近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪難波宮とは!そのⅢ

2014年08月27日 | 歴史
ここから更に、大阪難波宮の謎・深層に迫ります。

昭和29年(1954年)以降、長年にわたる発掘調査の結果、前期・後期二時期の難波宮跡が、中央区法円坂一帯の地に残っていることが明らかになった。

発掘当初は、前期難波宮宮殿に関わる掘立柱の発見をきっかけに建物配置が徐々に判明し、昭和36年に行われた第13次調査では、ついに奈良時代の後期難波宮大極殿を発見した。

現在、内裏・朝堂院部分90,677㎥が国の史跡に指定され、発掘調査により、前述の通り、難波宮は大きく分けて前・後2回の宮殿遺跡とそれ以前の建物群があることが解っている。

孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県明日香)に戻っていた皇祖母尊・皇極天皇は、孝徳天皇が没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。

683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。





写真は上から、前期難波宮の再現模型及び後期難波宮模型のうち、中央が大極殿。

前期難波宮は、この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。宮殿の中軸線上に三つの門が発見されている。北から内裏の南門、次に朝堂院の南門、宮城の南面中央の門(朱雀門)。

宮殿の中枢部には、北寄りに天皇の住まいである内裏を、その南に朝廷の公式行事や重要な政務を行う朝堂院を配置する。天皇が出御する場である大極殿は、宮殿の中で最も重要な建物となった。

後期難波宮の大極殿や朝堂院は中国風の建物で、基壇上に建ち、屋根は瓦葺きで、柱は赤に彩色しているのに対して、内裏の建物は掘立柱形式で屋根は檜皮葺きとして彩色をしないなど、我が国古来の建築様式だったと推定されている。

内裏南門は東西32.7m、南北12.2m。日本の歴代宮殿の中でも最大級の規模である。

この門は、木製基壇の上に立っている。



大阪難波宮とは!そのⅡ

2014年08月17日 | 歴史
引続き、大阪難波宮の歴史を辿ります。

今回難波宮の発展史を振り返る特別展を機に、難波宮創建の経緯を辿ってみると、飛鳥板葺宮での蘇我入鹿暗殺(乙支の変)に始まる大化の改新。皇極天皇が退任し、新たに孝徳天皇が就任したが、645年孝徳天皇が遷都したのが難波宮(難波長柄豊崎宮)で652年に完成した。



写真は、現在の甘樫丘から望む明日香村飛鳥の里風景.






写真は、難波宮跡の宮殿基壇越しに僅かに覗く大阪城を望む光景及び難波宮跡から北西方面のNHK大阪支局ビルや大阪歴史博物館ビルを見上げる光景。

653年、叔父の孝徳天皇と中大兄皇子(後の天智天皇)が対立し、中大兄皇子は都を飛鳥に戻すといい、孝徳天皇を難波に残したまま、さっさと奈良に戻ってしまったと云う。

中大兄皇子と一緒に飛鳥に戻ったのは母である皇極上皇、弟の大海人皇子(後の天武天皇)のほか、更には孝徳天皇の皇后である間人(はしひと)皇女も飛鳥へ行ってしまったと云う。

そして654年孝徳天皇は病に倒れ、その後寂しく難波長柄豊崎宮でこの世から去った。

そうなると次期天皇は中大兄皇子となるはずだったが、次期天皇は皇極上皇が再び斉明天皇として飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で即位重祚した。中大兄皇子が皇太子のまま残ったのには、諸々の謎が隠されているようだ。

難波宮はそれ以来、8世紀末までの約180年間、首都としてまた副都として日本の古代史に大きな役割をはたした。




大阪難波宮とは!その1

2014年08月11日 | 歴史
引続き、大阪市内古代史跡を巡ります。

今年は難波宮の発掘調査が開始されてから60周年となる記念すべき年にあたり、長年に渡る調査成果とその発展史を所蔵資料とともに、平成26年6月21日から8月18日まで、大阪歴史博物館で特別展を開催中です。

特別展の内容に入る前に、「難波」の生い立ちについて遡ってみる。

難波は、宮殿が造られる以前から外交窓口として倭王朝にとって重要な地域であった。その開発は5世紀代に始まるとされ、難波堀江が瀬戸内海と現在の河内平野に存在した河内湖を繋ぐために開削された。



写真は、大阪心斎橋付近の御堂筋沿いに面した三津寺側壁。この辺りが当時の難波津と見られる。

堀江は現在の大川と呼ばれる淀川の旧流路にあたり、その近辺には難波津(現在の大阪市中央区三津寺町付近)と云う港があり、中国・朝鮮の外交使節が来航した際、彼らを迎え入れるための儀式を行う施設が存在し、滞在するための施設も存在したと云う。

日本書紀によれば、608年遣隋使小野妹子に伴われたて倭を訪れた随使一行を難波津で飾船30艘を出して迎えている。
倭から中国・朝鮮半島へ派遣される使節もやはり難波津から出航したと云う。

又難波津と云えば、『日本書紀』の推古天皇21年(613)11月条にある「又、難波より京に至る大道を置く」の記載が示すように、飛鳥時代に飛鳥と難波を繋ぐ主要官道(現在の国道)があったと捉えられており、難波宮から摂津と河内国の境を直線的に南下し、長尾街道・竹内街道のいずれかの東西道に接続し、飛鳥に通じていたと考えられている。