乙奈良県高取町市尾の天満神社内で新たに見つかった、円墳について更に続けます。
市尾天満古墳の墳丘は中世の盗掘と、江戸時代まで墓に転用されていた影響を受けているが、基底部と、石室に出入りする通路(幅1.5m、奥行き4~5m)を確認。
内部から出土した須恵器の甕や石材の加工技術から築造時期を特定した。
写真は、市尾天満古墳の円墳墳丘遠景、同墳丘側壁が崩れている様子、同墳丘から望む市尾遠景及び同古墳北側後背面の光景。
墳丘の北側背面は幅40~50m、高さ5mにわたって大規模に造成。墳丘は一部が壊されており、直径は一回り大きい約30mだった可能性があるとみている。
一帯は、大化改新後に左大臣となった巨勢徳太(とこだ)(593~658年)ら巨勢氏の本拠地とされている。
乙巳の変の時、活躍した人物が巨勢徳多で、蘇我入鹿が暗殺された後、蘇我氏はその復讐のために立ち上がろうとしたが、中心は東漢氏だった。
乙巳の変とは中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。
その東漢氏をなだめて兵を引かせたのが、巨勢徳多だったと云う。
近くには、巨勢氏の有力者の墓とされる国史跡・市尾墓山古墳(6世紀前半、前方後円墳)や同・市尾宮塚古墳(同中ごろ、同)も存在する。
町教委は「市尾天満古墳は規模や立地、羨道から推測される石室の特徴などから、両古墳の系譜をひく墓とみられ、一族の有力者の墓だろう」と話している。
和田萃・京都教育大名誉教授の話として、「一帯は後に藤原京(694~710年)の造営で国家的な瓦の生産を行った地域。少なくとも7世紀前半には有力な豪族が経済的、技術的な基盤を築いていたことがうかがえる」としている。
市尾天満古墳の墳丘は中世の盗掘と、江戸時代まで墓に転用されていた影響を受けているが、基底部と、石室に出入りする通路(幅1.5m、奥行き4~5m)を確認。
内部から出土した須恵器の甕や石材の加工技術から築造時期を特定した。
写真は、市尾天満古墳の円墳墳丘遠景、同墳丘側壁が崩れている様子、同墳丘から望む市尾遠景及び同古墳北側後背面の光景。
墳丘の北側背面は幅40~50m、高さ5mにわたって大規模に造成。墳丘は一部が壊されており、直径は一回り大きい約30mだった可能性があるとみている。
一帯は、大化改新後に左大臣となった巨勢徳太(とこだ)(593~658年)ら巨勢氏の本拠地とされている。
乙巳の変の時、活躍した人物が巨勢徳多で、蘇我入鹿が暗殺された後、蘇我氏はその復讐のために立ち上がろうとしたが、中心は東漢氏だった。
乙巳の変とは中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。
その東漢氏をなだめて兵を引かせたのが、巨勢徳多だったと云う。
近くには、巨勢氏の有力者の墓とされる国史跡・市尾墓山古墳(6世紀前半、前方後円墳)や同・市尾宮塚古墳(同中ごろ、同)も存在する。
町教委は「市尾天満古墳は規模や立地、羨道から推測される石室の特徴などから、両古墳の系譜をひく墓とみられ、一族の有力者の墓だろう」と話している。
和田萃・京都教育大名誉教授の話として、「一帯は後に藤原京(694~710年)の造営で国家的な瓦の生産を行った地域。少なくとも7世紀前半には有力な豪族が経済的、技術的な基盤を築いていたことがうかがえる」としている。