正成・正行がかかわった鎌倉幕末から室町時代にかけての戦いを振り返って見ると、親子の共通点が見えてくる。
同志の結束、親子兄弟愛、礼節、慈悲・博愛の心など、朱子学の思想・処世術の影響か、正成から正行に受け継がれていた。
戦う前から敗北が分かっていた戦局でも、天皇を守り通す使命感を貫き通した点、敵・味方を同志として見做す博愛・慈悲の心情、敵の大将から崇められた器量・キャラクター、複数の墓所が散在しているなど親子生き写しと云える。
下克上の時代に、親子・兄弟の結束力は乱れず、思想・行動を共にした。
彼らの思想・行動の中には、今日大いに学び・共有すべき点が多々ある。
ここに“正行の心”に接する逸話を紹介する。
先ず、“太平記”によると、正行軍が藤井寺・天王寺で勝利した戦いで、溺れかかっていた足利軍兵士を救い、医薬・衣服・武具などを与えて故郷に送り返したと云う。
この戦いの直後に、足利幕府大軍に四条畷で敗北・討死した相手に塩を送っていたことになるが・・・・・・。
次に足利尊氏の嫡男・義詮は、室町幕府二代将軍として、38歳で病死するまで、南北朝時代の権力抗争に巻き込まれた武将。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/bf/56395ecdd34662640bcd69c72e995299.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/54/68b977eed06d1213b421d93e43a602a4.jpg)
写真は上から、京都嵯峨の宝筐寺にある、正行・義詮の墓及び宝筐院伽藍内の楠木正行木像。
義詮の遺言によると、「自分の逝去後、かねてより敬慕していた楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」とあり、遺言通り、京都嵯峨の“宝筐寺”にある正行・五輪石塔の隣に義詮の墓・宝筐印塔(正面向かって右側)が建てられたと云う。このほか、宝筐院伽藍内には楠木正行木像が鎮座している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/fb/3ec2d0e47e7eaae05740b588e6bf2e08.jpg)
写真は、東シナ海の中甑島にある正行の墓。
正成の墓所は、四条畷神社・宝筐寺のほかに、写真の通り、鹿児島県薩摩川市の東シナ海に浮かぶ中甑島にもある。
伝説ではあるが、楠木一族は難を逃れ、甑島に入り、正行はここに砦を構えていたが死没とある。
正成も観心寺・湊川神社及び栃木県館林市の楠木神社に、墓所が存在した。
墓所が多い分、崇め・慕われていた証である。
同志の結束、親子兄弟愛、礼節、慈悲・博愛の心など、朱子学の思想・処世術の影響か、正成から正行に受け継がれていた。
戦う前から敗北が分かっていた戦局でも、天皇を守り通す使命感を貫き通した点、敵・味方を同志として見做す博愛・慈悲の心情、敵の大将から崇められた器量・キャラクター、複数の墓所が散在しているなど親子生き写しと云える。
下克上の時代に、親子・兄弟の結束力は乱れず、思想・行動を共にした。
彼らの思想・行動の中には、今日大いに学び・共有すべき点が多々ある。
ここに“正行の心”に接する逸話を紹介する。
先ず、“太平記”によると、正行軍が藤井寺・天王寺で勝利した戦いで、溺れかかっていた足利軍兵士を救い、医薬・衣服・武具などを与えて故郷に送り返したと云う。
この戦いの直後に、足利幕府大軍に四条畷で敗北・討死した相手に塩を送っていたことになるが・・・・・・。
次に足利尊氏の嫡男・義詮は、室町幕府二代将軍として、38歳で病死するまで、南北朝時代の権力抗争に巻き込まれた武将。
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写真は上から、京都嵯峨の宝筐寺にある、正行・義詮の墓及び宝筐院伽藍内の楠木正行木像。
義詮の遺言によると、「自分の逝去後、かねてより敬慕していた楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」とあり、遺言通り、京都嵯峨の“宝筐寺”にある正行・五輪石塔の隣に義詮の墓・宝筐印塔(正面向かって右側)が建てられたと云う。このほか、宝筐院伽藍内には楠木正行木像が鎮座している。
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写真は、東シナ海の中甑島にある正行の墓。
正成の墓所は、四条畷神社・宝筐寺のほかに、写真の通り、鹿児島県薩摩川市の東シナ海に浮かぶ中甑島にもある。
伝説ではあるが、楠木一族は難を逃れ、甑島に入り、正行はここに砦を構えていたが死没とある。
正成も観心寺・湊川神社及び栃木県館林市の楠木神社に、墓所が存在した。
墓所が多い分、崇め・慕われていた証である。