近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪市内の古代宮殿に纏わる謎とは!ー高津宮は何処にあったのか?その2

2014年07月29日 | 歴史
大阪市内の古代宮殿に纏わる謎について、引続き取上げます。

高津宮址には諸説ありますが、もう一つは以下の通りです。



写真は、大阪市天王寺区の生國魂神社本殿。

高津宮は、生國魂神社と同様に、豊臣秀吉の大坂城築城に当たって現在地に遷座したと云う。高津宮は、現在は摂社になっている比売古曽(ひめこそ)神社のある地に遷座された。

仁徳天皇を祀っていた高津宮神社は、現在は東高津宮神社として存在するが、当初は秀吉の命令でこれを比売許曽神社のあった現社地に遷座され、比売許曽神を地主神としたと伝わる。なお、比売古曽神社は、延喜式内社の論社とされている。

主祭神は、仁徳天皇であり、祖父・仲哀天皇、祖母・神功皇后、父・応神天皇、后である葦姫皇后(あしひめこうごう)のほか、長子・履中天皇もまつられている。昭和20年3月の大阪大空襲で焼失し、36年に再建された。

高津宮跡の場所は諸説あり、一番有力な説は難波宮跡らしいが、まだ確定されていない。





上の写真は、高津宮址の石碑のある大阪府立高津高校正門入口と高津宮址石碑。

高津宮址の石碑は難波宮跡から1kmほど南の大阪府立高津高校(大阪市天王寺区餌差町)の正門を入って左へ数十m奥にある。

高津宮神社は清和天皇の時代に高津宮跡に建てられたと伝えられているが、元々は大阪城あたりにあり、正親町天皇の時代に今の場所に移されたらしい。

以上のように、高津宮跡については諸説が混在し、真相は未だに不明。



大阪市内の古代宮殿に纏わる謎とは!ー高津宮は何処にあったのか?その1

2014年07月07日 | 歴史
これからは、首題の如く、大阪市内の宮殿に関して今日までに分かっていること、未だ謎を引きずっているもの等々について取り上げてみたいと思います。

先ずは、第16代・仁徳天皇の皇居・難波高津宮は、そのあった場所に諸説があり、今日に至るまで確定していない。

いずれにしても、仁徳天皇はここ高津宮に都を置かれ、大阪発展の礎を築かれた。又仁政(恵み深い、思いやりのある政治)を敷かれたことでも有名。

難波高津宮の創建沿革などは明らかではないが、当初は「仁徳天皇社」或いは「平野社」と称したようです。



上の写真は、大阪天王寺区の東高津宮神社入口。

かつては現在の大阪市天王寺区上本町6丁目にある近鉄上本町駅に鎮座していたのが、昭和7年当駅拡張のため、300m余り北東寄りの現在地に遷座したと云う。

高津宮の正式な位置については、のちに第36代・孝徳天皇が皇居を設けた難波宮のあった、上町台地の北端、大阪城の南あたりにあったのではないか、という点ではほぼ一致しているようだ。

ところで、後に詳しく触れるが、難波宮跡の発掘調査は1954年に開始され、宮殿に関わる掘立柱の発見をきっかけに建物配置などが徐々に判明し、1961年の第13次調査では、奈良時代の後期難波宮大極殿が発見された。

その結果、長らく幻とされて難波宮跡の存在が世に知られるところとなり、現在では飛鳥時代と奈良時代の前・後二時期の宮殿跡が明らかになっている。

大阪城の前に難波宮があったとすれば、政治を行う上で、地勢上の利便性を為政者が考慮するのは当たり前のことで、そうであってみれば、難波高津宮が難波宮址付近にあったとしてもそれほどおかしなことではない。



上の写真は、大阪市中央区高津1丁目にある高津宮。

もう一つの候補として、千日前通を挟んで、生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)のほぼ北にある、高津宮(こうづぐう)。

貞観8年(866年)、清和天皇の勅命により、難波高津宮の遺跡が探索され、その地に、難波高津宮を皇居とした仁徳天皇をまつる神社が置かれたのが、高津宮の興りであると云う、新たな説が登場した。