近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 慶喜・婚約結婚へ

2007年04月27日 | 文化
学問・稽古を打ち止めた1855年、慶喜は19歳にして、一条家の養女・美賀子(21歳)と結婚し、自身も参議に任ぜられた。

慶喜12歳の時、一条忠香の娘・千代と婚約したが、千代が疱瘡を患い、アバタ顔になったという理由で、破談になってしまった。
しかし一条家は、慶喜との縁談になお熱心で、代わりに、江戸時代後期の公卿・今出川公久の娘・“菊亭家の延”こと、徳川美賀子を養女に迎い入れ、3ヵ月後には、慶喜との婚約にこぎつけている。

美賀子は、面長で鼻筋が通り、口が小さく、眼もと涼しげで、京人形のように美しく艶やかな娘だったと言う。



写真は、関白一条家が開山した菩提寺・京都の雪舟寺山門。

一橋家も、あくまで名門・一条家との縁談にこだわったように窺える。
一条家は、五摂家の一つで公家であり、幕末期の当主・一条忠香の三女・美子は明治天皇の皇后になったというように、藤原氏北家に遡る名家。

しかし実際、美賀子との結婚生活は、仲睦まじくとはいかなったようだ。
それと云うのも、結婚間もなく慶喜は謹慎生活を余儀なくされ、後見職になってからも慶喜は京都、美賀子は江戸という別居生活を強いられたことが大きい。

明治維新後、謹慎が解かれると、ようやく静岡へ美賀子を迎えるが、その時には既に側室がそばにおり、子供は全て側室から生まれ、美賀子との間には子供がなかった。二人の側室からは21人の子宝に恵まれたが・・・・・。

何度か身ごもったにもかかわらず、結局みな早世して子宝に恵まれなかったのは、最初の婚約相手・千代姫の呪いという噂まで立てられていたそうだ。



写真は、東京JR日暮里駅前谷川霊園内の徳川慶喜と美賀子の墓所

静岡時代の美賀子は、散歩・花見・紅葉狩り・湯治などで過ごし、美賀子は一人で出かけることが多かったと云う。
晩年、乳癌に冒され、療養のため、一人東京に戻ったが、明治27年、千駄ヶ谷の徳川邸で死没。享年60歳。

最後の将軍の妻であったにもかかわらず、美賀子はあまり知られていないのは、余り知られたくないからかもしれない。

大阪文化とは! おわりに

2007年04月08日 | 文化
ついに最終日になってしまった。今日まで何とか繋げてきたが、そろそろ幕引きのタイミングがやってきた。
そこで最後に一言苦言を申し上げたい。

20数年間、大阪郊外に在住してきて、特に昨今「大阪は元気がない!」と実感している。
地盤沈下が著しい大阪を、かつてのように、東京に並ぶ都市に再生するにはどうしたらよいか?



写真は、大阪文化の将来をどのように創り、変えていくのか、総決算を必要とするイメージ・イラスト。

1994年から2004年にわたる調査で、経済成長率・人口増減率・事業所増減率・製造品出荷増減率など20項目の総合ランキングでは、全国都道府県の中で、大阪府は44位と限りなく下位に低迷してきた。

特に大阪産業基盤の特徴である、中小企業のパワーが落ちてきている。
益々厳しくなっている企業間競争の中で、沈滞ムードが広がっているのは、何が原因しているのか?

同じ関西でも京都の地場産業が、元気が良いのは何故か?学ぶ点はないのか?
“官”に期待するのには、およそ大阪気質的ではないが、大阪府・大阪市の財政破綻状況は全国的にも余りにも酷い。

大阪の伝統に反することを知りつつ、今日まで“官におんぶにだっこ”の結果が、財政破綻・地盤沈下の大きな原因と云える。
連日のように報道されている、財政破綻のお粗末な内容には、憤りを超えて、何とも空しい限りだ。

これ以上財政に期待するのは無理となれば、何とか“民”の力で再生を図らざるを得ない。



写真は、復活を渇望する“生産現場からの声”。
月並みではあるが、大阪再生への道筋は、かつての大阪商人のような、チャレンジ精神・“世界一の製品”を生み出す開発パワーしかないと信じる。



写真は、大阪の将来を心配そうに見据えているように見える大阪城天守閣。

過去の成功体験が大きいだけに、それを乗り越えるだけの“リスクテイキング”ができるかどうか、財界・経済人・企業家・商店街などが挙げて「活力ある街」を再現して欲しい。

最後に泣き言が出ましたが、長い間ご覧頂きありがとうございました。
又次のテーマでお会いしましょう!それまでしばらくお待ち下さい。
次のテーマは、幕末・維新の風雲児と云える、「徳川慶喜」を取上げる予定。
では又、「おおきに!」・「さいなら!」


「大阪文化」を振り返って

2007年04月07日 | 文化
今日まで、「大阪文化」を巡り、広く・浅く概観してきたが、このテーマを閉めるに当たり、再度大阪文化を象徴するキーワードを探し、整理してみたい。

先ず「庶民文化」では、伝統上方文化であり、民力の躍動・民活・自由な発想であり、水の都・大坂城下町であり、町人の学問所・商人の町大坂の寺小屋である。

「大阪商人」では、ヒト・モノ・カネが集中する“天下の台所”であり、大阪を中心とする全国的流通体制があり、地元生産者と大阪中央市場を結ぶネットワークがあり、生産基地・消費市場としての大都市大阪があり、かつては堂島米市場・大坂の蔵屋敷に見た商工業の拠点であり、又豪商たちの誕生もあった。

大阪らしさ・大阪のイメージでは、大阪人のど根性・商慣習であり、大阪の風土・おばちゃんイメージであり、大阪そのものがブランドでもあった。



写真は、可愛らしく表現した、大阪人気質のイメージ。
大阪人気質では、“もったいない”文化であり、目立ちたがり・品性・イラチが問われ、実利主義・金銭感覚・ホスピタリティーでもあった。

大阪人のマナーでは、ルール軽視・実益上位の価値観であり、守銭奴・儲け主義でもあった。

コミュニケーションでは、大阪弁の効用・なにわ言葉・言葉の文化差が取上げられ、“ボケ”と“ツッコミ”が指摘された。

食文化では、河内・和泉など地域特性を活かした農業・産業のネットワークがあり、食の専門店・多彩な飲食店・道頓堀界隈を中心とした観光都市大阪の横顔であり、食道楽を支えた食料品流通の知恵であり、粉もんに代表される“食い倒れ大阪”の簡素な食品があり、昆布出汁にこだわる食通でもあった。

行動様式では、特異な消費行動であり、阪神タイガース・ファンの行動であり、エスカレーター文化の違いであったりした。

上述のように多岐にわたるテーマ・サブテーマを纏め上げると、ひょっとして「大阪学」に通じる、締めくくりができるのではないかと自負する次第。
「ほんまでっか!」


大阪の歴史散歩 大阪の新しい息吹

2007年04月06日 | 文化
大阪中央区のビジネスパーク、通称OBPは、かつて大和川・淀川等が合流する河川敷で、石山本願寺の脇にある水運の要所であったと云う。
石山本願寺を巡る織田信長と蓮如率いる一向宗の間で激しい戦いが繰り広がられた古戦場でもあった。

その後日本陸軍の大砲を製造していた大阪砲兵工廠が、この地に建てられたが、1945年に米軍による爆撃で全焼し、戦後は20年以上も更地のままであった。

その後更地は大阪市に返還され、再開発計画により東京・新宿副都心のような高層ビルを建設し、新たな街づくりを進めることで、大阪ビジネスパークが誕生した。





写真は、空から望む大阪ビジネスパークの全景及び大阪城の頭越しに聳える、オフィスビル群の光景。
高層ビルの高さは意図的に150m程度に統一されており、美しいスカイラインを形成している。すっかり新都心としての体裁を整えるに至った。

その外部環境は、写真のように大阪城公園の緑と連続する、豊かな都市緑地を形成しており、初期の目標である、優れた環境の中のオフィス街づくりは十分に実現されたと云える。

水と緑に囲まれた大阪城公園が広がる場所で、柔らかな光の乱反射を見せる川を隔て、26haの敷地を誇るビジネス街が展開されている。

古を今に伝える大阪城と調和し、緑豊かな自然が息づく「世界に開かれた国際情報都市OBP」は、超高層ビルなど15棟がたちならび、ビジネスを軸に展開する複合都市として、次代を見据えた街づくりの代表事例。

史跡・大阪城をも含むこの地区は、市内でも唯一最大の歴史と景観の地であり、今ではホテルを含む超近代的なOBPが加わり、ここ一帯はこれまでにない新しい観光地となった。





写真は、寝屋川水辺に沿い、草花で彩られたリバーサイド・プロムナード及び緑豊かで、ゆったりしたビルの谷間。

OBPを取り巻く水辺には、11~14mの幅を持つリバーサイド・プロムナード公園が続く。大阪城公園と一体となった潤いのある都市環境を演出している。

又OBPの公開空地に日本で始めての都市型「ビオトープ」は、自然の生態系空間の再生を意味する言葉で、ビオ(生物)と場所を意味するトープからなる合成語で、これまでも我が国でいくつか開発が試みられてきたが、これほど大規模に、しかも都市の真中に開発されたのは初めてと云う。



写真は、OBPの真中に誕生した「ビオトープ」。
「ビオトープ」が、トンボやチョウなどの昆虫、メダカやモツゴなどの魚、多くの小鳥たちなどが生き生さとして生息する緑豊かな広場となることは、ストレスの多い都会で働く人々に、くつろぎの場を提供すると同時に、新鮮な驚きをも提供する施設となる事が期待されている。

そしてさらに一歩踏み込んで、積極的に自然生態系との共存を実現した、新しい都市開発のあり方を考える上でも、モデルケースとして注目されている。
「おもろいやん!」


大阪人気質 アメリカ村とは!

2007年04月05日 | 文化
今日は、日本では珍しい大規模なアメリカ村を取上げる。
大阪は「日本」の文化圏じゃないと云う偏見が、一部の外国人の間にある。
と云うのも、本来謙虚さ・つつましさが日本人のイメージであってみれば、大阪人はチョット違う。
ということが、大阪人はアメリカ人に似ていると云われる由縁かも。

肩肘張った東京人は付き合いにくく、大阪人のノリは馴染みやすいと云う。
大阪人はざっくばらんで、本音で付き合ってくれる辺りがアメリカ人好みかもしれない。派手で自己主張が強い、ファッションなどにも共通する点がある。

又大阪の街は、騒々しいほど賑やかで、アメリカ人には受入れやすく、現にアメリカ人訪問者が多い。





写真は、アメリカ村街頭昼間の姿で、下は三角公園の光景。

アメリカ村は、心斎橋近辺で、御堂筋より西側・長堀通より南側の地域を指す。若者文化の集積地で、「西の原宿」と呼ばれ、東京の原宿と六本木が一緒になったような印象と云う。



写真は、アメリカ村のたこ焼き店。
唯違うのは、たこ焼き屋の前には行列ができ、アメリカ村なのに、何故“たこ焼き”? でも大阪らしくて微笑ましい。

この地域に点在する店舗数は約2,500店とも云われている。
30年余り前までは、付近の百貨店の倉庫や住宅が並ぶ地域であったが、倉庫を利用して、アメリカ西海岸・ハワイの直輸入品やジーンズなどの古着を扱う店が増え始めたことから、「アメリカ村」と呼ばれるようになった。





写真は、アメリカ村の輸入雑貨・衣服店頭及びレコード店頭。
今や輸入雑貨・映画・スポーツクラブ・ファッション・レコード・レストランなどが立ち並ぶ若者・大学生の文化・流行の発信地となり、休日には20万人もが訪れると云う。

昼間は買い物客や観光客で賑わっているが、夜はCLUBに遊びに行く若者がうろうろしている繁華街に変貌。



写真は、アメリカ村夜の表情。
1990年代中頃から、異常な混雑・低年齢化、各店頭の大音響・建物に目立ち始めた落書きなど、街の荒廃が問題になり始めた。

更に2000年頃から、主として中高生向けの街となってしまったことを嫌った20歳代以上の若者層が、隣接する南船場・西側の堀江などに流れてしまったことで、アメリカ村は一時期より衰退傾向にあると云う。

最近では、治安回復を目指し、監視カメラの増設など治安改善への取組みが本格化し、失地回復に余念がない。
アメリカ村の復活・再生に期待したい。「ほんまでっせ!」


大阪の歴史散歩 水運の歴史

2007年04月04日 | 文化
大阪市域面積の約1割は水面が占め、都市に残された貴重なオープンスペースである市内河川では、治水整備だけでなく、環境に配慮した様々な整備が行われてきた。 





写真は、土佐掘川から直ぐの木津川下流及び木津川大橋の光景。

大阪・京都府境界で桂川、宇治川、木津川の三川が合流して大河・淀川となるが、古代から為政者たちは、淀川をコントロールしようと治水に力を注いできた。





写真は、大阪周辺を横断する淀川の光景及び川にはつきものの橋で、2号線に架かる淀川大橋。

淀川の治水のはじまりとされるのは、4世紀に仁徳天皇が築造を命じたという“茨田堤(まんだのつつみ)”。「難波の堀江」開削の記述も日本書紀にある。
“茨田堤”は大河・淀川の中洲に堤防をめぐらせて川の流れを分断し、氾濫を予防すると共に、農地開拓と用水確保を可能にしたという。

淀川と大坂を語る上で欠かせないのは豊臣秀吉であり、その秀吉は1594年に、まず宇治川と巨椋池を堤防で分離し、京都-大坂間に文禄堤を築造したと云う。
 堤防は街道としても整備が進み、中心地の京都と大坂を直結する京街道と淀川の舟運で、水陸の大動脈を造り、舟運は江戸時代に黄金期を迎えることになった。

江戸時代の京阪間には、淀川に“三十石船”と呼ばれる貨客船が往来し、客船は毎日50便ほどが京阪を往復していたと云う。

と云うことで、「八百八橋」と呼ばれた大坂は、水路が縦横無尽に張り巡らされ、淀川と市中を結ぶ運河を記した古地図によると、安治川の開削で大坂港も整備が進み、一大物流拠点として、米だけなく各地からの物資が集中した大坂は、「天下の台所」としてゆるぎない地位を占めるに至った。

一方ナニワの「八百八橋」は、川と共に橋の街として名を馳せた。
「天満橋」・「天神橋」・「難波橋」の難波三大橋を始め、淀屋橋・水晶橋などの市内の橋のほか、淀川や大和川という大河に架かる枚方大橋や大和橋があるが、心斎橋・四ツ橋などは地名に名前を残すだけ。

しかし、かくも賑わった水路も、現在ではわずか道頓堀と東横堀川が、かつての名残をとどめているだけ。

そして淀川はやがて土砂で川床が浅くなり、水上交通の往来に支障をきたしたため、導入されたばかりの蒸気船をスムーズに運航させるため、土砂の流出を減らす砂防堰堤構築や植林が必要となった。

 上流の山々は、江戸時代から建築材の切り出しが続いたため裸地化し、大雨のたびに大量の土砂流出を繰り返していた。

一方道頓堀川の開削に伴って、道頓堀川の周辺では、歌舞伎の中座などの芝居小屋が集積し、劇場の街として栄えた。
明治の中頃まで、観劇には屋形船や茶船を利用していたと云う。





写真は、高速道路直下の東横堀川及び堀川通から望む東横堀川にはチョット緑が覗く。

その後、交通の発達や近代化の波は街をのみ込み、かつて栄華を極めた水都の面影を見つけ出すのは難しいほど。
「水都」と呼ばれた、大阪も近代化に伴って、河川は埋め立てられ、川の真上に蓋をするような形で高速道路が造られて、今や川は暗く澱んでいる。

能率と効率を追求した高度成長期にコンクリートと高い堤防で隔絶し、川に背を向けた大阪!
しかし現在では、船の川下りなど水にまつわる取組みがあちこちで始まり、水に対する市民の関心は高まりつつある。国や府、市も水都再生に向けて動き始めた。
失う時は一瞬でも、それを取り戻すには、長い年月と情熱が必要。

下水道整備や工場排水規制による河川に入る前の段階での水質改善のほか、水門操作・水面清掃などの河川における様々な水質浄化関連事業に着手し、以後水質は大幅に改善されつつある。



写真は、現在進行中の道頓堀川水辺整備事業の光景。
例えば、道頓堀川水辺整備事業は、大阪市が掲げるまちづくりの目標「水の都・大阪」再生に向け、道頓堀川の水辺に親水性の高い遊歩道を整備し、潤いある新鮮な空間によって都市魅力の向上に寄与することをめざしている。

水都・大阪の再生こそ、商都・大阪復活の最大の目玉になることは間違いないと確信する!!!!「ええやん!」


関西の伝統上方文化 お花見

2007年04月03日 | 文化
先ずお花見の歴史を振り返ってみると、奈良時代に持統天皇が花見のために、当時から桜の名所であった吉野山を訪れていることなどが『日本書紀』に書かれているが、 平安時代に入ると、野生の桜を都に移植して鑑賞するようになったと云う。

花見の習慣は、平安時代に嵯峨天皇が御所内に桜を植えさせて宴を催したのが始まりといわれ、その後、貴族から武士・庶民へと広がり、都から地方へと伝播していった。

桃山時代になると、豊臣秀吉が奈良・吉野と京都・醍醐で盛大な花見を催し、花見の楽しみが一般にも広く知られるようになり、庶民にも一層身近なものになったと云う。



写真は、京都醍醐寺のソメイヨシノ。
特に、1598年に秀吉が醍醐寺で行った“醍醐の花見”が有名で、この宴のために、秀吉は三宝院を再建し、自ら設計して庭園を造り、つぼみをつけた700本の桜を移植したと云う。

そして秀吉をはじめ、秀頼・北政所・淀殿など千数百名の女性が華やかな装いで花見を楽しんだという記録が残されている。

現在は毎年4月上旬に、桃山時代の華麗な装束を身にまとった行列が、2,000本の桜が咲き誇る境内を華やかに練り歩く、“太閤花見行列”が往時の花見絵巻のように再現されている。
今日のお花見の伝統は、秀吉時代に遡り、華やかな物見遊山的慣習が伝承されてきたといえそうだ。







写真は上から、4月3日現在、大阪城公園の7分咲き位のソメイヨシノサクラ、及び大川の水上バスから見上げるさくら。

大阪では、大阪城内の西の丸庭園を中心に約4,300本に及ぶ、ソメイヨシノ、ヤマザクラ、オヤマザクラ、サトザクラなど重なり合い、又大阪城外周の大川の水上バスから見る両岸のさくらは絶景。

昨年「平成の通り抜け」プロジェクトがスタートしたが、提唱者は大阪出身の世界的建築家・安藤忠雄氏で、大川・土佐堀川・堂島川の両岸を7キロに渡り、1,000本ものさくら並木にするとのことで、本年1月小泉総理も出席して植樹式が挙行された。

又大阪では、毎年4月中旬に、80~100万人が訪れている「大阪造幣局・桜の通り抜け」が一般に開放されている。

大阪造幣局の桜並木はさまざまな八重桜が植えられており、ソメイヨシノなどの花見が終わったころに公開されることで良く知られている。
「ええやん!」

大阪人の行動様式 自己中心主義

2007年04月02日 | 文化
大阪人の気ぜわしさは、“イラチ”=“大阪人”とも表現されるように、イラチの代名詞みたいに云われるが、大阪市内を見聞される外国人・日本人観光客なども、大阪人の歩く早さは、日本一どころか、世界一とも印象付けられ、ビックリ仰天してしまうそうな?????。
国際交通安全学会誌によれば、世界一とか。

世界的にも異常な歩行スピードは、ラッシュアワー時の雑踏の中では、一段と“無秩序の極め”を露呈することになる。



写真は、かつて高度成長期の“地下鉄心斎橋駅”構内の雑踏振り。

私が嘗て現役時代に、梅田駅・淀屋橋駅で体験した、ラッシュ時の無秩序な歩行・ランニングに近い行動は実に酷い。
肩はぶつかり合い、足は踏まれ、蹴飛ばされ、バックは跳ね飛ばされそうになるなど、通勤・通学風景は、将に原始的・非文明国家の象徴以外の何者でもない!
勿論一部の人々の行動パターンではあるが・・・・・。

元々歩行者が、信号待ちで青になるのを待てない人種で、青になる数秒前にはもう交差点を渡り始める大阪人の行動パターンはイラチ現象そのもの!

極めて限られた狭い歩行通路を、駆け足或いは競歩スピードで、縦横無尽に往来する雑踏現象は、まともな神経の持主が、ノイローゼを引起しても不思議ではない。

以前に取上げた通り、右側通行か左か、歩行者交通規則が曖昧模糊な状態の中で、ラッシュ時となれば、手に負えない状況になることは目に見えている。

又電車のスピードまでもが速く、ある調査によれば、東京の平均時速43キロに対して、大阪では平均時速64キロとか云うから、ほぼ5割増しのスピード、これをどう理解したらよいか?????



写真は、”JR宝塚線”の生々しく悲惨な脱線事故現場。
そこでどうしても思い起こされるのが、写真のような、前代未聞のJR宝塚線の脱線事故。

JR西日本の安全軽視の姿勢が、次から次へと明らかになるにつけ、経営優先・乗客後回しの運行ポリシー・システムには、弁護の余地は全く無い。

一方で、定時運行・所要時間短縮は、利用者側の強い要望であり、特に通勤・通学のラッシュ時に、電車の到着が1分遅れれば、乗り換えスケジュールに関わる一大事。

利用者が非難轟々するのも分かるが、私鉄の乗車占有率が高い関西の電車利用事情から、JR西日本の無謀な意欲先行が軌道を逸脱してしまった?????

大阪人が、もうチョット余裕時間を持って、通勤・通学できないかが問われているとも云えるが・・・・・。

JR側の弁護の余地はないが、大阪人の行動様式・エチケットについて、改めて考えさせられることではある。
「なんでやねん!」


大阪人の行動様式 「阪神タイガース」を巡り

2007年04月01日 | 文化
プロ野球球団「阪神タイガース」の本拠地と云えば、兵庫県西宮市にある「甲子園球場」で、日本で最初に誕生した野球場であり、春・夏の高校野球が開催される、「高校野球の聖地」であると共に、数々のドラマを生んだ、伝統ある「野球の聖地」でもある。

甲子園球場は1924年に完成し、両翼96m・センター120m・収容員数50,400余りと全国一二を争う大規模球場で、完成した1924年の干支に因んで、「甲(えのき)」「子(ね)」が重なることから縁起をかついで、「甲子園」と名付けられたと云う。

「甲子園」と言えば、今では数少ない天然芝を植え、バックネット裏の「銀傘」が名物となり、もう一つの名物・“浜風”は試合の流れを180度変えてしまうほどで、「甲子園には魔物が棲んでいる!」と揶揄される由縁。

又阪神タイガースのホームグラウンドとして、六甲おろしが鳴り渡る独特な雰囲気、お客様を盛り上げるべく様々な音響が鳴り響く、夜宴の野球場は、ここ西宮市でしか楽しむことができない、専売特許と云える。





写真は、現在開催されている、第79回選抜高校野球大会の準々決勝の攻防戦。3月31日、郷土高校が出場するため、応援に行ったきました!
好天に恵まれ、外野に植えつけられた、青々とした芝生が目に沁みるほど。
ほぼ満席の野球場で繰広げられている高校野球宴は、プロ野球試合とは違って、味方チームがリードされていても、むきにならずに楽しむことができるし、何とも不思議だが、清々しい気分で観戦してしまう。

甲子園球場も開場以来、齢・83歳を迎え、場内設備の全面改装に着手する予定で、2010年の完成を目指すとか。





写真は、現在の甲子園球場外壁の様子で、改修工事待ちの状況。下の写真が、現在も張り付けられている蔦で、チョット元気がない。
写真のように、あの“蔦”が現在はシートで被われているが、甲子園球場のシンボルとされる蔦も、一旦伐採されてから植え替えられる予定と云う。

尚伝えられるところによると、野球場改修工事費の一部は、阪神タイガースの元エース・井川投手がニューヨーク・ヤンキースへポスティングシステムにより移籍された、見返りのトレードマネーで賄われるとか・・・・・・・・。

ところで、本論に移り、阪神タイガース・ファンにみる大阪文化とは何か?
なぜ年間350万人もの観客が甲子園球場に行くのか?

ジェット風船を飛ばしたり、メガホンを打ち鳴らしたり、応援のパフォーマンスにのめり込んだ観客は、観ることから参加することへと変容していた。

勝ち負けより、興奮できたゲームであったかどうかが大事で、観る値打ちがあるかどうかで判断し、 面白い試合だったら「もと」が取れたと満足する。
興奮するという「感情」を「勘定」に読み替えるので、むしろ弱いタイガースが、逆に観客を惹きつけるという面白い現象が起きた。

1986から2002年まで最下位が指定席なほど、長い低迷が続き、2003年やっと稀に見る独走で、18年振りにリーグ優勝を達成した。

阪神タイガース・ファンは、“はっぴ”を着て、応援グッズを持つことで、仲間であることを表明した途端に一体感が生まれる?
風船をくれたり、応援グッズを貸してくれたり、相手を受け入れる雰囲気を創り出してくれる。

六甲おろしの応援歌は、ただ単に観客を煽るだけではなく、同時に、観客を鎮め、一体感を醸成する働きを持っているようだ。

何とも不思議な阪神タイガース・ファン現象は、群集心理学では説明がつかない、大阪文化・大阪人の特異な珍現象としか言いようがない!
「オモロイやん!」


大阪人のマナー 遊郭の現状

2007年03月31日 | 文化
今日は、既に取上げた主題テーマ・大阪人のマナーのうち、これまた置き忘れてしまった”遊郭”について概括してみたい。

“遊郭”は治安や風紀を統制するため、公許の遊女屋を集めて、周囲を塀などで囲った区画で、成立は安土桃山時代に遡る。
16世紀後半、秀吉の治世時代に、道頓堀川北岸で始まった遊郭は、その後京都へ波及し、17世紀になると江戸でも遊郭が誕生したと云う。

大坂の新町・京都の島原・江戸の吉原は三大遊郭と呼ばれた。
これら以外にも、江戸期には全国20数ヶ所に、公許の遊郭が存在したと云う。

江戸時代当初の遊廓は、代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもあった。
富裕な町人や、武家・公家を客とした、上級の遊女は、芸事にも秀で、文学などの教養が必要とされていたと云う。

明治に入り、「芸娼妓解放令」が出され、遊郭を郊外に移転するなど、規制が施行されたが、実態は変わらなかった。

第二次大戦終了後、公娼制度は廃止されたが、“赤線”と呼ばれる通称で残されたままであった。
昭和33年には「売春防止法」が成立し、公娼地域の遊郭は歴史上幕を閉じた。
しかし大阪の飛田新地・松島新地など、当時の趣をそのまま残している地域が幾つかある。





写真は、現在の西成区飛田地区の街並及び料亭・百番の店頭。

飛田遊郭は、難波新地が火災で全焼した後、大正初期に築かれた遊郭で、昭和初期には200軒を超えるまでに繁盛したと云う。
かつては新世界から通天閣へ、そこから南へ飛田新地まで繁華街が続いていたと云う。

戦災により多くが焼失したが、戦後赤線として復活し、昭和33年の売春防止法施行以降は、料亭街として、当時の雰囲気を伝えていると云う。

表向きは料亭の看板を掲げているが、営業内容は以前のままで、料亭に転向したという名目で、実質売春防止法適用を免れているようだ。

このあたりの対応は、業者・顧客とも実利主義本位で、生活のパターン・慣習優先で、法遵守・ルールは二の次と云う、大阪らしい利便性上位の姿が現われている。一部大阪人の快楽志向が黙認されている?????「あほくさ!」







写真は上から、戦前“松島遊郭”であった場所で、現在は松島公園として開放され、その西隣に残る、現在の九条・松島地区の風俗街と風俗店頭。

松島遊郭は、明治初期に近くの川口居留地の繁栄策として営業をスタートさせたが、大坂市中に散在していた非公認の遊所を一ヶ所に集めるためであったらしい。

大正期後半には、楼閣270軒以上・芸妓4000人など、日本最大の花街・大歓楽街であったと云う。

そして明治の大火災・大阪大空襲によって二度にわたり、松島遊郭は灰燼と帰したが、戦後には西隣に松島新地として誕生し、“売春防止法”発布後も、飛田新地と同じく、料亭街として存続している。

この界隈は、昼と夜の顔が一変すると云う。
「ほんまでっか!」


大坂の伝統上方文化 天満・天神繁盛亭の誕生

2007年03月30日 | 文化
昨日やっと悲願が達成でき、昨年9月オープンにこぎ着けた「天満・天神繁盛亭」を見聞に行ってきました。
本日は、見聞録とでも言いますか、その印象を申し上げ、落語ファンを元気付けることができればと願って、ここに紹介する。

素晴らしい「定席」小屋誕生に、ずばり感激・感動しました。

上方落語協会と天神橋筋商店連合会の連携で結実した上方文化の新しいシンボルであり、同商店街では、「天満・天神繁昌亭」を核とした新たな町づくりを目指し、「芸能の町」復活に向けスタートしたが、前途は洋洋と云える。

「定打ち小屋」土地の確保や建設費の募金活動に奔走された、関係者のご苦労に拍手を送りたい。





写真は、天満宮の入口にオープンした「天満・天神繁盛亭」の雄姿。

元来、天満宮界隈は、明治・大正期、落語や浪曲の定席が立ち並んでいた「芸能の町」であり、吉本興業発祥の地でもある当地に、天満宮の駐車場を無償提供してもらって、いわば寄付でできたのは「大阪らしさを取り戻してほしいという願い」が込められている。

元々町人が文化を支えてきたのが大阪の伝統であり、ナニワの意地を見せた「天満・天神繁昌亭」の成功を、心から祈りたい。





写真は、亭内への受付・売店・会場の雰囲気及び会場内2階から見た舞台正面。

256席全てが自由席である座席配置を含む亭内レイアウト・舞台装置・音響装置・演出など申し分なく、演目のバラエティー・運営などもほぼ完璧で、欲を言えば、座席前後の幅が狭く、座席への出入りにチョット難があるが、これも関係者の繁盛意欲の現われとも思える。

演目を大まかに紹介すると、上方落語・江戸落語・京落語と趣向を凝らした演出に加え、仲入を挟んで、前後にお笑い曲芸・曲独楽を挿入して変化をつけ、計10演目・正味3時間の興行は観客を飽きさせない。

又各演者の熱の篭った芸には、TVなどで観るのとは違い、新鮮味を感じた。
おまけに前売り券2,000円(当日券は2,500円)は他のエンターテイメントに比べても割安であり、十分値打ちがある。再度行って見たい気持ちにさせる。

聞くところによると、開業以来平日昼席を含め、空席率は低く、極めて順調に営業しているとこと。

「天満・天神繁盛亭」にかける期待が大きいだけに、是非とも成功して欲しいし、現在までの経過を見る限り、期待に十分応えられると見た。
「すきやねん、がんばってや!」


大阪人気質 おばちゃんのイメージ

2007年03月29日 | 文化
これから数日は、主題テーマが既に取上げられたテーマに戻るが、置き忘れたサブ・テーマを拾い上げていくので、悪しからず!

先ず大阪の代名詞の一つである「大阪のおばちゃん」が今もって健在であり、一般的に背が低く、少し小太り、豹柄の衣服を着て、大声で機関銃のように喋り捲る。新幹線車内であれ、レストラン内であれ、トイレであれ、どこでも3人寄れば・・・・で、周囲には全くお構い無しで喋り捲る。
そして、おせっかいでズバズバ・ズケズケとお喋りし、やたら厚かましく口をだし、物怖じしないイメージが強い。





写真は、大阪のおばちゃんをイメージしたスナップ写真。何となくイメージが脳裏を掠めそうな傑作?

でも「大阪おばちゃんのイメージ」を裏返せば、衣服の派手さはサービス精神の現われであり、大声でうるさいが、笑いで周りを明るく包み、ズバズバというが、ホンネであるから気持ちが良いし、おせっかいの厚かましさは、愛嬌との表裏であり、物怖じしない強引さは、たくましさの裏返しでもある。

大阪のおばちゃんを憎めないのは、表裏両面を持ち、一見常識外れのように見えても、実は愛すべきひょうきんな一面も持ち合わせている。
これぞ大阪のおばちゃんのパワーの源であり、今やテレビCMに取上げられるほどの人気ものであり、説得力がある。

話題を集めた、静岡県放映の「振り込め詐欺」予防CMに主演した、3人の大阪のおばちゃんが、えげつなさ過ぎるとして一部抗議が出たが、静岡県としては、詐欺予防に実績があるだけに、おばちゃんパワーに頼った経緯がある。

大阪府警によると、電話をしてきた犯人に「あんさん、誰だんねん、うちの息子は“オレオレ”いう名前とちゃいまっせ!」と逆に質問攻めにして犯人を撃退したとか。
更に話がおかしいと思ったり、疑わしい場合は、躊躇することなく電話の相手に“怪しい”と意思表示できる、物怖じしないパワーは、なるほど分かるような気がする。

大阪のおばちゃん人気は留まるところを知らず、おばちゃんの人生訓で包んだ、大阪名物のたこ焼き味のライススナック「おばちゃんチップス」が江崎グリコのネットで売り出された。

大阪の大学と企画会社が共同で「おばちゃんチップス」が提供する、「おばちゃんがええ言うたらそれでええねん!」・「己を信じて貫き通すんが勝ちや!」などの人生訓6種類から、スナック・人生訓を選択できる。
イラストもヒョウ柄やジャージー着用などコテコテのスタイルで、同名の映画もできたほど。

チョット変わったところで、大阪のおばちゃんならではの厚かましさは、高速道路のトイレで、女性用トイレがこんでいるからと、男性の方に入っている女性がいると聞く。
一方「男性が女性のトイレに入るのを見かけたら痴漢とみなします!」との張り紙が、男性のトイレに貼られているとは、何とも皮肉な笑いを誘う。

今や無形文化財並みの大阪のおばちゃんは、大阪の庶民文化を代表する、記念碑的存在であることは間違いない。
「しゃあない!」


大阪人の行動様式・嗜好の違い 大阪の特性

2007年03月28日 | 文化
昨今の生活様式の顕著な傾向として、全国的均質化という事実が挙げられる。
とにかく、日常生活の中で「地方色」が消滅しつつあると云われる。

例えば、都市型ホテルは、東京・大阪など巨大都市圏のみならず、県庁所在地・地方の中小都市にも、現在は近代設備の整ったホテルが存在し、サービスも全国ほとんど共通になった。
 
 飲食店のメニューやスーパーの品揃えもほぼ全国均一で、地方特有の食品や調理法が「地方文化」の一環として多少残ってはいるが、代わり映えしない。
 
県庁所在地には、かならず百貨店があり、衣料品から家具にいたるまで東京、大阪など扱っているのと同じ品目・ブランドが品揃えされている。
地方都市でもグッチ・セリーヌ等々のヨーロッパのブランド品々・贅沢品が百貨店の店頭に並んでいる。
極端に言えば、全国津々浦々にゆきわたっていると云える。

 このような均質化は、巨大流通業の発達・国民所得の平準化により可能となった。
 都市と農村、中央と地方といった格差は、ほぼ完全に消滅したとみてよい。
国全体が均質化の傾向に向かってきたことは、一方で所得格差など個人生活レベルの格差が広がる社会現象の中では、一面喜ばしいこと。

 それでも地域特性が残っているのは、歴史的伝統というものであろうか?



写真は、秋田名産の塩魚汁、「しょっつる」。
極端な例では、秋田県の「しょっつる」はタイ、ベトナムなどで使用されているものと製法も全く同じで、これが何故秋田県と出雲の一部だけに残っているのか?????

 或いは南九州では、数世紀にわたって、焼酎を愛好してきた。
大量生産と大量流通によって、消費生活が均質化しているにもかかわらず、伝統の力以外のなにものでもない。決して生活水準が低いからではなく、生活の構造・嗜好形態が違うからで、何とも説明が付きにくい。

嗜好傾向の違いで大阪・東京を比較すると、大阪は特級日本酒の消費量が東京の約3倍、東京では二級ウィスキーが大阪の9倍、牛肉は大阪が東京の約2倍、マグロは東京が大阪の3.6倍など、なかなか説明が付きにくい統計数値が踊る。

アルコールは東京が洋風、肉類などは大阪が洋風と相矛盾する。





写真は、大阪・東京の地域特性を物語っている、一般大衆食品として、東京のあなご丼と大阪のやきそば定食。

嗜好品以外の地域特性として、大阪・東京を比較すると、例えば人気TV番組は、大阪が漫才などお笑い娯楽番組、東京は大河ドラマや深刻なドラマなどで、歴史・文化・伝統などが折り重なった違いとして、何となく分かるような気がする。

どちらが良く・どちらが悪いという性質ではなく、全国どこに行っても残っている、地域固有の特性・地域文化であり、地域特性にまつわる文化財なども含めて、サブ・カルチャーとして大切に維持・保存したいもの。

 日本が均質化に向かっている反面、同時に地域特性がより明確にされつつあることも事実。
地域特性と全国的な共有・統一への動きが共存していると云える。「おもろいやん!」


大阪食文化 粉もん・たこ焼き最新情報そのⅡ

2007年03月27日 | 文化
3月24日付けの新聞に、次のような記事が目に飛び込んできた。
「「たこ焼き」の老舗が、先月約1年ぶりに復活した。大阪市北区浪花町の「天五中崎通商店街」の一角にある「うまい屋」だ。近所の火災が燃え広がり店は全焼。後継ぎの急死が重なり廃業の危機を迎えたが、家族の力を合わせて再出発にこぎつけた。焼け残った創業以来の大看板の下、再開を待ちこがれた客の行列が途切れることがない。 ”やっと開いたね。何回も見に来てたんや”、のれんをくぐる客が声をかけてきた。」と云う記事。



写真は、火災焼失後、先月再オープンにこぎつけた「うまい屋」の店頭。
調べてみると、昭和27年創業で、伝統の美味で多くの客を魅了する昔ながらのたこ焼屋。

取手の付いた特注の“たこ焼き鍋”を動かしながら、こまめに火を強めたり弱めたり、7割方焼けたところで生地を継ぎ足すという、独自の手法「2度焼き」で、表面はカリッとしているが、中はモチモチした食感を作り出す。



写真は、焼きあがったばかりの特製「たこ焼き」。
毎朝中央卸売市場から仕入れる新鮮なタコの風味がみごとに調和し、ソースなしでも抜群のうまさを発揮する。

材料は小麦粉からソースまで、全てオリジナルの特注品というこだわりようで、しかも7種類の調味料をブレンドした生地に独特の下味が付けられ、そのままで十分楽しむことができる。 一度ご試食あれ!

それと8個¥300円、12個で¥450円は、平均的なたこ焼きより割安。
遠方より大阪に来た時に、わざわざ立ち寄るほど、根強いファンを持つと云う。
「すきやねん!」


大阪外食産業のルーツ 飲食店事情あれこれ

2007年03月26日 | 文化
大阪の外食店のルーツは、太閤秀吉の治世に、大坂の道頓堀川北岸に遊郭がつくられ、茶道の中のもてなし料理が振舞われたのがスタート。
当時から茶道と料理の世界は一体であるとの考えの下、茶懐石料理の正しい提供の仕方やいただき方の作法などが大事にされたと云う。

一方庶民の間では、町民文化が花を咲かせ、豪商と呼ばれる人々を中心に、廓での遊びを彩る料理がキッカケで料理店が発展していった。
廓の内では豪華な料理が提供さたと云う。

一方廓の外では簡単で手軽な料理店が出現し始めた。
大名のいない大坂では、気ままで合理性重視の商人たちが、安くて旨い料理を求めたため、実利本位の料理店が育った。

この時代から、大坂外食文化の伝統が生まれ・育まれ・継承されてきたと見られる。大坂こそ、庶民向け食文化情報の発信地として現在まで引継がれている。





写真は、大阪ミナミ道頓堀通りの飲食店オンパレードの光景。

昭和に入り、うどんすきの「美々卯」・しゃぶしゃぶの「スエヒロ」、最近では、“とれとれ、ぴちぴち、かに料理♪”の「かに道楽」、煙の出ない焼肉店の「食堂園」などが関西の外食店をリードしてきた。

直近では、大阪JR環状線は大阪市内中心部を一周するが、その各駅周辺はほとんど下町で、どこも個性豊かな飲食街が広がり、庶民の味を試食できる。
TVでの料理番組でも、人気スポットとして、しばしば取上げられている。

大阪繁盛飲食店の基本は、安い・旨いだけではなく、早い・愛想が良いと、四拍子揃わないと成功は覚束ない。





写真は上から、大阪では一般的な、ご飯と麺類のセットメニュー及びお好み焼定食のサンプル。

「安い」では、合理的なセットメニューに人気があり、ボリューム満点で、一品一品より割安感があって、大衆料理店では今や当り前の選択肢となっている。

大阪人はご飯ものを食べないと、食べた気にならないので、“粉もん”でもご飯つきのセットメニューは外食店必至の条件。

東京人が不思議がる「お好み焼定食」・「うどん定食」等々、炭水化物尽くめのセットメニューなどは、店側もサービスする上で、極めて効率的で大阪ならではのアイディア。

「早い」・「愛想が良い」では、大阪の飲食店は、店員の動きが良く、愛想も良く、又大きな声で客をテーブルに導き、注文を取り、「まいど」で客に感謝し・送り出すという、サービス・サイクルは当り前で、必要条件と云えるほど。

大阪の街角では、一般論として元気がよく、声が大きい飲食店は流行っている。
店舗間の「早い」サービス条件では、分刻みの厳しい競争を強いられていると云える。
「ほんまでっか!」