近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン 岩手県大船渡市の“長谷堂貝塚”とは!

2007年08月31日 | 歴史
長谷堂貝塚は、大船渡湾最奥の海岸に続く緩傾斜面にあり、現在の海岸より3kmほど北方・標高約20mに位置し、盛川東岸の河岸段丘上に立地する。

昭和30・46年の発掘調査では7地点から貝塚が発見され、縄文中期・後期・晩期から弥生時代にかけての集落跡であることが判明した。

貝層はアサリを主体にハマグリ・マガキ・ウミニナ・アカニシなど、魚類はイワシ・マグロなど、哺乳類ではイノシシ・二ホンジカ・イヌ・タヌキなどの骨類が出土した。

人工遺物では土器・石器の他、骨角牙器・骨角刺突具・骨製や貝製装身具・土製装身具、更には仰臥・屈葬人骨などが検出された。

又近年では平成8・9・11年にも断続的に発掘調査が行なわれ、縄文中期の竪穴住居跡40棟・掘立柱建物跡6棟・土壙約200基、縄文晩期の竪穴住居跡7棟・掘立柱建物跡3棟などの遺構が見つかっている。

縄文晩期の集落跡からは、直径約11mにも及ぶ環状列石が見つかり、その周囲には柱穴が直径約1m・深さ約2mの掘立柱建物跡が検出され、周辺の土壙墓などと考え合わせると、“葬送儀礼の場所”と見られる。



写真は、本長谷堂貝塚現場。
リアス式海岸特有の深い入江・大船渡湾の最奥部に位置する集落跡は、5ha余りの広さに及ぶ。

県立大船渡高校の東南約200m付近にあり、南北に水系を備えた日当たりの良い高台で、海・山の幸に恵まれた、住み易い地域であったと思われる。

貝殻の散布範囲は、一辺が約7mから15mほどで比較的小規模だが、遺物包含層は広範囲にわたっていたと云う。
砂泥底質に生息する貝類や哺乳類の遺物に比べ、魚骨の割合が極めて低いことから、当集落の生業基盤は木の実・貝類採集と狩猟が主体で、漁労活動は二次的であったと見られる。







写真上からクマ牙製ペンダント・貝輪・鹿角製ヤス・モリ・ソケットなどと続く。
鹿角牙・貝製品では、ヤス・モリ・ソケットなど鹿角製刺突具をはじめ、貝輪やクマの牙に加工した穿孔垂飾品などが検出された。

他にも“穿孔骨針”・“イノシシ・犬歯製垂飾品”・鹿角に彫刻した装飾品なども出土し、多種多様にわたる。







写真は、本貝塚から出土した、深鉢土器、壷及び漆入れ土器。
縄文中期の大木式深鉢土器、縄文晩期の大洞式壷や同晩期の大洞式漆入れ土器などが検出された。

 漆入れ土器は底に漆が残り固まった状態で見つかったと云うが、県内では二例目の発見で、貴重な資料として注目されている。漆塗り櫛・弓・椀などに使われたと見られる。

 これら以外にも縄文後期の門前式・堀之内式・加曾利式などの土器や県内で初めて弥生時代の甕・鉢などが見つかっている。

気仙地方の遺跡分布によると、縄文終末期には全国最高の高密度で数多くの集落が存在していたが、弥生時代にはその数が激減し、稲作農耕を主体とする弥生時代には辺境の地として大きく変貌したことを物語っている。

縄文人の謎・ロマン 岩手県陸前高田市の“中沢浜貝塚”とは!

2007年08月30日 | 歴史
陸前高田市の中沢浜貝塚は、太平洋に大きく突き出した広田半島先端部付近の大森山山麓に広がる西側斜面にあり、貝塚遺跡の中心は、広田湾の現海岸線より250m程東よりの地点で、標高5~20m辺りに位置する。

本貝塚の発掘調査は明治40・41年に遡り、当時人骨23体が発見されて全国的に注目されるところとなり、大正13年の調査を経て、昭和9年に“国史跡”に指定された。

甕に埋納された幼児骨・朱塗の赤色人骨・腕に貝輪を装着した人骨・埋葬犬等々、当時多くの初めての発見が注目を集めたと云う。

本貝塚の貝層は丘陵の周縁に馬蹄形に広がり、縄文早期末・前期前葉・中期後葉・晩期中葉の純貝層と、前期前葉から中葉にかけての魚骨層が確認されている。
貝層の厚さは一部で約5mに達するものも見つかり、イガムラサキインコ・クボガイ・レイシガイなどの岩礁性貝類が多く、魚骨はマグロ類が大半を占める。



写真は、本中沢浜貝塚遺跡現場。
写真の通り、本貝塚の前面には広田湾が広がり、三陸沖でぶつかる暖流・寒流によって当時から豊かな漁場が形成されていたと見られる。

周辺の遺跡が時代の推移と共に消長したのに対し、当地は縄文・弥生・平安時代へと長期間存続し、広範囲に広がる貝層を残している。



写真は、本貝塚から出土した各種釣針。
釣針には釣針の内側と外側にカギが付いた形状や、軸頂部にコブの付いた形状のモノ、錨形をしたモノなど機能的に工夫が凝らされている。
又同じような形状が二つとないほど個性豊かで、本格的漁労活動を偲ばせるに十分と云える。





写真は、本貝塚から出土した、いろいろな骨角漁器。
モリには三角形のモノ・燕形離れモリ・南境型離れモリなどの種類や、ヤスにも“組合せヤス”・“組合せヤスの先端返し型”など多種専門に分かれ、“骨製ヘラ”や“漁具受入用ソケット”までに及び、磯捕り漁・刺突漁などに使われ、機能的には現在の漁具とほとんど変わらないと云う。
“燕形離れモリ”は、現在使われているカジキマグロ漁のモリに酷似していると云う。



写真は、本貝塚から出土した、サメ歯器など歯製装飾品。
サメの歯根の両端に穿孔した装身具、ツキノワグマの犬歯に装飾的な刻線を施したモノ、オオカミの奥歯に穿孔したモノなど当時の繊細な加工技術と優れた創造力・こだわりは驚嘆に値する。
気仙地方の生活文化・精神文化の高さを象徴していると云える。



写真は、本貝塚から出土した、骨角製祭祀器。
全国的にも珍しい“軍配形角器”、ヘラ状の骨角器・鹿角の奇形加工品など孔と線によって文様を施している。
用途不明ながら、何らかの祭祀・儀式用具と考えられる。

平成9年の宅地改築に伴う発掘調査では縄文早期末の20歳前後の女性人骨が検出され、副葬品として中央に孔の開いた径約1cmの琥珀玉3点が見つかり、文化度の高さには唯々驚嘆させられる。


縄文人の謎・ロマン 千葉県市川市の“曾谷貝塚”とは!

2007年08月29日 | 歴史
曾谷貝塚は、曾谷春日神社の右手奥の台地上、住宅開発が進んだ住宅密集街の真中に所在する。
昭和54年に“国史跡”に指定されたが、関係者の努力・熱意が実り、東京に近いベッドタウン開発の中で、約42,000㎡に及ぶ土地が、開発されずに保存されるという奇蹟が起こった。



写真は、当貝塚遺跡現場。
写真のように、住宅密集地に残された田畑に今でも貝殻が散在し、当時の面影が浮かんでくる。

 直径約240mの大貝塚で、“加曾利貝塚”より大きく、特に昭和49年から53年にかけて6地点の発掘調査結果、数多くの新事実が判明した。
 縄文後期の住居址33棟・人骨20体や多くの祀り・祈りに関する遺物などが検出された。

又貝製の腕輪の材料として、縄文中期から後期にかけて5種類が使われ、時代により使う材料も異なり、貝輪は特定の職人によって製作されていたことを物語っていると云える。

曽谷縄文人の精神世界を物語る、いくつかの祭祀・儀礼用具を、以下の順番で紹介する。











写真は上から、豊満な土偶、スタンプ型土製品、朱で塗られた貝、異形台付土器、朱塗り土器など、祭祀・祈りに関する様々な儀礼用具が検出された。
貝の捨場として利用する前に、その場所に土器などを埋め、地の霊を鎮める儀礼が行なわれたと見られる。

 又成人・結婚・死などの節目に実施される通過儀礼は、当事者のためだけでなく、集団の仲間意識・結束を高めるためにも、恒常的に行なわれていたと考えられている。

一方祖霊崇拝も、集団の結束を図るための、効果的祀りとして行なわれていたと見られる。
曽谷縄文人も、超自然的存在に対する畏れ・崇拝の念から、必要に応じ儀礼用施設・道具などを作り、願望が実現されるよう各種儀礼が日常化していたと考えられる。

縄文人の謎・ロマン 宮城県鳴瀬町の“里浜貝塚”とは!

2007年08月28日 | 歴史
里浜貝塚は、松島湾内最大の島・“宮古島”にあり、曲がりくねった東西に延びる、標高約20~40mの丘陵上に立地し、南北約200m・東西約800mに広がっている。

貝塚は、貝殻のカルシウム分により普通の遺跡では残らない骨や角などの遺物が良好な状態で保存され、しかも時の流れを克明に伝える”縄文時代のタイムカプセル”と呼ばれる。

 里浜人は縄文時代前期(約6,000年前)からムラを営み始め、弥生時代初めまで約4,000年に及ぶ、大規模な集落が継続的に営まれたと云う。
 その間数百年から1,000年ほどの単位で、里浜ムラの場所を移動し、各地点に生活の場を残したことが貝塚から読み取れると云う。

又里浜ムラ周辺の海が、約3,500年前の縄文時代後期後半を境にして、スガイを主とした岩礁の海から、今日と変わらぬアサリを主とした砂・砂泥の海へ大きく変化したことも貝塚から分かると云う。



写真は、里浜貝塚現場から望む松島湾。
明治30年代から最近では平成4年まで、何回となく発掘調査が繰り返され、貝塚全体の数%という小規模な発掘調査実績とは云え、里浜縄文人の生々しい生活様式が明らかになった。

所によっては、厚さ6m以上の貝層が、全国でもマレに見る高密度の堆積状態を現わしていると云う。
貝塚からは食生活の実態のみならず、多数の埋葬人骨から集団墓地の様相、釣針・銛など豊富な鹿角器が出土したことから、漁労具の進化状況等々、宮戸島という限られた自然環境に生きた里浜縄文ムラの歴史を解明する上で極めて貴重な資料と云われている。

 特にアサリが土と混じらないほど、貝層がギッシリ形成されていることから、複数の家族がアサリを多量に捕獲し茹でて干し、保存食糧にしていたと考えられる。

里浜貝塚で特筆すべき発見は、胎児を納めた土器棺が見つかり、遺体にはベンガラが撒かれ、しかも赤く塗られた鹿角製ペンダントが副えられていたこと。



写真は、乳幼児収納の土器棺及び人骨。
土器を女性に見立て、亡くなった胎児・乳幼児が母親の胎内に再生することを願ったと考えられる。
 死んで生まれた胎児でさえも手厚く埋葬した、縄文人の子供に対する愛情と再生への願いが窺える。

以下貝塚の貝層から覗き見た里浜縄文人の生活ぶりを考えてみよう。



写真は、里浜縄文人の魚類食生活状況。
里浜貝塚から出土する骨は圧倒的に小魚が多いと云う。
 魚介類ではアサリが全体の80%近く食べられていたことと合わせ、小魚とアサリが主食として、食べられていたと見られる。

 一方宮戸島内の2ヶ所の小規模貝塚は、外海に住むマダイ・マグロ・スズキ・ブリなどの大型魚を求めて丸木舟を漕ぎ出すキャンプ地と考えられている。

松島湾は静かで安心して操業出来、遠洋に出かけてシケに遭う危険もなく、又クリ・クルミ・トチの実など木の実・キノコ類や冬にはシカ・イノシシやカモなどにも恵まれ、生業・食生活に関しては極めて安定した好環境にあったと見られる。
いずれにしても魚介類を愛好する「日本食の原点」が垣間見られる。



写真は、里浜縄文人が使っていた、鹿骨製漁労具。
釣針・銛・ヤスなどの漁具が大量に出土している。

 外洋の中小魚は釣針で、外洋のサケ・マスなど大型魚は銛で、内湾の岩場のマイナメ・カサゴなどはヤスで突く等使い分けていたと見られる。
小魚について網は見つかっていないが、石製・土製の錘が出土していることから網で捕らえていたと考えられている。



写真は、当貝塚から出土した石器類。
石斧・石皿・砥石などの石材は、里浜周辺から調達したものと見られる。
石鏃・石匙・石錘などは、凝灰岩・頁岩・メノウ・碧玉・黒曜石などで作られ、黒曜石は50km以上離れた奥羽山脈から、頁岩は更に奥羽山脈を越えて山形県から調達したと見られる。

又石棒・石刀は20kmほど離れた北上川河口で採れるスレートが使われていたと云う。
石材を持ち込んで加工したか、完成品で持ち込んだかは別として、かなり広い交易・交流をしていたと見られる。



写真は、当貝塚から出土した、多様な土器類。
縄文晩期には、深鉢が土器全体の70%を占め、そのうち口縁近くに屈曲を持ったタイプが約20%を占めていたと云う。
 蓋をかけ、熱い土器を炉から運ぶのに便利なようにと、生活の知恵が込められている。

日常用具として浅鉢土器が食物の盛り付け用に一般化し、煤が付着していないベンガラ塗装の壷などは祭祀用の酒などの液体を入れていたと見られる。





写真は、当貝塚から出土した、鹿骨製腰飾りとミニチュア土器及び鹿骨製腰飾り。
優美な彫刻を施した“三叉鹿角製品”は西日本の埋葬遺構からも出土していると云われ、男性の腰に携帯していたと見られている。

 鹿角製腰飾りの文様は土器・岩版にも見られ、共通の意味や呪いの目的を持って施され、ムラのリーダーなど特別階級の人々が装着していたと考えられる。

 一方ミニチュア土器は優美な形状・仕上がり・朱の付いた色合い等何らかの祭祀用として使われていたと見られる。

 以上の写真例からも断片的ではあるが、里浜縄文人の生活ぶりが窺える。
特に食生活は今日の日本食を彷彿とさせる「日本食の原点」と映る。
縄文人の貝塚は単なる「ゴミ捨て場」ではなかった。

自然の恵みや道具に感謝すると共に、供養と再生とを祈った「聖なる送りの場」でもあったと云える。 貝塚は将に縄文時代の生活文化情報を発信している宝庫である!

縄文人の謎・ロマン 岩手県下船渡市の“下船渡貝塚”とは!

2007年08月27日 | 歴史
全国の代表的貝塚巡りを更に続ける。
そこで下船渡貝塚は、大船渡湾西側の飛定地山から張り出している丘陵の傾斜地に位置する貝塚で、昭和9年に“国史跡”に指定された。

 昭和36年の発掘調査では、海に面した斜面及びその下部から豊富な遺物が出土し、貝層は厚い所で60~120cmにも及んだと云う。

遺物には土器・石器のほか、釣針・ヤス・離頭モリ・貝輪などの骨角器が110点、成人骨・幼児骨・家犬の骨・甕棺などが検出された。
出土した土器編年から縄文後期中葉から晩期終末にかけての貝塚と見られる。



写真は、当貝塚遺跡の現場。
標高20mほどの丘陵斜面からは、写真のように大船渡湾口が望め、周囲には荒地・畑地が広がる。大船渡市を含む気仙地方では縄文晩期に集落が増加するが、次第に海から遠ざかって山間部での分布が密になり、貝塚の数が減少して行った。

残された海浜集落では骨角製漁労道具が極めて精巧になり発達することから、専門漁労集団が生き残ったと見られ、夏には湾口に迷い込んだマグロの群れを狙い・捕獲できるほどレベルが高かったと考えられる。



写真は、当貝塚から出土した、イヌの骨。
人骨付近から埋葬された、縄文晩期の家犬の骨で、人間と同じように墓壙に埋葬されていたと云う。

イヌが家畜として大船渡縄文人と行動をともにしていたことを物語っている。
イヌは縄文早期から既に飼われていたと見られ、東北地方では中型犬タイプが一般的であったと考えられている。



写真は、当貝塚から出土した、鹿骨製ペンダント。
縄文晩期には縄文文化が最高潮に達し、写真のような鹿角製ペンダントの完形品はその証左と云える。

晩期独特の入組んだ、巴文のような文様を丹念に削り込み、両端の側面から紐孔を通し、胸元に垂れ飾っていたと見られる。
辺境の大船渡漁村でも時代の流れに違わず、華やかな造形文化を享受していたと云える。



写真は、当貝塚から出土した、石棒・石剣。
大自然の中に生き延びた大船渡縄文人にとって、死や台風・地震などの自然災害への恐怖におののき、超自然の力に頼り、祭祀儀式が頻繁に行なわれていたと考えられる。
石棒・石剣など呪術道具から当時の精神文化が窺える。

気仙地方には36ヶ所の貝塚が集中しているが、貝塚は神聖視した場所であり、出土遺物は当時の精神文化・造形文化を如実に物語っていると云える。


縄文人の謎・ロマン 北海道の“東釧路貝塚”とは!

2007年08月26日 | 歴史
暫くの間、代表的縄文貝塚の取材を続けることにする。

東釧路貝塚は、縄文早期から近世にかけて14層以上を持つ複合遺跡で、特に道内の縄文前期(約5,000~6,000年前)貝塚では最も規模が大きい。
 昭和33~46年にかけて9回に及ぶ発掘調査の結果、縄文早期以降各期の遺構・遺物のほとんどが認められ、本貝塚のある台地はその核になる部分であることが解明された。

日本列島の東端にあって各時代の生活様式・動物相・気候・縄文海進の様子など様々な推移を知る上で貴重な貝塚と云える。
貝塚を乗せた台地の半分ほどが、鉄道や道路工事で失われてしまったことは、真に惜しまれる。





写真は、当貝塚遺跡現場の現状。
JR東釧路駅後背地の高台に所在し、“縄文海進”がピークに達した縄文前期の大貝塚は、東西約120m・南北約90mの範囲に、大小合わせて11ブロックに分かれて貝塚が分布している。

海面は現在より数m高く、暖流のお陰もあり冬の気温は今より5度ほど高かったと見られる。当時現在の釧路湿原は内湾となっていた。

 南側の台地には共に東西20m・南北33mほどの大きな貝塚ブロックが相対している。叉当時の海に面する北側の台地先端には急な斜面に沿って貝類が堆積していたと云う。下層には縄文早期の小貝塚も見つかっている。

住居址は貝塚のある台地では1軒だけであるが、貝塚を取巻く周辺台地上には数多くの住居址が纏まって見つかっている。



写真は、当貝塚から出土した貝層断面。
貝層の厚さは約1mでアサリが全体の70%ほどを占め、カキ・オオノガイがこれに次いで多い。

本貝塚遺跡が外海に近い内湾にある性格上、内湾で採れるアサリが最も多く、叉外海系の貝類をも伴う道内の典型的貝塚と云われる。
暖海性のアカガイ・シオフキなどの貝類も見られる。





写真は、当貝塚から出土したいろいろな貝類。
中でも、アサリ・カキ・オオノガイのほかホタテ・マガイ・ウミニナ・エゾイソシジミなどが見つかっている。



写真は、当貝塚から出土した海獣骨。
カジキ・マグロ・スズキなどの魚骨やワシ・タカ・カラスなどの鳥骨の他、写真のようなイルカ・オットセイ・クジラ・トド・アシカなどの大型海獣類、特にイルカ・オットセイの骨が多量に出土している。

海獣類が動物の骨の90%ほどを占めており、東釧路縄文人は海獣ハンターとして内湾・外湾で活躍していたことが窺える。

大量のイルカ捕獲は、音に驚き易い性格を利用し、現在でも使われている音をたてて大群を湾内に追い込む漁法が使われていたと考えられる。
オットセイのほかトド・アシカなど成獣捕獲は、海に生きた猟師の凄まじい海獣狩りの生き様が偲ばれる。





写真は、当貝塚から出土した、釣針・ヘアーピン・縫針・銛などの骨角器。
海獣の肋骨製の回転式銛・組合せ式釣針・鋭く尖らせた刺突具など当時の漁労手法レベルの高さが窺える一方、先端に小さな孔を空け、繊細に磨かれた鳥骨製縫針、装飾的に加工されたヘアーピンなど加工技術は驚嘆に値する。

加えて鹿・海獣骨・鳥骨など使用目的に応じて素材を厳選していたプロ加工技師が偲ばれる。



写真は、当貝塚から出土した、黒曜石製石鏃。
石鏃・石槍など海獣狩の道具、解体調理用ナイフ、刃の部分が鋸状に刻まれた削器など膨大な量の石器が出土している。 当時の生活様式が実感できる。



写真は、当貝塚から出土した、屈葬人骨。
縄文早期~前期の人骨が数体発見されているが、貝塚の北東側の緩やかな斜面には土壙が集中して見つかっており、土壙だけでも200人ほどの埋葬が行なわれていたと見られる。

東釧路縄文人の人骨は分析の結果、“オンコロマナイ型”で道北・北東のアイヌ人の特徴を持っていると云う。

と云うように、縄文前期当時の道東文化は、この地域ならではの独自性に富み、全国規模で眺めると文化の多様性が見て取れる。


縄文人の謎・ロマン 岡山県笠岡市の“津雲貝塚”とは!

2007年08月25日 | 歴史
津雲貝塚は、明治3年堤防工事中に人骨が発見されたことから注目され、大正4年以降10年までに20回近い発掘調査が行われ、約170体の縄文後・晩期の人骨が発見されたことで一躍脚光を浴びた。

 津雲人骨が縄文人骨を代表する貴重な資料として“原日本人説”まで唱えられた歴史的背景があり、人類学・民俗学・考古学研究上不朽の成果をもたらしたと云う。
 本貝塚遺跡は縄文前期から後・晩期・弥生・古墳時代まで4,000年以上もの間、人々の生活拠点として存続していた。
旧児島湾(現在の倉敷市周辺)から笠岡湾にかけての海岸線には、本貝塚を筆頭に縄文遺跡が10ヶ所以上あり、そのうち4ヶ所で縄文人骨が発見されている。





写真2点は、当貝塚遺跡の現場風景。
ウメの木と貝類の間に望む貝塚現場や貝殻などが散在した貝塚現場。
現在は畑として利用されているが、カキなどの貝殻が纏まって散在し、当時を偲ばせるに十分な痕跡を残している。

縄文前期(今から約6,000年前)には“縄文海進”が最高に達し、笠岡市地域でも海岸線は東北・北西へそれぞれ2km以上も入り込んでいたと見られる。





写真は、当貝塚から出土した、成人頭蓋骨及び人骨片。
健康な歯を規則的に抜き取る抜歯の風習は縄文前期から認められ、後・晩期人骨の若年以上の成人は抜歯されていたと云う。

抜歯の位置・組合せには規則性があり、特に上顎犬歯の抜歯は性別を問わず若年以上の成人に施されていることから、成人・結婚・親族の死など、通過儀礼の象徴と見られている。

埋葬姿勢はほとんどが両手足を曲げた屈葬で、胎児の姿勢として最も自然な姿であり、死後に母なる大地へ帰化させ再生を願う現われとも云われている。
晩期には土器中に乳児を埋葬した実例も知られている。

又埋葬人骨の頭の方向にも一定の規則性が見られ、太陽が昇る北東から東南に向いていたと云い、集団墓制を知る上で貴重な発見として評価されている。

多くの埋葬人骨の発見に伴って、多種類の“身体装身具”と考えられる遺物が検出された。
次の写真は、身体装身具のうち、貝輪、鹿角製腰飾、土製の勾玉・玉類や土版など。









写真の通り、一部に彫刻や文様が施されているモノや、中央部の孔に紐を通して縛り付けたと考えられるモノなどがあり、被葬者は女性の場合は呪術的活動を担った“巫女”、男性の場合は集団の“長老・祭司・呪術師”と推定されている。
土版は表裏に沈線文様が描かれており、護符・呪符と考えられる。

以下写真は、鹹水産の貝類、獣骨及び石槍・先頭骨など。
  ハイガイ・アカニシ・マガキ・レイシなどの塩水産の貝類
  イノシシ・シカ・タヌキなどの獣骨
  石槍・尖頭器などの石器類







東西約40m・南北約60mの範囲に分布し、厚さが90cmほどにも達する本貝塚は膨大な遺物を包含している。
貝類は砂泥質の浅海に棲息するものが主体であることから、現在の水田地帯は当時には砂泥質で遠浅の海が広がっていたと見られる。

津雲人はシャープな狩猟具を駆使した狩猟活動にも活発で、貴重なパンパク源としてイノシシ・シカのほかキツネ・タヌキも散見され、狩猟活動は時にはキャンプをしながら遠隔地にまで及んでいたと考えられる。





写真は上から、当貝塚から出土した、鹿角製釣針及び石錘。
貝塚から出土した釣針や石錘から、男性を主体とした漁労活動も盛んであったことが窺える。
石錘など網の錘を使った集団漁労と共に、釣針による個人的漁労も並行して行われていたと見られる。

このような食糧獲得活動は四季折々の自然界の法則に則り、計画的に行われたと考えられ、厳しい自然界に対する認識と、乱獲・幼獣や未熟な植物採取の禁止などの規制を自ら課して、集団の末永き発展を目指していたものと考えられる。

縄文人の謎・ロマン 青森県八戸市の“是川中居遺跡”とは!

2007年08月24日 | 歴史
青森県の“亀ヶ岡文化”の紹介に、欠かせないのが八戸市の“是川中居遺跡”であり、これぞ“亀ヶ岡文化”の象徴として、以下取上げる。

“是川中居遺跡”は、八戸市街地から約4km南に下がった、新井田川に面する標高約20mの河岸段丘上に立地している。

“国史跡”に指定されている本遺跡は、大正9年に初めて発見され、その後昭和の初め以降継続的に発掘調査が行われ、最近では平成11・12年に縄文時代の“沢”を対象に調査され、現在も発掘調査が続けられている。

これまでの発掘調査の結果、縄文晩期に東北地方を中心に広がりを見せた、“亀ヶ岡文化”の典型として全国的に注目されている。
これまでの調査では段丘上に縄文晩期の墓域などが見つかっているが、住居址は未だ検出されていない。

しかし出土遺物は、他に類例を見ない新発見の連続で、考古ファンに一大驚異として迎えられ、植物質の遺物をはじめ“633点の重要文化財”を含む約5,000点の遺物が見つかっている。

遺跡の南側の低地には、厚く泥炭層が堆積していたお陰で、木製の弓・飾り太刀・ヘラ形木製品・腕輪・櫛・耳飾り・カゴを芯に漆で塗り固めた藍胎漆器・木を刳り抜いて作った鉢や高杯等々、複雑な“漆工芸技術”を駆使した“植物質工芸品”が多数検出された。



写真は、本遺跡の発掘調査現場。
現在の調査でも土器・石器をはじめ、木製半製品・木器などが続々出土している。
大量の遺物が短期間に廃棄されたことにより、流れていた水が滞留し、空気と遮断された低温状態の中で、これほどの植物性遺物が分解されずに残ったと見られる。

以下土器と土製品を中心に、これぞ“亀ヶ岡文化”の象徴であると云われる作品を紹介する。





写真は、本遺跡から出土した、“香炉形土器”2点。
亀ヶ岡文化の典型としての亀ヶ岡式土器の中でも、香炉形土器は極めて優れた作品として、その評価は高い。

上部に窓状の穴を設け、周囲には緻密な透かし彫りや山形文などで、装飾効果を高めている。



写真は、本遺跡から出土した、皿型土器。
皿型土器の裏面はベンガラ塗装で、入組文様などで飾られている。





写真は、本遺跡から出土した、漆塗り土器と朱塗り壷。
ベンガラを混ぜたと見られる、赤漆を塗った祭祀用土器及び赤漆を塗った後に黒漆を使って文様を描いた壷で、胴体全体が流麗な曲線文で飾られている。





写真は、本遺跡から出土した、台付朱塗り土器と徳利形朱塗り壷。
透かし彫りを巧みに配した盛り付け土器は、土器全体に黒漆が施されている。
一方徳利形壷は、全体に赤漆が塗られ、爪押文・山形文・沈線文で仕切られ、胴体部は黒漆が散布されているように見える。



写真は、本遺跡から出土した、注口土器。
表裏全体に黒漆が施され、バランスが取れた優美な姿は、入組文様でアクセントが付けられた逸品である。

以上のような様々な形の精製土器は、複雑な文様が施されていると共に極めて精巧に作られ、漆が塗られた土器は「ハレの器」にふさわしい豪華な作品として驚嘆に値する。



写真は、本遺跡から出土した、文字入り土製品。
異形透かし彫り土製品の文様は、文字か?・単なるデザインか?、意味ありげなメッセージに見えるが????


縄文人の謎・ロマン “陥し穴”と罠猟方法とは!

2007年08月23日 | 歴史
狩猟といえば、弓矢が主流だが、“陥し穴”も縄文時代の狩猟事情をうかがう上で、重要である。地域によっては、蛋白源の必要性から、弓矢だけでは不十分で、より大量の捕獲が可能な”陥し穴”猟法が求められたと思われる。

陥し穴は、弓矢と違って間接的に獲物をしとめる仕掛け装置で、この利用法は縄文草創期にまで遡るほどで、少なくとも早期以降は全国各地で行われていたと考えられている。





写真は上から、宮崎県新富町の東畦原遺跡から出土した、“陥し穴”及びつくば市中内西ノ妻遺跡から出土した、直線で結ぶ“陥し穴”の配置状況。

陥し穴の平面形は、円形・長方形・溝状などの変形があり、深さもまちまちで、穴の底面から棒などを垂直に立てて、嵌り込んだ獲物に致命傷を負わせ、跳躍して脱出する姿勢をとらせない構造など工夫が凝らされている。

陥し穴は獣の道などに沿って、単独或いは複数が設けられか、或いは動物が集まるような特定の地点を選んで、多数の陥し穴を配置し、時には誘導又は追い込んで捕獲するなど、縄文人の知恵が見て取れる。

最近の発掘調査によると、集落跡以外の斜面地など、様々な地点から陥し穴の存在が確認されており、縄文時代において、極めて重要な狩猟手段であったことが明らかになっている。

陥し穴の活用は、予め計画的に設置しておけば、いちいち現場に出かけなくても複数の地点で、獲物を捕獲できる余裕があり、縄文人の知恵が窺い知れる。

罠猟についても、具体的な事例は発見されていないが、“エリ”と呼ばれる常設の漁獲施設の実例から、陸上でも追い込み用の仕掛けなどの工夫がなされていたと考えられる。

弓矢など手持ちの武器で、直接対決で獲物を捕獲する場合の危険度を考えると、陥し穴・罠猟はそうした欠点を補って余りある有効な手段として、頻繁に使われていたのかもしれない。

但し、陥し穴法では、幼獣や再生産を担う雌は見逃して、図体の大きな成獣や老獣、或いは雄だけに狙いを集中する選択ができないことを考えると、食糧資源の永続性をモットーにしていた縄文人のこと、“弓矢狩猟法”との併用により、ベターな組み合わせに辿り着いていたかもしれない。

又狩猟にはリスクが伴うために、狩猟の成功を確信するための儀礼・呪術が行われていたと考えられ、イヌ・オオカミなど動物の下顎骨・犬歯に穿孔した特殊製品などは、単に身を飾る装飾品と云うより、狩猟呪術にかかわる、神頼みの呪術品であったと見られる。

縄文人の謎・ロマン 塩の補給ルートは?

2007年08月22日 | 歴史
狩猟民は、獣肉の生肉・生き血などからナトリウムを補給していたが、縄文人も当初は同じように動物を通して塩を摂取していたと考えられている。

縄文早期以降は、海産物の活発な利用により、塩分補給を有利に展開し、内陸部においても、海岸地帯との交易により、各種海産物を入手していたと考えられる。

塩作りの当初は、原始的方法として、海水の入った容器を直接火にかけて煮詰める方法や、その後は海草を利用した“藻塩焼き”と云う方法で、乾燥させた海草を海岸に積み上げてそこに海水をかけて鹹水を取り、これを煮詰めるという方法や、或いは海岸の岩の隙間などに偶然できた海水の結晶化したものを採取するなど、縄文人の知恵比べの歴史でもある。

縄文後期後葉からは、本格的な製塩が行なわれ、仙台湾岸・霞ヶ浦西岸の遺跡からは、製塩土器が多く発見されています。





写真は上から、宮城県の里浜貝塚から出土した製塩土器及び岡山県邑久町門田貝塚から出土した製塩土器。

関東の霞ヶ浦周辺や仙台湾岸に、特殊な薄手無文土器を大量に保有する遺跡が出現した。製塩土器は写真の通り、小型で文様がシンプルで、使い捨ての土器。

食塩を煮しめるために、土器は一回の使用で破損・破壊されてしまう。
例えば、霞ヶ浦西岸の遺跡で製塩が行なわれた立地条件は、①燃料が得やすかったこと、②土器の大量生産が可能であった、③粗塩の運搬距離が短かった、などが挙げられる。

製塩が開始された時期と、東京湾岸の大型貝塚が作られなくなった時期と一致するが、その時期から例えば、千葉市の人口が急減した。

即ち大型貝塚が、製塩土器による製塩大量生産を興す前までは、干しハマグリなどの大量生産・大量供給により、それまでは塩分補給に一役買っていたことになる。

縄文人は海岸で作られる食塩と黒曜石などの矢ジリとの交換が行われたと見られるが、縄文晩期後半には、海岸での製塩大量生産を一切止めている。
何が原因・理由であったか、縄文時代の謎の一つと云われている。

自給自足によったのか、海岸からの遠隔地・洞窟遺跡の岩肌に見られる岩塩などに頼ったのか、入手方法を他の地に切替えたのか、世にも不思議な物語ではある。




縄文人の謎・ロマン 水資源と住居は?

2007年08月21日 | 歴史
縄文人の命の綱には、“火起こし”と共に、“水と住居”の確保が、絶対必要条件に挙げられる。

縄文人は、泉や川の水を生活水とし、そこを本拠地に海岸線で漁をし、河川を交通路に利用して、狩りなどができる生活拠点を選んだ。



写真は、青森市の小牧野遺跡脇を流れる、八甲田山系の川。

水に関しては、定住地を定める基本条件として、特に自然に敏感であった縄文人は、"泉"を見出すことで、飲料ばかりではなく、ドングリなどの植物質食料のアク抜きなどの加工にも使った。湧き水や川の流れに石を使って囲いを設けるなど、工夫をこらすようになった。



写真は、北海道伊達市の北黄金貝塚出土の“湧水遺構”。
叉"泉"自体は、"湧水遺構"とも呼ばれ、大規模な土木工事により、人工的にも造られた。水場遺構は、生活の憩いの場所でもあった。

"泉"は、「他界との接点」・「霊力の源」とみる思考が背景にあり、なかには、産水や死水を取る目的としても使われていたと云う。

と云うように、“泉”・“湧水遺構”は、思考や目的とも関連した祭祀性が極めて強い施設であったようだ。

次に縄文人の平均的な住居については前述した通り、縄文人の典型的なムラ単位が、円形や楕円形の土地の外周に竪穴住居が7・8戸建てられていた。
その中央に広場が広がる配置が、最小単位のムラで、そのような小さなムラが7・8戸集まって、標準的な大きなムラ社会を構成していたようだ。

中央の広場の大きさは、直径10m~100mくらいで、ある時は神聖な祀りの場となり、叉共同墓地になる場合も多かったようだ。
このように墓地を中心とするムラでは、人々の精神生活の中心に先祖たちの霊がいて、自然の精霊たちと共に、共生していたと云える。

典型的な縄文人の家は、直径5~6m、深さが10cmくらいの穴を掘って床面を作り、柱穴を掘って家を建てる、所謂“竪穴式住居”であった。







写真は上から、東京多摩ニュータウンの“縄文村”にある、縄文前期の復元竪穴住居、東京町田市の“本町田遺跡公園”の壁立ち式住居及び青森県八戸市“風張遺跡”から出土した、下部を土で固めた復元竪穴住居。
竪穴住居復元に当っては、それぞれ想像力を駆使した様子が窺える。

木柱の傷みや、カヤ屋根の補修の必要から、10年に一度くらいのサイクルで建て替えていたと思われる。
家の広さは、畳換算で、5畳~12畳で、2~5人が暮らしていたと見られる。



写真は、埼玉県富士見市“水子貝塚遺跡”の復元円形住居。
写真のように、竪穴を掘らずに細い支柱を円形に並べて建て、屋根をかぶせる“平地式住居”もあったと想像される。







写真は上から、宇都宮市“根古屋台遺跡”の大型掘立柱建物、横浜市都筑区“大塚遺跡”の高床式建物及び新潟県長岡市“藤橋遺跡”の高床式建物など。
写真のように、大型掘立柱建物、壁立ち式の住居、高床式の倉庫などが復元されているが、屋根を葺くのも、カヤばかりでなく、笹・チガヤ・土などをかぶせた屋根もあり、縄文人の知恵の見せ所であったと思われる。

家を建てることは、今も昔も変わらず大変な作業で、土地探しから始まり、木材を石斧で伐採・製材し、樹皮・蔦・カヤなど建築資材の調達、地面の掘り下げ・整地、柱立て・垂木を結び、屋根を葺くなど2~3週間の共同作業を要したと思われる。

縄文人の知恵が、遺憾なく発揮された記念物として、復元された当時の建物を観察することで、往時を偲ぶことができる。


縄文人の謎・ロマン 縄文人の“火起こし”方法は?

2007年08月20日 | 歴史
これからは、現在続いている、代表的縄文貝塚巡りを小休止して、縄文人が生存するために必要とした”基本的生活条件”について、振り返ってみたい。
先ず最初の必要条件である、”火起こし”について考えてみたい。

人類の最初の火の利用は、落雷か火山の噴火で起きた“山火事跡”で、焼けた獣の肉を食べたことに始まったと云う。

やがて残り火を小枝でつついたことで“焚き火”の技術が生まれ、暖房・調理・灯りなどに使われ始めたが、摩擦で火を起こす技術が生まれたのは、ずっと後の旧石器時代に入ってからと見られている。

棒の先を磨いて槍を作る作業などで、摩擦熱の発生を経験し、その蓄積がやがて“火ミゾ式発火法”が工夫されたと考えられる。火ミゾ式は、丸太や竹の表面に別の棒の先を当てて前後に強くおしつけて摩擦し、火種をつくる方法。





写真は上から、“弓キリ式火起こし道具”及び“キリモミ式発火法”のサンプル。
これらが“縄文の発火具”として使われたと見られている。
いわゆる“弓キリ式”或いは“キリモミ式”が縄文古来の発火法と考えられている。

弓ギリ式の火起こしの道具セットが、小樽市の縄文後期遺跡から出土しているが、この方式では、比較的短い小弓でも10~20秒で、簡単に火種が出来ると云う。
写真の通り、“火きり棒”に弓の紐を巻いて、弓を前後に動かし、棒を回転させることで、“火きり板”の穴を焦がす方法。

キリモミ式は、日本古来の代表的な発火法で、スギ製の柔らかい板を使い、キブシ・ウツギなどの棒を使えば、10秒ぐらいで火を起こせると云う。

これら以外にも、“糸ノコ式発火法”とか、“ヒモギリ式発火法”とかが考えられると云われる。

いずれにしても、人類の先祖が火を利用したという証拠は、140万年前の猿人の焚き火跡に遡るというから、人間の知恵には驚ろかされてしまう。


縄文人の謎・ロマン 愛知県田原町の“吉胡貝塚”とは!

2007年08月19日 | 歴史
吉胡貝塚は、蔵王山山麓が東に延び、渥美湾岸の低地に接する緩傾斜地付近に位置し、大正11・12年及び昭和26年の発掘調査の結果、多数の人骨・多量の遺物が出土し一躍著名になった。

その後昭和55年にも発掘調査が行なわれたが、これまでの調査では貝塚の広がりや明確な生活跡は確認できていない。
これまでの調査面積は約4,100㎡に及び、三河湾に注ぐ汐川河口近くに広がる縄文後・晩期の遺跡であることが判明し、骨角製装身具・漁労具と共に約340体の人骨が検出され、昭和26年に国史跡に指定された。

人骨の埋葬方法には“屈葬・伸展葬・甕棺葬”などが見られ、抜歯の風習が一般的であったことが分かったと云う。又家犬の骨が多数出土したことも注目を集めた。





写真は当貝塚遺跡の現場風景で、発掘調査再開が待たれる。
渥美半島の貝塚遺跡は古くから注目され、多くの考古学者が訪れていると云う。 又発掘調査以前から地元では道路の改修・畑の開墾などに際し、人骨が出土する不思議な場所として認識されていたと云う。



写真は、当貝塚から出土した貝層断面。
写真のように、6段の層序から成る貝層断面及びそれぞれの層における貝種の違いなどにより、時代の推移・変化が読み取れると云う。

貝層断面から最初に捨てられた貝の上に砂が被り、又貝を捨てその上に砂が被り、何度も堆積が繰り返されていたことが分かる。

6段の層序には、貝の種類の違いや土器も下の層には文様の丁寧なモノが見られるが、上の層になると無文のモノばかりというように時代の推移・変化が読み取れる。
 又一番下の黄色な小礫の層が続いているが、この層から人骨が埋葬された墓穴が多く見つかったと云う。







写真は、本貝塚から出土した、いろいろな貝の種類。
 貝類はアサリ・ハマグリ・マガキを中心に、オオノガイ・イタボガキ・オキシジミ・サルボウ・スガイ・ダンベイキサゴ・ツメタガイ・アカニシ・イボニシなどが見られる。

泥底・砂底の干潟に生息する貝類が豊富で、干潟が広がっていたことが想像出来る。
今日当地では見ることができないハマグリをはじめ吉胡人の豊かな食生活が垣間見える。









写真は、当貝塚から出土した、各種漁労具。
食糧確保用具と貝塚に残された多量の食べ滓との関係が分かる。
 アジ・サバ・カレイ・ヒラメなど網漁猟に使われた石錘やサメ・エイなど釣針漁に頼ったもの
 シカ・イノシシなど陸獣類狩猟に使われた石鏃。
 狩猟用具として、更に工夫が凝らされた”根挟み”を使った石鏃。
 クロダイ・フグなど大量に出土した魚類の漁猟に活躍したと見られる刺突具。

漁の季節は春から夏場が中心であり、秋は木の実採集、冬場は狩猟というように季節間の食糧不足分を保存することにより補っていたと見られる。

出土遺物にはこれら以外に“腰飾・垂飾・耳飾り・髪飾り”など骨角装身具が異彩を放っている。

国史跡の整備計画が、史跡指定から半世紀を経て具体化に向け動き出した。
貝塚を残した吉胡縄文人の居住域・墓域など集落の全体像を明らかにする目的で、史跡指定地に隣接する土地約10,000㎡余りが取得されており、発掘調査を経て、最終的には約20,000㎡余りを史跡公園として当時の集落を復元する計画であると云う。
地域の特性を生かした史跡整備計画の速やかな実行・実現に期待したい。

縄文人の謎・ロマン 豊橋市の“大西貝塚”とは!

2007年08月18日 | 歴史
大西貝塚は豊川左岸の牟呂台地先端が三河湾に達する、標高2mほどの旧海浜部に立地する。

縄文貝塚は市内で13ヶ所が確認されているが、特に晩期には本牟呂地域に大小の貝塚が集中する中で、本貝塚は飛び抜けて規模が大きい上に、住居跡が発見されていないことと合わせ、貝殻ばかりの貝塚で、且つ貝のほとんどがハマグリで占めるという東海地方最大の”干し貝加工工房”と考えられる。

更に豊川河口部左岸の当地周辺には、他にも水神貝塚など貝殻ばかりの貝塚が6ヶ所も発見されており、干し貝を作る作業場に適していたと見られる。

昭和62年以降に4回の発掘調査が行なわれた結果、石組炉址・敷石遺構のほか、土器・石器・骨角器・貝輪などが出土したが、石器の出土点数が極端に少ない点及び日常品も少ない点は注目に値する。
以下大西貝塚の生々しい現在の貝塚現場を紹介する。







写真は、当貝塚遺跡現場3点。
住宅地側から牟呂用水路を挟んでこちら側の墓地周辺には、写真で見るようにハマグリを中心に当時の貝殻がリアルに散乱している。

本貝塚の広がりは縄文晩期のモノで、長さ約185m・幅約40mもあり、貝の堆積は厚いところで約2.5mにも達していたと云う。





写真は、当貝塚の貝層断面及びいろいろな貝類。
 貝層はハマグリが90%以上も占める純貝層で、貝殻の上に“地床炉”と呼ばれる火を焚いた跡が109ヶ所も見つかり、この地床炉に火をかけて茹で、開いた貝の身を天日に干していたと考えられる。

貝のほとんどは砕けており、捨てた貝の上で作業をして為と見られ、ハマグリ一種類を選んだのは、他の地域への交易品としての需要が高かったと考えられる。
前述の川原石の敷石遺構は、貝剥きが行なわれた作業場と見られる。





写真は、貝輪・耳栓・玉及びペンダント・腰飾りなど。

当地一帯は居住地ではなく、貝の採集・干し貝加工の作業場であっただけに、純貝層の形成以外に日常生活の痕跡が見当たらない。

しかし写真の通り、貝輪・耳栓・玉・垂飾・腰飾などのアクセサリーが、干し貝加工工房跡で見つかったということは、大西縄文人はオシャレに敏感で、作業中にも装身具を着けてオシャレを競い合っていたと考えられるが????

縄文人の謎・ロマン 千葉市の“堀之内貝塚”とは!

2007年08月17日 | 歴史
堀之内貝塚は、市内国分町・下総台地の最西南端、国分台地の東谷奥に位置している。

当貝塚は江戸川を挟んで東京に最も近い大貝塚として親しまれ、縄文後期初頭の“堀之内式土器”標式遺跡として名高い。
東西約120m・南北約225mの大馬蹄形貝塚で、国の史跡として指定・保存されている。



写真は、当貝塚遺跡現場。
現在でもあちらこちらに貝殻が散在し、ハイガイ・マガキ・ハマグリ・アサリ・サルボウ・アカニシ・イボキサゴなど内湾海水貝類が多く見られる。

貝殻の堆積量が膨大であるが、長期間にわたり投棄堆積したものか、或いは貝殻のカロリーが低いこともあり、短期間に大量摂取したものかは分かっていない。

深鉢形土器を基本とする縄文土器は、大きさの多様性・器種の多様化・聖俗の分化・異形土器の発達など変化を加速させていった。
 植物食の普及に伴う“寄鍋文化”という、特徴的調理法に効果的であった日常的深鉢形土器は、祭祀・儀礼の発達に伴う儀具としても多用性に拍車をかけていった。







写真は、当貝塚から出土した深鉢土器及び注口土器。
上の写真のように、精製深鉢土器・広口鉢土器・大形注口土器などは典型的堀之内式土器。





写真は、当貝塚から出土した人骨及び虫歯のある下顎臼歯。
埋葬の墓域が貝塚と重なり良好に保存された。
人骨格からすると、全体に頑丈で腕の筋肉をよく使った肉体労働型で、劣悪な栄養状態の中で筋肉を駆使して姿が蘇ると云う。

下顎臼歯は硬い食物や砂を含んだ料理を食べたため磨り減っており、又歯を道具に使ったため顎の筋肉・骨は頑丈であった。
虫歯が多い点は、糖質を含む食物を多く食べていたことを立証している。





写真は、当貝塚から出土したアクセサリー及び土製耳飾り・針など。
骨・牙・鹿角・石・イモガイなどから作られたペンダント、鼓形土製耳飾り・鹿の骨角製カンザシなど多種多様に及ぶ。

 緑のヒスイ・色鮮やかな貝殻・生命力のある神秘的な角・猛々しさを象徴する牙などで作られた装身具の持つ呪力・霊力によって、悪霊の侵入を防ぎ、又魂の抜け出るのを防いだと見られ、特に身体を守る護身具であったと考えられる。

堀之内貝塚からも、”縄文文化”を物語る生活文化・精神文化が読み取れ、又それら文化の背景には、堀之内縄文人のエネルギッシュな活動・不断の努力が見て取れる。