近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県広陵町の巣山古墳とは!そのⅡ

2010年09月29日 | 歴史
巣山古墳巡りを続けます。

奈良県広陵町教育委員会は平成19年1月、特別史跡「巣山古墳」の濠から、船の部材などの木製品15点が見つかったと発表した。





写真は、本古墳から出土した木棺の一部及び舟形木製品の部材。

隣接した場所からは昨年2月に木棺のふたや木棺を載せた船の部材が出土しており、今回の木製品も同じ船のものと見られている。

船の形をした板にも、かなりの装飾が施されていたと云う。これらを船に組み立てた部材や木製の人形の一部も見つかっている。

木製品は人の手で完全に破壊されていたが、葬送の儀礼に使用された遺物は、すべて死者の所有物であり、埋葬後は二度と使われないために壊されたものと推測されている。

これら一連の遺物は、木棺を船に載せ、遺体を葬祭儀礼の場から古墳まで運ぶのに使った葬具(陸上輸送)と推測されているが、これらの遺物はすべて人の手によって破壊された形跡があり、遺体を古墳の石棺に移した後、葬具一式を破壊し、周濠に捨てたかもしれない。

当時の慣習では、船は遺体を運ぶための乗り物であったと考えられる。はるかに遠い来世に無事にたどり着けるかどうか不安だったことから、無事にたどり着くには一番長い乗り物として、船が造られたのではないか?

新たに出土したのは、船の側面に使われたとみられる、端が反り返った板(長さ95cm・幅20cm)、ほぞ穴を開けた長さ2.8m・幅20cmほどの板など。





本古墳から出土した、舟形埴輪の舷側板部分及び水鳥形埴輪。

本古墳の埋葬施設からは、魔よけの文様とされる直弧文(直線と弧線が結合した幾何学的文様)を施した船形埴輪の破片約50点も見つかっていることから、本古墳で出土した死者の棺を運ぶ「喪船」の木製部材にも同じような幾何学文様があり、船形埴輪としては全国2例目と云う。

一方水鳥形埴輪は、風土記などに“ヤマトタケル”が白鳥になったとの伝説が記されており、祭事に使われた水鳥形埴輪は、死者の霊を運ぶ象徴だったと見られる。古代人の死に対する精神を現す儀式と考えられる。

次に巣山古墳の周濠を取り巻く外堤から、築造当初の葺石が約120mにわたって新たに出土したことが、平成22年1月30日、町教委の発掘調査で分かった。





写真は、本古墳の外提葺石散乱状況及び平成22年2月現在の葺石整備状況。





写真は、平成9年当時の発掘現場の葺石散乱状況及び平成22年2月当時外提修復工事に伴い発掘された山積みの葺石。

これまでの調査とあわせ、葺石が確認された外堤は、計約300mに及ぶ。

巨大古墳外堤の広範囲な調査例は極めて少なく、町教委は「当時の古墳築造技術を知ることができる貴重な資料」としている。

外堤の発掘調査は、周壕の護岸工事に伴い平成19年度から古墳前方部で実施。

葺石は、外堤の斜面で確認され、西約8kmにある、葛城市の二上山から運ばれた、こぶし大の安山岩が幅約2mにわたって、300mほども敷き詰められていたと云う。

今年度は古墳の東と西側で調査を実施したが、丘陵を切り崩して築造された西側では、捨て石(底石)を埋めて基礎工事を施した上に葺石を積んでいたことが新たに分かったと云う。

この場所は豊富なわき水があり、地盤がゆるみやすいために、石で地盤を固めたと考えられる。

巣山古墳は、全長約220mの大王クラスの墓との説や、巨大豪族・葛城氏にかかわる人物を埋葬したとの説もある。

町教委文化財保存センターでは「発掘調査でもわき水に苦労した。築造当時もわき水対策として捨て石を埋めた工夫の跡がうかがえる」と話しているらしい。





奈良県広陵町の巣山古墳とは!そのⅠ

2010年09月27日 | 歴史
巣山古墳は、奈良県広陵町に所在する、4世紀末~5世紀初めの葛城地域の王墓と考えられ、馬見丘陵の中央部に位置する北向きの大型前方後円墳。

馬見丘陵には、4・5世紀に造られた大型古墳が多く、馬見古墳群と呼ばれている。









写真は上から、葛城山と二上山を背景にした田畑に浮かぶ巣山古墳の遠景、本古墳正面像、周濠に湧水が満々と張られた、本古墳サイドビューの容姿2点。

巣山古墳は最大級の古墳で、周辺の新木山古墳(陵墓参考地)と共に丘陵中央部に集中する古墳群の中核をなし、昭和27年には国の特別史跡に指定された。

周濠が農業用溜池として利用されており、水位変動や波によって墳丘と外堤の裾が大きく削り取られ、埴輪列が露出してしまったらしい。

発掘調査により墳丘全長220m・後円部径約130m・高さ約18m・前方部幅112m・その高さ16mほどに復元され、左右のくびれ部には長さ30m・幅20mほどの低い造り出しが付いている。





写真は、巣山古墳西側の、平成22年2月現在の周濠と外提の修復工事現場。

墳丘は3段に築き、格段のテラスには埴輪列が並べられ、墳丘斜面には葺石が葺かれている。湧水が堰き止められた周濠と外堤が巡っている。

埋葬施設は、後円部中央に竪穴式石室が2基、前方部の頂上には南北24m・東西15m・高さ2.5mほどの方形壇があり、小規模な石室が存在したと考えられるが、いずれも盗掘されていた。

盗掘された際、鍬形石・車輪石・石釧・勾玉・滑石製の斧・刀子などが出土している。





写真は、本古墳の島状遺構及び埋め戻された平成22年2月当時の姿。

前方部の西側中央部で墳丘から周濠へ張り出す島状遺構は、高さ約1.5m程あり2段で築かれ、葺石を施している。

基底部で南北約16m・東西約12m・上端で南北約11.5m・東西約7mを計測する。

馬見古墳群中最大級の規模を誇り、古墳時代前期末葉(4世紀末~5世紀初め)の葛城地域の王墓と考えられている。


奈良県御所市の秋津遺跡とは!

2010年09月25日 | 歴史
秋津遺跡は、葛城山と金剛山の東麓に広がる扇状地帯の平地に所在する。

本遺跡は、葛城氏の始祖・葛城襲津彦(そつひこ)が被葬者とされる前方後円墳で、宮山古墳(5世紀初めごろ、238m)から北東約1キロと近く、詳細が不明だった4世紀の葛城地域(御所~葛城市)を知る重要な資料になりそう。









写真は上から、葛城山と金剛山を背景にした秋津遺跡現場、板塀に囲まれた掘立柱建物跡、板塀跡及び本遺跡遺構の配置図。

奈良県御所市の秋津遺跡で、両側に柱穴がある溝を方形に巡らせた古墳時代前期の遺構が見つかった。県立橿原考古学研究所が平成22年1月20日発表した。

こうした形状の遺構の出土は初めてで、建物跡を囲んでいることから板塀の跡と見られている。

5世紀の古墳を中心に見つかる囲形埴輪の原型となった可能性があるという。

昨年5月から調査し、4世紀前半~中ごろの三つの方形区画を確認した。いずれも溝(幅約20cm)を挟んで直径約20cmの柱穴が2~3m間隔で並んでいた。

区画は最大で東西40m・南北18mに及ぶ。同時にあったかどうかは不明で、短期間で造り替えられた可能性もある。

区画の内部には、目隠し塀を伴う、掘立柱建物(東西6m・南北7m)が存在する点で、中心的な施設と考えられる。

2本の柱と横木で板を挟んで塀にしたとみられ、柱の深さから塀の高さは2m以上と推測している。

方形区画施設・掘立柱建物・溝は全てこの付近の地形に合わせた方向で計画的な配置となっている。

3区画のうち、一つは塀の一部が約4mずれた状態で出土し、その部分に入り口があった可能性がある。

大阪府八尾市の5世紀初めの心合寺山(しおんじやま)古墳で出土した囲形埴輪も同じ構造をしていたと云う。

遺構の特異な形や板材の使用・施設の規模から強大な勢力が建設にかかわったとみられる。叉この施設は集落にとって重要な儀式を行なった場所と見られる。

溝や流路からは、韓式系・東海・北陸・山陰・瀬戸内地域などの土器が多量に捨てられていたと云う。これは各地との交流の広さを示している。

ということから、この地域は5世紀以降、有力豪族・葛城氏の拠点になったとみられ、南西約1kmには葛城氏の祖・襲津彦の墓との説が有力な宮山古墳がある。

宮山古墳は大和西南部平野に築造された、5世紀前半から中頃の西面の前方後円墳で、“室の大墓”とも呼ばれている。

丘尾切断による墳丘は整然とした三段築成で、北側のクビレ部に方形の造り出し及び南側に自然地形を利用した周濠の存在が確認されている。





上の写真は、室の宮山古墳全景及び宮山古墳現場。

主軸全長238m・後円部径105m・高さ25m・前方部幅110m・高さ22mの規模を誇り、古墳時代中期の奈良盆地を代表する前方後円墳。

葺石と共に後円部主体部上には、円筒埴輪と形象埴輪で構成される二重の方形埴輪列が存在したと云う。

前方部からは木棺と共に三角縁神獣鏡など鏡11面、碧玉製勾玉・ヒスイ製勾玉・滑石製勾玉や各種管玉など玉類が多数出土し、大正10年に国史跡に指定された。

というような葛城氏の拠点と思われる当地において、今回の発見の意義は、
「外から見えないように遮蔽された祭祀空間だろう。巨大で手が込んでいる。これまで知られていなかった葛城氏の初期の拠点と考えられる。4世紀前半の大和盆地に、“東の纒向、西の葛城”の二大勢力があったことがはっきりした。葛城氏が王権と対等な力をつけていく背景を知る手がかりになる」としている。

葛城氏・葛城襲津彦(4世紀後半~5世紀初めごろ)の娘・磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后で、履中、反正、允恭という3代の天皇の母。

その後葛城氏は、大阪・河内地方に巨大な前方後円墳を造営した古墳時代中期(5世紀)の王権を支え、絶大な権力を持った。

対朝鮮外交で力を蓄えたといわれるが、実態は謎に包まれている。


奈良県御所市の巨勢山古墳群とは!

2010年09月23日 | 歴史
ここからは暫く、奈良県下の古墳群を巡る中で、最新古墳情報を提供します。

巨勢山古墳群は、古墳時代中期中葉から終焉期にかけて、奈良県御所市の巨勢山丘陵に所在する、5世紀から7世紀にかけての古墳で、約700基余りが築かれた国内最大級の群集墳。







写真は、秋津原ゴルフクラブ創設前の巨勢山古墳群遠景と近景及び本古墳群の一つ、708号墳石室。

本古墳群は、2002年12に国史跡に指定されたが、ほとんどが小規模な円墳で、古墳時代豪族の墳墓とみられる。

同古墳群は、市南部の東西約3.3km・南北約3.5kmの丘陵地帯に約700基の小古墳が集中し、国内最大級の規模で、地元有力豪族の葛城氏や巨勢氏との関連が指摘されている。





写真は、練習場の増設中に削り取られた巨勢山古墳先端の墳丘遠景と近景。

1995年9月にオープンした、“秋津原ゴルフクラブ”は、2009年11月に、打ちっ放しの練習場を増設するため、所有地である史跡指定地の山の斜面を約5,4000㎡にわたって崩してしまった。

この際、直径10m余りの円墳4基の一部を壊し、半壊したものもあるというが、4基とも未調査の古墳であったと云う。







写真は、本古墳群の一部が削り取られた秋津原GC練習場の光景と同古墳群とゴルフ練習場の空撮。

市民からの通報を受けた市教委は、2009年11月、工事中止命令を出し、斜面の崩落を防ぐため、防護ネットを張るなどの仮復旧工事を、2010年5月末までに実施したと云う。

国の史跡で工事をする際には、国の許可を取ることが文化財保護法で義務づけられているが、当ゴルフ場は許可を取っていないらしく、市側は市民からの通報で、工事に気づいたという。

ゴルフ場側は、史跡の範囲について分かっていなかったと釈明しているが、文化庁は復旧するよう求めている。

市教育委員会は今後、専門家の意見を聞きながら修復方法を検討したいとしているが・・・・・・。

国指定史跡・巨勢山古墳群が国内最大級の古墳群であるならば、古墳群発見時に“秋津原ゴルフクラブ”に対して増設工事禁止などの対処をしても良かったのではないか?

今回の巨勢山古墳群の損壊は、国指定史跡に対する認識不足と甘さに起因し、ゴルフ場経営陣が、古墳を破壊しても構わないという安易な営利主義が生みだした、国指定史跡文化財の破壊であり、許されるべきではない。

経営陣の「知らなかった」などという詭弁を決して許してはならない!




滋賀県東近江市の相谷熊原遺跡とは!そのⅡ

2010年09月20日 | 歴史
縄文草創期の日本最古・相谷熊原遺跡巡りを続けます。

話題の日本最古の土偶について、先ず紹介します。





写真は、相谷熊原遺跡から出土した、完全な土偶1体及び三重県飯南町粥見井尻遺跡から出土した、これまでの日本最古の土偶。

国内最古級の相谷土偶が、完全な形で出土したと発表した。

縄文時代草創期の住居群跡は全国で数例、土偶では三重県の粥見井尻遺跡で2点しか発見されていない。粥見井尻土偶の写真は、1999年1月当遺跡の現地説明会でのもの。

従って今回の発見は、縄文草創期の土偶としては、2遺跡・3例目となる。

写真のように、相谷土偶の方が、粥見井尻土偶よりも芸術的な優美さに秀でている。造形的に豊満な胴体像を表現していると思われる。

相谷土偶は、鈴鹿山脈を挟んで相対しているとはいえ、粥見井尻土偶との共通性は見出せない。

今回の発見は、移動生活から定住が始まった時期の暮らしや文化がうかがえる、貴重な発見。

発見された土偶は、高さ3.1cm、最大幅2.7cm、重さ14.6g。

女性の胴体のみを、胸や腰のくびれも優美に表現し、底は平らで自立するのが特徴。上部に直径3mm、深さ2cmの穴があり、棒で別の頭部をつないだなどの可能性もある。

ところで、日本全国の出土土偶の総数は15,000体ほどあるらしい。出土分布は東日本に偏っており、西日本での出土はまれ。

国宝指定の土偶は、長野県茅野市の縄文中期・縄文ビーナス、青森県八戸市の晩期・合掌土偶及び函館市の縄文後期・中空土偶の3点。







写真は上から、茅野市棚畑遺跡出土のビーナス土偶、八戸市風張遺跡出土の合掌土偶及び函館市著保内野遺跡出土の中空土偶。

これら3点の国宝土偶は、縄文時代も下がって中期以降で、且つ発見された遺跡は関東以東で、特に芸術的な造形美という点で完成されたと云える。

これまで現存する日本最古の土偶は、従来三重県の粥見井尻土偶2点に、今回の相谷土偶を加えて、縄文時代草創期の土偶が3点となった。

日本最古の土偶が、土偶のメッカである東日本ではなく、鈴鹿山脈を挟んで発見されたのは、氷河期が終わったばかりの当時の地形・食糧事情が西日本優位に働いたからに他ならないと思われる。

土偶に託された思想・祈りなどに諸説ある中、母性愛・繁栄などの象徴として、自然発生的に造形化されたものと思われ、定住生活が始まり、集落が形成され始めた西日本に先ず誕生したと云える。





写真は、相谷熊原遺跡から出土した土器で、土器に付着した炭化物を、C14・放射性炭素田代測定法で年代測定に使った土器類。

その結果、全ての土器について、約13.000年前頃という測定数値が出たと云う。

叉石器類も石鏃・有茎尖頭器・刃器など狩猟器のほか、有溝砥石・敲石・凹石・石皿等々日常生活用具などが多量に出土している。

石材には、チャート、サヌカイト、花崗岩などが使われていたらしい。

今回出土した石器剥片が、埋土の上から下まで数多く出土していることから、建物の周囲で石器を製作していた可能性が高いと云う。









滋賀県東近江市の相谷熊原遺跡とは!そのⅠ

2010年09月18日 | 歴史
ここでは、古墳ではありませんが、大変珍しい縄文遺跡が見つかりましたので、以下紹介します。

最近注目の遺跡とは、東近江市の相谷熊原遺跡で、滋賀県東部の平野を流れる愛知川と、その支流である渋川の合流点にある。

ここは愛知川上流の先端部に当たり、山間部と平野部が接する場所で、遺跡の背後には鈴鹿山脈へと繋がる丘陵・山地が広がっており、眼下には琵琶湖と伊勢湾を結ぶ八風街道が通っている。

相谷熊原遺跡は、平成21年から水田の区画を作り替える圃場整備事業のため、試掘調査を実施した結果、ほぼ全域から縄文時代から中世にかけての遺跡・遺構が確認された。





写真は、東近江市の相谷熊原遺跡現場で、背景の鈴鹿山脈につながる山間地に愛知川が見える。それと相谷熊原遺跡がある圃場整備事業の光景。





写真は、平成22年6月6日の相谷熊原遺跡現地説明会の様子と本遺跡から出土した土石流の残痕。

平野部を望む山間地は標高200m余りにあり、愛知川が氾濫を繰返した歴史を思い知らされる。









写真は上から、相谷熊原遺跡出土の竪穴住居跡第2棟と第3棟、計4棟が南西から北東に一直戦に並ぶ竪穴住居跡群及び土偶が見つかった竪穴住居跡第1棟。

滋賀県文化財保護協会は、平成22年5月29日、同県東近江市永源寺相谷町の相谷熊原遺跡で、縄文時代草創期(約1万3000年前)の竪穴住居跡4棟が見つかった。

本遺跡は、三重県境の鈴鹿山脈から流れる愛知川南の河岸段丘にあり、山間地と平野部が接する場所にある。

竪穴住居群は、緩い斜面約100mの間に5棟が連なって確認された。

竪穴建物群は、緩傾斜の尾根が愛知川に向かって延びている、西側谷斜面に沿って造られている。

更に既に埋め戻されていたが、土偶が出土した竪穴住居跡第1棟は、北西の別の場所で見つかっており、合計5棟の縄文時代草創期の竪穴住居跡が検出された。

日本最古級の竪穴住居跡は全国的にも数例で、しかも草創期の建物跡がこれまでの想像を遥かに超える規模で、径約8.0mのいびつな円形で、深さは約0.6~1.0mを測る。

竪穴建物の大きさ・形状・深さなどは構造が明確であり、確立していることから、この時代に高い文化レベルを有していたことが分かる。

作るのに相当な労力がかかる上、多くの土器や石器も出土しており、一定時期でも定住したことが考えられる。

衣食住環境が整っていたとも考えられ、この時期既に定住生活が始まっていたかもしれない。

氷河期が終わり暖かくなりつつあった時代だけに、気候の変化からシカ・イノシシなどの中形の哺乳類が食糧事情を変えさせたことも定住生活を可能にしたとも考えられる。

滋賀県日野町の番場遺跡とは!

2010年09月16日 | 歴史
滋賀県下の古墳巡りを続けます。

滋賀県文化財保護協会は、平成21年2月、日野町の番場遺跡から、古墳時代中期の木製網代が出土したと発表した。

本古墳は、蒲生野と呼ばれた地域の南部に広がる日野川流域の古墳で、今回の発掘調査では、5世紀後半の川跡から、全国でも出土例が少ない大型の木製網代・土師器・須恵器など多くの遺物が出土したと云う。

出土した遺物の量からも、調査地区周辺には当時、大きな集落跡があったことが分かったらしい。

しかし本遺跡は、道路下に埋め戻され、現在はその痕跡を留めていない。

又大型木製網代としては全国最古級とみられ、有力者の建物の外壁や屋根に使われていた可能性が高いという。





写真は、本古墳から出土した、木製網代を剥がしたサンプル及び考えられる用途例の図式。

木製網代は、針葉樹の木材を幅2~3cm・厚さ0.1cm以下に薄くはぎ平面状に編む。
四角形に近い形状で長辺約120cm・短辺約90cm。川底跡から見つかり、周辺の土器から古墳時代中期の5世紀後半のもの。

協会によると、古墳時代の大型木製網代は全国的にも珍しい。これまでの確認例はいずれも古墳時代後期で、護岸構造材として利用されていたらしい。

今回の網代の用途は不明だが、協会は「同時代の家形埴輪の外壁や屋根に網代の模様があり、地域首長クラスの建物の部材である可能性が高い」としている。

手工芸の精度・熟練度やデザイン性など、当時の生活文化レベルの一端が垣間見て取れる。

同遺跡は国道477号線の工事に伴って平成20年7月から平成21年1月まで発掘調査し、網代のほか土師器や須恵器片なども出土したと言う。



写真は、本古墳から出土した土師器で、壷・甕などミニチュア化されたもの。

他にも、川跡から多量の土師器・須恵器などが出土したと云う。

集落には、豪族の家とみられる大型の建物跡が確認されておらず、上流から流れ着いたかもしれない。





滋賀県愛荘町の金剛寺野古墳群とは!

2010年09月14日 | 歴史
これからも、滋賀県下の古墳群を巡ります。

金剛寺野古墳群は、愛荘町の宇曽川沿い、国道307号線をはさんで広がっている。

6世紀後半から7世紀頃、この地で活躍した渡来系豪族の依智秦氏(えちはたうじ)の一族の古墳群と考えられ、全体で300基ほどが確認されている。

昭和51・52年に圃場整備事業に伴い、事前発掘調査が行なわれた結果、県下でも最大規模の300基近い古墳群が発見されたが、戦後の開墾によりほとんどの墳丘は破壊され、農地化されてしまった。







写真は上から、現在の“依智秦氏の里古墳公園”で、湖東三山と湖東自然散策道及び近江米の田圃に囲まれている様子。

最下段の写真は、圃場整備事業完了時に建てられた記念石碑。

「依智秦氏の里公園」には、上蚊野地区の円墳10基が保存され、これらは県史跡に指定されている。

平成の名水百選の一つに選出されている「愛荘町山比古湧水」のある滋賀県愛知郡愛荘町は、人口が約2万人で、滋賀県の中央東部にある町。

愛荘町は、2006年2月に、秦荘町と愛知川町の合併により誕生した。

愛荘町の観光スポットには、竹平楼・八幡神社・みゆき公園・目賀田城跡公園・国史跡の金剛寺庭園・歴史文化博物館・ふれあい広場・手おりの里金剛苑・宇曽川ダム・依智秦氏の里古墳公園などが所在する。





写真は、“依智秦氏の里公園”入口の看板と同公園の風景。

愛荘町の上蚊野地区には102基、近くの蚊野外古墳群には196基の古墳、併せて“金剛寺野古墳群”と称されているが、ほとんどが農地になった。





写真は、本古墳公園内の3号墳・こうもり塚古墳と7号墳・たぬき塚古墳。

古墳公園内10基の古墳のうち、こうもり塚は、横穴式石室を持つ構造で、大型の円墳であり、家族墓として使われたらしい。

一方たぬき塚は、竪穴系横口式石室と呼ばれる、階段式石室構造をもつ、小型古墳。

本古墳には2種類の異なった構造の石室を持ち、一つはこうもり塚古墳のような横穴式石室で、もう一つは、たぬき塚古墳の竪穴系横口式石室と呼ばれ、階段式の石室構造になっている。







写真は、たぬき塚古墳の石室入口と石室内部及び同石室から出土した、須恵器の長頚形壷。
写真のように、羨道より玄室が35cmほど低く、階段状になっている。

この竪穴系横口式石室は、関西地方でも類例が見られるが、全国的には北九州地方に集中していると云う。

このように北九州とのかかわりが深く、特異な石室形態と相まって、渡来系豪族の依智秦氏に関係が深いと推測されている。

古墳に「こうもり塚」や「たぬき塚」という名前が付いているが、昔、古墳の中に実際にタヌキやコウモリがすみついていたことから、この名が残っていると云われている。

渡来系氏族の秦氏は、先進の土木技術・農業技術を用い5世紀末頃から京都盆地を開発した豪族で、朝廷の側近として、平安京の造営にも関わったといわれるほどの勢力を持ち、京都の太秦にその地名を残している。




大津市の南滋賀遺跡とは!

2010年09月12日 | 歴史
大津市教委が平成22年5月、同市南志賀の南滋賀遺跡で、朝鮮半島の特徴を持つ、6世紀後半・古墳時代後期の大壁造り建物1棟の跡や移動式の竈などが見つかったと発表した。

本遺跡は、弥生~平安時代の複合遺跡で、弥生時代には集落が営まれ、方形周溝墓などからなる墓域で著名な遺跡。

今回の発掘調査では、古墳時代の大壁造り建物・掘立柱建物・竪穴建物・造り付けカマドなどの遺構が見つかったと云う。

約2km北の穴太遺跡(あのういせき)でも今年2月、同時期の大壁造り建物2棟の跡などが出土しており、比叡東麓に渡来系の人々が集落を広範囲に営んでいたことを裏付ける発見としている。

大壁造り建物の規模は、東辺約8.5mを測り、中央部で溝が途切れることから、出入口と考えられている。建物の周囲を巡る溝に立てた柱を芯にし、土壁を設ける工法で、滋賀・奈良両県以外では珍しく、大半が渡来人の集落で見つかっている。





写真は、南滋賀遺跡から出土しつつある、柱材を伴う大壁造り建物跡及び同遺跡の大壁造り建物の復元模型。

平成22年2月から約750㎡を発掘したところ、大壁造り建物の柱材23本(最長80cm)が20~50cmの幅をもって良好な状態で検出し、叉土師器・須恵器などの土器類のほか、移動式の竈・下駄などの木製品なども多く見つかった。

据え付けの竈の跡なども検出されたが、大壁造り建物と併存していたかどうかは不明で、用途などによって建物を使い分けていた可能性もあるという。


大津市の滋賀里遺跡とは!

2010年09月10日 | 歴史
ここで、一先ず大阪平野の古墳巡りを離れ、滋賀県大津市に注目します。

大津市滋賀里遺跡は、大津市滋賀里のJR湖西線沿線にある遺跡で、これまで数次にわたる発掘調査の結果、縄文時代や弥生時代の墓をはじめとする、多くの遺構・遺物が出土している。

本遺跡は、昭和29年の発掘調査で初めて明らかになった遺跡で、その後に行われた湖西線建設に伴う発掘調査により、縄文時代晩期の墓地跡と貝塚などが発見され、同時代を代表する遺跡としてよく知られている。







写真は上から、滋賀里遺跡の現地説明会光景、同遺跡現場の平成22年8月現在の光景及び同遺跡から望む比叡山とその山麓の風景。

本遺跡の墓地は、土壙墓と甕棺、合わせて80基余りからなり、人骨も数例が残っていたと云う。これらの遺構とともに、当時の土器や木製品などの生活用具類が大量に見つかっている。





写真は、滋賀里遺跡から出土した、“滋賀里式”縄文土器及び滋賀里弥生土器。

滋賀里遺跡から多く出土する土器群は、「滋賀里式」と呼ばれ、近畿地方の約3,000年前の縄文時代晩期を代表する、基準の土器となっている。

大津地方に稲作をもたらした弥生文化が伝わったのは、弥市時代前期中頃で、錦織地区から滋賀里付近に定着し、この地域を中心に発展した。

この頃、丘陵裾から平野部にかけて南滋賀遺跡で方形周溝墓が造られた。

4世紀なると、大津にも地域首長の大古墳が出現し、皇子山1号墳・和邇大塚山古墳・膳所茶臼山古墳などが造営された。

今回の発掘調査では、調査区のほぼ中央を流れる河川跡から、古墳時代前期から中期頃にかけての水辺で穢れを祓ったり、作物の豊穣を祈ったりする、祭祀に使用されたと見られる遺物が数多く見つかっている。











写真は上から、滋賀里遺跡から出土した有孔円盤土器、勾玉と石剣、臼玉及び同遺跡から出土した須恵器と土師器。

祭祀用遺物としては、写真のような、鏡を模したとされる有孔円盤、剣形・勾玉、数珠状につなげてネックレスや腕輪に使用した臼玉や管玉をはじめてとして、小型丸底壷などの精製土器、赤採を施した小型の椀なども出土している。

叉弥生時代後期から古墳時代前期の土器の中には、北陸や東海地方の特徴を持つもの、大阪生駒山西麓地方の粘土で作られたものがあり、周辺地域との活発な交流を示す遺物が数多く見つかっている。

その後6世紀後半から7世紀にかけ、小豪族の家族墓と見られる群集墓が、琵琶湖西岸地域に集中し、特に坂本から南志賀の群集墳は、ドーム状の天井や炊飯具型土器の副葬などの特色があり、その風習から朝鮮半島に起源を持つ渡来人の墓と見られている。





大阪岬町の白峠山古墳とは!

2010年09月07日 | 歴史
白峠山古墳は、独立丘陵の頂部を利用した径20mほどの円墳だが、頂部に国民宿舎が建っており、個人所有の古墳は、頂上部だけを残して崖状に削られてしまっている。









写真は上から、白峠山古墳遠景と国民宿舎光景、同古墳の削られてしまった内部墳丘状況、同古墳現在の荒廃した墳丘光景及び墳頂から望む大阪湾。

山頂には展望台が作られ、その直下に石室が現存しているが、展望台から眺めると、大阪湾に関空が浮かんでいる。

国民宿舎は、現在閉鎖されている。



写真は、白峠山古墳の石室内部。

本古墳石室は、和泉砂岩の割石を用いた横穴式石室で、全長約6m・玄室長2.72m・玄室幅2.07m・羨道長3.3m・羨道幅0.9-0.95mを測る。

羨道の前には地山を利用した、長さ5.2mほどの墓道を設けている。玄室内には小礫を敷き詰め、中央には排水溝も設けられているが、天井はコンクリート板で覆われている。

方形に近い玄室内形状やシキミ石(小判形の石)の使用などに紀州の影響が見られる。

1967年の帝塚山大学考古学研究室による調査で、須恵器・耳環・瑪瑙(めのう)製勾玉・緑泥岩製勾玉・琥珀製とう玉・ガラス製小玉・水晶製切り子玉・金銅環・杯に流し込んで作った鉄塊が出土している。

本古墳は、6世紀中葉から7世紀前葉にかけて築造されたと見られており、1972年に大阪府指定史跡になった。


大阪岬町の鴻ノ巣山古墳群とは!

2010年09月05日 | 歴史
鴻ノ巣山古墳群は、番川の右岸、淡輪遺跡の背後、鴻ノ巣山丘陵尾根筋にあり、2つの尾根筋の北側の尾根に4基、南側尾根に5基の計9基からなる、経8m~10mの6世紀末円墳。









写真は、鴻ノ巣山1号墳案内看板、鴻ノ巣山1号墳墳丘の様子、同古墳石室入口及び同古墳の石室側壁。

本古墳は民家に囲まれた、個人所有の大阪府指定史跡。

1970年の大阪府教育委員会の調査により、4基の古墳が調査され、横穴式石室を持っていることが確認されている。1号憤の石室は、玄室長約2.5m・玄室幅1.4~1.5mほど・玄門幅0.95m・羨道幅1.2m・羨道長さ1mほどを測る。

玄門の石材を内側に突出される構造は、8号・9号憤にも見られ、閾石(シキミイシ・小判形の石)の使用が9号憤に見られ、これらからは紀ノ川流域の影響が窺える。

叉1号憤石室の天井はアーチ型になっており、1970年の発掘調査では須恵器・土師器・金銅環・滑石製紡錘車などが出土したらしい。



写真は、同古墳墳頂から望む大阪湾の光景。

風光明媚な場所に位置し、復元された石室が完全に残り、個人所有ながら、1976年に大阪府指定の史跡になっている。



大阪岬町の宇度墓古墳とは!

2010年09月03日 | 歴史
岬町は大阪府の最南端に位置し、東西約10km・南北約6kmの広がりを有し、総面積は約49.14k㎡。

西は和泉山脈に囲まれ、東は阪南市と丘陵を境に、また南は和歌山県に接しているが、北は大阪湾に面し、西から東北に連なる和泉山脈から派生した尾根が海岸付近まで延びて、山地と丘陵が海岸に迫っている。

町域の大部分が山で覆われており、全面積の約80%を占めている。





写真は、岬町内の古墳群マッピング及び手前の淡輪漁港に面した向かって右手の西陵古墳と左側の宇度墓古墳。

岬町の古墳群は、平野町域を北方に流れながら、和泉山脈から大阪湾に注いでいる、4つの大きな河川の河口付近に存在しているが、中でも番川流域には淡輪集落が存在し、これまでに特徴のある歴史文化を形成してきた。

岬町で最古の遺跡は淡輪遺跡で、この遺跡内で旧石器時代の石器が発見されている。

紀伊から和泉へ向かう海の交通路として、その中間地点となる岬町は、大阪湾の入り口であることから、非常に重要な地域であったようで、岬町には、200mを越える前方後円墳がこの狭い平野の中に2基も存在している。

大阪湾の淡輪漁港に面して造られた、“西陵古墳”と“宇度塚古墳”は、被葬者の海との関わりの深さが想像され、紀伊を本拠地とする人物の墓と考えられる。

宇度墓古墳と西陵古墳は、いずれも大きさで河内や奈良の大王墓にも匹敵する。











写真は上から、字度墓古墳の空撮光景、同古墳正面入口、同古墳全景、同古墳周濠東側と西側の光景。

宇度墓古墳は、南海本線「淡輪駅」より徒歩5分ぐらいの所にあり、番川の形成する沖積平野の傾斜面に位置する、全長約200m・前方部幅約120m・後円部経約110mを測る3段築成の前方後円墳で、5世紀後期の築造とされている。

南側くびれ部に方形の造りだしを持ち、本来北側にもあったと推定される。

別名“淡輪ニサンザイ古墳”とも呼ばれ、垂仁天皇第2皇子・五十瓊敷入彦命(いにしきりひこのみこと)の陵墓とされ、宮内庁の管轄下にある「陵墓参考地」。

周濠には満々と水を蓄え、堂々たる前方後円墳で、周濠は盾形で外堤がめぐり、南側では浅い外堀の存在が確認されている。



写真は、宇度墓古墳の1号陪塚。

周濠の外側に、後円部を取り囲むように7基の円墳と方墳の陪塚が巡っており、これらの内の1基から刀剣が発見されたと伝えられるほか、埴輪の散布もみられるが、内部構造や副葬品はほとんど分かっていない。

この古墳は、国指定史跡の西陵古墳に続いて築造されたと考えられ、被葬者は紀伊を本貫地とする人物が葬られているのではないかと想定されている。

当時渡来人達が、海からやってきてまず海岸縁に居を構え、そこに覇を唱えたのがよくわかる。朝鮮半島からの渡来人達は、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸南部、泉南部、そして紀州北部へと根付いていったのではないか。

山の向こう側には大谷古墳があり、その更に南には広大な山肌におびただしい数で造られた岩橋千塚古墳群があり、いずれも朝鮮半島からの渡来を窺わせる出土品が出ていると云う。




堺市の百舌鳥古墳群とは!そのⅡ

2010年09月01日 | 歴史
百舌鳥古墳群巡りを続けます。

百舌鳥古墳群最大の大仙古墳を造るには、毎日2,000人の人々が働いても15年以上はかかったという権力の象徴的存在。叉墳丘の周りには水を湛えた濠が三重に巡り、大仙の名にふさわしい、神秘的な悠久の仙山として、地元では大仙陵と呼ばれてきた。

ところで世界最大規模の第16代仁徳天皇陵は、出土物から5世紀中葉~末ごろの可能性が高いと言われる。

しかし仁徳天皇は4世紀中葉の人物である為、仁徳天皇陵でないことはハッキリしている。

大仙古墳の出土物等から、この時期に大和朝廷を統一国家として治世した第21代雄略天皇陵である可能性が高いと言われているが・・・・。

いずれにしても、頑迷に発掘調査を拒否している宮内庁方針が変わらない限り、ことの矛盾は今後とも延々と続く。

履中天皇陵は、百舌鳥古墳群の南部に位置する、前方後円墳で、大きさは全長約360m・後円部径205m・高さ約25m・前方部幅約237m・高さ約23mで、日本で3番目の大きさ。

履中天皇は、仁徳天皇よりも後の時代の人物とされているが、考古学の発掘成果から、履中陵・上石津ミサンザイ古墳は大仙陵古墳よりも古い時代に造築されたと考えられている。

土師ニサンザイ古墳は、百舌鳥古墳群の南東の端に位置し、墳丘は3段構築で全長は約290m・後円部径は約156m・高さ約24m・前方部幅は約226m・高さ約22.5mで、前方部を西に向けており左右に造り出しがある。

全国で8番目の大きさで、現在の周濠は一重だが、二重目の濠が一部確認されていると云う。

土師ニサンザイ古墳は、宮内庁が陵墓参考地に指定されているものの、天皇は埋葬されていないとされている。5世紀後半の築造と考えられており、百舌鳥古墳群の大型古墳の中では最も時代が新しい。

本格的な百舌鳥古墳形成は、古市古墳群にやや遅れて開始され、立地条件も古市古墳群とは異なる。





写真は、羽曳野市の巨大な応神天皇陵遠景及び同天皇陵の外濠光景。

古市古墳群は羽曳野丘陵の残丘を利用して築かれてきたが、百舌鳥古墳群は大量の盛り土が必要な平地に築かれている。

写真のように、古市古墳群を代表する、誉田御廟山古墳(元応神陵)は、日本第2位の墳丘長約425mを誇る築造で、埴輪は野焼きではなく、全て窯で焼かれ、外表面の仕上げが統一されると共に、墳丘が精美に仕上がるなど築造管理が行き届いていたらしい。

一方百舌鳥古墳群の墳丘の向きに着目した場合、前方部を北西西に向けている古墳群と南南西に向けている古墳群に分類されていると云う。

それでは、百舌鳥古墳群が造営された歴史的背景・地理的条件などを振り返ってみたい。

百舌鳥古墳群は、5世紀・宋書による倭の五王(讃、珍、済、興、武)の時代に築造された。

3世紀中頃に三輪山麓の大和・柳本古墳群に築かれた倭王国の陵墓は、4世紀の中頃に奈良盆地の北の佐紀古墳群に移り、4世紀の後半から5世紀には河内平野の古市・百舌鳥古墳群に移った。





写真は、代表的な大和・柳本古墳群の桜井市崇神天皇陵及び代表的な佐紀古墳群の奈良市山陵町の佐紀石塚山古墳前景。

古墳群変遷の歴史的事実を、倭の実権が三輪王朝から河内王朝に移ったとするか、河内に誕生した新しい王権が倭王権を呑み込んだとするか、倭王権の河内進出とするかなど種々の説がある。

大和王朝そのものは、引続き大和に君臨しているわけで、陵墓としては、下記の通り、立地条件などに恵まれた河内平野に進出したと見るのが自然の流れと思われるが。

5世紀の日本は、中国・朝鮮などとの対外関係もひっ迫し、河内地域の政権支配層の約30%は渡来人が占めたと云われ、渡来人による文明開化が進んだ時代。

須恵器・馬具・武器・鉄・金属文化などが飛躍的に発達し、現在の大阪の中心部を占めていた河内湖の開拓や大規模な治水工事も可能になった。

そのような技術革新が巨大古墳を生んだと云える。

その技術革新を生んだ大王として、応神天皇や仁徳天皇が登場するが、その実体についての確かな文献・文字資料はない。急激な技術革新は、むしろ、騎馬民族征服王朝と共に運ばれてきたとする説もある。

河内平野の百舌鳥・古市古墳群の巨大陵墓の有様は、これらの事情を説明する有力な手懸りとなり、6世紀以降の大和朝廷確立への鍵であるはずが、詳細が分からず、陵墓および陵墓参考地として宮内庁管轄下のままで、明治以降は立入り・調査は許されず、もどかしさが残っている。

陵墓に埋葬された天皇名は、書紀や延喜式による文献、中国・南朝の宋書に記された倭の五王との対応、陵墓周辺からたまたま発掘された資料或いは過去の発掘品などから想像されているにすぎず、実情は不明。