近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪岬町の西陵古墳とは!

2015年03月08日 | 歴史
ここからは、大阪岬町の古墳群のうち、西陵古墳について紹介する。

西陵古墳は、墳丘長約210m・後円部直径115m・高さ18m・前方部幅108m・長さ110m・高さ14mほどの前方後円墳で、全国第31位の大きさを誇り、又近くには全長約170mの“宇度墓古墳”(淡輪ニサンザイ古墳)があり、巨大古墳が二つも並ぶこの地は、重要な紀伊水軍拠点であったことが窺い知れる。

ここでは、紀氏の活躍ぶりについて、和歌山市に境界を接する、大阪府岬町の中期の古墳を取上げる。

と云うのは、朝鮮半島との密接な交流を物語る貴重な資料の数々や、大和朝廷の生命線とも云える、大阪湾岸・河川を含む制海権を牛耳っていたこともあり、当時の紀氏の絶大なパワーを追ってみたい。





写真は、西陵古墳の墳丘と周濠光景。

本古墳が所在する淡輪地域は、番川によって形成された小さな平野で、そのほぼ中央に大阪湾を見下ろすような位置にあり、太正11年に国史跡に指定されている。

墳丘の周りは、写真の通り、幅25~40mの水をたたえた周濠が巡り、これらを含めると全長が300mにもなると云う。

本古墳は、垂仁天皇王子・五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)宇度の陵墓として宮内庁が管理しているが、古墳時代中期の5世紀前半頃の築造。

周濠外部からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形・盾形・短甲形・家形埴輪といった埴輪類が見つかり、墳丘にはこれら埴輪が配列され、葺石も施されていたと云う。

後円部には、主体施設として、かつて凝灰岩製の長持形石棺の蓋石が一部露出していたが、大正11年に埋め戻されたと云う。

大和政権が、大和から河内そして和泉に進出し、仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳が作られたのは、5世紀の半ばで、紀伊から和泉へ向かう海上交通路として、その中間地点となる岬町は、大阪湾の入り口にある点から重要な戦略拠点。

岬町の古墳時代は、まさに巨大古墳を中心とした時代であり、古墳の規模或いは豪華な副葬品からすれば、相当な権力をもつ被葬者が想像されるが、紀伊水軍を管掌する首長の古墳ではないか?

被葬者としては、紀小弓宿禰とする説、紀船守とする説、五十瓊敷入彦命とする説があるが・・・・・。





写真は、岬町白峠山古墳頂上から見下ろす、大阪湾と岬町風景及び船守神社と楠木。

岬町は、大阪湾に面した町であることから、海上交通に関連した職務に携わった、しかも古代国家政権に大きな影響のある町であったことは間違いない。

本古墳近くには、淡輪の氏神にもなっている船守神社があり、紀船守・紀小弓宿弥・五十瓊敷入彦命の三神を祀っている、由緒深い紀氏の氏神神社。

船守神社本殿は、桃山式三社造千鳥波風神殿造りで重要文化財として登録され、又境内の大楠の木は、樹齢700年ほどと大阪府随一の大きさを誇る。





宮内庁、大阪・岬の陵墓を公開「淡輪ニサンザイ古墳」とは!

2015年03月01日 | 歴史
大阪岬町の古墳といえば、先ずは代表的な淡輪ニサンザイ古墳について紹介する。

大阪府泉南郡岬町淡輪にある前方後円墳は、宮内庁が平成26年12月5日、垂仁(すいにん)天皇の皇子、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の墓「宇土墓(うどのはか)」に指定している陵墓「淡輪(たんのわ)ニサンザイ古墳」(前方後円墳、全長172m)とされ、当古墳の発掘調査現場を報道関係者に公開した。

岬町は和歌山県境に近く、大阪湾に面した場所に築かれている。学界では水運に影響力を持つ紀伊地方(和歌山県)の首長クラスの墓とする説が有力。

午後には考古・歴史学の学会代表らに公開するが、同古墳の本体が発掘調査されるのは初めてと云う。







写真は上から、淡輪ニサンザイ古墳の上空写真、同古墳の墳丘光景及び発掘調査で出土した葺石・埴輪群等。

昭和42年以降、同庁は全国の陵墓等で整備工事を実施しているが、事前に遺構を確認し、工法を決める目的で考古学的調査を行い、現場を公開している。

淡輪ニサンザイ古墳でも、周濠の水に浸食されて墳丘が崩れるのを防ぐため護岸が検討されており、平成26年10月から同庁書陵部が墳丘の裾部分を発掘していた。

古墳の裾部分を20カ所発掘。墳丘は農業用水に使われた堀の水の量を増やすために後世に削られており、築造時の全長は200m前後だったことが分かった。

現在、前方部と後円部の間から突出する「造り出し」は南側だけに残っているが、当初は北側にもあったことも確認された。

南側の造り出しには墳丘表面を覆った葺石がよく残っており、古墳本体との間から円筒形と朝顔形の埴輪が列になって出土。

上面や周囲から家や盾、貴人にさしかける蓋などの形をした埴輪片が多数見つかったが、埴輪の形から古墳が5世紀中ごろ~後半に築造されたことが確実になった。

日本書紀によると、五十瓊敷入彦命は景行(けいこう)天皇の同母兄で、鉄刀など武器の生産を指揮したとされる。

しかし研究者の間では、古墳は過去に出土した埴輪などから、465年に雄略天皇の命で朝鮮半島の新羅と戦い、現地で病死して「田身輪邑(たむわのむら)」に葬られた、と日本書紀に記された豪族・紀小弓(きのおゆみ)(現在の和歌山県地方の豪族)の墓とする説もある。

和歌山県境に近く、大阪湾に面した場所に築かれているため、学界では水運に影響力を持つ紀伊地方(和歌山県)の首長クラスの墓とする説。