急遽、隠遁先の沖縄本島・中部地方の内間村から首里に迎えられ、即位したという予想外のハプニングが起こった。

新王朝に就いた“金丸”は、前例に従い、中国皇帝との関係にも配慮して“尚王家”を継承し、“尚円王”を名乗ったため、琉球王国の歴史では、この政権交代以前の王朝を“第一尚氏王統”、“尚円王”以降を“第二尚氏王統”と呼んでいる。




写真は、“尚円王”の肖像及び尚円王一族が眠る伊是名島の玉陵殿。

クーデターにより“第二尚氏王統”が始まったが、この後“尚円王”には歴史に残るような功績は無く、第二王朝構築を目指そうとするが、62歳で薨去した。

沖縄の歴史・文化 “琉球王国”時代 統一国家の成立

2007年12月15日 | 歴史
三山並立時代の後、琉球を統一したのは、“佐敷城”の按司・“尚巴志”であった。



写真は、沖縄本島東南の佐敷町(現在は合併して南城市)の佐敷城跡。

“尚巴志”は、1406年に中山王を滅ぼすと、父・“尚思紹”を王に即位させ、自ら北山・南山攻略を企てた。

そして北山は、標高100mほどの石灰岩台地に築かれ、周囲には川・急崖などがあり、難攻不落なグスクであったが、遂に陥落させ、その勢いで1429年には南山をも滅ぼした。

ここに三山が統一され、琉球における初の統一王国が形成された。
1430年“尚巴志”は、明朝に三山の統一されたことを報告したと云う。

“尚巴志”の父・“尚思紹”を始祖とする“第一尚氏王統”は、三山を統一した“尚巴志”による18年の王位期間を含め、1469年まで7代・63年間続いた。

第一尚氏は、居城グスクを浦添から首里に遷都した。“第一尚氏王統”時代以降、首里・那覇が政治・経済・文化の中心として隆盛を誇った。

しかし第一尚氏王統は、王位継承を巡って内乱などが起こり、必ずしも安泰ではなく、自滅の道を歩んだ。

とは云うものの、“第一尚氏王統”時代には、積極的な海外貿易を行い、琉球王国は大いに発展した。



写真は、旧首里城正殿の“鐘”の由来。
1458年に鋳造された、“旧首里城正殿の鐘”の銘文には、琉球国が中国をはじめ、朝鮮・日本本土・南方諸国・東南アジアなど港市国家と海外貿易を活発に展開し、繁栄を誇っていたことが刻まれていると云う。

このような繁栄の背景には、朝貢体制を築いていた明朝の海禁政策に便乗して、中国人の海外への出航が禁止されていたことで、南方諸国から胡椒・蘇木などの品物を対明朝との仲介貿易により、巨万の富を稼ぎ、琉球王朝は“大交易時代”を築いたと云える。

東アジアとの交易拠点となった琉球は、日本本土・朝鮮との外交にも力を入れ、海外文化をも取り込んだ。

それと王城のある首里と対外的玄関口である那覇港を結ぶ、道路・港湾などのインフラ整備も行い、王国の繁栄を導いたと云う。



写真は、“今帰仁城”跡から出土した、中国産陶磁器片。
この時期中華貿易で琉球が得た商品で最も目立つのは、各地のグスクから出土している中国産陶磁器で、当時の琉球社会で需要が高かったことが窺える。

これらの中国産陶磁器は、琉球内の需要を満たしただけではなく、南方諸国への輸出品としても使われていたことが窺える。

沖縄の歴史・文化 “グスク三山”の並立時代

2007年12月14日 | 歴史
14世紀中頃になると、それまでの各々のグスクを拠点とした多くの按司によって支配されていた沖縄本島は、北山・中山・南山の三つの小国家に纏まっていった。



写真は、グスク並立時代の勢力図。
北山は“今帰仁城”を拠点とする今帰仁按司に、中山は“浦添城”や“伊祖城”を拠点とする浦添按司によって、叉南山は“大里城”を拠点とする大里按司によって、各々統治されていた。







写真は、現在の北山・今帰仁城址、中山・浦添城址、南山・大里城址。
これら三山の按司は、中国・明の皇帝から各々“王”の称号を与えられたが、絶対的な権力を持つ存在ではなかったと云う。

そのため三山とも、各々勢力城内での対立が絶えなかったらしい。
叉三山の王たちは、互いに勢力争いを行いながら、農業生産力を高めることや海外貿易に力を注いだ。

その背景には生産力の向上や“進貢貿易”を進めることによって、経済的な利益を得るだけでなく、新しい文物・技術も取り入れ、国王としての権威付けを行うと共に、勢力拡大に努めようとの意図があった。

三山の勢力争いの中で、1368年に成立した明朝は、周辺諸国に対して“朝貢”を促すことにより、明朝との貿易を許すことをオープンにした。
アジア有数の大国である明朝との関係を築き、貿易を行うために、アジアの多くの国々が朝貢関係を結ぼうとしていた。

1372年には入貢を勧めるため、明朝の使者を琉球に派遣し、これに応じて中山王が入貢を始めた。ここで明朝の対琉球“朝貢体制”が始まり、南山王・北山王も相次いで入貢をスタートした。

というように、朝貢体制に組込まれた三山は、進貢貿易・海外貿易によって勢力を充実させる中で、琉球の群雄割拠時代が暫く続いた。

琉球の朝貢品の主な品物は馬や硫黄で、中国からの見返り品には、陶磁器・銅銭・船・絹織物などであったと云う。

とりわけ大型船の無償支給は、活発な貿易活動を支える手段として、朝貢体制の中で大きな収穫であったらしい。


沖縄の歴史・文化 “グスク”時代とは!

2007年12月13日 | 歴史
暫く休みましたが、今日から再開します。

村落発生の初期段階では、階級の差や貧富の差がゆるやかな社会であったと思われる。

その後稲作による農耕が定着し、農耕生産が本格化するにつれて、村落の人口増加をもたらし、その社会を維持するために、新たな耕地を獲得する必要に迫られた。
こうして必然的に隣接する血縁集団が、互いに協力し合って共同作業するようになり、交流を深め、結びつきを強めていくことで、大きな集団が形成され、この地縁集団が“ムラ”と呼ばれた。

ムラの指導者は、豊かな耕地を手に入れ、農耕生産による富を蓄えた有力者の中から選ばれるようになった。
必然的に貧しい者と富める者の差が広がり、支配する者と支配される者という階級が出来上がっていった。

12世紀にかけて、各地に“按司”(あじ)と呼ばれる支配者が出現した。







写真は上から、世界遺産である“護佐丸”の居城・“中グスク”正門、世界遺産・“座喜味グスク”跡、世界遺産・“勝連グスク”跡。

各按司は、写真のような“グスク”とよばれる強固な城塞を築き、相互に対立を深めていく激動の時代へと進んでいった。

しかし、写真のようなグスクのほか、“首里グスク”や“今帰仁グスク”のように高い石垣を巡らした「城塞」と云えるものがある一方、防御施設がないもの、深い森の中の風葬地帯のものや単なる拝所なども含まれるらしい。
つまり本土で一般的に言う「城」とは異なる。

按司はグスクに住み、農具の普及や家畜の飼育など農業生産力向上に努め、勢力拡大に力を注いだ。

各按司は、東アジア及び東南アジア諸国との貿易によって得た陶磁器・鉄などの文物を基盤に、農具を鋳造するだけでなく、鉄製武器を入手して武力を強化し、互いに貿易の利権や支配の拡大を巡って争った、国家の胎動期に当る。

このような社会的背景から考え、多くのグスクは国家胎動期の争いの拠点と看做され、防御・自衛・攻略等に対する工夫が執拗なまでに凝らされていることが読み取れる。

グスクは、琉球社会が統一国家へ向かう時代の緊張関係の中で形成された“歴史的記念物”と云える。

時期的には、概ね12世紀前後から16世紀前半頃までで、日本史上では平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけてであり、中世に相当する。

沖縄の歴史・文化 “琉球文化圏”の成立

2007年12月10日 | 歴史
貝塚時代の末期には、農耕社会に変化していくことが明らかになってきた。
狩猟・漁労・採集に生活の基盤を求めていた時代から、10~12世紀には農耕により、自然にチャレンジする新しい生活文化が定着していった。

しかし琉球列島の各島々がどのような変化をしていったかは、良く分かっていない。

ただ貝塚時代には全く異なる文化圏にあった、琉球列島の中部圏と南部圏が、ほとんど同じような農耕社会が芽生えるようになり、“琉球文化圏”として同じような歴史の歩みが始まった。

やがて鉄器の使用と生産力の高まった農耕社会の形成に伴い、これまでの沿岸砂丘地から農耕に適した水源地近くへの人々の移動が見られる。



写真は、那覇市の“渡地村遺跡”から出土した、当時の“中国産陶磁器”。
12世紀頃には、例えば長崎県西被抜杵半島を中心に生産されていた、滑石製石鍋や中国産の陶磁器などが、琉球中部から南部圏までの全域に及ぶ広い範囲にわたって見つかっていると云う。

貝塚時代には見られなかった器物の発見は、それらが生産された地域との交易・交流を示している。

中国や日本本土・朝鮮半島など周辺地域の発達した技術・文物の流入は、琉球列島の地理的な位置にも恵まれ、周辺地域との関わりが琉球列島の社会変化に大きな影響を与えたらしい。

12世紀頃の琉球列島には、“グスク”が造られ始め“グスク時代”に入っていくが、この時期は本格的農耕が行われただけでなく、海外交易も盛んになり、次第に“按司”(あじ)と呼ばれるムラの有力支配者が現われ、互いに勢力争いを始めた時期。

グスクには城・集落・聖城としての機能を持たせ、規模・形態も様々であった。

沖縄の歴史・文化 沖縄の“縄文・弥生時代” そのⅡ

2007年12月09日 | 歴史
沖縄諸島の特殊な自然環境、珊瑚礁に蔽われ、珊瑚が堆積風化した琉球石灰岩の丘陵に形成された貝塚時代の縄文遺跡には、数々の謎が秘められている。

例えば、“イヌ骨製ペンダント”が数は多くはないが、貝塚時代の遺物として出土している。イノシシの骨が検出されていることから、イヌが狩猟ガイド・ヘルパーとして利用されたと見られるが・・・・



写真は、沖縄県内縄文遺跡から出土したイヌ・イノシシ・サメ製ペンダント。
他にも石川市の“古我地原貝塚”から出土したイヌ骨製のペンダントや具志川市の“地荒原貝塚”から出土したイヌ骨製のペンダントなどが見つかっている。

日本本土の縄文人は、イヌをいわば生活共同体のメンバーとして家族の一員同様手厚く扱った痕跡が、人とほぼ同じ埋葬形態から見受けられるが、イヌの骨に加工を施すような例は極めて稀であったと云える。

沖縄の場合、本土と違ってイヌを食用に供していたか、或いはイヌを親愛なる家族のメンバーのシンボルとして、その骨を加工して常に装着し、魔除けの守護神代わりを託したとも考えられるが、はたして精緻に加工されたイヌ骨製ペンダントの役割、その真相は?

次に放射線状に配列された“イモガイの真相”とは?





写真は、具志川市の地荒原貝塚から出土したイモカイ及びイモガイ製貝輪製作工程。

具志川市の地荒原貝塚からは、イモガイ製腕輪ほか装飾品のほかにイモガイそのものが、数千年の歳月を経ても、極めて新鮮な状態で検出されている。

これらのイモカイは何ら手を加えられることなく、そのまま放射線状に配列された状態で数多く出土したと云う。
放射線状に配列されたことはそれ自体を目的とした呪い等とは思われず、貝製品製作用の素材として備蓄していたと考える方が妥当ではないか?

イモガイ製のアクセサリーが、食料確保のための対外交易用製品としての役目を果していたかも知れない。

更に続けると、貝殻の長さが1m 余りもある“巨大シャコ貝”の用途とは?
本島西海岸からフィリピンに及ぶ東シナ海に広く棲息するシャコガイ、小振りの“姫シャコ”から貝味の長さでも1m 余りもある巨大シャコガイまで大小様々なシャコガイが食用に供されたことは間違いない。



写真は、長さが1m 以上もある“巨大シャコガイ”のリアルな姿。
砂底にまぎれ隠れ、嗅覚により子供をさらい、飲み込みかねない巨大なシャコ
ガイを命懸けで捕獲したのであろうか?捕獲用具には何を使ったのであろうか?

巨大で刃先がシャープな打製石斧を使ったのか、或いは巨大な石皿で叩き潰
したのであろうか?空シャコ貝殻は受け皿か容器か、何目的に使ったのであろうか?疑問は尽きない!

沖縄の歴史・文化 沖縄の“縄文・弥生時代” そのⅠ

2007年12月08日 | 歴史
紀元前5,000~紀元後1,000 年ぐらいまでを“貝塚時代”と呼び、貝類を集めたような、特異な土地柄もあり貝塚時代は本土より長く続いている。
即ち沖縄の貝塚時代は、縄文時代にあたる前半と、弥生時代から平安時代にあたる後半に大きく分けられる。

現時点で弥生時代にあたる時期の水田はみつかっておらず、農耕がはじまるのは、貝塚時代の末・本土の平安時代であったと云う。

縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島ではかなり違った様相が見られる。先島諸島から出土した土器は、縄文土器よりも“台湾先史時代の土器”との共通点が指摘されている。

沖縄諸島の弥生時代には、沖縄で作られた貝輪などの貝製品が日本本土へ(遠くは北海道まで)大量に運ばれたことで知られている。

沖縄諸島は珊瑚礁に取り囲まれ、特に遺跡が集中する地域の全面には裾礁の発達が著しく、遠浅な海辺を最大限利用した漁労を中心に、海での生活に依存していたと理解できる。

縄文時代早期の沖縄でもっとも古い土器は、指頭や爪で押文様をほどこした“爪形文土器”で、今から6700年ほど前のものとされる。

縄文前期では、九州縄文人が船で琉球列島に渡ってきたと考えられているが、縄文中期には、本土の火山活動が活発だったこともあり、九州の縄文文化の影響が及ばず、琉球諸島の中部文化圏という独自の文化を展開した時代と捉えられている。

沖縄諸島の遺跡群は、海産物を除いては語れないほど“貝”とのかかわりが深い。縄文中期の遺跡からは貝塚が多く発見されていることから、当時は定住生活を営んでいたと見られる。

貝類の中でも、クモガイ・スイジガイ・ゴボウラガイ・シャコガイ・イモガイ・ヤコウガイ・ホラガイ・オオベツコガイ・タカラガイ等々が数多く出土している。















写真は上から、沖縄市の安座間原遺跡から出土した、シャコガイ貝製錘、珍しいホラ貝製湯沸し器、伊江村具志原貝塚から出土した、ヤコウガイ製貝匙、及び沖縄市の安座間原遺跡から出土した、スイジガイ製利器、読谷村の縄文遺跡から出土した貝札及び魔よけ用のクモガイ・スジカイ製お守り、そして同貝塚から出土した“ゴウウラ貝製腕輪製作工程”。

漁労具として使われた“シャコガイ貝製錘”が数多く出土している。裾礁に囲まれた海辺での漁労には釣針・銛ではなく、貝製錘が適していたと見られ、釣針・銛の出土は極めて稀であると云う。

生活必需品として活用されていた貝製用具のうち、沖縄特有のもとして“ホラガイ製湯沸し器”や“ヤコウガイ製貝匙”。同じく生活利器として使われた“スイジガイ製利器。

魔除けのお守りとして装着していたと見られる“貝札”や同じく魔除けとして住居の出入口に吊るしていたと考えられる“クモガイ製お守り”も珍しい。

最後に、対外交易品として大量に生産されたと見られる“ゴウウラガイ製腕輪製作工程”。完成品腕輪は交易品として移出されたと考えられていたが、交易相手地での出土遺物から奄美大島をはじめ、九州・北陸・朝鮮半島等との交易が窺えると云う。

以上見てきたように縄文人のルーツの一つである沖縄諸島には、独特な出土遺物に象徴される、沖縄特異な生活文化・慣習等があったと思われる。

誠に残念ながら沖縄諸島の先史は、先の世界大戦の大被害により、永久に謎に包まれたまま迷宮入りに終わるかもしれない。

沖縄の歴史・文化 “港川人”とは!

2007年12月07日 | 歴史
石灰岩地帯から出土した“更新世”人類化石の中で、“港川人”人骨は、最も保存状態が良く、旧石器時代人類の形態を知る上で貴重な資料と云われている。

港川人骨は、沖縄本島の南部、具志頭村(現在の八重瀬町)港川の石灰岩採石場で発見され、少なくとも9個体分、うち復元可能な成人骨格が4個体という、質量とも東アジア最高の資料として、注目された。

これらの人骨のうち、1970年から71年にかけて発見されたのが“港川人”で、上半身が華奢であるが、下半身は逞しい小柄な人体であったと云う。









写真は上から、八重瀬町の“港川フィッシャー遺跡”現場の遠景及び近景、遺跡現場に残る粟石灰岩の現状及び粟石灰岩に残されたイノシシ・シカなどの化石。

“フィッシャー”とは隆起石灰岩台地に生じた裂け目のことで、港川では最大で幅1mほど、深さは20m以上もあると云う。発掘調査ではシカ・イノシシの化石が多量に出土した。

“港川人”とは、1万8千年前に生きた人骨化石に対して、発見場所にちなんで付けられた名称で、港川人骨は、今後とも人類学研究に大いに役立つと見られる。

港川人骨化石が発見された経緯は、那覇市に住む実業家で、沖縄の歴史と文化に関心を寄せる市民研究者が、購入した粟石の中に動物化石を見つけ、その実業家は「動物がいたならば、人間もいたはずだ」と考え、発掘調査を始めた。

そして発掘調査開始約2ヶ月半後、地表から約12mの部分で人骨を発見、その後も多くの動物化石や人骨を発見したらしい。







写真は上から、八重瀬町の“港川人骨”のうち、第1号・第2号・第4号。

写真のように、化石人骨の頭や手足が揃ったほぼ完全なもので、旧石器人の容姿が具体的に説明できるようになった。

これらの化石人骨は、1970~71年にかけて発見された“港川人”で、第1号男性人骨格は、推定身長153~155cmで縄文人の平均より低く、第2・4号骨格は女性で推定身長が145~149cmで上半身は華奢だが、下半身は頑丈な骨格と云う。

写真の通りこれら化石人骨は、復元可能な成人骨格を呈していることから、今後中国南部の“柳江人”やインドネシア・ジャワ島の“ワジャク人”などの人骨化石との比較対照などの研究が進むものと期待される。

“港川人”は“ワジャク人”に近く、東アジア沿岸域の海洋適応集団に属していたなどとする分析結果もあり、今後の更なる研究成果に注目したい。

9個体分の人骨化石が出土した、共伴資料の“放射線炭素年代”では、18,250年前頃の人骨と推定されている。

叉“ウラン系列年代”測定値も19,200年前頃とあり、測定値の信憑性からも、当時の生活痕跡を残す大発見と見て間違いないと云える。

しかし“山下洞人”・“港川人”が使用したと思われる、旧石器などの道具類が、未だに全く出土していないことから、当時の生活実態が見えてこない。

沖縄の歴史・文化 那覇の“山下洞人”とは!

2007年12月06日 | 歴史
琉球諸島は、珊瑚礁を起源とする琉球石灰段丘が発達しているため、動物の骨などの保存に適した地域であり、人類化石は沖縄県内で今日までに9ヶ所で出土している。

これらの出土例のうち、最も古い人類化石は、那覇市山下町の“第一洞穴”から出土した“山下洞人”で、共伴資料の“放射線炭素年代法”により、およそ3万2千年前のものであることが判明。

沖縄の人類化石と云えば、“港川人骨”が有名であるが、港川人骨は約1万8千年前のホモ・サピエンス(新人)の仲間であるらしい。“港川人骨”については後述する。





写真は、那覇市山下町のメイン道路から路地に入った宅地内にある、“第一洞穴遺跡”現場の洞窟と石灰岩の光景。

“山下洞人”は、1968年那覇港に近い琉球石灰岩台地で発見された化石人骨で、8歳ぐらいの女児の大腿骨と頚骨と見られている。

第一洞穴は、南北に開口する間口約1.2m・奥行き5.5mほど・高さ約3.2の小規模なものであるが、1962年の第一次調査と1968年の第二次調査とで、奥行き5.5mまで発掘調査が進んだと云う。





写真は、“山下洞人”骨の出土状況及び第一洞穴遺跡から出土した“斧刃状鹿角器”。

山下洞人は、現代人の先祖である新人に分類され、人骨調査の結果、骨の形態・頑丈さなどに特徴があり、新人としては日本最古の人骨であると発表された。

およそ20万年前にアフリカで誕生したといわれる新人は、驚くべき速さで世界中に分布を広げ、5~3万年前には東アジアに達し、遂に沖縄にまで到達したということ。

山下洞人の発見は、新人が3万2千年ほど前、沖縄諸島に到達していたことを証明するものであり、その後日本列島へ達していたと推定される。

そして日本列島に到達した新人が、縄文・弥生を経て現代人に繫がる進化の旅を続けたと見られるが??????

山下洞人及び港川人などの化石人骨の研究により、沖縄にどのような人々が住み続け、今日まで生きながらえたかを解明する手がかりになることを期待する。

沖縄の歴史・文化 “琉球諸島”の気候・風土

2007年12月05日 | 歴史
琉球諸島の気候風土は高温多湿で、年間降雨量は2,000mmを超え、降雨日数も年間125日と雨が多く、叉年間を通して最高・最低の温度差が少ないことから、季節感はおおむね夏・夏・夏・冬といった感覚であると云う。

年間を通じ降雨量は多いが、特に台風と梅雨シーズンの降雨が多く、大きな河川がなく直ぐ海に流れてしまうだけに、気候・地形的に沖縄中部・南部では水不足に陥りやすい。しかし近年は、森林に恵まれた沖縄本島北部から中南部への導水が進み、断水に見舞われるシーズンは減ったと云う。

日差しの強い夏でも30℃を極端に超える日は少なく、冬でも16℃前後の暖かさで、10℃を切る日はほとんどないらしい。
湿度は年平均77%と高いが、年間の平均風速が4.7m/sもあるので、割合に涼しく過ごしやすいと云う。

地震列島の日本にあって、沖縄県は地震が少なく、火山噴火による災害の心配もない。“地震地域係数”は、地震活動が活発な静岡県では“1.2”と全国で最も高いが、沖縄は“0.7”と最低で地震危険度は小さい。

亜熱帯海洋性の気候と暖かい黒潮の海に恵まれた琉球諸島では、様々な動植物や海洋生物を豊かに育んできた。





写真は、沖縄離島上空から見た珊瑚礁及び沖縄離島に見る珊瑚の森。
目の覚めるような美しい極彩色の魚たちが泳ぐ琉球諸島の珊瑚礁は、その種類の豊富さと雄大なスケールにおいて、世界有数の海域として注目を浴びてきた。

特に西表島のジャングルは、“日本最後の秘境”とも呼ばれるほど原生林を保っており、そうした中でひっそりと生き延びてきた動物たちには、珍種・新種も多く、生物の宝庫といわれる由縁でもある。









写真は上から、沖縄県産の代表的緑黄色野菜、ゴーヤ・島菜・島ラッキョー及び料理に使われる、青パパイヤ。

このような気候風土の中で育てられた沖縄諸島の主要農産物には、パイナップル・サトウキビ・パパイヤ・マンゴのほか、ゴーヤ・島菜・島ラッキョウなどビタミンを豊富に含んだ緑黄色の野菜が挙げられる。

叉牛・豚を中心とした畜産農業も盛んであり、近年は養殖漁業も多くなりつつあると云う。

と云うことで、亜熱帯性の豊かな自然に恵まれ、華麗な琉球王朝の文化遺産を残す沖縄諸島は、年間5百万人を超える観光客を迎えており、今後とも観光立県として脚光を浴びていくと予想される。

沖縄の歴史・文化 “琉球諸島”の地質・地層

2007年12月04日 | 歴史
琉球列島は、珊瑚礁起源の石灰岩が広く分布している地域であり、いたるところに琉球珊瑚礁の石灰段丘が発達している。

珊瑚礁が隆起した石灰岩で形成された沖縄本島は、“人類化石の宝庫”として知られる。このような珊瑚礁で底上げされたことから、動物の骨などの保存に適した地域であり、地質学上の更新世・考古学上の旧石器時代に属する化石人骨の全国発掘件数のうち半数以上が、沖縄県内で発見されている。

日本列島の更新世(170万~1万年前)人類化石は、ごく限られた石灰岩地帯から出土している。沖縄県以外では静岡県にあるだけで、これまで沖縄県内8ヶ所で出土した化石人骨は、共伴資料の“放射性炭素年代測定”及び化石人骨の“フッ素含有量測定”の結果から3万2千年~1万5千年前の“新人”に属することが確認されている。





写真は、沖縄那覇市山下町の第一洞穴遺跡現場の石灰岩層。

後述するが、那覇市山下町の第一洞穴から発見された“山下洞人”は、3万2千年前のもので、日本で最も古い人類化石として知られ、叉沖縄南部の八重瀬町にある“港川フィッシャー遺跡”から発見された“港川人”は、およそ1万8千年前のものと考えられている。

那覇港の南岸に沿って、ほぼ東西方向に直線的に連なる海抜40mくらいの那覇石灰岩の丘陵があり、丘陵の南側は緩やかな傾斜となっているが、北側は急斜面・絶壁を形成している。

沖縄の旧石器人は、周りを海に囲まれている環境に上手に適応し、飲み水が手に入りやすい、石灰岩台地の周辺部・海岸砂丘地などで生活していたと見られる。

この丘陵には幾つかの洞穴が開口しているが、上述の“山下町第一洞穴”は同丘陵の東端近くの海抜14~16mの北斜面中腹に形成されていたと云う。
これら洞穴は、地殻変動に由来した断層面の空間部と考えられている。

石器類など道具類が出土する旧石器時代の遺跡は、全国でも多数発見されているが、化石人骨の発掘例が極めて少ないこともあり、旧石器時代の人類については、現在ほとんど分かっていない。



写真は、琉球諸島沿いを流れる東シナ海の海流。
叉琉球諸島の特徴の一つとして、東シナ海の黒潮の流れは、大陸棚沿いの黒潮の流量が多く、特に水深が300~1,000mと急激に深くなる約50kmの範囲では、流量も流路も安定していると云う。

琉球諸島沿いの黒潮の流れこそ、古代から島々に経済的・外交的な恩恵をもたらしてきた。