近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

楠木正行物語 父正成生き写しの生涯

2006年10月31日 | 歴史
正成・正行がかかわった鎌倉幕末から室町時代にかけての戦いを振り返って見ると、親子の共通点が見えてくる。
同志の結束、親子兄弟愛、礼節、慈悲・博愛の心など、朱子学の思想・処世術の影響か、正成から正行に受け継がれていた。
戦う前から敗北が分かっていた戦局でも、天皇を守り通す使命感を貫き通した点、敵・味方を同志として見做す博愛・慈悲の心情、敵の大将から崇められた器量・キャラクター、複数の墓所が散在しているなど親子生き写しと云える。
下克上の時代に、親子・兄弟の結束力は乱れず、思想・行動を共にした。
彼らの思想・行動の中には、今日大いに学び・共有すべき点が多々ある。

ここに“正行の心”に接する逸話を紹介する。
先ず、“太平記”によると、正行軍が藤井寺・天王寺で勝利した戦いで、溺れかかっていた足利軍兵士を救い、医薬・衣服・武具などを与えて故郷に送り返したと云う。
この戦いの直後に、足利幕府大軍に四条畷で敗北・討死した相手に塩を送っていたことになるが・・・・・・。

次に足利尊氏の嫡男・義詮は、室町幕府二代将軍として、38歳で病死するまで、南北朝時代の権力抗争に巻き込まれた武将。




写真は上から、京都嵯峨の宝筐寺にある、正行・義詮の墓及び宝筐院伽藍内の楠木正行木像。
義詮の遺言によると、「自分の逝去後、かねてより敬慕していた楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」とあり、遺言通り、京都嵯峨の“宝筐寺”にある正行・五輪石塔の隣に義詮の墓・宝筐印塔(正面向かって右側)が建てられたと云う。このほか、宝筐院伽藍内には楠木正行木像が鎮座している。



写真は、東シナ海の中甑島にある正行の墓。
正成の墓所は、四条畷神社・宝筐寺のほかに、写真の通り、鹿児島県薩摩川市の東シナ海に浮かぶ中甑島にもある。
伝説ではあるが、楠木一族は難を逃れ、甑島に入り、正行はここに砦を構えていたが死没とある。
正成も観心寺・湊川神社及び栃木県館林市の楠木神社に、墓所が存在した。
墓所が多い分、崇め・慕われていた証である。

楠木正行物語 幕府との戦い ラウンド4

2006年10月30日 | 歴史
次に正行と鎌倉幕府との戦い及びそれに纏わるストーリーを紹介する。
正行は父・正成の死後、南朝の将として活躍し、1348年大阪四条畷の戦いで足利軍と激戦の末討死した。
四条畷の合戦に出陣する前、正成は一族及び兵143人を引き連れて、吉野の後醍醐天皇の御廟に参拝し、後村上天皇に対面して、合戦で討死する覚悟であると報告し、如意輪堂の壁板を過去帳として各自の名字を書き連ねたと云う。
又名字と共に次の歌を書きとめた。「返らじとかねて思へば梓弓 なき数にいる名をぞとどむる」
生還を期さない決意を固めて、戦場に臨み、討死した。




写真は上から、東大阪市六万寺町往生院の正行ゆかりの史蹟及びここから眼下に望む大阪市内の光景。
往生院は、かつて坊数50を数える大寺院で、四条畷合戦で、正行が本陣とした所。
正行軍3000騎は四条畷に、四條隆資が2万騎を率いて飯盛山に向かった。
これに対して高師直・師泰兄弟が率いる足利軍勢6万騎、とても太刀打ちできる相手ではない情況の中で、飯盛山の合戦を皮切りに、始まった戦いは8時間余り、正行軍団は大奮戦するも、結局多勢に無勢には勝てなかった。
敗色濃厚の中、正成・正時兄弟は差し違えて息を絶え、残存兵32人も自害したと云う。

桜井の駅の別れにおいて諭された父の遺訓を固く守って、成人した小楠公正行は、南朝の中心武将として、後村上天皇を守り通すべく戦ったが、壮絶な23歳正行の結末であった。



写真は、大阪四条畷市の四条畷神社。
当地は討死の由縁地であり、飯盛山麓にある、現在の四条畷神社は正行を主祭神として、殉節将士25柱を祀っている。
これから以降、世の中が大いに乱れ、下克上の南北朝時代に入っていく。


楠木正成物語 正成首塚論争

2006年10月28日 | 歴史
正成の墓碑は、終焉の地・湊川神社境内及び正成が自決した後、尊氏が正成の首を河内の妻子のもとへ届けたといわれる、河内長野市の観心寺境内にある。
いずれも正成ゆかりの地として納得できる。
しかし第三の墓碑が、現在の館林市楠町の楠木神社境内に首塚として存在する。
この第三の墓碑の信憑性は如何なものか?
墓碑のいわれ・ストーリーは、以下の通り、
「本物の首は正成の武将たちに守られ、運び出されて、奥羽にいた北畠顕家を頼って北へ向かった。上野国館林まで来たところ突然首が重くなり、こここそ神聖な場所でここに埋めよと受け止め、ここに埋めて祀を建て代々守ってきた」と云う。



上の写真は、館林市楠町の楠木神社及び正成の首塚。
この神社の賽銭箱には楠木家の菊水紋が描かれていると云う。
伝説的色彩が濃厚と云える。
ところで、北畠顕家という人物は、南北朝時代の南朝方の公卿・武将で、父は北畠親房。

1336年、尊氏を九州に敗走させた功により、奥羽地方の鎮守府大将軍となり、以降各地を転戦。そして大阪阿倍野での合戦後、堺市石津川の戦いで、21歳で戦死したと伝えられている。



写真は、大阪阿倍野区の阿倍野神社。
しかし北畠顕家戦死の場所も、大阪阿倍野と堺市石津河原の二説があり、これらの二説とも確証はなく、未だに不明。墓碑もこの二ヶ所に存在する。

大阪阿倍野区には“北畠公園”があり、上の写真のように、園内の阿倍野神社に北畠顕家が祀つられている。
ということで、奥羽・関東とは縁が薄いこともあり、益々信憑性に欠ける。


楠木正成物語 正成ゆかりの記念碑とは!

2006年10月27日 | 歴史
湊川合戦に関するメモリアルな偉功を讃える記念碑・墓碑を以下紹介する。
これらは、湊川神社境内と近隣の湊川公園内に存在する。
1、楠木正成の銅像は、湊川合戦にちなんだもの。



写真は、楠木正成の銅像。
この銅像は、明治44年に整備された湊川公園の北端に位置し、市民に公開されている。

2、湊川神社境内の戦没地記念碑及び正成墓碑





写真は上から正成戦没地及び正成墓碑正面からと右側から撮ったもの。
湊川神社本殿の左奥に“正成戦没地”がある。「湊川の合戦」で足利直義の大軍と16度にわたる激しい合戦を交えたが、多勢に無勢で味方はわずか73人にまでになってしまった。
もはやこれまでと覚悟した正成はこの地にあった民家に入り、 「七生報国」を誓って弟の正季と刺し違えた場所。
“忠臣・楠木正成”を一般に広めたのは、“水戸黄門”で知られる水戸藩主・徳川光圀。
光圀は幕藩体制に沿い上下の秩序を重んじる朱子学の立場で日本史を編纂、その中で自らの書で「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻んだ墓碑を建てた。



3、上の写真は、水戸光圀公像。湊川神社正面右側に大楠公墓所があるが、その一角楠木正成墓碑に寄り添って建てられている。
水戸光圀は、正成を深く尊敬していたと云う。



4、上の写真は、湊川神社蔵の「桜井子別れの図」。
大楠公正成は、決死の覚悟で兵庫・湊川合戦へ向かって出陣し、途中、大阪府島本町の桜井の駅で、息子・小楠公正行に後事を託して別れた、記念碑的場所。


楠木正成物語 幕府との戦い ラウンド3

2006年10月26日 | 歴史
鎌倉幕府との戦い・第三ラウンドは、武将・正成最後の舞台となる、神戸の湊川合戦。
後醍醐天皇による親政は、“建武の親政”と呼ばれ、強権・独裁により武家勢力を削ぐ必要があると考え、例えば恩賞の比重を公家に高く、武士を低くした。又財政基盤を強固にするため、庶民に対して鎌倉幕府よりも重い年貢・労役を課した。
このように時代背景を無視した天皇親政は早々に破綻し、各地で足利尊氏に寝返る勢力が相次いだ。
足利軍は都に攻め上がり、後醍醐天皇は近江・坂本に逃れ、都では市街戦が繰り広げられたが、結果的に足利軍が敗北、正成軍勢に京を追われ、九州に落ち延びた。

1336年、足利尊氏は九州での足がかりを強固にし、当地の豪族から武器・兵員を集め、いよいよ挙兵し、瀬戸内海上ルートを通って京に近づくにつれ、味方する軍勢が増えていった。
“摂津西宮浜”で正成と尊氏の軍勢が対峙した際、突如正成軍が兵を引いたとされる。正成は無名時代から自分を引き立ててくれた恩を忘れなかったことと、尊氏という人物の器量に惚れ込み、戦わないように、後醍醐天皇との仲介をしたと伝えられる。
一方尊氏は何として正成の命を助けたいと思い、彼が降伏するのを待っていたと云う。

しかし正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、尊氏軍の損失も増える一方で、ついに尊氏は一斉攻撃を命じた。
正成軍は僅か500~700騎の手勢、一方尊氏勢は大小5,000隻の船団を率いて須磨沖に停泊、尊氏の弟・直義率いる陸上軍が数万と尊氏勢力の勝利は決定的。
正成は後醍醐天皇に、一旦比叡山へ避難し、尊氏軍の京への誘導・囲いこみ作戦を勧めたが、出撃命令が下り、西国街道の“桜井の駅”で息子・正行と別れ、「世の中が後醍醐天皇に失望した今、正成が生きていても無益であり、真っ先に死にましょう」と摂津国の兵庫で決死の“湊川合戦”が始まった。
この合戦は日本史上最も激しい戦いであったと云う。




写真は上から、神戸市会下山での湊川本陣旗揚げの記念碑と和田岬の後醍醐天皇行在所址で当時の海岸線に近い所。
正成は湊川会下山に陣を取り、和田岬では新田軍が地上戦を始めた。
尊氏船団の一部が東へ移動するのにつられて、新田軍は三宮辺りまで移動してしまい、正成軍は神戸に上陸した別部隊と直義軍の挟み撃ちに会い、孤立した。
この戦いでは敵の策略にかかり、朝廷軍は兵力を分断されてしまった。




写真は上下とも、激戦のあった神戸市長田区の蓮池跡で、現在公園に生まれ変わりつつある。
正成軍は、僅かな手勢を率いて、ここ“蓮池”近辺で16回もの突撃を繰り返し、2万を越える足利勢の中を縦横無尽に駆け巡る善戦虚しく、味方勢力は僅か73人にまで減ってしまった。
もはやこれまでと、正成は弟正季及び同志と「七生報告」(七生まで生まれ変わり、朝敵を滅ぼしたいという意味)を誓って殉節した。



写真は、明治天皇により創建された湊川神社社殿。
大楠公・正成の忠義を讃えるために、明治天皇により湊川神社が創建されたが、ここ湊川神社には今日でも多くの人々が大楠公を慕って参拝にこられると云う。
そして、湊川神社境内には、正成に関するメモリアル偉功が随所に残されている。これらの記念碑は明日紹介する。

楠木正成物語 幕府との戦い ラウンド2

2006年10月25日 | 歴史
1332年、正成の第二次挙兵は千早城と共に、上赤坂城に籠城して戦われたが、鎌倉幕府軍に包囲され、1333年に上赤坂城が落城、千早城だけが耐えてついに守り抜いた。




写真は上から、上赤坂城址及び城址から望む河内長野方面の光景。
城址からは、天候に恵まれれば、六甲山・淡路島まで見渡すことができると云う。
上赤坂城は金剛山支脈の一つで、西北に延びる標高約350mの峰にあり、別名楠木本城と呼ばれている。

上赤坂城落城の原因は、取水場所が敵陣に見つかり、水の手を断ち切られ、水に渇する苦しさに耐えかねて降参したと云う。
土の底に樋を伏せて、横に石を畳み、上に瓦を覆って、上流の滝より水を引いていたのが見つかった。

上赤坂城陥落後、幕府軍は大挙して千早城に向かい、いよいよ千早城の攻防が始まった。千早城は大阪と奈良の県境、金剛山中腹から西に走る尾根の末端に位置している。
千早城は1332年に築城され、正成の挙兵・籠城の地として有名。
1333年鎌倉幕府の大軍が千早城に攻め寄せ、正成軍が様々な奇策・ゲリラ戦を駆使して奮戦、100日間の籠城を果たした。

その間、後醍醐天皇が隠岐を脱出したことと、正成の活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏は反旗を翻し、京都の六波羅を攻め落とし、更に新田義貞も鎌倉を攻略して、ついに北条仲時を自害に追い込み幕府は滅亡した。
千早城は千早・赤坂城塞群の中で、最奥の拠点として位置づけられ、詰城の役割を果たした。山間に隠れた存在で、籠城に適していたと云える。



写真は、千早城二の丸跡に建てられた千早神社。
府道から500段ほど登ると四の丸に達し、更に登ると三の丸から二の丸へと続き、そこには千早神社があり、楠木正成・正行父子が祀られている。

ところで100日間の籠城を果たした、正成の軍資金は所領7千貫のほか、水銀の採掘、摂津・河内から大和に至る交通ルートを掌握して蓄積した資金など。


楠木正成物語 幕府との戦い ラウンド1

2006年10月24日 | 歴史
正成と鎌倉幕府との戦いは、1331年から1336年の湊川の合戦まで続いたが、この間を3つのフェーズに分けて追跡し、正成の生涯最後で最大の壮絶な戦いを振り返ってみる。

1331年、後醍醐天皇による親政時代を再現しようと、倒幕のため笠置山で挙兵の報を聞くと、正成はその傘下に入り、下赤坂城で挙兵した。これが元弘の変で、鎌倉幕府に対するクーデター。
後醍醐天皇が笠置山に遷幸の時、笠置行在所が危うくなれば、ここ下赤阪城で天皇をお迎えすべく急いで築城したと云う。





写真は上から京都府笠置町笠置山の後醍醐天皇行在所への入口、後醍醐天皇行在所址、そして京都府笠置山頂から望む光景。

笠置山の後醍醐天皇行在所は関東軍の総攻撃にあって陥落し、天皇は山城国で捕らえられ、その後隠岐に流された。



上の写真は、河内赤阪村の下赤阪城址。
下赤坂城は金剛山支脈の一端、甲取山に築かれたもので、北にかけての丘陵一帯に位置し、現在は写真の通り、「赤坂城址」の碑が建っている。
河内平野から金剛の千早城へ攻め入ろうとした場合、第一関門の役を果たしたのが、この下赤坂城であった。

笠置を陥れた鎌倉幕府勢は、勢いに乗じて下赤坂城を攻撃、にわか造りの城のため兵糧の用意も少なく、援軍もなかった中、正成軍は例のゲリラ戦法で善戦した。
しかし結局正成は風雨の激しい晩に城を焼き、自害して果てたように宣伝させ、金剛山に行方を眩ました。

正成はもともと陽動作戦を考えていたので、10日間ほどのゲリラ戦を潮時と見なし、逃げ隠れしたと云う。
そして1年2ヶ月後には護良親王と連絡をとり、各地の豪族の支援も得て、奇襲をかけ、当城を奪回した。


楠木正成物語 ゲリラ戦術とは!

2006年10月23日 | 歴史
正成の知略・智謀を具体化したゲリラ戦術・陽動作戦について、以下紹介する。

1、自軍を二手に分けて、東西の山陰より菊水・家紋の旗二流吹き流させて押し寄せた。敵はこれを敵か見方かと怪しむ間に、どっと時の声を上げて攻め入った事例。

2、敵が兵糧を持たせて夜中に城内に入るとの情報を得て、途中に待ち伏せして兵糧を奪い取り、その米俵に武具を入れ替えて馬に負わせて城に向かわせた。前方に敵軍、その後方より楠木勢が追いかける形を取った。この様子を城内より見ていた敵兵は急いで城門を開けて見方を迎え入れた。
跡を追って、城内に入った楠木勢は俵より武具を取り出して身を固め、時の声を上げた。追跡した応援軍も城中に入り、息も継がせず相前後して、攻め込む戦法。

3、楠木軍は藁人形を作って城の麓に立てかけ、その後に強兵を立て、夜明けの霞の下より、どっと時の声を上げた。敵は籠城に耐えかねた城兵が決死の攻撃に出たものと思い込み、我先にと攻め入った。楠木軍は少しばかり矢を放つと城中に引き上げ、敵が藁人形に攻め寄せるのを見計らって、大石を落下させ、殺傷するという作戦。

4、楠木軍は、用意した水鉄砲で油を橋上に注ぎ、橋上を目がけて松明を投げる。敵兵が渡りかけたところへ油を注がれ・火をつけられ、見方軍が続いているため、後ずさりもできず、飛び降りることもできず、まごまごしていると、橋桁が燃え折れて、谷底に落ちる作戦。

5、楠木軍のゲリラ戦法・山岳戦法の圧巻は、城を目がけて殺到する敵に、巨石・丸太・大木を転げ落とし、糞尿・熱湯を浴びせ、大量の油を水鉄砲でかけて松明で火を付ける等々、現代のゲリラ戦を髣髴とさせる戦法。




上の写真は、それぞれ千早城内の急峻な崖、千早城から見下ろす急傾斜。
「戦いになれば籠城してゲリラ戦に持ち込み、戦況が不利になればすぐ放棄するというように、城というより要塞として利用した。」

6、二重の塀によるトリックを使った知能犯的奇襲。
相手を甘く見て、幕府兵は各自勝手に攻撃を始め、城の斜面を登り始める。ところが兵が斜面を埋めた瞬間に、突然二重塀のうち外側の壁が崩れ、幕府兵の頭上に大木・巨石などが地響きを上げて転がってきた。

1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない地侍たちは、集団での奇襲を得意としていた。

楠木正成物語 正成知略・智謀の真髄とは!そのⅡ

2006年10月22日 | 歴史
城のレイアウト以外に、正成智謀の由縁を以下具体的な事例で紹介する。

1、千早城籠城戦で、8万の幕府軍が、たったの千人ほどの正成軍に敗北した事実は、すぐ諸国に伝わった。
「幕府軍恐れるに足らず」と、それまで幕府の軍事力を恐れて、従っていた各地の豪族が次々と蜂起し始め、幕府内部からも、足利尊氏・新田義貞など反旗を翻す者が続いた。
結局尊氏は京都の幕府軍を倒し、義貞は鎌倉に攻め入り北条高時を討ち取って、140年ほど続いた鎌倉幕府を滅亡させた。
右上写真は、歌川芳員作「楠木正成千早城合戦の図」。
正成の知略と庶民の力を誘導することで、千早城を守り抜いたことが、効を奏したと云える。それと正成の統率力・信頼度が高かったことが長期籠城を可能にしたと思われる。

2、吉野の護良親王の命による協力は、金剛山を通じて大和・戸津川・吉野方面より、野伏・山伏に身をやつした地元民が、ここかしこの峰・谷に隠れて、武士往来の道を立ち塞ぎ、兵糧を奪い、人馬共倒れに陥れた。
護良親王の令旨は全国に飛んで、皇室への忠勤が勧奨された。

3、後醍醐天皇に謁見して戦への意見を求められた正成は、「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はないが、智謀を尽し策略を巡らせば勝機も見出せるでしょう」と答えたと云う。
関東軍は平原での騎馬戦を前提とし、名乗りをあげれば相手が出てくるという先入主に対して、正成軍は大半が普段は農民の地侍で兜もなく、上半身が裸の者もいたという、戦闘常識を逸脱した戦法に、関東軍はカルチャーショックを受けたと共に敵陣をあまく見たと思われる。
プライドが高く、スマートな関東人に対して、おもしろく、豪快な関西人という現在のイメージ比較は、当時から存在していたのであろうか?

4、正成は「良識は戦わずして勝つ」と宣言、幕府軍が天王寺を占領したが、びくともしない。夜になると、天王寺は何万という“かがり火”に包囲され、兵士たちは一睡もできず朝を迎える。
夜が明けても正成軍は動く気配はない。このような日夜が続くと、幕府軍は精神的・肉体的に疲労の極地に達し、ついに天王寺から撤退したという逸話がある。
このかがり火は幻の大軍で、正成が近隣の農民5,000人ほどに協力してもらい、日を焚かせた結果であったと云う。戦わずして勝つとは将にこのことを指す。

5、正成は敵の食糧ルートを絶ち、飢餓に陥った幕府軍に対して、抜け道から場内へどんどん食糧が運び込まれ、生きながらえる正成軍という策略。
近隣の農民達と連携して敵の補給部隊を途上で叩くという戦法で、“千早城そのものがおとり”という前代未聞の作戦により、敵の戦線は総崩れになったと云うストーリー。

卑劣といえば、その通りではあるが、正成の智謀・知略を更に進めた策略が“ゲリラ”作戦で、近日中に紹介する。



楠木正成物語 正成知略・智謀の真髄とは!そのⅠ

2006年10月21日 | 歴史
正成の知略・智謀の真髄について、具体的に検証してみたい。
先ず、中世山城のレイアウトに見る戦略・戦術について、上赤坂城・千早城の設計を取上げる。
上赤坂城は標高約350mで、東・西・北の三方が深い谷に面し、南一方だけが馬の背のような小径によって千早城・金剛山に続いている。




上の写真は上赤坂城へ向かう急峻な斜面及び馬の背のような小径。
南一方だけの小径沿いの堀は広く・深く掘り切って、その径に櫓を並べてあるので、まともに攻めきれない。
塀の中より射手だけが狙い射ちできるので、圧倒的に防衛体制万全の設計。



写真の本丸石柱は大楠公没後600年祭記念の奉建塔。
二ノ丸を通って茶碗原から急峻をよじ登ると本丸で、南北約80m・東西約10mの平地を成し、東・北・西の展望が開け、周辺に点在する出城との連絡が容易。

又千早城は標高約600mで、東・西・南の三方が絶壁で、東北のみ山路が金剛山に通じる天然の要害で、正成・正行・正儀の三代と吉野朝57年間の悲史を秘めた城。





写真は上から、千早城址、千早城から見渡す河内長野市方面、千早城に登る急峻な斜面の階段。
千早川と急峻な山は侵入を阻み、川を堰き止めて城下を水浸しにすると、攻め手の足場がなくなるという設計や、千早城に至る5ヶ所の峠は、楠木軍が完全支配することで、軍事上・交通上の要所を押えるなど盤石なレイアウト。

長期籠城を可能にするための用水は、山伏が汲む秘水を筧で引いたり、木をくり抜いて作った舟に雨水を保存したり、雨水を集めるため建物の軒に樋をかけて余さず受けるというアイディアなどにより、50~60日間雨が降らなくとも水に困らない準備ができていたと云う。

又兵糧は背面の金剛山を経て間道伝いに、農民・兵士など同志が運搬したと見られ、空き地でモヤシを作ったとも云われている。
山麓周辺の村落が米補給をしたとの記録が残されている。

このように千早城に込められたアイディア・ノーハウは100日間も籠城を可能とした難攻不落の名城であった。


楠木正成物語 鎌倉後期から室町の時代背景

2006年10月20日 | 歴史
承久の乱(1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた兵乱)を機に、上皇側に加わった公家や武士の領地を没収し、手柄を立てた御家人を新たに“新補地頭”(年貢の徴収と土地管理)として任命した。
新補地頭は、領地番人の実力者として徐々に力を伸ばし、荘園を侵略していく。
そして東国政権である鎌倉幕府は、京都の公家政権の軍事部門として位置付けられていたが、承久の乱をきっかけに朝廷権力は制限され、鎌倉幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。右上の写真は元寇の肖像画。

文永の役・弘安の役(1274年と1281年、中国大陸の元による日本侵略)後、元軍の再襲来に備えて御家人(将軍と主従関係を結んだ武士)の統制を進める。
しかし役後の恩賞は薄く、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は一時しのぎとして“徳政令”による借金棒引き策を出すが焼け石に水であり、御家人の不満は募る。

又悪党の活動なども活発になり、鎌倉幕府滅亡の要因となっていく。
又鎌倉時代の特徴の一つに、近畿地方は天皇領が多いこともあって幕府の支配力は弱く、しかも幕府の成立過程から農業政権であり、武装農民でもある大地主が幕府を支えていた。
しかし地盤は農業圏の東国であったのに対して、畿内地方は商業の発達を背景にした商業圏であった。

鎌倉時代の末期、幕府は与える恩賞もなく権威は失墜の一途で、執権・北条高時は遊興三昧の日々、民衆も重税に苦しみ、世の秩序は限りなく乱れていった。
1331年、幕府打倒を目指して後醍醐天皇が京都で挙兵、しかし幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなし、倒幕勢力に加わる者は少なかった。

武士集団が鎌倉幕府という一大勢力をつくり、天皇・公家支配に代わって日本を実質的に支配していた時代に、後醍醐天皇は古代の律令制に戻し、天皇親政の時代を再現しようとしたのが混乱の始まり。
このような時代の変革期に立ち上がったのが悪党武将の楠木正成であった。

しかし正成の挙兵・戦闘もむなしく自害、後醍醐天皇は京都から吉野へ入り、京都に持明院統の北朝、吉野に大覚寺統の南朝、二つの朝廷が対立する、いわゆる南北朝時代に突入していった。

楠木正成物語 朱子学・宋学とは!

2006年10月19日 | 歴史
正成は15歳までの7年間、文武両道に打ち込んだことでよく知られているが、学問では、特に朱子学・宋学に励んだと云われている。
“朱子学”とは南宋の賢者・朱熹によって構築された儒教の学問体系で、“宋学”・“道学”とも呼ばれたと云う。
右の写真は宋学の祖・朱熹の肖像。
チョット難しいが、自己と社会、自己と宇宙は“理”という普遍的原理を通じて結ばれており、自己修養による理の把握から社会秩序の維持に至ることができるとする。個人と社会を統合する思想であると云う。

この学問は更に発展して、明代には心学を取り入れて“道徳実践の学”を補完するようになり、清代には社会的な秩序構築を具体的に担う“礼”への関心が高まり、礼教に基づく国家体制づくりに利用されたと云う。
要は、社会秩序の維持や礼節に重点を置く。

理解を補完するために、朱子学誕生の背景について触れると、南宋時代に周辺諸国による中国侵攻により、中国は領土を失いつつあったことから、東アジアの中心が中国であるとする中華思想が危ぶまれ、知識人や支配層のアイデンティティが危機に晒された。
そこで家臣(周辺国)は主(中国)に絶対的に服従すべきであるという思想を確立する必要があったと云う。

鎌倉幕府滅亡から建武の新政にかけて、後醍醐天皇や楠木正成は朱子学を熱心に学び、彼らの行動原理は朱子学に基づいていたと云う。
朱子学が日本にもたらされたのが、鎌倉時代末期で、後醍醐天皇の時代に当たる。
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒には、朱子学が背景にあったことが窺える。
特に正成が朱子学の行者として目指した境地は、“弓矢の道”という、武士たるものは強いことが第一義で、相手が誰であろうとも強い敵と戦い、倒すことが最大の名誉とする本来の武士道。
又一旦決めた志は変えてはならないとする道。
正成は江戸時代武士道の先駆者と云える。

朱子学は天皇を中心とした国づくり、即ち“尊皇論”・“尊王賤覇”をバックにしており、皇帝を尊び、覇者を蔑むという思想で、その後の倒幕運動・明治維新へと繋がっていく。
明治維新が実現できた背景には朱子学の影響があったと云える。

もう一つ、宋学の教え・“四恩”とは、国王・父母・衆生・三宝(仏教における「仏」「法」「僧」)に対する恩を意味する。
正成は忠孝の祖として、天皇のために一命を賭して忠誠を尽した生き方は、坂本竜馬・西郷隆盛など明治維新で活躍した志士達の精神的支柱となった。
敵味方の区別なく戦死した兵の菩提を弔ったこと、恩顧のあった社寺に対する敬虔な態度など、四恩の教えに影響されていると云う。

楠木正成物語 正成ゆかりの記念碑的建物

2006年10月18日 | 歴史
大阪府千早赤阪村を中心に、正成ゆかりの記念碑的建物が散見される。
以下いずれも歴史的建造物で、現在でも多くの参拝客が訪れている。



1.先ず上の写真は、建水分(たけみくまり)神社で、古くから崇敬を集めた古社であり、水神が祀られたのが始まりと云われる重要文化財。水分式建築で精巧を極め、建築工芸上模範的な建物で、延喜式神名帳にも記載されている。
正が元にあった社殿を現在の丘の上に移して造営したと云う。
本殿・左右殿の3殿からなっているが、本殿は後醍醐天皇の命により正成が再建。




2.上の写真は南木(なぎ)神社で、建水分神社の摂社(本社に付属し、その祭神と縁故の深い神社)であり、正成が湊川で戦死した後、後醍醐天皇がこれを悼み、自ら正成像を刻み、正行に命じて創建させた楠木の氏神。
後に後村上天皇から南木神社の神号を賜ったが、建水分神社脇に鎮座している。




3.上の写真・奉建塔は、昭和15年、大楠公没600年記念に造られた石塔で、丘の上に全国規模の募金により建てられた記念塔。
この丘には上赤坂城の出城があった跡で、石塔の高さが43尺と、正成戦死の年にちなんで、造られた。




4.写真の建掛塔(たてかけとう)は、河内長野市観心寺境内にある未完成の重要文化財。
正成が建武の中興の成功を祈願して三重塔の建立を発願したが、造営半ばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断され、三重塔の一重目だけがそのまま残されている。
まさしく建て掛けの塔。

以上




楠木正成物語 正成の思想を物語るストーリー

2006年10月17日 | 歴史
楠木正成物語に戻って、物語を進める。
以下正成に纏わる思想・考えさせられる逸話を紹介する。


上の写真は、敵戦死者を祀った寄手塚。
1、赤阪城・千早城の合戦の後日、正成は敵・見方双方の戦死者を区別なく弔うために、敵という文字を使わずに、“寄手”(よせて)と表現したり、寄手塚の花崗岩製供養塔の方を見方塚(見方の戦死者を祀った供養等)より一回り大きくするなど、誠実で博愛深い人柄が偲ばれる。



上の写真は、湊川神社に祀られた正成の墓。
2、正成終焉の地・湊川神社にある墓は、もとは畑の中の小さな塚で荒廃していたものを、徳川光圀公が自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓石を建立した。
光圀は逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、正成の精神に見習うべしとして、正成の名誉回復に努めたと云う。



上の写真は神戸市長田区の湊川神社。
3、明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、湊川神社を創建されたが、大楠公に対する景仰は未だに変わることなく、現在でも全国から多くの参拝者を迎えている。



上の写真は大阪府島本町の桜井の別れの石碑。
4、桜井の別れの場面で、正成が正行に「武士は一時的に生き延びようとして、一旦決めた節義を変えてはならない」と諭したシーンは太平記作者による創作と考えられている。
正行の年令は当時11歳ではなく、既に20歳前後の青年であったという見方があり、正成の思想を読者に知らしめるため、あえて親が子に諭して言って聞かせる形式にしたとも考えられている。
しかも「桜井駅跡」という史跡まで作らせてしまうほど、このシーンの歴史的インパクトは大きい。
桜井は西国街道の宿場で、写真の通り、駅跡には乃木大将筆による「楠公父子決別之所」の碑が建てられている。



上の写真は、楠木家の菩提寺・観心寺境内の正成の墓。
5、正成は、湊川の合戦で足利尊氏に敗れ自刃したが、尊氏は正成の死を惜しみ、遺体を丁重に遺族に届けたと云われる。

6、明治時代になって主君と家臣という家の関係は消滅し、代わって国家と国民という概念に発展した。明治政府は正成を忠臣のモデルとして担ぎ上げ、国民に国家への忠誠を植え付けようとし、国策として富国強兵を進めた。

7、正成は、湊川の戦いに向かう途中、「今度の戦いは必ず敗北するでしょう。国中の人々が主君に背いているのですから・・・・」との意見状を後醍醐天皇に宛てている。
主君に対する忠義大事とはいえ、戦局の情勢判断を正確に伝えることを怠ることはなかった。

8、正成には、朝廷崇拝・朝廷の権威に敬意を表していたが、それだけではなく、幕府の施政即ち領地を与えて支配・課税する方法では、自分たち悪党・商業人が生きる道・活路はいずれ絶たれるとの懸念を抱き、アンチ幕府・民衆サポートの立場を貫いた側面も忘れてはならない。
公家・武家以外に第三の勢力・民衆のニーズを捉え、満たすことを第一義とした。

楠木正成の遺徳が、時代を超えて、彼の功績を称える連鎖反応の意義は、大いに考え・学ぶべきと信じる。

明智光秀物語(続)-キリシタン細川ガラシャ・戦国に死す

2006年10月14日 | 歴史
本日は、進行中の楠木正成物語を中断して、10月11日に放映された、NHKのTV番組“その時歴史が動いた”で、取上げられたキリシタン・細川ガラシャの壮絶な生涯の要点を以下ハイライトする。
右写真は、京都府弥栄町味土野・隠棲地の細川ガラシャ碑。

☆1990年、オーストリア・ウィーンで発見された“貴婦人の人生”というオペラが紹介された。
約300年前のオペラの楽譜は“グラーチア・タンゴ”という題名の曲で、「丹後のガラシャ」という意味。戦国女性の厳しく・過酷な人生を描いたドラマで、遠くヨーロッパまで伝えられたことになる。
キリスト教の洗礼を受けた彼女の一途な生き方をテーマに、最後には自らの人生を勝ち取った、悲惨の中にも光明が見出せるストーリー。

☆ガラシャは、キリスト教との出会いの中で、「困難の中でこそ、徳は磨かれ!」という教えに心の拠り所を求めた。
幽閉状態のガラシャは、侍女を仲介に、宣教師とのやり取りを通じて、キリスト教に帰依していく。
秀吉が出した“宣教師追放令”は、キリスト教信者を迫害、彼らを長崎へ追放した。ガラシャは、遂に信者であることを中興に打ち明けた。
中興はキリスト教信者の侍女を先ず追放した。
キリスト教を巡る夫・中興との確執がガラシャを忍耐強い人格者、周囲に愛情を捧げる信者に成長させていく。
キリスト教の経典では、命は神から与えられたもので、自殺行為は大罪に当たるとして禁じられている。

この点に関して、ガラシャに二度の危機が襲った。
一度は、秀吉は甥の秀次を謀反の疑いで、一族を含め処刑した際に、秀次の嫁を出していた細川中興も謀反の疑いを持たれた。
この事態に中興は、ガラシャに最悪中興と共に自害するよう命令していた。結局疑いが晴れて、難を逃れたが・・・・。

もう一度は、関ヶ原の戦いがガラシャに危機をもたらした。
石田三成が家康方大名の妻たちを人質にとって、家康系大名を三成側に寝返らせようという作戦の中で、他の大名婦人たちが大阪城を脱出したのに対して、ガラシャはあくまで屋敷に留まり、しかも人質になることを拒絶した。
ガラシャの人質拒否は、石田三成作戦の出鼻を挫いて、結局失敗に終わらせたと云える。
家康側の大名たちも、このハプニングを機に、アンチ三成で奮い立ったと云う。
ガラシャの夫・中興からは、人質に捕らえられた際には、自害せよとの命令に対して、自害は大罪であるとのお教えと共に、”困難から逃れるな”という宣教師の教えを忠実に守り、家臣に長刀で胸を突かせて悲壮な死を遂げた。

☆ガラシャがキリスト教に帰依して、自らの信念を貫いて死を選んだことが、関ヶ原の戦いでは中興を奮い立たせ、「中興の戦い振りは類例なし」と云われるほど、東軍の勝利に大いに貢献した。
1601年、ガラシャの一周忌では、中興と家臣たちは、ガラシャの死を悼み、涙を禁じえなかったとの記録がある。
そして三男の忠利は、肥後熊本藩54万石の初代藩主となり、代々繁栄を続けたと云う。

チョットオーバーかもしれないが、ガラシャの死は、家康の天下取りに繋がり、細川家の繁栄をもたらして、徳川家康と細川家を救ったことになる。