近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

奈良県高取町で円墳発見、巨勢氏一族の墓?そのⅡ

2013年11月27日 | 歴史
乙奈良県高取町市尾の天満神社内で新たに見つかった、円墳について更に続けます。

市尾天満古墳の墳丘は中世の盗掘と、江戸時代まで墓に転用されていた影響を受けているが、基底部と、石室に出入りする通路(幅1.5m、奥行き4~5m)を確認。

内部から出土した須恵器の甕や石材の加工技術から築造時期を特定した。









写真は、市尾天満古墳の円墳墳丘遠景、同墳丘側壁が崩れている様子、同墳丘から望む市尾遠景及び同古墳北側後背面の光景。

墳丘の北側背面は幅40~50m、高さ5mにわたって大規模に造成。墳丘は一部が壊されており、直径は一回り大きい約30mだった可能性があるとみている。

一帯は、大化改新後に左大臣となった巨勢徳太(とこだ)(593~658年)ら巨勢氏の本拠地とされている。

乙巳の変の時、活躍した人物が巨勢徳多で、蘇我入鹿が暗殺された後、蘇我氏はその復讐のために立ち上がろうとしたが、中心は東漢氏だった。

乙巳の変とは中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変。

その東漢氏をなだめて兵を引かせたのが、巨勢徳多だったと云う。

近くには、巨勢氏の有力者の墓とされる国史跡・市尾墓山古墳(6世紀前半、前方後円墳)や同・市尾宮塚古墳(同中ごろ、同)も存在する。

町教委は「市尾天満古墳は規模や立地、羨道から推測される石室の特徴などから、両古墳の系譜をひく墓とみられ、一族の有力者の墓だろう」と話している。

和田萃・京都教育大名誉教授の話として、「一帯は後に藤原京(694~710年)の造営で国家的な瓦の生産を行った地域。少なくとも7世紀前半には有力な豪族が経済的、技術的な基盤を築いていたことがうかがえる」としている。

奈良県高取町で円墳発見、巨勢氏一族の墓?

2013年11月04日 | 歴史
それでは、市尾天満古墳について、詳細を見てみよう。

奈良県高取町市尾で、7世紀前半の古墳が見つかったと同町教委が明らかにした。

直径約24mの円墳で、横穴式石室の一部も出土した。本古墳は、天満神社敷地内にあり、「市尾天満古墳」と命名された。

一帯は飛鳥時代、蘇我氏らと並ぶ権勢を誇り、大化改新で活躍した大豪族・巨勢氏の本拠地とされており、町教委は被葬者が一族の有力者だった可能性が高いとみている。

奈良の三輪山大神神社の宮司は、代々巨勢氏であったと見られ、巨勢氏は継体天皇の擁立・乙巳の変・壬申の乱等、古代史の大事件には必ず登場する一族で、日本の創始以来続く、名門豪族の一つ。

高取町は、奈良県高市郡の中にある町で、現在、高市郡は、この高取町と明日香村の一町一村しかないが、橿原市や大和高田市の一部も昔は高市郡だったと云う。









写真は、天満神社が鎮座する丘陵、同神社石段に導かれた鳥居、拝殿及び同神社内で見つかった市尾宮塚古墳石室入口。

近鉄市尾駅前の県道120号線を西へ向かうと、県道の右に独立丘陵が迫り、丘上に天満神社が鎮座している。

鳥居の手前に樟の巨木が有る。天満神社は古くからある神社らしいが、創建は不明と云う。

県道から天満神社への緩やかな石段を上がった中ほどに、今回見つかった市尾天満古墳が、拝殿の前から右の脇道へ入ると直ぐ、市尾宮塚古墳がある。





写真は、奈良県高取町市尾の巨勢氏一族の円墳発掘現場及び遺跡周辺の概略地図。

市尾天満古墳は町内遺跡の分布調査で発見されたが、平成25年2月から発掘調査していた。

この続きは次回に譲ります。