近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

沼津市の霊山寺横穴墓群とは!

2012年08月28日 | 歴史
沼津市内の古墳群巡りを続けます。

沼津市本郷町の霊山寺裏にある墓地の崖に数基の横穴墓群が見えている。

現状ではほとんど埋まっていて、標識や説明板すらないが、沼津市役所の少し先の霊山寺の裏墓地内にあった。





写真は、霊山寺横穴墓群の遠景及び近景。

香貫山山麓にいくつかの横穴群が発見されているがその一つで、沼津市のHPによると10基ほど発見されており、そのうち2基残存していると云う。

横穴を利用したと思われる祠が何箇所かあったが、お寺の住職によると、沼津市指定史跡の五輪塔(平重盛の墓と伝えれれていたが実際は違う)や仏様の足が彫られた石を見学にくる方は多いが、横穴古墳群を見に来る人は少ないと云う。

そこで、沼津市の観光名所であり、我が菩提寺でもある霊山寺について、以下紹介する。





写真は、香貫山山裾に所在する、曹洞宗の古刹霊山寺本堂と五輪塔。

元々は真言宗の寺院であったが、延享5年(1748)の火災で寺記をことごとく焼失したため、創建の年代などは不詳。

中央の大きな五輪塔の下からは、青銅製の蔵骨器が出土しその銘によって、元享3年(1323)に亡くなった、成真大徳という僧侶の墓であることが判明した。

中世の蔵骨器は陶製のものが主であるので、青銅製のものは珍しいらしく、静岡県の有形文化財に指定されている。

又霊山寺境内にある梵鐘には、貞治3年(1364)の銘があり、県下で4番目に古く、これも県の有形文化財に指定されていると云う。




沼津市の辻畑古墳とは!そのⅡ

2012年08月18日 | 歴史
静岡県沼津市の辻畑古墳巡りを続けます。

ここからは、本古墳の出土遺物について、概観してみます。





写真は、辻畑古墳から出土した高杯及び土器。

墳丘の周囲に掘られた周濠からは、祭事に使われたとみられる、高さ約20cm・直径約25cmの高坏には円錐形の脚部があり、写真の通り、割れた状態で見つかった。古墳完成後の祭事に使われたものと推測できる。

脚部上方に“くし”で引いたような横しまがあることから、3世紀前半に作られたと見られる。これらの土器の様式は、ヤマトの「纏向3式」とほぼ同年代ということになる。

何となく、古墳築造については、近畿の方が東日本よりも先行していたイメージがあるが、今回の発掘調査から、西日本と東日本は、ほぼ並行していたと見られる。

沼津市には、本古墳から北西3kmほどに“清水柳北1号墳”と呼ばれる、8世紀前半築造の上円下方墳があるが、主体部には棺はなく、遺骨を納めた蔵骨器を入れる石櫃が確認された。

古墳築造にも、当時の仏教思想が反映され、土葬から火葬に移行する時代であった。

このことは、西暦645年の“大化の改新”から間もなく、“大化の薄葬令”が出され、大規模墳墓築造が禁止されてからも、地方では権力者が、権威を示すために依然として墳丘を持った上円下方墳が築造されていたことになる。

辻畑古墳が最古級の古墳に対して、本古墳は「最も新しい時代の古墳」と云うことができ、古墳の最終の形態を示している。

一方で、辻畑古墳のように、同市教育委員会が「辻畑古墳は、卑弥呼の墓とされる奈良県桜井市の箸墓古墳とほぼ同じころに築かれた!」としている。

と云うことで、沼津市には最古級の古墳と最新の古墳が揃っていたことになり、しかも同じ地域から、前方後方墳であり、上円下方墳であったりと、ヤマト王権の象徴・思想とは異なる、むしろ反逆とも取れる思想・行動は、当地の豪族が一大勢力を誇示していたからだとも云える。



写真は、本古墳から出土した銅鏡片。

本古墳からは、同時代のものと思われる銅鏡などの副葬品も多く出土したことから、3世紀前半から中頃の築造と見られる。

埋葬品は、鉄鏃を含めコンテナ30箱分にも上がったらしい。

本古墳の遺構は、幹線道路の計画ルートの真ん中にあり、いずれ消えてしまう運命にあるが、全国的にも、考古学上も大変貴重な発見だけに、何とか保存して欲しい。

「邪馬台国の時代に、東海から東方面では独自の文化が形成されていたことは分かっていた。

古墳の位置は愛鷹山麓から見下ろし、駿河湾入江の最も深いところに位置していることから、豊かな湿地帯で人の流れが活発だったとみられることを証明する貴重な史料と見られる。

弥生時代には低墳丘墓が一般的であったが、この時期平野部の前方後方墳にも土を盛り上げて高塚を持つように築造されたことになる。

邪馬台国大和説では、前方後円墳は、大和地域を中心にヤマト王国として広がったとされ、一方前方後方墳を造営したのは、東海地方を中心に邪馬台国に対立していた狗奴国(くなこく)であったと云う説が有力だと云われている。

日本列島各地に点在した地域国家が、ヤマト王権によって徐々に統合され、古代国家が成立する過程で、前方後円墳に代表される首長の権威に対して、アンチ・ヤマト王権の象徴として、前方後方墳も並存したと考えられる。

卑弥呼が生きている時代に、前方後方墳を造るだけの有力豪族が、この地に存在していたことは、3世紀中頃の支配構造を考える上で貴重な史料であり、この地は狗奴国の勢力圏内の一つであったかもしれない。

今後の更なる発見・情報収集が待たれる。


沼津市の辻畑古墳とは!そのⅠ

2012年08月15日 | 歴史
沼津市内の古墳巡りを続けます。

沼津市の古墳時代前夜を振り返って見ると、当地は温暖な気候と豊かな自然に恵まれ、当時既に片浜から原、さらに田子の浦海岸や内浦湾沿岸の海岸地域は、当時の海岸線は愛鷹山麓に迫っていたとは云え、既に集落が開けていたらしい。

このことは、これらの場所に点々と古墳がつくられたことからも推測される。

沼津市は、眼下に駿河湾、南東に伊豆半島が延びる風光明媚な地で、在地豪族が墳墓を築造しそうな立地。

そのような自然・社会環境の中で、今回話題を呼んだ、辻畑古墳は沼津市東熊堂の熊野神社旧境内地から発掘され、南北約62m、西側4分の1は道路で削り取られていたが、東西約35mと見られ、高さは約4.5mの前方後方墳。

墳頂の1.0mほど下には、副葬品を伴う木棺跡が検出されたと云う。





写真は、発掘調査現場で平成21年10月初旬の光景及び年輪を感じさせる、大木の根っこが取り残されたまま、崩し落とされた古墳墳丘の高さが窺い知れる。

発掘調査は、国道1号から同246号に抜ける都市計画道路の建設に伴って実施され、平成22年~23年度中には古墳を撤去して、計画された道路を建設する予定と云うが、本古墳が保存されることを切望する。

市街地でありながら、遺構の大半が残っていたことに、関係者からは「奇跡だ!」との声も上がったと云う。









写真は上から、辻畑古墳の現地説明会光景、古墳と共に出土した弥生時代後期の竪穴式住居跡及び住居跡全景。

本古墳は国道1号線沿いの住宅地にあり、平成20年5月以降、本格的な調査を進めてきたが、市教育委員会は、平成21年9月、出土した土器や副葬品を分析した結果、同古墳が弥生時代後期から古墳時代初期に築かれた東日本最古級の古墳であると発表した。

出土した高杯から、本古墳の築造が230年前後と見られ、奈良県桜井市の纒向石塚古墳と同じ古墳初期に分類されるらしい。

と云うことで、本古墳が近畿地方で本格的な古墳の築造が始まったのとほぼ同時期にあたり、特にヤマト王権の象徴的墳形である前方後円墳に対して、前方後方墳であることは、独自性の強い、当地固有の古墳形態として、その歴史的意義付けや古墳発祥から発展の経緯を考える上で、貴重な発見と云える。

後方部の木棺跡に検出された、鏡・鉄鏃などの副葬品と土器の組み合わせからも、3世紀前半頃のものと分かったという。



静岡県沼津市の清水柳北1号墳とは!

2012年08月07日 | 歴史
清水柳北遺跡は、沼津市足高の工業団地一帯に所在していた、旧石器から古墳時代にかけての大規模な遺跡で、北から南に延びる2つの尾根に広がり、東側の尾根に3基・西側の尾根に1基の墳墓群が分布している。

古墳時代には、狩野川流域や浮島沼周辺では農業中心の生活をしていたらしい。

内浦湾沿岸の住民は漁撈を営んでおり、多くの土錘の発見から、地曳網も使われていたものと推測される。

古墳時代当時、自然を崇拝する原始的な信仰が、豊作・豊漁・一族の安全を願うなど生活と深く結びついて盛んになったと思われる。

沼津市は、眼下に駿河湾、南東に伊豆半島が延びる風光明媚な地で、在地豪族が墳墓を築造しそうな立地条件を備えている。

古墳時代末期には、“清水柳北1号墳”が東側の尾根上に築かれ、現在は愛鷹山の山腹、沼津市足高尾の沼津工業団地内の遺跡公園に移築保存されている。









写真は上から、清水柳北1号墳の近景、遠景、周濠跡及び本古墳東側で進められている、第二東名建設工事の光景。

本古墳は、東名沼津インター北側の沼津工業団地内にあり、昭和61年の工業団地の造成に伴いほとんどが消滅したが、1号墳のみが復元されている。

写真の通り、本古墳周囲を方形の溝に囲まれた、一辺12m・高さ1mほどの方形下段の上に、直径約9mの円形の上段が乗った“上円下方墳”と判明。

沼津市でも、円墳が主流の時期に上円下方墳が造られていた。

上円下方墳は、全国でも5例しかないほど希少価値があり、当時あまり注目されていなかった、8世紀初めの奈良時代のものと推定され、凝灰岩製の石櫃が埋葬されていたことから、被葬者は火葬されたと考えられているが、蔵骨器はなかったと云う。





写真は、復元された、本古墳の上円下方墳の姿と出土した石櫃。

方墳の上に円墳が乗っているのが良く分かる。

この当時、火葬して石櫃に納骨した埋葬形態は、冠位を授かったような身分の高い人が対象とされ、例えば天武天皇皇后の持統天皇のご遺体は、火葬され銀の骨壷に収められたと云われている。

このことは、西暦645年の“大化の改新”から間もなく、“大化の薄葬令”が出され、大規模墳墓築造が禁止されてからも、地方では権力者が、権威を示すために依然として墳丘を持った、上円下方墳のような墳墓を築造していたことになる。

最近発見された、沼津市東熊堂の辻畑古墳が最古級の古墳に対して、本古墳は「最も新しい時代の古墳」と云うことができ、古墳の最終の形態を示している。

出土品の須恵器から、この古墳は8世紀初めに造られたとされているが、その被葬者は郡司クラスと見られ、“大岡荘”にあった牧場・“大野牧”の責任者である地方役人か、或いは在地授階位豪族と考えられており、沼津で造られた最後の古墳であり、全国的にも「最も新しい時代の古墳」として注目された。

上円下方墳は、ほかに石のカラト古墳(京都府木津町、7世紀末あるいは8世紀初頭と推定)などがあり、近代以降では、明治天皇・大正天皇・昭和天皇の陵がこの形式と云う。

清水柳北1号墳の周囲を眺めると、東側には桃沢川が流れている。南の海岸近くは、近世に名付けられた“大岡”地区があり、西の少し離れたところには、旧石器遺跡の休場遺跡がある。

又南西の東原近在にも古墳があり、本古墳のすぐ西の地形は谷戸(谷が狭まって山の斜面に突き当たる地)になって、放牧の馬を追い込んで捕獲するのに適した土地に見える。

と云うことから、本古墳の被葬者が“牧”の長官であったと想像されている。

上円下方墳は、「天円地方思想」(天は円、地上は東西南北の四方と考えるインド・中国の思想)に基づいて“神那霊山”の山上に方形の墳丘を築き、そこで王の霊を天に送り、次王が天王の霊を受け継ぐ「霊継ぎ」の王位継承の儀式が行われたと云われている。

方墳→前方後方墳→前方後円墳の順に発展してきたが、その延長上に位置づけられるのが、“上円下方墳”であると考えられている。




静岡県沼津市の井田松江古墳群とは!

2012年08月03日 | 歴史
ここからは、我が地元の静岡県沼津市及びその周辺の古墳群を紹介します。

井田松江(スンゴウ)古墳群は、沼津市井田松江にあり、横穴式石室のある円墳で、昭和29年以降、松江山で29基、丸塚で4基の円墳が検出された。

井田の地形は、急な山に囲まれた狭い土地だが、気候温暖の地で淡水にも恵まれ、叉駿河湾の海の幸にも恵まれて早くから豊かな生活をしていたらしい。

本古墳群は、西伊豆の切り立った岬の狭い尾根上に位置する群集墳墓で、見晴らしの良い場所に造られ、駿河湾の向こうには富士山や清水方面の海岸線が望める。

古墳を造った当時としては、重労働を伴う作業であったと思われる。





写真は、沼津市井田集落の海岸線から望む富士山とほぼ同じスポットの“煌きの丘”から見上げる富士山の夜景で、伊豆半島西海岸ならではの素晴らしい富士山が望める。

本古墳の場所は、伊豆半島の西側、戸田から大瀬崎に向かって、県道17号線を北上すると井田の手前の小さい岬に“煌きの丘”という景観施設があり、そこの見晴台から階段でさがった場所に古墳群が所在する。

ここ戸田(ヘタ)村の「井田地区」は、写真の通り、美しい日本の代表的景観として、全国的に認められていると云う。





写真は、駿河湾に面した井田松江古墳群及び18号墳の石室内部。

古墳時代後期(1300~1400年前)のものと推定され、今までに7号墳・9号墳・18号墳・21号墳が発掘調査された。

7号墳からは、金環・丸玉・管玉・ナツメ玉・切子玉・ガラス小玉・鉄鏃・馬具・須恵器・人骨などが出土した。

18号墳は、大きな横穴式石室で、奥行約8m・幅約1.5mあり、また奥には大小2つの石棺が置かれてあった。

18号墳の出土品は装身具・金環・玉類・武器(直刀・刀子・鉄鏃)などであったが、特記すべき点は銅釧(腕輪)が4個も出土したこと。

21号墳は、組み合わせ式箱形石棺が露出しており、石棺の中から玉類が出土した。出土品の大部分は現地造船郷土資料博物館に収蔵されているそうで、18号墳は発掘同時の状態で見学できると云う。

本古墳は静岡県指定史跡で、井田集落から県道を南に少し登ったところにあり、県道沿いにある前述の、“煌めきの丘公園”から見学コースが整備されている。

現状で23基の古墳が見つかっており、うち17基が保存されている。

ほとんどが横穴式石室をもつ円墳で、18号墳のみ石室が公開されていると云う。

沼津市井田は、山間の静かな海岸で、毎年行われる水質調査では常に上位をキープ。砂浜はないが、透明度が高いためダイビングやシュノーケルには最適なポイントらしい。